「幸村の最後」ジオラマ
2018・8月4日、大阪は今日も猛暑、炎暑、酷暑
写真は仕上げたばかりの「安居神社・幸村の最後」
・どうしても、四天王寺からの・急な坂道と・一心寺の重厚な石垣・神社の高低差が造りたくて、前作の拡大編集に至りました。
(すみません、あまりにも日差しがキツクて、場所は茶臼山東の駐車場北屏)
夕方に、家で・・・撮り直し”
ここは、一心寺東の休憩所、後ろの日本画は「夏の陣図屏風」
・家康が描かせたのに、敵の「幸村赤備え隊」が真ん中に・・・
”幸村への敬意の現れか?と、言われる絵です。
「この大きな作品、ただのレプリカでは無く、陶板仕上げの高価なものらしいですよ」
”毛利勝永軍”、右に”明石軍
温度計を持った武将は、私自身の熱中症対策で必要”
南門には、毛利の大筒
現四天王寺交差点辺りは
信繁の陣「侍弓隊」・・・しかし・・・ここは見せかけの陣”
”本隊は、敵の側面をつくべく、茶臼山本陣の北東、まさに、今私が居る「休憩所」辺りで潜んでいた・・・
・結果は、徳川軍の発砲に、いたたまれなくなった毛利軍の反撃
が早すぎ、”失敗”
”猛暑の中出かけたのに、今日の目的記事、まだでした、
先月、一心寺にお参りした時に立ち寄った、ここ休憩所で見たスライドが、私のジオラマ作品と、そっくりで、寺を訪れる人を楽しませる、地の歴史の紹介など、趣旨、目的、方法、みんな私と一緒”で・・・うれしくなり、「なにか手伝えないか?応援したい”」そんな気持ちになり、その日は名刺だけ置いて・・・
そして今日は、写真では、臨場感まで表現出来ず、と、作品を持ち込んでの再訪です。
前回の名刺から、ブログ検索も、上役さんにも話が伝わっていたようで、有難かったです。
しかし、大阪では知らない人がいないほど、大きな寺なので、許可、認可、に至るには、ハードルいっぱいありそう””
「今日の処は持ち帰って・・・返答は後日・・・」との事。
展示不可”でも、親兄弟の骨寺ですし、涼しくなる頃には、この休憩所前で、”翔太区長公認の「台車ライブ」などして、今日の対応への恩返しと、
応援協力していくつもりです。
撮り直した安居神社
神社の西の急階段・・・飛鳥時代時代はここが、難波の宮への船着き場”との事。
本殿と鳥居、社務所は他作品と使いまわししてます、
幸村の最後「信繁殿お覚悟”」
・幸村と信繁の使い分け・・・
徳川方では信繁”と、大坂方では幸村”と名す。
(チョットうんちく”)
・