丸顔おばさんのブログ

すべての問題は「心」に通ず。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」

取り締まりにあったら、どうする?~自分を守るために。

2022-05-31 23:03:25 | 心の解放シリーズ
ちょっと買い物がしたくて、自転車で街に出た。

にぎやかな通りは、自転車通行禁止なんだけど、降りて押せばいい。

ただ、通りのどこまでが自転車禁止なのか、いまいちはっきり書いてない?ので、よく分かんないんだよな~と思って、
人も少ないしと、にぎやかな所をちょっと外れた所で乗ってしまったんだ。

そしたら、おじさんが、自転車ダメだよと、うしろから言ってきた。

やっぱダメなのか。
おばさんは、即座に自転車から降りて、おじさんのほうを向き、帽子のつばを上げて、あ、すみませんでしたというふうに会釈した。

そしたら、おじさんはびっくりした顔をして、足早に走り去っていった。

なんだ?
なぜ、おまえがおどろく?
違反をしていたのは私のほうではないか?
私がびっくりするならわかるけど。。。
もしかして、おばさんの美しさにおどろいてしまったのか・・・?

いや、そーじゃないな、としばらくして思った。


こんなふうに見ず知らずの者を取り締まるとき、
純粋に世のためだと思って声をかける人、
自分が困るのでということで相手に言う人、
それがお仕事の警備員の人などと、いろいろなケースがあるけれど、
なかには、そうすることでひそかに憂さ晴らしをしている人もいる。

自分のふだんのたまりにたまった悔しい感情をはらすため、
自分の悔しい感情とは関係のない見ず知らずの者を、正しさを盾に攻撃する。
こうして溜飲を下げている。

こんな方は、取り締まった相手が、
悔しそうにするか、
卑屈に従うか、
いやいや従うか、
激しい人だと逆ギレするか、
怯えるか、
うろたえるか、
無視されるか、
たぶん、そんな反応を期待している。

だから足早に歩きながら、うしろから逃げ気味に注意してきたわけだ。
すぐに逃げられるように。

なのに
私はどうやら、おじさんの期待した反応をしなかったようだ。
とっさのことだったので、悪びれる様子もなく、すぐに自分を正して、
さらにおっちゃんにまっすぐ向き合って、丁寧にあいさつまでしてしまった。

それで、逃げの態勢だったおっちゃんは、びっくりしちゃったんだな。
ひそかに悔しい感情を晴らすはずが・・・。

取り締まった結果、相手が期待通りの反応をすると、
自分の溜まった感情はすっとして、
その悔しい感情を相手になすりつけることができる。
こうして人は知らず知らずのうちに、見ず知らずの人に仕返しし、たまった感情を晴らそうとする性があるんだ。
(親がこういうタイプだと、こどもはかわいそうだ。いつだって弱い者が犠牲になる)

コツがあってね、
お詫びや、あやまるときは、あやまることでチャラになるんだと思いながら、
自分の心を感じながら言う。
お詫びしておしまい。これ以上申し訳なく卑屈に思わなくてよしと。
すると、あやまることで自分が損したような、負けるような気持ちにならなくて済む。
そして相手に言ってても、自分自身に言ってるつもりで言うんだ。
自分を大切に感じながら言うと、
相手のことも大切にしているように見えるんだ。

おっちゃんのほうは、八つ当たりが目的だったんなら、予想外の反応でさぞかしびっくりしたことだろう。

八つ当たり、こどもだけじゃなく、大人になってもしているんだな。いわゆる「正しい」ことを言いながら。

きっと、ふだんから人とこういう関わり合いをしているのだろう。
「正しい」ことを、人の背後からぶつける。逃げ気味に。相手と向き合わずに。

人とまっすぐ向き合って、心が通う関わりをふだんからしている人は、
仕返しや憂さ晴らしの必要がないからな。

そして内心ずるい目的を隠し持っている場合、
相手に今までに経験したことのない未知のパターンを返されると、うろたえたり、恐怖を感じるんだ。
戦う支配する人は。
攻撃したならば、それ相応の戦う反応が来るはずなのに、
心のこもった反応をされると。卑屈でもない攻撃でもない反応をされると。

だから、戦わないほうが勝つんだ。
結果的に。
勝ったとあんまり自覚ないかもしれないけど、
意識のうえで、勝ってしまっているわけだ。

逆に、いつも戦うような心でいると、あるいは卑屈な心でいると、こういう人の餌食にされるんだ。

人との関わりを避けていても、思いがけず道でやられたりする。

でも、戦わないと、勝つ。
戦うと、負ける。

戦って勝ったとしても、くやしい感情は残る。
やっぱり戦うことで傷ついてるからだと思うんだけど。
だから戦う人は、勝っても負けたような感情をいつも実感しているんだ。

この感情が現実にカタチになってしまうから、結局負けるし、
これがその人の行動パターンや人格になっていってしまう。


最近は、社会の分断が著しい。


よかれと思って、相手に対してしていることが、
いつのまにか、
自分の感情を晴らすことが目的になっていっちゃうってこともある。


自分の感情を晴らすチャンスを狙っている、ずるい取り締まりは、
逃げながら、隠れながら、正論をぶつけて感情を晴らそうと攻撃してくる。

それはリアル社会もネット上も同じだ。
最近は、工作員うんぬんよりも、こういうところに着目しているんだ。
清い感じの方でも、こういう感じだと、先が思いやられるからな。
自分が餌食にされることもあるし。

そういう方と関わることになっても、戦いに乗らず、まっすぐ向き合って差し上げると、なにかうしろめたい気持ちになるようだ。
そして、相手を認める、認めざるを得ない気持ちになるようだ。

あのおじさんも、あのような反応をするということは、心の奥で、自分のずるさを知っているということだ。(ここに人間の可能性を感じるんだ)

だから、こういう取り締まりに出会ってしまっても、
自分の心を感じながら、相手にまっすぐ向き合って、自分に非があれば、上記のように詫びる。
非がなければ、自分の気持ち言っておしまいだ。
ヘンな人なら、なにも言わずに立ち去ったほうがいいかもな。

こんなふうにするだけで意識のうえでは勝ってしまう。

そして、やられたという感情が残らないから、さっぱりいられる。


こういう方、最近増えてしまっただろう?
コロナ以降。
マスク警察とか。

でも、基本は同じだと思うんだ。

こんな話を聞いたことがある。
デパートにノーマスクで入ったら、店員さんが「お客様、マスクはお持ちですか」と聞いてきたそうだ。
その方は
「マスクをしない選択をさせていただいてるんです。マスクをしていないと買い物できませんか?」
と言ったら、店員さんは
「そういうわけではございません。そのような選択をされるお客様がいることは存じておりますが、みなさんに聞かなければならないことになっております。引き続き、お買い物をお楽しみください」
と言ってきたそうだ。
「気にされる方もいらっしゃることはわかっていますので、大きい声で話さないように気をつけます」
とその方も言って気持ちよく立ち去ることができたそうだ。

この方も、きっと自分の心を感じて、マスクは不要と思ってそうして、そのまま素直に、ご自分の心を感じながら店員さんにお話されたんだろうな。
だから気持ちよく心が通じたんだろうな。

店員さんもお仕事で、こんなこと本当にやりたくてやっているわけではなかった可能性がある。
上記のおっちゃんは、完全にやりたくてやってるけどな。

取り締まられる立場も、
こういうステキな反応は、
相手を敵視しているとできないもんだ。

敵視したり、分断したり、戦っているとき、あんまり自分の心を感じていないんだ。
思考で、左脳で、正論で攻撃モードになってしまっているから。
感情がおろそかになっている。
これだと相手に心が伝わる話し方や対応ができないんだ。

じつは、相手を否定するのも、自分を否定するのも同じなんだ。

たしかに、世の中、まちがっていると私も思う。

でも、取り締まりしてる人もいろいろだ。

そして自分だって、本来は取り締まられるような存在ではない。


私自身の自転車の話でいえば、きまりをつくりすぎだと思っている。

本当は、個々人が、人が多くごったがえしているところでは危ないな~と感じて、
自転車を降りてあげて、人が少なく問題なければ乗って大丈夫だなって、
自分で感じて判断できれば、きまりなんてなくてもいいはずだ。

戦っていて、感じていないから、他人を大切に感じることができないから、
他人の安全おかまいなしってなってしまうわけだ。

だからきまりを作ろうとなる。
たしかに必要な場合もあるだろう。
でも、本当に悪いヤツはきまりをつくっても取り締まれない
だから、さらにきまりを作る
そして、ふつうの悪意のない方ばかりががんじがらめにされていく

こうしてみんなが身動き取れない窮屈な社会になる。もうなっているわけだ。
だから私は根底のところで申し訳ないと思っていないんだな、違反はあやまるけれど。

そして、全部、こういったカン違いや思い込みに基づく不幸な現象だと思ってるんだ。
あいつらが仕組んでいるとはいえ、
それに従ってしまうのは、
人々の側のカン違いと、
感情を感じられない、戦うパターンから抜けられない、その意味がわからない
っていうのが原因だと思っている。

だから、社会がこうなっているのは、みんながDSや陰謀を知らないからだけではないと断言できる。

人の心は知ったからすぐできる、というふうにはできていない。
知ったとしても、憎しみとくやしさと否定にまみれて大変なことになってしまう方もいるだろう。
受け入れられない人もいるだろう。
それが社会の分断となって、
○○警察とか、憂さ晴らしのような取り締まりという現象になってあらわれている可能性もある。

だから目覚めてるとか目覚めてないとかいうのも、分断というだけでなく、
根本的に人の心もご自分の心もわかっていないと思うんだ。

自分自身の心の扱い方と守り方を覚えていかないと、こういう現実を受け入れるのも大変なことだ。


私は、
最近、とりあえず、そういう方を含めて全部を肯定する練習をしているんだ。
そういう状態なんだって。
(練習というか、本当は肯定しかないんだろうとも感じている。否定っていうのが不自然なんだと思う)

それは、そのほうが、自分が楽だからだ。

相手を否定していると、それも戦いだから、恐怖も出るし、
すると自分の言いたいことが楽に言えなくなっていく。

他人も、どんなでもいいんじゃないっすか?と思っていると、自分も自由でいられるのね。

たぶん、自分自身が最近、こんなふうにヤカラに縛られないでいられるようになってきたから、ヤカラも肯定できるようになってきたんだと思う。

あいつらや社会の仕組みに気が付いてきたばかりのころ、
それに毒されるまま生きてきた人たちに傷つけられ、
やられるがまま、心も体も苦しかったころは、そうできなかったからな。

だから受け入れられない人や、分断や取り締まりに走る人が出るのも無理もないのかもしれない。

すべて肯定できると、楽なんだ。

でもそれは、なかなかカンタンではない。

でも、自分を守れるようになると、できるんだ。

みなさん、自分の心の守り方をまだ、ご存じないんだ。

卑屈に従うか、戦うか。

これ以外の、パターンを知って、できるところでちょっと試してみるってことなんだ。

それは、戦いから降りて
自分の心を感じながら、相手にまっすぐ向き合うってことなんだ。
(これだけで勝つ場合もある)
その状態で、心を感じながら話すと、相手が攻撃してやろうとしている場合、うしろめたさを感じて、ひるむんだ。
そしてさっさと離れることなんだ。

戦いに応じちゃうと、


どこまでも反応しあって、くっつきながら戦うこととなる。


戦ってる人はいつまでも相手にくっついているんだ。心理的に。

嫌いなんだから離れればいいのに、くやしい感情は残るから、離れられないのね。

こういうのが年齢を重ねていくと、化石のようになってしまい、人格の一部みたいになってしまうんだ。

でも、順調に成功してわりと幸せに生きている人は、そんなふうに他人にとらわれてはいないんだ。

自分の意思で、他人とさっぱり離れて戦わないでいられる人は、
人にくっつかないから、支配関係に陥りにくい。
じっくり時間をかけて自分の意思を豊かにしていって、息の長い活躍ができる。

これが本当の自立だ。


これも自分を守れるようになると、そんな他人を忘れていられる。
すると自分の気持ちや意思やしたいことに集中し、エネルギーを注入できるということなんだ。

そうなるとそんな他人はもう眼中にないわけだ。
自分に忙しくて幸せだから。



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