
アロンゾ・モーニングがついに引退を発表しました。
“記録よりも記憶に残る選手”という言い方がありますが、モーニングも強烈な印象とともに記憶に刻まれた選手でした。
もちろん記録というか、すごいスタッツも残してるんですが、どちらかと言うと、“熱血漢”“燃える炎のような男”“魂のプレー”“不屈の闘志”・・・・なんかそんな言葉がピッタリはまる、現代にはいないタイプの熱いプレイヤーでした。
モーニングという選手を理解するには、この精神的な部分を知ることが大事だと思います。
そんな、“人間”モーニングを追ってみたいと思います。
幼少時代、モーニングは孤児院で育てられたみなしごでした。
家庭の問題で親元を離れ、施設に預けられていました。
そういう境遇に置かれると、弱い人間はグレたり、精神的に病んだりすることも少なくありません。
特にアメリカで黒人であればなおさら、悪い道への誘惑はそこかしこにあるわけです。
しかし彼は、そういった犯罪やら麻薬やら銃やらといった、アメリカの悪の象徴には手を出しませんでした。
強い意志を持って真っ直ぐ育ち、道を外すことは決してありませんでした。
その後、モーニングはあるおばあさんに引き取られることで、人生が一変します。
このおばあさんは、モーニングのような孤児を50人以上も育てたという素晴らしい方だそうです。
モーニングも“母親”と慕う存在でした。
そして彼女の支えによって、モーニングはバスケを続けることができました。
身寄りもなく、オカネのあてもなければ、未成年のうちからでも働くという選択肢もあったはずです。
しかし彼女は、モーニングに教育を受けさせ、バスケを続けさせたんですね。
安易に働かせて日銭を稼がせることよりも、彼の将来を優先させました。
彼女の下で中学・高校時代を過ごしたモーニングは、その甲斐あって、奨学金を得てバスケの名門、ジョージタウン大へと進みます。
そう言ってしまうと簡単そうに聞こえますが、孤児院で育てられ、身寄りもなく、オカネも、後ろ盾も、何も持っていなかった少年が、名門大学から奨学金を得るのは、至難の業と言っていいでしょう。
世間的にも後ろ指を差されて、偏見の目で見られるでしょうし、本人の人間性を知る前に、育ってきた過去だけを見て、“アブない”“ダメだ”というレッテルを貼られてもおかしくありません。
そこに至るまでの道程と苦労と努力は、恵まれた環境で生活する者には想像できないものです。
モーニング自身、「周りから『オマエなんか絶対無理だ』と言われるたび、絶対やめるもんかと心に誓った」と語っています。
そして、そんなモーニングをカレッジに迎え入れてくれたのが、ジョージタウン大のジョン・トンプソンHCでした。
トンプソンは、カレッジ界を代表する黒人HCですが、不遇な環境下に置かれた才能ある黒人選手に手を差し伸べることでもよく知られています。
最も有名なのは、アイバーソンの一件でしょう。
高校時代から大スターだったアイバーソンは、全米の有名大学から奨学金のオファーが殺到していました。
しかし、高校最終年に暴力事件に巻き込まれて逮捕されると、それまでのフィーバーがウソだったかのように、各大学はさぁーっと引いていきました。
本人は無実を訴えているにもかかわらず、マスコミから勝手に事件の首謀者に仕立て上げられたアイバーソンは、“危険な犯罪者”のレッテルを貼られました。
一度はバスケの道を諦めかけたアイバーソンに唯一手を差し伸べたのが、トンプソンでした。
トンプソンは、“暴力事件”“逮捕”といった評判だけに過剰反応する世間を意に介さず、アイバーソン本人の人間性だけを見極めました。
本当に悪い人間なのか?
トラブルを起こす危険な人間なのか?
アイバーソンの情熱と真摯な姿勢を見て、世間で言われているような極悪な人間ではないと判断したトンプソンは、アイバーソンを大学に招きました。
しかも奨学金付きで。
このトンプソンの存在がなければ、アイバーソンのNBAへの道も閉ざされていたはずです。
それぐらい大きな分岐点でした。
母親1人に育てられたアイバーソンは、トンプソンを“父”と慕っています。
バスケだけに留まらず、人生の師と仰ぐ存在になっています。
モーニングは、アイバーソンの前の時代の話になるわけですが、このアイバーソンの一件を知ればなおさら、モーニングを受け入れたのがトンプソンだったという事実に「なるほど」とうなずけます。
ジャマイカ移民のユーイング、アフリカ移民のムトンボ、孤児院育ちのモーニング、暴力事件明けのアイバーソン・・・・みんな何かしらのハンデを持っていたり、他から拒絶された才能ある黒人選手たちだったわけです。
世間の雑音に惑わされず、広い心を持って受け入れてくれるトンプソンは、黒人選手にとって“救いの神”的存在だったんですね。
ジョージタウン大時代のモーニングは、ムトンボと時期が重なっていました。
そのため、218cmのムトンボがセンター、208cmのモーニングはPFに入ってたんです。
カレッジのチームとしては考えられないぐらいのビッグラインナップだったんですね(!)
大学で実力を発揮したモーニングは、NBAドラフトでもNo.1ピックに値するタレントを備えていました。
しかし、この年だけは1位になれない理由がありました。
なぜなら、同じ年にシャックがいたからです。
おそらく他の年であれば、間違いなくドラフト1位で指名されていたでしょう。
しかし、体格でもポテンシャルでもズバ抜けていたシャックを相手にしては、2番手に甘んじるしかありませんでした。
ルーキーシーズンも、平均21.0点、10.3リバウンド、3.5ブロック、FG51.1%というオールスター級の数字を残しながら、新人王すら取れませんでした。
まあ、とは言え、リーグトップクラスのプレイヤーであることは疑いようがありません。
それともう一つ、モーニングはビッグマンですが、身長は6-10(208cm)とNBAレベルのセンターとしては小柄な部類でした。
そのため、体格差というハンデも常に負っていたのですが、そこは持ち前のド根性と鋼のように鍛え上げたムキムキの体で補っていました。
そして98-99シーズンには、平均20.1点、11.0リバウンド、3.9ブロック、FG51.1%、続く99-00シーズンにも平均21.7点、9.5リバウンド、3.7ブロック、FG55.1%という素晴らしい成績を残し、2年連続でのディフェンシブ・ブレイヤー・オブ・ザ・イヤーに輝きました。
その“NBAナンバー1ディフェンダー”の称号を手に、2000年夏に行われたシドニーオリンピックに臨みます。
モーニングは1994年にも、トロントで行われた世界選手権にドリームチームⅡのメンバーとして参加し、金メダルに輝いています。
そして今度は、オリンピックの舞台で金メダルに輝くことになります。
大会期間中には2人目の子供が生まれ、オーストラリアとアメリカの間をトンボ帰りして出産に立ち会うといったエピソードもありました。(その時生まれた女の子は“シドニー”と名付けられました)
NBAトッププレイヤーの称号。
国を代表してのオリンピック金メダル獲得。
そして子供の誕生。
まさに、幸せの絶頂。
全ての栄光を手に入れたような、キャリア最高の時を迎えていました。
しかし・・・・
シドニーオリンピック終了からわずか2ヶ月足らずの10月、モーニングに悲劇が訪れます。
腎臓に疾患が見つかったのです。
モーニングとティム・ハーダウェイという金メダリスト2人を擁し、優勝候補の一角と見られていたそのシーズン、モーニングは長期欠場と治療への専念を余儀なくされてしまいます。
それから数ヶ月間に及ぶ治療の甲斐あって、モーニングはそのシーズンの終盤残りわずかのところで復帰を果たすまでに回復します。
そして続く01-02シーズンは、治療を続けながらも1シーズンを通してフルに出場。
完全復活も近い、というポジティブな印象を与えました。
しかし・・・・
悲劇はまた突然やってきます。
02-03シーズンを前にした9月、ヒートのHCパット・ライリーは、モーニングが02-03シーズンを全休すると公表しました。
腎臓の状態が悪化したため、プレーを続けながらではなく、治療だけに専念せざるをえない状況になっていたためです。
モーニング復活への道は、また一歩遠のきました。。
そして1年後、モーニングは再びNBAに戻ってきます。
ただその年のオフは、モーニングとヒートとの長期契約がちょうど終わるタイミングを迎えていました。
チームを新しくリビルディングしようとしていたヒートは、高額のベテラン選手であるモーニングとの契約更新をしない、という判断を下しました。
モーニングと共に成長してきたチームであるヒートにとって、これは苦渋の選択でした。
もちろん、モーニングにとってもこれはツライ現実でした。
ヒート復帰の道を閉ざされたモーニングはFAとなり、ネッツと4年契約を結ぶことになりました。
2003年7月のことです。
この時のネッツは、ジェイソン・キッドを擁して2年連続ファイナル進出を遂げた直後。
ネッツはモーニングの獲得を、3年連続のファイナル進出を目指す切り札と考えていました。
期待値は相当高く、まるで宝物を掘り当てたような熱狂がありました。
しかし・・・・
さあここから新たなキャリアの出発だ、と歩み出した瞬間、モーニングはまたも悲劇に見舞われます。
新シーズンが始まってほどなく、モーニングは引退に追い込まれるのです。
長期欠場ではなく、“引退”でした。
契約を結んだ7月から数えてわずか4ヶ月後、たった12試合に出場しただけでの、突然の引退劇でした。
理由は、腎臓の状態が、生命を脅かすほど深刻な状態にまで悪化してしまったためでした。
プレーできるかどうかではなく、生きるか死ぬかの問題になってしまったからです。
もうバスケどころの話ではありません。
モーニングは、もう腎臓移植をしなければいけないほどの状態になっていたのです。
モーニングが引退を発表したちょうど同じ日、モーニングのいとこであるジェイソン・クーパーは、モーニングのおばあさんのお見舞いに来ていました。
そこでモーニングの父親から、彼の病状を聞かされます。
モーニング本人とはもう25年も会っておらず、たまたまその日病院を訪れただけのクーパーでしたが、快く適合検査に応じました。
そして、後にクーパーの腎臓がモーニングにマッチすることが判明します。
その知らせが届いたのは、くしくもあの時お見舞いにいったおばあさんのお葬式の時だったそうです。
なにか、おばあさんが2人を結びつけてくれたかのような、不思議な縁を感じる出来事でした。
2003年12月19日、モーニングの腎臓移植手術が行われました。
引退発表をした11月25日からわずか1ヶ月足らずという、幸運な早さでした。
それから1年後、モーニングは再びNBAのコートに戻ってきます。
他人の臓器を移植するということは、拒絶反応や機能回復など様々なハードルを乗り越えなければいけません。
まずは毎日無事に生きるための健康体を取り戻せるのかどうかというレベルの話であって、激しい運動ができるようになるかどうかはその次の話です。
ましてや、プロスポーツ選手としての体力を取り戻したり、NBA選手に足る筋肉や体格を作り上げる苦労は、想像がつきません。
しかし、モーニングが復帰したネッツは、優勝を狙って活気のあった1年前のチームとは違っていました。
主力の1人だったケニオン・マーティンを放出し、リビルディングに向かいかけていました。
残された時間は少ないと自覚しているモーニングは、そんなチームの方向性に疑問を感じ、チームにトレードを要求しました。
そして、ビンス・カーターなどとの大型トレードで、ラプターズに放出されました。
ただし、そのラプターズもリビルディングが目的だったため、モーニングの居場所はなく、1試合もプレーすることなくバイアウトでチームを離れます。
そして、行き着いた先は、見慣れたユニフォームのチームでした。
2005年3月1日、04-05シーズンも終盤に差し掛かったこの日、モーニングは古巣ヒートに戻ってきました。
最後にプレーした01-02シーズンから数えて約3年。
シーズン全休、引退、腎臓移植手術、奇跡のカムバック、2チームでの失敗、バイアウト・・・・といった様々な苦難を経て、ボロボロになって帰ってきました。
ヒートも様変わりしていました。
モーニングが腎臓移植手術を受けた03-04シーズンにウェイドが入団し、モーニングが戻ってきた04-05シーズンにはシャックが移籍してきていました。
かつてのエースも完全に脇役。
ヒートはウェイドとシャックのチームでした。
しかしそこには、かつての2チームとは違う、優勝を狙えるだけの充実した戦力がありました。
明くる05-06シーズン、モーニングはセンターのバックアップとして自分の役割に徹しました。
平均20分程度の少ない出場時間ながら、平均2.7ブロックという驚異的な数字を叩き出しました。
シャック欠場のゲームでは先発を務め、ダブルダブル級の活躍。
鬼神のような迫力もよみがえり、そこにはかつての“闘将”モーニングの姿がありました。
そしてその年、ヒートはフランチャイズ史上初のNBAチャンピオンに輝くことになります。
モーニング自身にとっても初となる、念願のチャンピオンリング。
移植手術を受けてもなお復帰を果たしたのは、まさにこのため。
苦労という言葉だけでは言い表せないほどの、苦難を乗り越えての栄冠でした。
優勝を果たしたのが古巣のヒートでというのも、なにか必然のような縁を感じます。
また、かつてドラフト1位・2位を分け合ったシャックとチームメイトになってというのも、不思議な縁を感じます。
当時の2人の圧倒的な実力の高さを知っているファンにとっては、まるでオールスターチームを見るような贅沢な組み合わせでした。
シャックが下がるとモーニングが出てくるなんて、なんて豪華なんだ・・・・と。
その後、ヒートは急速に崩壊への道を辿り、シャックやペイトン、J-Willなどを含め、主力メンバーが次々と放出されていきました。
モーニングはヒートに残ってプレーを続けていましたが、「この年が現役最後」と宣言した臨んだ07-08シーズン、試合中にヒザの靭帯を切る大ケガを負ってしまいます。
有終の美を飾って現役生活を終えようと思っていたモーニングにとって、これは望んだ結末ではありませんでした。
引退を宣言していたシーズンでの、シーズン絶望となるケガ。
モーニング自身も含め、そこにいた誰もが「モーニングもこれで引退か」と悟りました。
ただ、たとえそうであったとしても、そんな弱々しい姿で最後のコートを去るなんてことは、モーニングの意地が許しませんでした。
まったく歩けないにもかかわらず、用意された担架や車イスを拒否。
チームメイトに両脇を支えられながら、キッと前を見据えてコートを後にしました。
「歩けないなら、這ってでも自力でいく」
そのどこまでも一途な頑固さと意思の強さ。
なにかその姿に、“人間”モーニングの象徴を見ました。
この強い心こそが、様々な逆境や苦難を乗り越え、人生を切り拓く原動力となってきた。
そんな気がします。
もう一度コートに立つべきかどうか、迷いながら迎えた今シーズン。
モーニングは最終的に、現役引退を決意しました。
おそらく、体力的には復帰も可能だし、まだまだプレーも通用すると思います。
しかし、引退を決意したのは別の理由からでした。
「神が、あと40~50年生きられる身体を与えてくださった。これからは、その身体の健康を第一に考えていきたい」
周囲のコメントからは、モーニングがいかに大きな存在だったかが伝わってきます。
「彼の存在そのものが、このヒートというフランチャイズに起きた最高の出来事だった」(パット・ライリー)
「彼はマイアミ・ヒートの象徴なんだ。このチームに来る選手はみんな、ヒートの選手になる姿を想像する時、アロンゾの姿を思い浮かべるんだ」(ドゥエイン・ウェイド)
「彼はNBAの歴史を全部振り返った中でも、最もハードにプレーした選手だった」(スタン・バンガンディ)
またモーニングは、コート外でのチャリティ活動にも熱心なことで知られていました。
自身の経験に基づき、親のいない孤児を助けるため、臓器移植を希望する患者を助けるため、恵まれない環境からスポーツの世界を目指すアスリートを助けるためなど、複数の基金を設立。
その他、子供たちにより良い教育を受けさせるためのチャリティ活動などを無数に行っています。
「これは、バスケよりもずっと大きくて、大事なことなんだ」
モーニングはそう語ります。
引退会見の最後、質問に立ったのは記者ではなく、彼の妻トレイシーでした。
「ねえ、アロンゾ。引退して時間が余ったら、何をして過ごすの?」
モーニングは気まずそうに答えます。
「そのことはもう家で話したじゃないか・・・・」
するとトレイシーは、こう返しました。
「だから、その証拠を残しておきたいの」
モーニングは、さらに気まずそうにこう答えました。
「だからその・・・・お皿洗ったり、ゴミ捨てにいったり、窓掃除をしたり・・・・君がしてほしいことを何でもするよ」
炎の男も、奥さんにはかなわないようでしたw
●モーニング引退会見
(ビデオ)
●モーニング最後のゲーム
(ブログ)
●モーニングプレー集
(ビデオ1)
(ビデオ2)
(ビデオ3)
(ビデオ4)

魂の男、降臨。鼻息フーんっ!

うおりゃぁー!

ぐわぁっしゃー!

でも笑うとカワイイw

シャックさんとアロンゾさん

仲悪いのかな?と思いきや

意外と仲良し

ガッハッハッハー

アロンゾさんとプーさん・・・・いやマジックさん

現役最後のコートを去る

HCなアロンゾさん

ドゥエイン、あとは頼んだぞ

美人妻なトレイシーさんと尻に敷かれているアロンゾさん

永久欠番の背中
彼が乗り越えてきたこと、成し遂げてきたことが大きすぎて、言葉になりません
。
私がNBAを観るようになったのは最近のことですが、manuさんね記事を読むと、「もっと前から観てればよかったなぁ~」と思います。
最近は、彼のようなタイプの選手が少なくなっているように思えるので、一つの
時代が終わってしまうようで寂しいですが、第二の人生を楽しんでもらいたいで
す。
個人的に、とっても好きな選手だったのですが、彼のバックグラウンドやNBAでのキャリアについては詳しく知りませんでした。なので、記事にしていただけてとても有難いです。
さっそく「受け売り」しようかな(笑)。
これからも、楽しみにしています。陰ながら応援していますので、頑張ってください。
関係ありませんが、サバンナ八木の「パナキ」が好きです。
私は子供の時からプレーする、キャリア20年を超える、中年プレーヤーです。
自分のポジションが、PG、SG、SFなので、好きなプレーヤーも、やっぱりそこに集中するんですね。
NBA見始めた時も、PFやCで好きな選手はいませんでした。
でもアロンゾは、そんな私の概念を覆すほどのインパクトのあるプレーヤーでした。
はじめて見た試合で、心奪われました。
その後も、Cで好きなプレーヤーは出てきません。
もしかしたら、この後も永遠に。
最初で最後の、好きなセンターなのかもしれません。
エピソードも、もちろん知っていました。
こんなに山あり谷ありのプレーヤー、なかなかいませんよね。
腎臓の件で最初にいなくなった時もショックだったし、引退した時もショックでした。
優勝した時も、涙しましたし、昨シーズン、けがをして去っていく姿に涙しました。
でも今回は、なぜかホッとしましたね。
もう充分やったでしょ、って思えるし。
奥さんとのやり取りも、素敵だし。
HCとして、帰ってきてほしいですね。
アイザイアと違って、いいHCになりそうな気がします。
まあ、アレは負の遺産なので、ここではあえて触れなかったんですけどね(笑)
それだけじゃないんだよっていうイメージを持っていただけたなら嬉しいです。
まあ、Zoは昔気質の燃える男という感じで、現代NBAにはいないタイプの情熱的なプレイヤーでした。
選手としてもそうですが、人間としてというか、その生き様自体がストーリーになるなという感じです。
コート上でのイメージだけでなく、その選手の人間性に触れると、また見方も変わってくるものです。
より一層楽しみ方が広がりますよね。
ドンドン受け売りしてください(笑)
サバンナは知ってますけど、「パナキ」は知らんなあ~w
僕もなんかイメージの方が強く残っていて、プレーよりも存在そのものがスゴイ選手ってなかなかいないなあと思います。
あれだけ何度も何度もカムバックを試みるところに、精神力の強さが垣間見えますし、常人にはマネできないなあ~と思ってしまいます。
別にNBA選手じゃなくたって、病気や移植手術を乗り越えるだけでもスゴイことですからね。
でも引退してくれて、奥さんや家族はホッとしたでしょうね。
コートに立っていても、いつ倒れないかとハラハラして見ていたでしょうから。
会見で引退を決めたきっかけを聞かれたアロンゾは、つい先日ワシントンにオバマ大統領の就任式を見に行った時に人々から「身体の具合はどう?」と声をかけられ、オバマさんの「未来と子供たちのために」というスピーチもあいまって、やはり今一番優先すべきは自分の健康なのではないかと気付かされた、と言っていました。
まあ、HCっていうのはネタですけど(笑)、間違いなくヒートの永久欠番にはなるはずですね。
ヒートの選手としては初の永久欠番になるそうです。
ほとんどのブログが、見る人はNBAについてよく知ってることを前提としているようにして書いてあるので、manuさんのブログはNBAを見始めて間もない人にもよく分かるように書いてあるので、私にもすごくわかりやすいです。
それにしても、アメリカは引退する選手や引退した選手をすごく大事にするんだな~って思いました。オールスターとかの式典にも必ずと言っていいほど往年の名プレイヤーがいますし。
こういうところは日本のプロスポーツも見習わないといけないですよね。
あと、モーニングとはなんの関係もありませんが、先日のピストンズとセルティックスの試合でパーキンスがマキシエルに首投げをした時に、マキシエルがパーキンスに突っかかっていって乱闘にでもなるか!?ってとこで、ラシードがやってくれました。きっちりマキシエルを止めて、乱闘になるのを防いでくれました。ラシードファンの私としては、ほら見てみぃって感じで嬉しかったです。
ほとんどのブログが、見る人はNBAについてよく知っていることを前提で書いている感じなので、manuさんのブログはNBAを見始めて間もない人にもよく分かるように書いてあるで、私でもモーニングのことについてよくわかってすごくいいです。
それにしても、アメリカは、引退する選手や引退した選手をすごく大事にしますよね。オールスターとかの式典にも必ずと言っていいほど往年の名プレイヤーがいますし。
こういうところは日本のプロスポーツも見習わないといけないなと思いました。
それと、モーニングの話と関係ないですが、この前のピストンズとセルティックスとの試合でパーキンスがマキシエルに首投げをしたときに、マキシエルが突っかかっていって、乱闘にでもなるか!?って思ったら、ラシードがやってくれました、マキシエルを止めて、乱闘になるのを防いでくれました。ラシードファンの私としては、ほら見ぃって感じで嬉しかったです。
そのころはすでにモーニングは引退した選手で、全盛期の活躍どころか名前も知らず、ネッツで復帰したときはそんなにすごい選手なの?って感じでした。
当然ここでmanuさんが書かれたようなエピソードは知りませんでしたし。
しかしこの記事を読んでモーニングの過去を知っていくうちに逆境に向かっていく姿勢や強さに感動し、目頭が熱くなりました。
これを読んでいると、自分が抱えている悩みなんて全然大したことないなー、って思って悩みがどこかへ行ってしまいましたよ 笑”
最後の奥さんとのやり取りもステキですね!
このエピソードを他の人にも読んでもらいたいので、この記事を転記させていただいてもよろしいですか?
どこまで強くなるのか楽しみでワクワクしたホーネッツ時代も、最盛期だったヒート前期も、スーパーサブとして頂点に輝いたヒート後期も、すべての時代に強烈な記憶を残してくれたプレイヤーでした。
オラジュワン、ロビンソン、ユーイングに続き、90年代のセンター全盛時代を支えた名センターがまた一人いなくなるのは寂しいですが、今はゆっくりと休んでほしいです。