4月14日(日)、慶州ナザレ園を訪問致しました。ナザレ園を訪問するのは、2年ぶり。ナザレ園のことをご存じない方のために、同園設立のいきさつを紹介しておきましょう。
ナザレ園は、韓国がまだ日本の植民地であった時代に韓国の男性と結婚し、半島に渡った日本人女性の収容施設として1972年に設立されました。
当時の日本政府は、「内鮮一体」をスローガンに日本人と韓国人の結婚を奨励しており、それは、「一般の日本人女性の家族やその親族の感情からすると、いわば植民地の男性との結婚」でしたが、そうした反対をを乗り越え、韓国の男性と結婚した日本人女性もいたのです。
ところが、終戦を境に日本は敗戦国となり、状況は一変します。
激しい反日感情が渦巻くなかで、日本人女性は、「夫だけを頼りに、家族や地域社会からの攻撃に耐えるしかない」状況となり、追い討ちをかけるように朝鮮戦争が勃発。徴兵された韓国人の夫の多くは戦死して、日本人女性は、「本当に居場所をなくして」しまいました。
1965年の日韓条約で国交が回復し、帰国援助事業で一万人近くの人が帰国しましたが、情報を知らされなかった人もいて、その数おおよそ二千人。その間、国籍を韓国籍に移した残留日本人については、韓国政府も調べようがなかったそうです....。
こうして、多くの日本人が韓国に取り残されました。創立者の金龍成(キム ヨンソン)先生は、韓国に残った日本人女性が、本人とは直接関係のない戦争によって、つらい目に会い、苦労していることに心を痛め、帰国を希望する人が一時滞在するための帰国者療「ナザレ園」を創立しました。
「おばあさんには、何の罪もありません。強いて言えば、植民地支配を受けていた韓国の青年を選択し、愛した罪しかないのです。おばあさんは支配した側ではなく、私たちの側の人間なのです。命がけで韓国にやって来て、ずっと苦労してきたのです。そういうおばあさんたちを私は守らなければならないのです。」と。
まず、ナザレ園の紹介ビデオを見せていただきました。画面に映っているのは、創立者の金龍成先生。金先生は2003年にお亡くなりになられましたが、先生の教えは、今もナザレ園に生きています。
構内を案内して頂いた宋美虎(ソン ミホ)園長先生。館内は明るく、非常に清潔で、清掃が行き届いていました。宋先生、どうもありがとうございました。
おばあちゃん、おじいちゃんに合唱を披露しました。御高齢を考慮し、15分程度の短い公演にしたのですが、もっと長く一緒に楽しめるようなプログラムにすれば良かったと反省しています。歌詞カードもないのに、ふるさとの歌を3番まで歌ってくれたおばあちゃんもいて、「歌っていれば、一時間でも大丈夫」とのこと。音楽は人を力づける効果があるようです。
宋先生と一緒に記念撮影。社会福祉は、きれい事だけではありません。認知症を患われたの方々への対応や、職員の方々の待遇、財源の確保と、ご苦労は絶えないと思います。先生、ご案内、どうもありがとうございました。(宋先生は、韓国在住の日本人福祉向上に寄与した功績で、2007年に旭日双日章を叙勲されました。)
ナザレ園の全景。ナザレ園の他、養老院、孤児院を運営されています。左端に見えるのが、我々が公演を行った礼拝堂です。
日本人のおばあさんが入園されている建物。ある日本の篤志財団(日本財団)からの寄付金によって建立されました。日本人のおばあちゃんは、皆明るく、社交的で、ナザレ園での余生を満喫されておられました。 なお、SJC(ソウルジャパンクラブ)は長年、ナザレ園への寄付活動を続けています。おばあさん、また来ますね!それまでお元気で!
ナザレ園への入り口。慶州観光のついでに飛び込みで来園される方もいらっしゃるとか。
慶州ナザレ園は上坂冬子先生のこの著書(1982年)によって、日本に紹介されました。上坂先生の昭和史三部作(生体解剖─九州大学医学部事件、巣鴨プリズン13号鉄扉 、慶州ナザレ園 忘れられた日本人妻たち)の一つです。現在、中央文庫より復刊されているので、機会があれば、ご一読願います。
最後に金龍成先生の言葉を引用して、今回のプログを締めくくりたいと思います。
私自身はプロテスタントのキリスト者ですが、入園者には宗教的条件は一切ありません。思うに、宗教とか、歴史とか、戦争責任とか、そんな言葉上のやり取りをしている場合ではないのです。飢えと病気、着るものも着れない、そんな人たちを差し当って救済することが必要だったのです。人間は、この世に生まれると人として生きる権利を持ちます。生きる権利を持つと同時に、人として尽くす義務も合わせ持つものです。しかし、こういったことを忘れている人たちが世の中にはたくさんいます。私はそんな人たちに対して深い悲しみを抱きます。私はそんな自分の権利を失っている人のために、このナザレ園を創立し、運営しているのです。