月下に杯を重ね

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各項目について、新しい情報を入手するたびに加筆修正し、前に出します。

郷(江)義弘

2006-01-07 23:05:53 | 刀工
 建武年間、越中の人。
 南北朝期の刀工である。
 呉服江則重の子。
 郷義弘は越中松倉郷に在住したことから「松倉郷義弘」略して「郷義弘」或いは「郷」と呼ばれている。「郷」と「江」の音が相通じるため天正以来「江」の字で呼ばれている。
 相州正宗の門人といわれ、正宗十哲のひとりに数えられている。
 在銘確実のものを見ず、すべてが大磨上無銘である。
 徳川時代には、相州正宗藤四郎吉光と並び三作と称され珍重された。
 享保名物牒では11口にもおよび、富田江・稲葉江は群抜いて評価が高い。

 諺に「江と化け物は見たことがない」とある。
 有銘で確実なものはなく、無銘のものですらきわめて少ないこともあるが、一般の士では生涯お目にかかることはないほど貴重なものであるという意味もあるのではなかろうか。

井上真改(いのうえしんかい)・和泉守國貞(二代目)

2006-01-07 23:03:03 | 刀工
 延宝年間、摂津の国の人。生国は日向の国飫肥である。
 初代國貞(堀川國廣門人・同門越前守國儔に学ぶ)二男、あるいは弟子であり後に養子となったともいう。國貞二代目。八郎兵衛。
 万治四年に菊紋を賜り、寛文十二年八月に真改と改める。
 天和二年十一月歿。
 相州の古法を強調したと思われる作風で、大坂正宗と称された。
 同時代共に大坂で活躍した津田助廣とともに華麗な作風で、同時代江戸で活躍した長曾禰虎徹の素朴な作風とは対照的である。
 井上真改は虎徹助廣等と並ぶ江戸時代を代表する屈指の名工である。
 銘は「和泉守國貞」「井上和泉守國貞」「井上真改」。

金重(きんじゅう)

2006-01-07 22:59:03 | 刀工
 金重(きんじゅう)は志津三郎兼氏と並ぶ正宗十哲の一人で、同名が工数代続く。
 美濃鍛冶は南北朝時代に再興し、志津・直江で繁栄した兼氏一派と、金重一門があり室町時代に及ぶ。
 初代金重の作は、相州伝が認められるが現存数が少なく、その全容を知るのは困難であろう。
 銘は「金重」。

烈公(れっこう)

2006-01-07 22:39:01 | 刀工
 弘化年間、常陸の国の人。
 水戸藩九代目藩主徳川斉昭公である。
 徳川斉昭は、幕末四賢公に数えられ明治維新に至る幕末動乱の火付け役になった人物である。その子慶喜は、徳川二百五十年の歴史に終止符を打った人物であるが、非常に多芸であったと伝えられている。
 列公の御相手鍛冶は、直江助政・助共・市毛徳鄰・勝村徳勝が務めた。
 八雲肌と呼ばれる地景が極端に現れた肌物鍛え有名。
 茎に切る時計紋は、菊花紋を崩した物とも葵文を崩した物とも言われる。
 烈公作刀の正真物には烈公自筆の鞘書がある。

行光

2006-01-07 22:02:20 | 刀工
 嘉元年間、相模の国の人。
 藤三郎。
 鎌倉時代末期の相州鎌倉に居住し、相州正宗の養父となった。
 行光・正宗は共に新藤五國光の門人であり、行光がやや先輩であったといわれている。
 作風は師である國光に似た小沸出来の直刃を得意としているが、その他にも乱の出来もあり、作域が広い。
 現存する行光において有銘のものは少なく、すべて短刀に限られる。

 銘は「行光」。
 

藤馬允則國

2006-01-07 18:29:28 | 刀工
 承久年間、山城の国の人。
 後鳥羽院御番鍛冶の一人である粟田口國友の子で、粟田口國吉の父と伝えられている。
 藤馬允(とうまのじょう)と号す。
 承久の乱で後鳥羽院は隠岐に流される。
 隠岐においても刀剣熱の冷めぬ後鳥羽院の求めに応じ、隠岐國御番鍛冶の一人(正月・二月を担当)として伺候した。

粟田口一門

2006-01-07 18:27:35 | 日本刀
粟田口一門
 京粟田口に居を構えた刀工の一派。
 京鍛冶である三条・五条・綾小路・来ものに比べ、粟田口ものは地肌・刃文が穏やかであることが特徴といわれている。

 代表工は
  粟田口國友(長男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人)
  粟田口久國(二男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、大隅権守、日本鍛冶宗匠)
  粟田口國安(三男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、山城守)
  粟田口國清(四男)
  粟田口有國(五男)
  粟田口國綱(六男)
  粟田口藤馬允則國(粟田口久國の子、粟田口國吉の父、隠岐国御番鍛冶)
  粟田口國吉(藤馬允則國の子、藤四郎吉光の父、短刀作りの名手)
  粟田口國光(則國の子、國吉の弟)
  藤四郎吉光(粟田口國吉の子、短刀作りの名手)

粟田口國吉

2006-01-07 14:26:34 | 刀工
 宝治年間、山城の国の人。
 鎌倉中期に京粟田口に居住した名工。
 隠岐国御番鍛冶の一人藤馬允則國の子で藤四郎吉光の親(あるいは師)と伝えられている。
 作は、太刀・短刀・刀などがあるが、中でも短刀を得意とし藤四郎吉光とともに群を抜く技量を見せている。
 国吉の短刀は、当時の一般的な形状のものの他に、寸延びのもの、逆に寸詰まりのもの、振幅の広いものなど種々あり、それそのものがこの工の見所でもある。
 銘は「國吉」。