月下に杯を重ね

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各項目について、新しい情報を入手するたびに加筆修正し、前に出します。

埋忠橘重義

2005-12-29 14:17:04 | 刀工
 寛永年間、山城の人。
 埋忠明寿の子、彦次郎のち七左衛門。法橋明真。彫りの名手。
 銘は「埋忠橘重義」。
 業物。

陸奥守忠吉(三代忠吉、初代忠吉の孫、二代忠広の子)

2005-12-29 13:50:34 | 刀工
 慶長年間、肥前の人。
 忠吉三代目。
 二代忠廣の子で、初代忠吉の孫にあたる。新三郎と称する。
 万治三年陸奥大掾受領。寛文元年陸奥守に転じる。
 貞享三年正月二日、五十歳で没する。
 銘は「肥前國忠吉」「陸奥大掾藤原忠吉」「肥前國住陸奥守忠吉」「陸奥守忠吉」。
 最上大業物。

正宗、達磨、重光、國重

2005-12-23 19:58:17 | 刀工
 応永年間、山城の人。綾小路住。
 著名な相州正宗とは別人である(一般に漠然と正宗という場合は、相州正宗を指していると見てよい)。
 
 本国大和では初銘を「重光」「國重」、その後「正宗」と切り、入道して「達磨」とのみ切る。
 なお、正宗銘の正真作は未見。
 業物。
 

源正雄

2005-12-17 23:00:29 | 刀工
 安政年間、武蔵の人。
 源清麿の門人。鈴木次郎。
 江戸下谷御徒町住、函館でも作刀する。

 かの坂本龍馬が江戸で北辰一刀流を学んでいた時代の愛刀は、この正雄である。

同田貫正國・同田貫國勝

2005-12-15 22:47:45 | 刀工
 天正年間、肥後の人。
 小山左馬助、のちに國勝、さらに正國となる。
 同田貫の一人。
 肥後在来の延寿鍛冶の末裔で、兄清國とともに加藤清正に召し出され御用鍛冶となった。
 正國は一門を代表する存在として活躍し、文禄の役で朝鮮半島に出兵した清正に同行し、彼の地で兵器工廠を築いたといわれる。
 長槍の作が多い。
 初めは「國勝」を名乗ったが、清正から「正」一字を賜り(兄は「清」の字を賜った)「正國」と改めた。
 銘は「肥後住藤原國勝」「九州肥後同田貫上野介」「九州肥後同田貫藤原正國」。
 業物。

鎌倉一文字助真

2005-12-15 00:28:44 | 刀工
 正元年間、相模國鎌倉の人。
 鎌倉中期の備前福岡一文字派の助房の子、後に同国の國宗とともに鎌倉幕府の五代執権北条時頼に招聘された。藤源次助真と称される。
 鎌倉に下った後は、相州鍛冶の草分けとなり鎌倉一文字と称される。
 銘は「助真」。
 
 名物日光助真は徳川家康の佩刀として知られている。

津田助廣・越前守助廣

2005-12-12 00:49:00 | 刀工
 延宝年間、摂津の人。摂州打出村の産。
 津田甚之丞。
 助廣二代目、初代であるソボロ助廣の門人で後に養子となった。
 銘は「摂州住源助廣」「越前守助廣」「越前守源助廣」「越前守藤原助廣」「津田越前助廣」。
 大業物。

肥前國忠広(二代)・近江大掾忠広

2005-12-11 10:37:31 | 刀工
 慶安年間、肥前の人。
 初代忠吉(初代忠広)の子。陸奥守忠吉(三代忠吉、最上大業物)の父で、近江大掾忠吉(四代忠吉、良業物)の祖父にあたる。
 橋本平作郎、のちに新左衛門に改める。
 寛永十八年に近江大掾を受領。元禄六年に八十歳で没した。
 銘は「肥前國住藤原忠廣」「近江大掾藤原忠廣」「肥前國住近江大掾藤原忠廣」「肥前國忠廣」「忠廣」。
 孫である四代忠吉が代作をしたものも、少なくない。
 大業物。

 

肥前國忠吉(初代)・肥前國忠廣(初代)・武蔵大掾忠廣

2005-12-10 04:42:44 | 刀工
 慶長年間、肥前の人。橋本新左衛門。
 慶長元年に上京し、埋忠明寿の門に入る。
 慶長三年に帰国し、佐賀城下に居を構える。
 元和元年に再び上京、武蔵大掾に任じられ銘を忠広と改名した。
 寛永9年に61歳で生涯を終えた。
 最上大業物。
 その優れた血脈は、忠広の子である二代忠広は大業物、二代忠広の子である三代忠吉は最上大業物、さらにその子四代忠吉は良業物と高い技量の刀工を残しているのである。
 銘は「肥前國忠吉」「肥前國住源忠吉」「肥前國住人忠吉作」「肥州住忠吉」「肥前國藤原忠廣」「肥前國武蔵大掾藤原忠廣」「肥忠吉」「忠吉」。
 
 新刀期に入り、刀剣の生産地が江戸や大坂など流通の発達した大都市に移っていく中で、肥前に一大生産地が誕生した。
 これは領主である鍋島藩が手厚い庇護を与えた点、そしてなによりもこの忠吉を得た点が大きかった。
 初代忠吉は、新刀を代表する名工で、その一族郎党を上げ作刀に励み、肥前に一大刀剣王国を築きあげたのである。