月下に杯を重ね

日本刀メインの解説サイト?
各項目について、新しい情報を入手するたびに加筆修正し、前に出します。

棍棒とメイスはなにが違うのか?

2005-11-27 01:49:11 | コラム
 メイスというとD&Dでクレリックをやった人間には、忘れられない武器でしょう。
 というか、メイスくらいしか装備する武器がなかったからなんですがね。
 相手を撲殺する棒状の武器であるメイスですが、棍棒とどう違うのか疑問に思ったことはありませんか?
 私はあります。
 そんなわけで、今回は棍棒とメイスの区分けの話をしましょう。
 もっとも、これは私が知っている説であり、諸説色々あると思いますので、知っている方は教えていただけるとありがたいですね。

 棍棒もメイスも殺傷力をあげるために様々な形状を工夫しており、見た目状の違いで分けることはほとんど不可能です。
 では、いかにして区分けをするか?
 それはずばり素材です。
 棍棒は木材の単一性素材のもの。
 メイスは、木材以外の素材を使った単一素材のもの、あるいは柄頭と柄を異なる素材の組み合わせ(木材を含む)で作ったものになります。
 初期のメイスは、木材の柄と石の柄頭という組み合わせであったようです。その出現は、古代メソポタミアや古代エジプトまで遡るということで、非常に起源の古い武器です。もっとも、その組み合わせでは石斧とナニが違うのかという気がしないでもないのですが……。

モルゲンステルン(モーニングスター)

2005-11-27 01:35:28 | 武器・防具
 ドイツで生まれたメイスの一種。
 柄頭が球形・円柱・楕円柱状になっており、その柄頭部分からいくつものとげが放射状に飛び出したもの。中世を通して、騎士や兵士に最も好まれた武器のひとつである。
 英名のモーニングスターの方がポピュラーであるが、モーニングスターはモルゲンステルンと同型の柄頭の武器であれば、メイスに限らずその名前で呼ぶ誤った認識が広がっているため、あえてモルゲンステルンの名称を看板とさせてもらった。
 
 古代メソポタミアや古代エジプトで誕生したメイスであるが、その後戦場から姿を消す。再び脚光を浴びるのは中世13~14世紀の騎士の武器としてである。その時期にドイツに出現したこのモルゲンステルンであるが、鎧を着用した相手に対し非情に有効な武器であったため、ヨーロッパ中に普及し、16世紀には騎士の最もポピュラーな武器として定着した。
 

バルディッシュ

2005-11-25 21:07:14 | 武器・防具
 刃渡りが60~80センチの長い三日月状の刃を持つ戦斧。
 長さは120から250センチ、重量は2~3.5キロに及びます。
 16世紀から18世紀の東ヨーロッパからスカンジナビア半島にかけてみらる。
 特に16世紀から17世紀の間、モスクワ大公国の歩兵武器として知られている。



 最近は「魔法少女リリカルなのは」「魔法少女リリカルなのはA's」に登場する魔法使いフェイト=テスタロッサの魔法武器「バルディッシュ」の名前として登場しています。作者が自ら著した小説で戦斧と明記している点からも、このバルディッシュが語源であることは間違いないでしょう。

目つぶしの砂も武器?

2005-11-22 01:40:34 | コラム
 江戸時代、目明かし必携のものをあげてみましょうか。
 十手・捕縄・呼子笛・矢立・金子五両ほど・火打ち道具一式・同心発行の手札、そして目つぶしの砂なのですよ。
 江戸の目明かしは、手捕りが自慢で十手風を吹かせるのは野暮という風潮があったみたいで、十手を常時携帯しなかったともいわれているみたいですね(犯人捕縛の権利の証は、同心発行の手札で行われていました。これは、同心が自分の代行を命じるという証なわけで、これがないと犯人の逮捕行員が出来ないのですよ。十手があっても手札がないと商売が成立しないわけで……)。
 そんな時に使うのが、目つぶしの砂。
 えいっやっとくらわせておいて、ひるんだところ飛びついて組み伏せるという寸法ですよ。
 十手を使うのは野暮で、目つぶしをかますのは野暮じゃないっていう感覚は……まあ御上風を吹かせるよりは泥臭くないからいいやってことなんでしょうかねぇ。

友重(初代~10代)

2005-11-19 17:11:31 | 刀工
 加賀の刀工で初代から10代を数え、11代治兵衛友重の時代に鍛冶を廃業する。
 
 初代友重は、正中の人で本国は越前。来国俊の門人といわれる。
 銘は「友重」「加州住藤原友重」「藤嶋」。
 良業物。
 
 二代友重は、貞治年間の人。
 銘は「藤嶋友重」「藤嶋」。
 良業物。
 
 三代友重、応永年間の人。
 銘は「藤嶋友重」「藤嶋」。小さく切る。
 この代で加賀へ移住したという説もあるらしい。
 
 四代友重、応永年間の人。
 銘は「藤嶋友重」。
 
 五代から八代に関しては資料なし。
 
 九代友重、寛永年間の人。
 銘は「加州住藤嶋友重」。
 業物。

 十代友重、貞享年間の人。
 名は「加州金沢住三郎衛門尉藤原友重」。

長曾禰虎徹(興正)

2005-11-18 23:57:58 | 刀工
 二代目虎徹。
 延宝年間の人。江戸下谷に住む。
 興里の鎧鍛冶時代からの弟子で、のちに養子となり虎徹二代目を襲名した。
 その切れ味は虎徹の名を継ぐだけのものがある。
 銘は「長曾禰興正」「長曾禰虎徹興正」。
 最上大業物。

2005-11-18 02:34:00 | 刀工
 実阿の子。隠岐浜住、通称左衛門三郎。
 この一風変わった銘を持つ南北朝初期の筑州の刀工は、正宗十哲のひとりといわれる。
 それまでの伝統的な九州鍛冶とは一線を画す作風で、相州正宗の弟子であるかどうかは別としても、相州鍛冶と何らかの関わりがあったことは確かなようである。
 銘は「左」「筑州住左」。
 
 現存する作品は、太刀が一振りのみであとはすべて短刀である。
 その太刀は、紀州徳川家に伝わり「江雪左文字」の名で知られ、国宝に指定されている。

越前康継

2005-11-17 16:20:01 | 刀工
 慶長年間、武蔵の国の人。生国は江州下坂村。下坂市左衛門。
 越前北荘(今の福井市)に住み、結城氏の抱え工として肥後大掾下坂と銘した。
 慶長11年頃、結城秀康(家康長男)の合力により、大御所家康・将軍秀忠に江戸に招聘される。鍛刀の功により家康から「康」の一字を賜り、以後「康継」を名乗った。また、「葵紋」も賜り刀の茎に切ることを許された。このため、「御紋康継」「葵下坂」とも称された。
 慶長十九年、大坂城落城後は、その際に焼け落ちた名刀の数々を再刃あるいはその写しを作刀している。
 駿府にても作刀あり。
 元和七年没。
 銘は「越前康継」「康継入道作」「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」。
 良業物。
 
 南蛮鉄の扱いが極めて巧みで、その作刀に「以南蛮鉄」などと銘が切られた物もある。
 また彫りも巧みで、堀川国広一派、埋忠明寿一派とともに新刀を代表する彫り物の三派を形成した。
 その門下に同郷の大和守安定がいる。



繁慶(はんけい)

2005-11-17 15:45:31 | 刀工
 元の名を小野清堯(おのきよたか)といい、鉄砲鍛冶の出である。
 清堯作の鉄砲も相当数現存している。
 
 大坂城陥落後、天下は太平へと向かったため、鉄砲が今後不要になっていくのを見越し、刀鍛冶に転身した。同様の理由で鎧鍛冶から転身した虎徹(興里および興正)の例もあるが、転身成功者の数少ない一人である。
 繁慶は徳川家康の駿河移住に伴う形で駿河に移住し、その地で刀剣の鍛造法を学んだという。家康没後に江戸へ帰還。鉄砲町において作刀する。
 
 銘は「日本善清堯」「繁慶」「小野繁慶」。鉄砲名も刀銘も彫銘という特殊な銘を切る。彫銘は繁慶一門にのみ見られる特殊なものである。
 良業物。
 
 虎徹入道興里とは異なり、その師が誰であるかは全くわかっていない。
 ひじき肌という独特の鍛えと相州伝の大乱れ刃を焼き特徴的な作風である。おそらくは、相州正宗あたりを目指したものと考えられる。
 巷では、本阿弥某に己の作刀を正宗と鑑定され、「正宗のごとき凡工と間違われるのは無念である」とこぼしたとされるが、信頼出来る話ではない。
 なお繁慶は自作の刀や鉄砲を一宮や大社に奉納している。

埋忠明寿(うめただみょうしゅ)

2005-11-17 15:44:28 | 刀工
 慶長年間、山城の国の人。
 代々金工(金属の彫り師)の技を持って足利家に使えた金工界の名門埋忠家の出。
 埋忠重隆二男、埋忠彦次郎。長子早世により家を継ぐ。
 明寿(みょうしゅ)は初め「重吉」「宗吉」と銘し、自らを三条宗近二十五代孫とした。父埋忠重隆も三条宗近二十四代目を称していたと言われているが、それを継いだものか。
 入道して鶴峰明寿と号す。
 父重隆も刀工のようであるが、当方に資料なし。今後の研究対象としたい。
 西陣に住し金工の他に刀工としても活躍。国広とともに新刀鍛冶の祖といわれる。
 その出身からも彫り物を得意とし、その彫り物も古刀期には見られない「昇り竜」「下り竜」、また以前から見られた題材でも特色が強く、信仰的要素よりも装飾的要素を多分に含む。
 短刀を得意とし、これに一流の刀身彫刻を施し斬新な作品を残している。
 彼の作中で刀(ただし太刀銘)で現存しているのは、重要文化財に指定されている一振りのみである。姿はあまりよくないが、大磨上無銘のものに倣ったからであるといわれている。裏銘に「他江不可渡」とあるところを見ても近親者に与えたものであり、愛着の深かったものであることが偲ばれる。
 銘は「城州埋忠作」「城州埋忠明壽作」「山城國西陣住人埋忠明壽」「埋忠明壽作」。
 寛永八年没、享年七十四歳。
 
 余談ながら、明寿は金工家としての技量も群を抜き、真鍮・鉄・銅などの材料を用い、さらに色がねを組み合わせることで平象嵌を施した鍔が残っているそうである。
 
 この時期に彫り物を得意とした三派が出そろっている。埋忠率いる埋忠彫りの一派のほかに、堀川国広一派の堀川彫り、越前康継一派の越前彫りである。