月下に杯を重ね

日本刀メインの解説サイト?
各項目について、新しい情報を入手するたびに加筆修正し、前に出します。

棍棒とメイスはなにが違うのか?

2005-11-27 01:49:11 | コラム
 メイスというとD&Dでクレリックをやった人間には、忘れられない武器でしょう。
 というか、メイスくらいしか装備する武器がなかったからなんですがね。
 相手を撲殺する棒状の武器であるメイスですが、棍棒とどう違うのか疑問に思ったことはありませんか?
 私はあります。
 そんなわけで、今回は棍棒とメイスの区分けの話をしましょう。
 もっとも、これは私が知っている説であり、諸説色々あると思いますので、知っている方は教えていただけるとありがたいですね。

 棍棒もメイスも殺傷力をあげるために様々な形状を工夫しており、見た目状の違いで分けることはほとんど不可能です。
 では、いかにして区分けをするか?
 それはずばり素材です。
 棍棒は木材の単一性素材のもの。
 メイスは、木材以外の素材を使った単一素材のもの、あるいは柄頭と柄を異なる素材の組み合わせ(木材を含む)で作ったものになります。
 初期のメイスは、木材の柄と石の柄頭という組み合わせであったようです。その出現は、古代メソポタミアや古代エジプトまで遡るということで、非常に起源の古い武器です。もっとも、その組み合わせでは石斧とナニが違うのかという気がしないでもないのですが……。

目つぶしの砂も武器?

2005-11-22 01:40:34 | コラム
 江戸時代、目明かし必携のものをあげてみましょうか。
 十手・捕縄・呼子笛・矢立・金子五両ほど・火打ち道具一式・同心発行の手札、そして目つぶしの砂なのですよ。
 江戸の目明かしは、手捕りが自慢で十手風を吹かせるのは野暮という風潮があったみたいで、十手を常時携帯しなかったともいわれているみたいですね(犯人捕縛の権利の証は、同心発行の手札で行われていました。これは、同心が自分の代行を命じるという証なわけで、これがないと犯人の逮捕行員が出来ないのですよ。十手があっても手札がないと商売が成立しないわけで……)。
 そんな時に使うのが、目つぶしの砂。
 えいっやっとくらわせておいて、ひるんだところ飛びついて組み伏せるという寸法ですよ。
 十手を使うのは野暮で、目つぶしをかますのは野暮じゃないっていう感覚は……まあ御上風を吹かせるよりは泥臭くないからいいやってことなんでしょうかねぇ。

村正の作った槍

2005-11-12 00:01:01 | コラム
 妖刀村正、徳川家にたたる太刀と言われる村正ですが、今回は槍についてです。
 時は天下分け目の関ヶ原の合戦。
 織田信長の甥織田長孝は、西軍の将戸田重政を討ち取りました。
 長孝は、重政を討ち取った名槍と首級を徳川家康に差し出し、検分に供していました。
 そのとき、事故が起きました。
 かの名槍が、家康の指を傷つけたのです。
 その名槍の作者が村正だと知った家康は、席を蹴立てて立ち去ったといいます。
 
 関ヶ原直後という最も政治情勢が不安定な時に、信長の甥に対して取った態度としては、究めて危険な行動でした。(注.)
 そんなリスクを忘れての行動に、村正に対する家康の嫌忌の念が現れているようで興味深いエピソードです。

注.
 関ヶ原の戦いでの家康のスタンスは、秀頼を傀儡にして政権を奪おうとした石田三成を討ち果たすといったものでした。
 大坂城には毛利輝元が入っており、もし毛利軍が秀頼を立てて出陣していたら、家康はおそらく進退窮まっていたでしょう。
 また、旧主筋の織田信長(表向きは同盟者でしたが、実質は家来待遇)の甥の面子をつぶすと言うことは今の主筋である秀頼(実力では家康が上であるのは周知の事実であったが……)に対する今後の態度もこのようになるのではないかと、世間に受け取られかねない事件だったのです。
  

政宗の指料は正宗か

2005-11-09 19:37:51 | コラム
 こんな話があります。
 江戸城中である大名が、
「陸奥守殿の御指料はさだめし正宗でござろうの」
と政宗に尋ねました。
 これを受けて政宗は、
「如何にも、正宗を帯刀いたしてござる」
と返しました。
 しかし、実際は正宗の脇差しではなかったのです。
 屋敷に戻った正宗は、さっそく倉の中から正宗の脇差しを探させましたがありません。
 そこでやむなく、正宗の太刀をすりあげて脇差しにしました。
 
 さて、この正宗。政宗が名付けて「振りわけ髪」。
 終戦までは伊達家に所蔵され、しかも「正宗」の二字銘が残る切った茎があったそうです。もっとも、その銘は偽物のようで、そんなわけで「振りわけ髪正宗」のほうもどうやら真作とは言えないようです。
  
 ところで、振りわけ髪の異名をとる脇差しは今一振りありまして、こちらは吉川家の所蔵となっているそうです。
 こちらは、太閤秀吉から吉川元春が拝領した物で、異名の名付け親は細川幽齋であったとか。
 この脇差しは、銘の茎こそ残っていませんが相州上位の作で正宗といわれても頷いてしまうような作であるとか。

 関連:正宗(相州正宗)

切れ味と業物位列

2005-11-07 22:44:43 | コラム
 日本刀の切れ味をランク付けするものに、業物位列があります。
 これは、「懐宝剣尺」「古今鍛冶備考」によってランクづけされた物で、切れ味上位の物から、最上大業物(14人)・大業物(84人)・良業物(210人)・業物(803人)の4段階に分けられます。
 ただし、これは切れ味の絶対的上下関係を示す物ではないようです。
 この位階の算定の基準は、最上大業物が10振りのうち8振りから9振りが大切れするもの、大業物はうち7振りから8振り、良業物がうち5振りから6振り、業物がうち2振りから4振りまでのものとなっています。
 つまり位階が上の物ほど、はずれが少なく大切れする物が多いというわけで、大切れする物の中での順位付けではないところがおもしろいところです。

 「懐宝剣尺」は、寛政9年(1797)に遠州浜松藩士柘植方理が須藤五太夫・山田朝右衛門の協力により著したもので、当時の一般武士の教書本として出版されました。
 そのためか、当時の武家が入手可能な新刀をおもとした代表刀工を載せている物に過ぎませんでした。
 その33年後の文政13年(1830)に山田朝右衛門吉睦が「古今鍛冶備考」全7巻を著し、「懐宝剣尺」における業物位列を追加再編しました。その刀工数は、実に1111人に及んでいます。
 代々斬首刑の執行にあたる山田家の経験を下に編纂されたこの二編の著作は、やはり世間に与える説得力が大きく当時から現代に至るまで刃味に関する貴重な資料となっているようです。
 当然ながら、文政13年(1830)より後の刀工については業物位列はありません。ゆえに、業物位列がないからといって、切れ味という点で凡工であるというわけではない点に十分注意してください。

 なお、各位列の著名刀工の簡単な表を載せておきましたので、そちらも参照ください。

業物表

日本の槍事情

2005-11-07 00:42:22 | コラム
 日本での槍の登場は、実はかなり遅く南北朝時代になります。
 私が知っている説は二説ありまして、一つは楠木正成が戦いに初めて用いたという説、もう一つが九州の菊池一族が合戦の際に竹竿に短刀を結んで(世に言う菊池槍の原型)闘ったという説です。
 これは、合戦の一つの形式としてゲリラ戦が登場したことと無関係ではないようです。
 これほどに簡便で優秀な武器は中々無く、以後の合戦では主戦武器の座に躍り出てきました。
 この槍の登場に呼応する形で、刀も従来の斬るためのものから、長い刀でなぎ払う面を重視したものへと変化していきました。

 戦国期になると長柄槍が登場します。
 俗に「剣は突く物、槍は叩く物」といわれるように、集団で相手に殴りかかる武器となりました。

ハンドガンとライフルの線引き

2005-11-06 08:11:41 | コラム
 ハンドガン(拳銃)とライフルの線引きは、何だろうと思ったことはありませんか?
 私はあんまり気にしたことがないんですが、最近読んだ本の中に書かれていたのを見ておもしろかったの書いておきます。
 アメリカの法律では、バレルの長さが16インチ未満をハンドガン、それ以上をライフルと決めているそうです。

 ちなみに、16インチという数字がどこから出てきたかというと、別に論理思考や討議が専門家の間で交わされたわけではなく、役人が16インチにしておこうと適当に決めたんだということ。
 この説は、「FBIの人から聞いた話」だと私の読んだ本には書いてあったので、信憑性についてはいまひとつ。
 小話としては、おもしろいでしょう?