月下に杯を重ね

日本刀メインの解説サイト?
各項目について、新しい情報を入手するたびに加筆修正し、前に出します。

雲次(うんじ)[初代]

2006-05-07 13:11:49 | 刀工
 文保年間、備前国宇甘の刀工。正和から建武にかけての作刀もあり。
 初代雲次は雲生雲重らとともに雲類(うんるい)と呼ばれる刀工の一人。雲類の祖と言われる雲生[初代]の子、あるいは弟とも言われる。雲生[二代]の兄とも言われるため、雲生[初代]の子と考える方が素直だろうか。
 正和・建武等の年紀のあるものもある。

 雲類は鎌倉末期から南北朝中期に活躍した刀工集団である。
 雲類は備前の刀工であるが、山城風が多分に加味された上に、隣国の備中国青江の作風にも似ている。
 このことを裏付けるように、一派が京において鍛刀しているとするされている古書も見つかっている。

 銘は「備前國住雲次」「雲次」、「備前國宇甘住雲次」。(「宇甘」は「うかん」と読む)


関連

 記載済み刀工 ア行

 記載済み刀工 目次

雲生[初代]

2006-05-07 13:10:17 | 刀工
 嘉元年間、備前の刀工。
 雲類(宇甘派)の祖。雲次[初代]雲生[二代]の父。また、雲重の祖父に当たる。
 銘は「備前國宇甘郷住人雲生作」「雲生」「備前國住雲生」。
 嘉元二年十月十五日の年紀で六十五歳と年齢を切ったものがある。
 
 備前国の刀工であるが、山城の風があるのが特徴。この特徴は、子の雲次[初代]雲生[二代]にも見られる。

 雲生[二代]は建武年間、雲生[三代]は永徳年間に作刀する。


関連

 記載済み刀工 ア行

 記載済み刀工 目次

三条宗近

2006-05-06 02:31:55 | 刀工
 宗近は一条天皇の御代(永延年間頃)に、京の三条に在住したと伝えられている。
 三条小鍛治・小鍛治と呼ばれて名高い。
 銘は「三条」「宗近」。同一人物説が有力である。
 なお「三条」銘で切るときは刀銘で切るという。これは名物「三日月宗近」でも確認できる(「三日月宗近:は「三条」銘である)。
 作刀には、太刀と腰刀の両方が存在する。

 なお、宗近の弟子には有國がいるが、粟田口有國とは全くの別人である。

 宗近を祖とし、京都三条に住し鍛刀した平安末期の鍛冶の作刀を総じて三条ものと呼称している。
 


 三日月宗近は天下五剣の一振り。
 三日月を信仰した山中鹿之助の愛刀との伝説もあるが、鹿之助レベルの武将に持ち得るものではない。
 豊臣秀吉の正妻であった高台院の遺物として秀忠に贈られ、徳川将軍家に伝来することとなる。


関連

 記載済み刀工 サ行
 記載済み刀工 マ行

 記載済み刀工 目次

越後守来金道(えちごのかみらいきんみち)

2006-05-04 12:31:55 | 刀工
 慶長年間、山城の国の鍛冶。
 兼道次男が来家を再興し、来金道を名乗る。
 和泉守受領とも言われるが、詳細は不明。
 越後守受領の誤りか、はたまた和泉守金道が早世し門人の金道が栄泉を貢献したものではないかと言われているが、真相は謎に包まれている。

関連

 記載済み刀工 ア行
 記載済み刀工 カ行
 記載済み刀工 ラ行

 記載済み刀工 目次

宗栄(そうえい)[三代]・右

2006-05-02 22:40:21 | 刀工
 元禄時代、播磨の刀工。
 岡山の池田家に仕えた。
 銘は「藤原右作」「播磨國鈴木五郎右衛門尉宗栄」「右五郎宗栄」。
 宝永五年二月二十七日に没する。
 大互の目乱荒沸つき、水田のごとく見えるものが多い。
 藩侯の命により左文字の刀を写したところ、その出来映えに感服した藩侯より「古の左文字、今の右文字」と賞され、以降右作と改めたと言われている。
 業物。


関連
 記載済み刀工 サ行

 記載済み刀工 目次