赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷📙📖 越中砺波郡「陽知郷」とは? ⇒ 五位庄の国学者「五十嵐篤好」の「郷庄考」と「源順」(ミナモトノシタゴウ)の『和名類聚抄』!!

2021-02-08 | 富山県高岡市







■「和名類聚抄」の「陽知郷」については富山県砺波郡で数ヵ所の比定地が在り、小矢部市の蟹谷郷や小矢部市の宮島郷等の候補が出ているが、「富山県神社誌」の高岡市柴野 「八幡社由緒」には、この神社は古代の「陽知郷」の中心神社で在ったと記載されている。
高岡市東五位小学校の敷地になっている土地を屋敷にしていた五位庄の十村役で国学者で在った「五十嵐篤」はその著書「郷庄考」で、この「陽知郷」は小矢部市の蟹谷郷だと記載している。
高岡市の西山にはいくつも「ヤチ」と呼ばれる地域が在り、確かにこの「八幡社」の建つ柴野地区も谷間の入口で在り、その奥には集落が在るが、赤丸浅井神社から花尾村に向けて入ると、そこも「谷内」と書いて「ヤチ」と呼ぶ。「ヤチ」とはアイヌ語で谷間を指すとも云うが、赤丸浅井神社から舞谷村にかけての谷間は「寺谷内」と呼ばれて嘗ては浅井神社48坊と云われた寺院が建ち並んでいたと云う。「陽知」=「谷内」なら該当地区はこの西山沿いに福光町迄の間に数ヵ所も遺されている。
果して本当の「陽知郷」はどれか分からない。
高岡市柴野村の「陽知郷」は位置的に「東大寺庄園 須加庄」に比定される位置に近い。
国吉郷24ケ村は古くは「越中吉岡庄」の内に含まれていたと伝わり、「寧楽遺文」には、桓武天皇の姪に当たる「五百位女王」がこの辺りに庄園を持っていたが、伯父の「佐良親王」が藤原種継の乱で犯人とされて憤死した後に、その庄園を東大寺に寄進した事が記載されている。佐賀野、岩坪、細池と言う地域には古くから「役所」や宿泊施設、寺社等が在り、「源平盛衰記」や「平家物語」でも有名な平家の武将「越中前司盛俊」が屋敷を構えて能登、越中を統治したと云う。(※「国吉小史」)又、鎌倉時代には「承久の乱」で戦功が在った越後の五十嵐氏にこの「国吉名」が与えられ、北条朝時と争いに成った事が「吾妻鏡」に載っている。
従って、この辺りは古い時代に相当の文化が発展していたものと見られる。
















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