赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🚃🚃 「あいのかぜ鉄道」の新駅「高岡やぶなみ駅」の命名は何を根拠にしているのか?

2021-02-01 | 富山県高岡市
●「高岡駅」と「西高岡駅」の間に設置される 「あいのかぜ鉄道」の新駅名が2017.2.15に「高岡やぶなみ駅」に決定した。

▼【あいのかぜ】;「越中」では古代から「東風」の事を「アユの風」と呼び、大伴家持は万葉集に『安由能加是アユノカゼ いたくし吹けば 湊には 白波高み』(※「巻十七 4006」)、「東風アユノカゼ いたく吹くらし奈古の海人アマの釣りする小舟漕ぎ隠る見ゆ」(※「巻十七 4017」)等と詠んで、「越俗語 東風を安由能加是アユノカゼと謂う」と註記している。この風は越中では年中吹くが、特に春と夏に多いとされる。この反対に「西風」は秋から春に吹いて来るらしい。
この風は内陸部では「涼しく快適な風」と捉えられるが、沿岸部では「白波を立てる強く荒い不快な風」を指している様で、この呼び名は氷見市では「北東の風」を指して「東風」と区別しており、小矢部川下流と砺波郡ではこれが転じて「間の風 アイノカゼ」と呼び、北と東の間⇒「北東の風」を呼び習わしている。



■「高岡やぶなみ駅」の名前は、アンケートで決まった事になっているが、「万葉集」の「やぶなみの里」から取ったと言う。
確かに、この付近に想定される「東大寺庄園杵名蛭庄」には「荊原里」と記載されて、「延喜式神名帳」には「ウバラノヤブナミ」と振りカナが 付いており、この神社が神名帳の神社と思われるが、「荊波神社」は「ウバラジンジャ」と呼ばれており、「ヤブナミ」とは何を根拠にしたものか?
この神社は現在、「ヤブナミジンジャ」とは呼ばれておらず、「ウバラジンジャ」と呼ばれている。












■高岡市の「万葉歴史館」はそのホームベージで、大伴家持の万葉集掲載の歌「巻18-4838」
『やぶなみの 里に宿借り 春雨はるさめに 隠こもりつつむと 妹いもに告げつや』
を紹介して
【荊波里(ヤブナミノサト);越中国礪波郡中の地名。『延喜式』の神名帳に記載されている「荊波神社 (※ウバラジンジャ)」のあった所であろうが所在地未詳。現在「荊波神社」と称する神社の所在地は富山県砺波市池原、西礪波郡福光町岩木、高岡市上北島などがある。このうち、神護景雲元年(767)の東大寺領「越中国礪波郡井山村墾田地図」の記載から、荊波の里は井山村近接の砺波市池原とする説が有力である。】と解説している。
一方、「やぶなみ駅」と決まったこの駅の式典には高岡市長も参列して華々しく発表されているが、一体、高岡市の意見はどちらなのか?
ある時には行政は「否定し」、ある時には「肯定する」。何故、学芸員も抱える高岡市は、意思統一できないのか? 虹色の発表で誤魔化し続ける行政の姿勢にも疑問を感じる。こんな時に、歴史的に色々な事に「監修してきた高岡市教育委員会」はどうして「黙秘」しているのか?
(※「高岡市400年記念事業誌」等は教育委員会の監修で、「赤丸村に在った総持寺」と「国宝概説」で記載される部分を、意図的に改変して「石堤村に在った」として作為的に統一意思を発表している。)

■確かに砺波市庄川町に比定される「石粟村墾田地図」には「荊波往還道」の記載が在り、この「石粟村墾田地」は「伊加留伎野墾田地」の隣接地と記載されている。このことは殆どの歴史学者の認める所で在り、その点から「砺波市池原有力説」が在る。

《▲万葉歴史館が【神護景雲元年(767)の東大寺領「越中国礪波郡井山村墾田地図」の記載から、荊波の里は井山村近接の砺波市池原とする説が有力である。】と記載しているのは、【井山村墾田地図の記載から】では無く、【石粟庄図の記載から】とすべきだ。》



■しかし、この「荊波神社」がこの池原に在る神社かと言えば、この神社の祭神は「利波臣志留志」の先祖とされる「彦刺方別命 ヒコサシカタワケノミコト」で在り、延喜式神名帳掲載の神社の祭神が「人皇初代神武天皇」以前の「神代」の人物を祭神としており、砺波郡の延喜式内社は「国弊小社」で在り「官社」で在る。(※「六国史」参照)

■同じ延喜式内社の「二上射水神社」は「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」を祭神とし、「赤丸浅井神社」は皇室の最高神「高皇産霊神」を祭神としている。何れも皇室の先祖神に位置付けられている神々を祭神としており、「利波臣志留志」は東大寺大仏造営の為に米五千石を寄進して国司待遇の「員外介」に就任しているが、扱いとしては一地方官で在り、皇室の先祖神となる人物では無い。当時の官職では殿上人の中では最低の「五位」で、装束でも「足袋」等も許されない裸足で在り、これに対して朝廷から「国弊」を捧げられるとはとても思われない。砺波郡の延喜式内社は何れも「国弊小社」で在り、国の官社に列せられている。(※「有職故実」参照)
■「延喜式神名帳」:延長5年(927年)制定の『 延喜式』の巻九・十に記載される当時の「官社」とされていた全国の神社の一覧。

●「越中砺波郡 七社」(※国幣小社は国司から幣帛を受ける国幣社)
・高瀬神社 タカセノ 国幣小社
(富山県南砺市高瀬 越中国一宮)
・長岡神社 ナカヲカノ 国幣小社
・林神社 ハヤシノ 国幣小社
・荊波神社 ウハラノ ヤフナミ 国幣小社
・比売神社 ヒメノ 国幣小社
・雄神神社 ヲカミノ 国幣小社
・浅井神社 アサヰノ 国幣小社
(富山県高岡市福岡町赤丸)
(※越中にはこの他に、射水郡十三社、婦負郡七社、新川郡七社が在る。)
(※「延喜式」皇典講究所、全国神職会 校訂 国立国会図書館近代デジタルライブラリー)



■高岡市福田の「荊波神社 ウハラジンジャ」は祭神は「十禅師」とされているが、元々は両部神道ではその権現の「地蔵菩薩」で在り、それは「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」と同体で在る。
東大寺庄園の中に「杵名蛭庄 キナヒルショウ」と言う庄園が在り、「国立文化財機構」ではこの庄園は高岡市戸出辺りに比定しているが、実際にこの絵図を調べると「速川 ハヤカワ」や「杵名蛭川」、「石黒川」、「石黒上里」、「石黒中里」等の記載が在り、この内の「杵名蛭川」は現在の「千保川」と推定され、「速川」はその後、「ソウ川」、「早川」、「祖父川」として変化しており、小矢部川下流には現在も「高岡市早川」と云う地域も在る。この様に、この「杵名蛭庄図」と照合して見ると、この庄園はもっと下流の砺波と射水郡界に近い、高岡市立野から池田、東石堤、高田島辺りが該当する。古代には小矢部川は西山の麓を流れており、庄川の支流が赤丸浅井神社の前で合流していたと伝わる事から、かつての小矢部川の流れを知らない歴史学者が高岡市戸出辺りに比定した事も仕方の無い事だ。又、この「杵名蛭庄図」にはこの庄園の西側に隣接して「荊原里」と記載されており、この位置が福田の「荊波神社」が在る辺りに該当する様に見られる。従って、「延喜式神名帳」に「ウバラノヤブナミ」と記載されている事については、この神社が【「荊原里 ウバラノサト」に在る「荊波神社 ヤブナミノジンジャ」】で在る事になり、「延喜式神名帳」の記載と合致してくる。




■一方、「荊波神社」を主張している「砺波市池原」では、その根拠を「東大寺庄園図」に置き、砺波市庄川町の庄川沿いに位置したとされる「東大寺庄園伊加留伎野図」の隣接地に在ったと考えられる「石粟庄図」には「従荊波往還道」と記載されており、コレが庄川町に「荊波神社」が在ったとされる根拠とされる。これは「ヤブナミ」とも読めるが古くは「荊刑トケイ」と呼ばれた「むち打ちの刑罰」の「ト」と呼ばれ、従ってこれは「トナミ」と読める。
(※「荊」はトゲの在る細い木で、野バラやグミの木等を指した。古書には石川県と富山県境の砺波山には古くは一帯に「グミの木」が自生していたと言い、野バラは県内の各所に群生している。グミの木は大山町の河川敷に現在も自生している。)
「トナミ」と呼ぶなら、砺波市としては譲れない所だろうが、しかし、砺波市の「ウバラジンジャ」の祭神は古代に砺波郡の郡司をしていた「利波臣」の祖先神の「彦刺肩別命」で在り、福田の神社の祭神は二上射水神社と同じ「ニニギノミコト」で在り、「延喜式内社の祭神」が神代の天皇家の祖先を祀っている事から、延喜式内社の「ウバラジンジャ」は福田の神社が該当すると見られる。
では、何故、この新駅を「ウバラ駅」とせずに「ヤブナミ」としたのか?
従って、この駅は神社の名称を取り入れたなら「ウバラ」が正解だ。
延喜式内社「ウバラジンジャ」を取るか、訓読みの「ヤブナミ」を取って「延喜式内社」を名乗らないか、はた又、この神社の名称自体を「ヤブナミ神社」に改名するかしないと、この駅が「ヤブナミ」と呼ばれる根拠が無い。
(※それとも定説では「ウバラジンジャ」と呼ばれているが、これは【本当は「ウバラの里」に在る「ヤブナミ神社」の事だ】と神社由緒を変えるか?)
この辺は富山県と高岡市、あいのかぜ鉄道は分かった上で命名されたものか?









■こうして解明して見ると、現在、福田の「荊波神社」は「ウバラジンジャ」では無く、「ヤブナミジンジャ」と呼ぶべきで在り、現在の読み名を逆に変更すべきだ。
そうすれば、この新しい新駅に「やぶなみ駅」と命名しても違和感が無いが、万葉集の「やぶなみの里」にこじつけてこの駅を「やぶなみ駅」にする事は恐らく歴史学者の失笑を買う恐れが強い。アンケートで決めたと云うが、誰かが誘導した事は間違いなく、良く命名の意味も分からずに新駅を「やぶなみ駅」とした事は、富山県、高岡市、あいのかぜ鉄道の幹部諸氏の知的レベルを疑われる事にもなるだろう。


■正倉院に保管された「東大寺庄園図 杵名蛭キナヒル庄図」には、具体的な河川や「里」が記載されており、実際に地理的に検討すると、この中の「杵名蛭川」は「千保川」に該当し、「速川」は中世の古図には「ソフ川」と成り現在は「祖父川」と名前が変化している。この祖父川の下流には「延喜式内社速川神社」が在り、この辺りは「高岡市早川」の地名で在る。

又、「荊原里 ウバラノサト」の辺りには「延喜式神名帳」に「ウバラノヤブナミ」とフリカナが在る高岡市福田の「荊波神社」(※ヤブナミジンジャと呼ぶのが正しいと見られる。)が在り、この神社の祭神は「延喜式内社二上射水神社」の祭神と同じく「ニニギノミコト」で在る。又、古代には「小矢部川」が西山の麓を流れて赤丸浅井神社前で庄川支流と合流していたと「赤丸浅井神社」に伝わる事から、この二つの延喜式内社の位置を確認すると、この「杵名蛭庄」は【小矢部川沿いで砺波郡の射水郡との境界辺りになる「高岡市立野、池田、高田田島(旧赤丸村領)辺り」】がその立地場所と推定される。




■平成29年6月に「国立歴史民俗博物館」は、現地と絵図を照合して、この「杵名蛭庄」は「高岡市立野辺り」と比定して、「庄園データーベース」を修正して追記している。


▼「まとめ」
「東大寺庄園石粟庄図」の「荊波往還道」の記載と「荊波神社」とは別物だと思われる。「延喜式神名帳」の「巻十」の写真複製版の巻物現物を何とか入手して確認した所、「延喜式内社荊波神社」には小さく「ウバラノ」とフリカナがつけて在り、「ウバラのヤブナミジンジャ」と読ませている様だ。平成29年、「国立歴史民俗博物館」は「東大寺庄園杵名蛭庄図」に記載されている「速川」と高岡市早川の「延喜式内社速川神社」との関連等から、この「速川」は「ソウ川」が転じて現在の「祖父川」に成った可能性が在り、又、「杵名蛭庄図」に「荊原里」の記載が在る事から、この庄園を高岡市立野地区に比定して「庄園データー」に記載している。
この事から、高岡市の新駅「やぶなみ駅」が立地する場所は「ヤブナミ」と言う地域では無く、「ウバラ」と言う地域に在る事に成り、「福田荊波神社」を「ウバラジンジャ」では無く、「ヤブナミジンジャ」と読まないと整合性が取れない。本来、「荊波神社」は「ウバラジンジャ」では無く「ヤブナミジンジャ」と読むべきだが、誤って神名帳の「ウバラノ」のフリカナから「ウバラジンジャ」と読む習わしていたものと見られる。
又、これ等の事情と祭神名から「神名帳」記載の「延喜式内社」は、高岡市福田地区の「荊波神社」の事で在り、県内の他の「荊波神社」は越中利波郡の郡司「利波臣」の先祖神「彦刺肩別命 ヒコサシカタワケノミコト」を祀っている「利波臣」の氏神を祀る神社の様だ。
「延喜式神名帳」には朝廷が弊帛を納める「国弊大社」や、国司が弊帛を納める「国弊小社」が在り、「荊波神社」は「国弊小社」で在る事から、国司が天皇の代理として郡司の先祖神に弊帛を納める事は考えられない。

▼因に、「延喜式内社赤丸浅井神社」にも「アサイノ」とフリカナが付いているが、浅井神社が建つ場所は「浅井谷」と言う地域で在った事から来ている。その他の神社のフリカナには「ノ」と地域を示す記載は無い。



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