赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴 📃 伊勢の「度合神道」に記録される「国造本紀」と越中(※高志国)の古代氏族。⇒皇室、伊勢神宮と高志国の菅笠文化!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「延喜式神名帳」と[度合延経]の「神名帳考証」に見える「延喜式内社赤丸浅井神社」と
「先代旧事本紀」(※1673年、寛文13年/延宝元年、度合延佳 著)の「国造本紀」の記載!



■「延喜式神名帳」記載の「越中」の延喜式内社。


■「神名帳考証」(※度合延経)記載の「延喜式内社赤丸浅井神社」




■江戸時代の学者・神官の「度合延経」は「神名帳考証」の中で滋賀県の琵琶湖周辺に祀られる矢合神社が「八河江比売」を祀っている事から、この「浅井」は琵琶湖周辺に繁栄した近江の浅井氏との関連を仄めかしている。一方、古代姓氏研究の宝賀氏の関係されている古代氏族研究会の発表の中に【・物部宿祢(浅井-近江国浅井郡人、この同族は藤原姓あるいは橘姓と称するもの多く、本姓は物部とみられるが不明点も多い。脇坂-同州浅井郡脇坂庄より起る、武家華族。大野木、三田村、赤尾、田屋、礒谷、今木、山本-近江の浅井一族。奥村-尾張人で赤尾同族。小堀-近江国坂田郡小堀村より起る。川瀬-近江国犬上郡人。なお、浅井家臣の八田、岩橋、岩田、岩坪、脇坂、中島、浅井、木村の諸氏は、祭祀関係からみて同族だった可能性がある)、物部浄志朝臣、中原朝臣(物部宿祢改姓)。】と記載されており、近江浅井氏は物部氏とされている。高岡市の東海老坂には「延喜式内社物部神社」が在り、物部氏族菅家党の末裔の加賀前田家はこの物部神社を金沢に勘請して、氷見の阿尾城に在った神明社と併せて金沢市高岡町に「尾山神社」として祀っている。
又、この記載の物部氏についての記載の中に「岩坪」や「中島」、「赤尾」と言う氏族名が見られる。高岡市の国吉校下には「岩坪」と云う地域が在り、「国吉小史」等でも古くから栄えた集落らしく、岩坪の集落の中に古い「舘跡」とされる場所が今も残されている。又、赤丸村には「赤尾」と言う一族が在り、国吉村には古くからの名家とされる「中島庄官家」が残されている。更に、国吉から石堤、赤丸村にかけては数多くの「中島家」がある。古書には「浅井とは浅井神社在ればなり」と記載されており、延喜式神名帳には「アサイノ アサイジンジャ 」とフリカナが付けられている。と云う事からすると、古代には赤丸清水山の麓の谷間に「浅井一族」が住み、或いは「浅井」と言う地名で在ったと見られる。赤丸浅井城城主中山氏の末裔である性宗寺住職に拠ると、「元々、浅井神社がある浅井谷の入口に木の大きな柱を二本建てて、自然の神を祀ったのが始めで在り、それが後に「鳥居」になった」と説明されている。古い「赤丸浅井神社の鳥居」は二本の柱を支える支え木が付けられており、コレが元々の両部神道の鳥居で在ったと云う。浅井神社は「元正天皇二宮創建」と伝わるが、実際にはそれ以前の古い時代から在った神社であると「浅井神社由緒」は伝えている。

■又、「赤丸浅井城」を居城とした「越中石黒氏」はその系図では【越中石黒氏は元々は藤原氏で在ったがその後、加賀の林氏(藤原氏)と縁組して、更に越中の古代氏族の「利波臣」の名跡を継いだ】事が系図から読み取れる。
「利波臣」は系図からすると「蘇我氏」の家系の「射水臣同族」とされたり、「古事記」では「高志利波臣」の末裔とされたりしてい
伊勢神宮外宮の豊受皇太神宮の神官「度合延佳」の著作「先代旧事本紀」の「国造本紀」では、「射水臣」の祖は「蘇我氏」とされている。
【※伊弥頭国造 イミズノクニツコ⇒志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に宗我同祖の建内足尼の孫の大河音足尼を国造に定める】(※足尼=宿弥)

又、「高志国造 コシノクニツコ」については「屋主田心命の三世孫市入命」を祖とすると云う。「利波臣」は「古事記」では「高志利波臣」の子孫とされているが、「国造本紀」では全く別の氏族を祖とすると云う。
★「彦屋主田心命 ヒコヤヌシタココロノミコト」は「北陸道将軍大彦命の子」・「彦背立大稲輿命の子」。「伊賀臣」、「阿閉間人臣」、「道公」等の祖。
⇒越中で「彦屋主田心命」を祭神とする神社
・道神社 富山県射水市作道1846
・中川熊野神社 富山県高岡市中川本町7-3











■「国造本紀」には「高志深江臣」が記載されている。
現在、大阪市深江の笠縫村に大和国から移り住んだ氏族が在り、この氏族は「天皇祭祀」や伊勢神宮の「式年遷宮」等で使用される「菅の御笠」を縫う事ができる一族で在り、以前は菅の生産も行っていたが、近年は菅の生産は富山県高岡市福岡町一帯でしか生産されず「無形重要文化財」にも指定されており、一帯で生産された「菅」が大阪市の深江に送られてそこで菅笠に縫製して皇室や伊勢神宮に奉納されている。
「高志国」に「高志深江臣」が古代氏族として存在した事から、元々は菅笠は「高志国」から奉納されていたものだろうか?
大阪市東成区深江の「深江稲荷神社」(大阪市 東成区深江南)には、「深江は 笠縫氏の居住地で大和の笠縫邑から移住してきた」と伝えられる。



■元々は「高志国」で在った福井県からは「継体天皇」も輩出している事から、古代から「高志国」と天皇家、伊勢神道には深い繋がりが在ったものだうか?
越中の菅笠は「伊勢国から越中五位庄に移り住んだ大野源作」等が伝えたと言われるが、「菅」は古くから北陸の湖沼や河川敷に自生していた事から、「菅笠」の生産はもっと古い時代から生産されていたものではないだろうか?

▼「大野源作」の子孫の「大野次平」は加賀藩時代に五位庄赤丸村の小矢部川河川敷に移住して「向野新村」を開拓し、その地域は「次平島」と呼ばれ、向野新村に残るその子孫は25代目で在ると言う。

🔴🔷🔸「寛永15年」の刀剣鑑定書に見える越中の「宇多刀工」・「佐伯則重・郷義弘」

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「越中五位庄赤丸村領三日市」に、大和国宇陀郡の古代刀工「天国 アマクニ」を祖とする「宇多刀工」の一つの「宇多国光」が移り住んで、数多くの「宇多刀工団」が繁栄した。



■「越中宇多刀工初代宇多国光の刀剣」










■「宇多刀工」は大和国宇陀郡に「天国アマクニ」を祖とする刀工群の中で「宇多国光」が越中吉岡庄赤丸村領三日市(※後に五位庄)に移り住み、赤丸城ケ平山の麓の「鍛治屋町島」に工房を構えたとされる。
大和国宇陀郡には神武天皇が大和へ入る時に案内したとされる「やたがらす」を祀る「八咫烏神社」が在り、この宇陀郡には「天叢雲剣」を鍛えたとされる伝説の刀工「天国」を祖とする刀工群が栄えたとされる。後醍醐天皇はこの神社を崇敬されて、南朝の必勝祈願をされたとも伝わる。この刀工群から出た「宇多国光」は、越中の後醍醐天皇の庄園「吉岡庄」に 移り住み工房を構えたとされる。 その子孫は越中全体に拡がり、宇多国宗の系統は現在の富山市の「新川郡太田保」に住み数代を重ねたとされる。

又、同じ南北朝時代の越中にはこの他にも刀工「正宗」の門下の「佐伯則重」・「郷義弘」の一門が富山市五福に工房を構えたとされる。「郷義弘」は殆ど銘を刻まなかった為に正真の「郷義弘」は幻の刀とされる。しかし、江戸時代初期には「郷義弘」の存在が確認されていた様で、今回、偶然に入手した4冊の江戸初期の「刀剣鑑定書」には「宇多」と共に「郷」の押型等も記載されている。














■宇多刀工の鎮守社「槌の宮」は五位庄赤丸村から高岡市街地の総持寺前に動いた。(※「富山県神社誌」)










🔴「東京大学資料編纂所データーベース」に見られる『越中吉岡庄』~『越中五位庄』!! (富山県高岡市)

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸













■元々は藤原摂関家長者「藤原頼長」の庄園で在った「越中吉岡庄」(高岡市福岡町赤丸の「延喜式内社赤丸浅井神社」を郷社とする。)は、「保元の乱」で勝った「後白河上皇」の「後院領」と成り、後白河上皇はこの庄園を自らが創建した蓮華王院三十三間堂に寄進された。この庄園は南北朝時代末に後醍醐天皇の第八皇子が赤丸浅井城に入られた時に「五位庄」に改名された。(※「宝永誌」)
室町幕府第三代将軍「足利義満」は南朝の衰退後に幕府直轄地として、越中を守護畠山満家に治めさせて、この「五位庄」を自らが創建した「相国寺」(※搭頭寺院舎利殿金閣寺)に寄進した。
次いで、第四代将軍「足利義持」[在任期間;応永元年(1394年)~ 応永30年(1423年)]はこの庄園「五位庄」の半分を足利家菩提寺の「等持院」に寄進した。
【※半分は「相国寺」の庄園として残している。⇒「鹿苑院蔭涼軒日禄」長禄3年(1459年)】
その後、この庄園は「等持院」と「等持寺」の庄園と成り、寛正元年の書状では両寺が併記されている。

◎【吉岡庄】正応3年8月(1290年)
[※弘安の後、永仁の前]
★蓮華王院領越中吉岡庄の場合は、「蓮華王院から官への役夫、工米を免ぜられた」とする「地頭沙弥迎蓮」(相良頼俊)の書状。






(注)「吉岡庄」に「新川郡」とある注記は「利波郡」の誤り!
(※「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」を参照)

◎【五位庄】
★応永22年(1415年)⇒「足利義持」が「等持院」へ五位庄の収穫の半分を寄進した。
★長禄3年(1459年)「相国寺」の年貢が納められないので直務したい旨、申し入れた。 
★寛正元年(1460年)「等持院」、「等持寺」への年貢が納められないので直務したい旨申し入れたが連絡がない。







■【沙弥迎蓮】
相良氏は鎌倉幕府の源頼朝の命を受け、遠江国榛原郡相良庄(静岡県牧ノ原市相良)から熊本県に在った「人吉庄」に来て地頭になった。建久9年12月、肥後国球磨郡人吉庄に下向し人吉城に拠る。後に肥後人吉藩主相良家(2万2100石)となる。
「相良頼俊」(生年不詳、延慶4年1月25日(1311年2月14日)死去)は、鎌倉時代中~後期の武将で相良氏の第3代当主。(相良長頼の三男。通称は相良六郎。)
当初は大村の佐牟田に住み「佐牟田六郎」と称した。寛元4年(1246年)3月5日、父の長頼から(熊本県)「人吉庄」の南方にある「経徳名」外を、また建長3年(1251年)3月22日に「成恒庄」を譲り受け、建長6年(1254年)には兄の頼親より家督を譲られ当主となる。
その後、正嘉元年(1257年)9月14日に「成恒庄」の、その二十日後には「刁岡(とらおか)名」の地頭職を安堵され、同年、剃髪し「六郎法師沙弥迎蓮」と号す。
蒙古が襲来した「元寇」の時の、文永11年(1274年)の「文永の役」、そして弘安4年(1281年)の「弘安の役」では、「菊池武房」と共に蒙古軍と戦って武功を挙げ、弘安10年(1287年)、家督を子の「相良長氏」に譲り隠居、延慶4年(1311年)に死去。法名は「迎蓮」。
「元寇」の後には、越中の「蓮華王院領越中吉岡庄」の地頭をしていたと見られる。

🔴【加賀藩の圧政】 地域の人達の記憶に残る「加賀藩」の北陸の統治思想と「血」で購われた地域の占領政策!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越前占領」、「能登荒山」・「石動山」の合戦、「能登末森の戦い」での地域の民衆の虐殺の記録。

■「加賀藩史稿 七巻」(※前田直行著 明治32年)には加賀藩の歴代当主や家臣の履歴、役職等について詳細が記されている。








■その中には「公租の多くは越中に頼り、能登は公村とした為に、越中は家臣達に知行された」事が記載される。
越中の西部→殊に小矢部川西部の守山~小矢部市にかけては基本の4公6民の税制からかけ離れた60%~75%もの酷税をかけて搾り取り、能登は公領として搾取したと云う。能登では加賀藩士が貧しい農民を奴隷化して金沢等で遊郭等で働かせて終身奴隷化した者迄出ていたと云う。越中では酷税を払いきれずに小矢部川には多くの遺体が流れ着き、農民は葬儀の費用を恐れて遺体を下流に押し流したと言う。越中の河川近くには現在も多くの石仏が残る。

●加賀藩の治世には「赤丸村」は長九郎左衞門、前田典膳等に知行された。


●高岡市頭川村に残る「加賀藩 三千石 前田監持」の「年貢皆済目録」
(※年貢の受取完了確認状)




■「加賀藩の税制」では越中、能登には過酷な税制を課して被占領地として隷属させた。能登の「能登島」・越中の「五箇山」は罪人の流罪地とされ、「五箇山」では秘かに床下に尿を撒いて火薬の「煙硝」を生産させていた。
特に「能登末森城の戦い」で佐々成政軍に属した越中国の小矢部川河西地域には、報復として幕末に至る迄『75%』もの酷税をかけて搾り取り、農民の大半を農奴化して「頭振り」と云う無産の百姓に落として、赤丸村の農民は高岡市和田村の開発の為に移住させている。和田村を開発した「和田佐助」も貧困に喘ぐ百姓を庇って、「隠し田」の罪で「磔」の極刑にされた。現在も高岡市和田町では町を挙げて「和田佐助」の慰霊祭が行われている。
一方、佐々軍や五位庄の民衆をを裏切り、佐々軍を山中へ誘導して前田軍に味方した「五位庄沢川村」の「田畑兵衛」には「40%」の優遇税率をかけて、加賀藩の庄屋に当たる「十村役」の束ねや山廻り役に任じて優遇している。
(※「城端別院文書」富山県立公文書館、「加能越三箇国高物成帳」金沢市立玉川図書館)



■石動山の攻撃の様子を記載した「北国太平記」と「荒山合戦記」、「末森合戦」に見られる「力」と「血」の占領政策。



「荒山合戦記」





「北国太平記」




「末森合戦」


■上杉謙信の石動山の攻撃よりも大きな被害を出した前田利家の石動山攻撃は残忍を極め、全山の僧や婦女子の惨殺で、その山々の谷川は紅の大河と化したと云う。前田利家は殺害した民衆の首一千人余りを石動山の山門に吊るして晒した。天正10年、前田利家は柴田勝家や丹羽長秀の応援を受けて、能登守護として長く君臨してきた能登畠山氏の遺臣の遊佐、温井、三宅等と戦った。石動山に逃げ込んだ畠山遺臣を絶滅させる為に、「子供や乞食迄も民衆で寺の内に居る者は全て殺害」したとこれ等の戦記に記載されている。その上で、全山に火をかけて徹底的に破壊し尽くした。
この状況はこの「北国太平記」や「荒山合戦記」により長く言い伝えられた。前田利家は打ち取った敵の首を腰にブラ下げた肖像を絵描かせて、家臣に床の間に飾らせていたと言う。福井県では、一揆の農民を女子供の区別無く、草の根を分けて捜し出して12000人余りを「磔」、「釜茹で」、「火炙り」で全員を虐殺した。福井県の「味真野史跡保存会」にはこの様子を書き記した「屋根瓦」が現在も保存されており、「後世の為に書き記した」と書かれており、又、佐々成政と争った「末森合戦」では、砺波山を越えて侵入した前田軍は小矢部市の蓮沼の大寺に逃れていた婦女子、子供も含む民衆300人余りを全員、虐殺して村々に火をかけて民間人を殺害している。

(※参考ー古書に見られる絵図)



🔘【赤丸城ケ平古墳群出土】の【頭椎カブツチの太刀】⇒現代に伝わる神世の象徴!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「頭椎の太刀」のレプリカ










■実際の「頭椎の太刀」⇒「赤丸城ケ平古墳群出土」の「頭椎の太刀」には「銀象嵌」がハッキリと残る。他の発掘事例では「金装銀象嵌の頭椎の太刀」が有り、この発掘された太刀の一部は「金銀が頭と束に施された金銀装の太刀」であった可能性が大きい。(※科学検査結果は不明)





■「東京国立博物館」で展示されています!!


■「頭椎の太刀」については、「古事記」や「日本書紀」の「天孫降臨」や「大和国神武天皇の蝦夷との戦さ」の記述にも表れている。この太刀は「大刀」と記載され、実際に発掘されたものは、2.7m~3.2mの大きさであり、正に「大刀」である。中国では古代の戦争の時に皇帝は「鍠」(※マサカリ)と云う斧を掲げた。これは皇帝の権力を示すもので、時にはこれを叩いて太鼓変わりにした為に、皇帝が軍隊を召集する時にこの「鍠」を掲げたと云う。恐らく、副葬品として日本国内で発掘されたものは、この「軍隊の権威」を示すものとして指揮者が掲げたものと見られる。この様な巨大な刀は軍隊の権威の象徴、旗標として使用されたと見られる。

■「古事記 上巻」の「天孫降臨」の段には、
【故爾詔天津日子番能迩ゝ芸命而、離天之石位、押分天之八重多那雲而、伊都能知和岐知和岐弖、於天浮橋宇岐士摩理、蘇理多ゝ斯弖、天降坐于竺紫日向之高千穂之久士布流多気
故爾天忍日命、天津久米命、二人、取負天之石靭、取佩頭椎之大刀、取持天之波士弓、手挾天之真鹿児矢、立御前而仕奉。故、其天忍日命、(此者大伴連等之祖。)天津久米命(此者久米直等之祖也。)】(※「古事記 祝詞」岩波書店版)とある。
⇒【故に「迩ゝ芸命而ニニギノミコト」に令を出して高天原の岩石の御座を離れ、幾重にもたなびく雲をかき分けて、威風堂々と道をかき分けかき分けて、天の浮き橋に降り立ちて、筑紫の高天原に降り立たれた。
故に「天忍日命」、「天津久米命」の二人、石でできた「靫」を背負って、[頭椎の大刀]を取り佩えて、「波士弓」を取り持ち、「真鹿児矢」を手挟み、御前に立ちて仕へ奉りき。】
(※「天忍日命」; 大伴氏の祖先とされる。「神狭日命」とも記載される。大伴氏と佐伯氏は祖先を同じくする同族とされて、長く「大伴氏」と「佐伯氏」は朝廷を守る軍隊として都(平城宮)の「大伴門」「佐伯門」を守ったとされる。この時に軍事種族としての「久米氏」はこの指揮を受けて戦ったと言われる。富山県には今も「大伴」「佐伯」と言う一族が残っている。)

■又、「日本書紀 巻三」の「神武天皇」には
【時我卒聞歌 倶拔其頭椎劒(クブツチノツルギ)一時殺虜 々無復ロ焦類者 皇軍 大悦 仰天而咲 因歌(うたよみ)之曰(いはく)】
⇒神武天皇は企んで蝦夷の捕虜に酒を飲ませて酔い潰れた所を一気に殺した。その時の記述として【時にわが兵は クブツチノツルギ抜いて 一時に捕虜を殺した その時に皇軍は大いに悦び 天を仰いで歌を詠んだ】今、久米部久米歌を歌ったあと、大いに笑うのはこの時からの習慣だと云う。(※「日本書紀」小学館版)


■「古事記 中巻」 の「神武天皇 四」にある「久米歌」には
【忍坂の大室屋に人多に来入り居り 人多に入る居りとも
みつみつし久米の子が 頭椎い石椎いもち 撃ちてしやまむ みつみつし久米の子らが 頭椎い石椎いもち 今撃たば宜し】
⇒忍坂の大きな土室に、人が数多く集まって入っている。どんなに人が多くても、勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の太刀でもって、撃ち取ってしまうぞ。勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の太刀でもって、今撃ったらよいぞ。

■これ等の歌から推測すると、朝廷の軍事種族の「久米部」は「頭椎の太刀」や柄頭に石椎の付いた「石椎の太刀」を持って蝦夷討伐の先頭に立っていたものと思われる。
しかし、これ等の太刀は誰でも所持していたものではなく、天皇の権威の代行者、即ち、天皇から軍権を授けられた者に限られたものと見られる。




🔴 🔨【宇多刀工】の故郷⇒ 「越中刀工 宇多」特別展の開催(2017.09.23~)(高岡市福岡歴史民俗資料館 高岡市福岡町下向田字畦谷内15 tel0766-64-5602)!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
































■越中には「宇多国光」・「郷義弘」・「佐伯則重」の刀工が鎌倉時代末期から南北朝頃をピークに栄えたが、皇室所縁の奈良県宇陀郡から「後醍醐天皇の庄園の越中吉岡庄(赤丸村領内)三日市」に移り住んだ「宇多国光」の系統の「宇多派」は「大和伝」と言われて江戸の初期迄続き、最も多くの作刀をした。 この刀は「古刀」の中でも「薄く黒みを帯びた玉鋼」を用いており、特徴的。これは北陸の「砂鉄」が色々の微量元素を含んでいる為と言われ、古刀は全て均質の玉鋼で作られていると言われ、刀鍛冶が高い技術を持っていたからだと言われる。これに対して、江戸期以降の「新刀」は優良な玉鋼が足りなく成った為に柔らかい和鉄を混ぜて折れにくくしている。

■2017年の特別展では、刀剣協会の方々の協力で、初代「宇多国光」他多数の宇多派の刀剣や、「金銘 郷義弘」、「佐伯則重」等や高岡市文化財の「宇多槍」も展示された。
又、越中吉岡庄土屋に鎌倉時代に移り住んだと云われる源頼朝の家臣団「小山朝光」の一族の「由緒」が初めて公開された。この古文書は歴代医師を勤めた福岡町土屋に住む旧家の「小山家」のもので、富山県立公文書館に保管されるもの。

■この刀工達は赤丸村の「赤丸城」の麓の「鍛冶屋町島」に工房を構えたと伝えられ、一帯には「赤丸城跡」、「城ケ平古墳群」や、現在高岡市関町に在る「総持寺跡」、「天景寺跡」、「槌の宮跡」や「越中宮極楽寺跡」、「下加茂社跡」等が在り、「赤丸浅井城」、「延喜式内社赤丸浅井神社」を中心施設とした皇室庄園「越中吉岡庄」の中心施設が建ち並んでいた。

★「五位庄用水沿い」には「高岡市西山歴史街道事業」で立てられた看板が立てられている。

🔴📖 加賀藩の記録【三壷聞書】⇒「森田柿園文庫」(※石川県立図書館蔵)には「14巻本」が、「石川図書館協会」からは「22巻本」が発行されている!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「三壷聞書」は「三壷記」とも言われ、「三個の壷に書き貯めたものを編纂した」と言われ、著者は加賀藩の宰領足軽山田四郎右衛門と伝えられ、何冊かの異本が在り、「森田本」に他の文献を加えて22巻本として編纂したものが「石川県立図書館協会」から昭和47年に発行されている。





■その中に、加賀藩士「石黒権平事」として、特にこの人物が参勤交代の途中で、前田利治の家臣の江守彦左衛門と云う若者に斬殺された事件が記されている。この事件は余程重大な事件で在ったと見られ歴代の藩主の記録に交えて記されている。この「石黒権平」に付いては、【「金沢市武蔵ケ辻」の語源は加賀藩士 「石黒権平」が元、、「むさしや庄兵衛」と名乗り「武蔵ケ辻」の棟梁で在ったからだと云う。】と記載されており、元々は「武蔵ケ辻」で商売をしていた商人で在ったと云う。






(※現代語訳は「平成29年3月 金沢城史料叢書28 三壷聞書」から引用)

■金沢市の繁華街に『武蔵ケ辻』がある。ここは、有名な近江町市場の向かい側の街で、昔、大火で焼けた跡地にバナナの燻製倉庫が建ち並んでいたが、昭和48年に再開発されて、街全体が『金沢武蔵ケ辻再開発ビル』として、名鉄スカイホテルと名鉄丸越百貨店を核として、現在価額で約380億円が投下された。ここには昔は、高峰譲吉の屋敷等が有り、広大な倉庫跡地を掘削すると、金沢城からの排水管(戸室石と言う石をくり貫いて繋いだもの)が沢山掘り出され、貴重な能登産の「亀甲石」と言う庭石や、沢山の「銭」がビッシリと詰まった大きな壺等が地中から発掘され、金沢市の教育委員会に持ち込まれた。


■金沢市の地誌に「金沢古跡史」と言う書物が在り、この「武蔵庄兵衛」とは「石黒氏」の仮の名で、京都の伏見から前田利家に着いて金沢に入り、利家の御用商人として仕えた者だと言う。




■【織田信長】は越中石黒氏を滅ぼし、越中に侵攻して家臣「佐々成政」に越中を知行し、佐々成政は家老の「佐々平左衛門」を越中石黒氏の居城の「木舟城城主」にしたが、その次には、「佐々平左衛門」の娘を妻にした「前野加賀守」を木舟城城主にしている。その子は後に「佐々」の姓を名乗っており、この子孫から通称「助さん」と呼ばれる水戸光圀の家臣で、「大日本史」の編纂にも関わった【佐々木助三郎】(※佐々宗淳[サッサムネキヨ])を輩出している。(※「佐々平左衛門系図」)

その「前野加賀守」の系図には、織田信長家臣の「九里氏」の養子になった人物についても記されている。「九里氏」の一族の「越前一乗谷 波着寺住職 空照」は後に「前田利家」に招聘されて「越中 高岡城」の地鎮祭を命ぜられて、その時に地名を「高岡」とする様に提案したと云う。(※「三壷聞書」)

🔽「九里氏」は「近江」の豪族で、「応仁の乱」の「船岡山合戦」で「九里備前守」が誅殺された事が「重修応仁別記」に記載される。この応仁の乱の記録には細川管領家に従った「畠山氏」、「長九郎左衛門」、「遊佐氏」等と共に、「越中石黒氏」の「石黒左近」の参戦が記載される。

















■「越中石黒氏」は姻戚筋の金沢の「林氏」等と共に「後鳥羽上皇」が起こした「承久の乱」で上皇側として戦い京都へ攻め登り、敢えなく上皇の翻意で謀反人とされる。その為、一部は越中に戻り、一部は越前迄来てそこで止まり越前朝倉氏の家臣になったと言う。石黒氏の居城「赤丸浅井城」が在った「越中吉岡庄」はその時には「後鳥羽上皇」の庄園の「越中吉岡庄」であった。上皇側は圧倒的な幕府軍に敗れて、石黒氏や林氏の一族は降参したと云う。この後には、幕府側に付いた「林氏」の分家筋の「冨樫氏」が代わって勢力を持ったと言う。
又、別の石黒氏の系統は、南北朝の争乱の時にな名古屋西区の「如意郷」に「如意城」を構えて「長谷川」と名を代えていた一族もおり、この一族は、織田信長、豊臣秀吉、前田利家に仕え、後に徳川家康に仕官している一族もいた。

「越中吉岡庄」




■平安時代の「後白河上皇」、鎌倉時代の「後鳥羽上皇」から南北朝時代の「後醍醐天皇」迄続いた「越中吉岡庄」(※南北朝末期に「五位庄」に改名)は、「延喜式内社赤丸浅井神社」(※富山県高岡市福岡町赤丸)を中心とする庄園で在った。





■東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進した「利波臣 トナミノオミ」は、朝鮮の新羅征伐の時に「神功皇后」に従った「武内宿弥」の末裔で、「越中石黒氏」の祖だとされる。




■「越中石黒系図」に拠れば、「源平盛衰記」に登場する「赤丸浅井城城主 石黒光景」は、「木舟城城主 石黒光弘」の父に当たる。







(※参考 石黒光景を石黒光弘の後裔とする「富山県西砺波郡紀要」)



「源平盛衰記」に記載される「木曽義仲」・「石黒氏」の進軍経路と「利波山合戦場」(※越中倶利伽羅谷)




■後に、この加賀藩に仕官した「武蔵氏」は「石黒」に復姓して、その当主の「石黒権平」が暴漢に襲われて亡くなった経緯もこの書物に詳しく書かれている。

又、「24巻本」には、「14巻本」には掲載されない【高岡瑞龍寺御造営の事】(※国宝)の記事が掲載されている。




🏯💢📕🐎 【越中国侍生害の事】⇒【信長公記】に記載される【木舟城】(※高岡市福岡町)の【越中石黒氏】の暗殺!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
◆「織田信長」の記録【信長公記】には、「越中国木舟城石黒左近」の一族を「丹羽長秀」が成敗した記録も載っている。又、越中の寺崎氏親子が自害させられた様子も生々しく記載される。


■越中へ進攻していた「上杉謙信」の死去に伴って、越中には「織田信長」の軍勢が配置された。高岡市の守山城城主「神保氏張」には「織田信長の妹」が嫁いだ。

■「木舟城」には石黒氏殺害の後に、織田信長陣営の「佐々成政」の家臣「佐々平左衛門」が配置された。
「佐々平左衛門」の娘婿の「前野加賀守」の子孫からは、「徳川光国」の家臣【助さん】(※「佐々木助三郎」)を輩出している。




■「木舟城」と「赤丸浅井城」の位置(※「加賀藩参勤交代道中絵図」)


■石黒氏の居城「越中木舟城図」(※「簑のしずく」)


■上杉謙信の占領から織田信長の占領の時代への推移

『上杉謙信の越中占領時代の家臣名簿』

●『上杉家家中名字尽 』に見られる上杉謙信占領時の越中・能登関係の家臣となった武将名と『寺島牛介に対する上杉謙信からの[五位庄安堵状](※金沢市寺島蔵人邸文書)』


■【上杉家家中名字尽】部分
*北条安芸守(北条高広)→(※神保氏張の義父→能登畠山氏の妻を謙信から与えられる)
*小島六郎左衛門尉 (小島職鎮)→(寺島一族)
*神保安芸守(神保氏張)(能登畠山氏から養子)→後に佐々成政に従う→徳川家康旗本
*遊佐左衛門尉(遊佐盛光)(越中守護代)
*石黒左近蔵人(石黒成綱)(木舟城城主)→後に織田信長により暗殺される。
*斎藤次郎右衛門尉(斎藤信利)
*寺崎民部左衛門尉(寺崎盛永)→後に織田信長に親子共に切腹を命ぜらる。
*小島甚介(小島国綱)(神保氏張の兄)→後に出家
*寺島牛介(寺島盛徳)→(※『上杉謙信五位庄安堵状』金沢市寺島蔵人邸文書)
*上条弥五郎(上条[畠山]政繁)
*直江大和守(直江景綱)
*長沢筑前守(長沢光国)
*平子若狭守(平子房長)
*井上肥後守
*長与一(長景連)→(能登の長谷部信連末裔)
*遊佐美作守(遊佐続光)(越中守護代)
*三宅備後守(三宅長盛)
*同 小三郎(三宅宗隆)
*温井備中守殿(温井景隆)
*平加賀守(平堯知)→(密かに上杉謙信に内通)
*西野隼人佑
*畠山大隅守
*同 将監
*下間侍従法橋坊(下間頼純)→(浄土真宗の坊官→武将)
*七里三河法橋坊(七里頼周)→(浄土真宗の坊官→武将)
*坪坂伯耆守
*藤丸新介(藤丸勝俊)
*瑞泉寺 井波町→(浄土真宗有力寺院。当初西本願寺派→東派)

⇒■富山県指定重要文化財「釈迦如来立像」は元赤丸村「川人山鞍馬寺」の本尊と伝わる。
*勝興寺 高岡市伏木→(浄土真宗有力寺院。西本願寺派)
⇒敷地の一画に「小島甚助」「寺島蔵人」の屋敷が在ったと言う。



■越中木舟城は代々石黒氏の居城であったが、上杉謙信に攻められ、次いで織田信長に攻められて、織田信長に臣従を約した木舟城の越中石黒氏は天正九年織田信長に呼び出しを受ける。






織田信長は家臣の惟住五郎左衛門(丹羽長秀)に命じて、佐和山城に呼び出し、石黒一族の殺害を命じ、それを知らない石黒一行は七月六日、木舟城を出発した。この下りを「信長公記」は短く以下の様に記す。
【七月六日、越中国木舟城主石黒左近、家老、石黒与左衛門・伊藤次右衛門・水巻釆女佐・一門三十騎ばかりにて上国。佐和山にて惟住五郎左衛門生害の儀申付けらるべきの処に、長浜迄参り、風をくり(いち早く様子を悟り)罷越さず。然る間長浜へ罷参じ、石黒左近町屋にこれあるを取籠め、屋の内にて歴々十七人生害候。惟住者も、二・三人討死候。 】と記す。
この時に木舟城にいた石黒氏左近の女(娘?)は神保氏張に与えられたと云う。加賀藩士冨田景周の著作「腱嚢余考 巻之八」には「而して信長公其の女を神保安藝守氏春に嫁せしめて、(此の時神保は越中守山の下古国府に移ると云ふ。)越中の守とす。」と記載されており、神保氏張が石黒氏殺害に何らかの役割を果たしていた事を窺わせる記述がある。
次いで、【七月十七日、越中の寺崎民部左衛門・子息喜六郎親子生害の儀仰付けられ候。】と有り、息子の喜六郎は未だ若干十七人歳で眉目・形尋常に美しく生立つ若衆であったが、最後の挨拶も哀れで、父親左衛門は「父親が先に行くのが当然」として腹をかっさばき、若党が介錯をした。その後、息子の喜六郎は父親の腹を切って流れる血を手に受けてそれを嘗めて「お供申す」と言って尋常に腹を切った。著者は「比類なき働き目も当てられぬ次第なり。」とその悲惨な状況を表現している。
次いで、天正十年三月十一日、越中守山城城主「神保氏張」が織田信長親子が信州に武田四郎を攻めたタイミングで反乱を起こし、柴田勝家、佐々成政、前田利家、不破彦三等から信長に「間もなく落城する旨」報告している。
天正十年六月一日、家臣の明智光秀は突如として反乱を起こし、織田信長を宿舎の本能寺に襲った。織田信長は火炎に紛れて自害し、その子の信忠はその急報を聞き、宿舎の妙覚寺を出たが既に信長討死と知り、信忠は 妙覚寺の縁側の板を剥がして火の中に投げ入れる様に命じて切腹して果てて、その遺骸を残さなかったと言う。その時に信忠に従って討死した家臣の中に「斉藤新五」や「石黒彦三郎」等の石黒氏同族(藤原一門)の名前も見受けられる。(※「佐々成政史料集」)

■守山城の神保氏張は能登畠山氏の子だったが、守山城の神保氏の養子となっていた。上杉謙信が七尾城を攻めて落城すると乗り込んだ上杉謙信は畠山氏の妻(神保氏張の母)を上杉謙信家臣の北条安藝守に与えた。この北条氏は上杉謙信の家臣で有りながら後には武田信玄に仕えたと言う人物で、神保氏張も織田信長の妹を妻としていたものの上杉謙信に敗れると上杉謙信の家臣になり、「上杉家家中名字尽」にも「石黒氏」や「寺崎氏」と共に掲載されている。さすがに怒った織田信長は妹を神保氏張と別れさせているが、この神保氏張は許されて佐々成政の配下となり、後には能登末森城で前田利家と戦っている。佐々成政が豊臣秀吉の命で九州の肥後に転封となった時には成政に付いて肥後に移ったが、成政が秀吉から切腹させられると、放浪して徳川家康の家臣となり、千葉に知行地を貰って、江戸に住み、徳川の旗本として待遇されたと云う。
越中の石黒氏は鎌倉時代の承久の乱の時に、後鳥羽上皇の味方として京都に攻め登り、乱が鎮圧された後に、一部は越中に戻ったが、一部は京都に残り、更にもう一団は越前迄戻ったが越前で定着して、後に織田信長と対立する越前朝倉氏の家臣になっている。近年、発見されたと言う「一乗記」の家臣名簿にも石黒氏が掲載されており、徳川の時代にも福井市内で村役として「石黒氏」の名前が見受けられる。(※「鳥見役越中石黒氏」、「一乗記」)
何度も織田信長を裏切った神保氏張は、信長の妹を妻として男子を設けている為か、再三に亘り許されて遂には徳川の旗本になっているのに比べて、越中の名門の石黒氏が敢えなく信長に暗殺されて一族がバラバラになっていったのは何故だったのか? 石黒氏の一族が織田信長と敵対した越前朝倉氏の家臣にも多く見られた為だろうか?



💠高岡市『衆徳山総持寺』で発見された「二基」の「仏舎利容器」⇒『空海』が唐から持ち帰った仏舎利か?

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「衆徳山総持寺」で発見された二基の未解明の「仏舎利容器」!!

■高岡駅南に在る「衆徳山総持寺」には、天皇家所縁の仏像とされる『国指定重要文化財木造千手観音座像』が安置されている。












■高岡市関町の「衆徳山総持寺」にはその顔の白毫と口の胎内に「奉納 仏舎利」、「仏舎利」の記名が在る。
近年、総持寺の永田龍祥師が寺内から二基の「仏舎利容器」を発見された。帝京大学の杉崎準教授に見て頂くと、この舎利容器自体は江戸時代に盛んに造られたと云う木製の「舎利容器」だが、数年前には薬師寺の塔の心柱の先端にも同じ形の「舎利容器」が発見されている。薬師寺の舎利容器自体も江戸時代のものらしいが、薬師寺の黄色の仏舎利は創建時代から伝わる「仏舎利」で、建て替えか修理の時に心柱の先端に埋められたものらしい。従って、「舎利容器」は比較的新しいが、中身は薬師寺伝来のものだと云う。
一方、発見された総持寺の「舎利容器」の中には一個には確かに三粒の仏舎利が入っており、もう一個には上下に一個、計二粒が納められている様だ。この内、一個は相当古く、一個は比較的に新しい。総持寺の千手観音像が伝わった河内金剛寺には「後醍醐天皇と東寺長者文勧が計五粒の仏舎利を施入した」と云う古文書が残されており、この「仏舎利」は金剛寺から伝わったものかも知れない。
総持寺にはもう一体、相当古い「薬師如来像」が伝わっており、この「舎利容器」がどの仏像の何処に納められていたものか?
科学的な調査で解るものだろうか? もし、この「仏舎利」が河内金剛寺から伝わった千手観音像に納められたもので有れば、この仏舎利は『空海』が唐から持ち帰り、東寺に保管されていた『空海』所縁の仏舎利と云う事になる。

🔴【京都清水寺】と【越中吉岡庄】 越中吉岡庄での【清水観音】の信仰⇒【赤丸清水寺観音像》・【柴野観音像】・【天景寺観音像】 !!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「清水寺図屏風」




■赤丸浅井神社の奥に「清水山」が有り、昔、その山頂に「清水寺(観音堂)」が有り、そこには現在も「京都清水寺形式」の独特の観音像の石仏が安置されている。後白河上皇の時代には京都の清水寺は後白河上皇の住まいの法住寺殿や三十三間堂の背後に立地しており、赤丸浅井城を中心とした「吉岡庄」が後白河上皇により蓮華王院領(京都府,後白河院御願寺,現在の三十三間堂)に寄進された事との関連性も大いに考えられる。

[※「越中吉岡庄」→後の「五位庄」は当時は「後院領」(※天皇を退いた上皇の所領の意)の「越中吉岡庄」と呼ばれていた。]

■【註】赤丸清水寺の千手観音像は西国25番霊場の播州清水寺の観音像を勧請したと伝わり、この寺は行基の開基で聖武天皇勅願所であり、赤丸の川人山鞍馬寺の創建と重なる事からこの観音像が京都の清水寺の本尊を勧請されたものと考えられていたのか? 伝承では赤丸清水寺の千手観音像は南北朝時代に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が勧請されたと伝わるが、もっと古い時代の後白河上皇の後院領の時代だったかも知れない。後白河上皇は篤く千手観音像を崇敬して、三十三間堂に1001体もの千手観音像を安置されている。
室町時代には赤丸村に在ったとされる高岡関町の「天景寺」の千手観音像は播州清水寺の観音像を勧請したものだが、この観音像石仏の台座には「西国25番はりまのしみづ」と彫られている。

■又、赤丸浅井城、赤丸清水寺の立地する西山の山並みに連なる倶利伽羅峠には著名な長楽寺が有った。この寺は、現在、「倶利伽羅不動尊」と呼ばれているが、「義経記」にも出てくる「手向け神社」を祀り、両部神道の時代は「長楽寺」と云った。この寺は真言宗で不動尊・観音像を祀っている。この西山の一帯にはこの他にも上加茂社、下加茂社等も有ったと伝わり、京都の著名な寺院等を勧請した事が判る。









■赤丸清水寺に勧請された千手観音は西国第25番札所 「御嶽山 播州清水寺」(天台宗) 〒673-1402 兵庫県加東市平木1194 の千手観音像と伝えられてきた。この寺は聖武天皇勅願所である。柴野城に寺嶋氏 が立山より移設したと伝わる千手観音像は第十六番 音羽山 清水寺(京都 清水寺)の千手観音像の写しである。しかし、観音像の形は何れも両手を頭上に合わせてかざした音羽山清水寺観音像と同じ形式である。第十六番 音羽山 清水寺は798年(延暦17年)坂上田村麻呂の創建と伝え北法相宗の本山である。

※「音羽山清水寺観音像」は日本の手を頭上で結び化仏を戴く独特の「清水寺方式の千住観音像」であり、「御嶽山 播州清水寺」の観音像にはその特徴が無く高岡関町の「天景寺」に安置される西国25番札所の「御嶽山 播州清水寺石仏」と合致する。従って、「赤丸清水寺石仏」と「柴野石仏」の形態が同じ事から、「赤丸清水寺石仏」は「第十六番 音羽山 清水寺」の千手観音像で有り、従来の伝承には誤りが見られる。「西国33か所霊場」には「清水寺」が16番京都清水寺と25番播磨清水寺の2か所が有り、混同されて伝えられたものと見られる。高岡の西国33か所霊場は昭和三年に設けられたらしいが、いずれの寺の石仏も相当古い事から何れかの寺院の石仏が各寺に配置されたものと見られる。







■京都清水寺近くの平家所縁の「長楽寺」には有名な安徳天皇肖像画を保存している。富山県と石川県境の倶利伽羅山(昔は砺波山と言った)にも両部神道の「長楽寺」が有り、「義経記」に出てくる「手向けの神」を祀った社が在る。





■倶利伽羅の長楽寺も元は源平の戦いで亡くなった平家を弔う寺で有ったが、加賀藩時代には加賀藩に奉仕する寺となったものと思われる。



🔴🔹【保元物語】 古文書に見られる富山県の皇室庄園「越中吉岡庄(赤丸村)」(※後の五位庄)!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■『延喜式内社赤丸浅井神社』を郷社として栄えた『越中吉岡庄』は『藤原摂関家長者藤原頼長』の庄園で在ったが、「保元の乱」で「平清盛」、「源義朝」の連合軍に敗れて、『崇徳上皇』は讃岐に流され、『藤原頼長』は首に矢を受けて死亡した。その後、『越中吉岡庄』は『後白河上皇』の「後院領」と呼ばれた庄園に成り、その後、後鳥羽上皇以降も後醍醐天皇迄、皇室庄園として伝領した。



「浅井城」、「川人山鞍馬寺」、「延喜式内社赤丸浅井神社」の絵図(※「石川県立図書館森田柿園文庫」)



























■「人車記」(※別名「兵範記」)に遺される貴重な記録。「陽明文庫陰影版」
(※『陽明文庫』は、京都市右京区宇多野上ノ谷町にある歴史資料保存施設。公家の名門で「五摂家」の筆頭である近衛家伝来の古文書。以下はその撮影されたもの。)

(※古書に「東京文理科大学所蔵版 兵範記」、「東京大学所蔵版 保元記」等が在る。)








■『保元記』(※「保元の乱」を記したもの。「東京帝国大学蔵版」)

💠◇【越中五位庄】と『足利義満』創建の「相国寺」(※塔頭寺院鹿苑寺金閣)!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●室町幕府第三代将軍「足利義満」の時代、「南北朝の合一」が成った明徳三年(1392年)には「相国寺堂供養」が行われ、その「供養記」には「越中守護畠山満家」と共に「遊佐」、「神保」、「井口」、「斉藤」等の越中諸将と見られる名前が列記されている。応永12年(1405年)には、「足利義満」が室の日野業子の追善供養として「相国寺」(※「塔頭寺院 鹿苑寺金閣」)に「越中五位庄」を寄進し、応永15年(1408年)には「足利義満」が死去した。「五位庄」の管理は「管領畠山満家」に預け置かれ、実務は「足利義満」の縁者の「政所代 越中蜷川氏 蜷川新右エ門親当」が当たっている。「足利義満」の母は越中蜷川氏(※富山市蜷川に蜷川城跡→最勝寺に墓所)の子孫、一族。
→「蜷川新右エ門」は連歌の宗祇の高弟で在り、「一休さん」にも登場している。
(※「富山県史 中世 」・「蜷川の郷土史」・「蜷川家文書」)
・名古屋市の大須観音の古文書に拠ると、「畠山満家」の三回忌は「赤丸村」から海岸の「六渡寺村」に動いたと見られる「総持寺」(※現在は高岡市関町、文書には「浜総持寺」)で舞楽等が演じられて盛大に行われたと言う。(※射水市松山学芸員発表)
▼【寺伝では、総持寺の千手観音像は六渡寺浜より上がった尊像であると伝わる。「足利義満」が五位庄を御料所とした応永九年頃に、総持寺は「国主」の命によって赤丸村から立ち退きを命ぜられたと「赤丸浅井神社」に伝わる。】

▼「越中絵図」(※「畠山文書」羽曳野資料叢書)

室町時代には「六渡寺村」は「五位の東庄」の「利波郡」に属していた。


■【畠山満家】
応永6年(1399年)の「守護大名大内義弘」が起こした「応永の乱」では父と共に敵将の「大内義弘」を討ち取る武功を挙げた。しかし、「三代将軍足利義満」から疎まれて一時期失脚した。父の没後は弟の満慶が家督を継承していたが、「4代将軍足利義持」の治世になると、満家が当主となって「河内・紀伊・越中3ヶ国」の守護となった。足利義持残さ政権では重きをなして、「応永17年(1410年)6月~応永19年(1412年)3月」、「応永28年(1421年)8月~永享元年(1429年)8月」は室町幕府管領を務めた。応永31年(1424年)には「伊勢守護」に補任、正長元年(1428年)の北畠満雅の反乱で土岐持頼に交替して同年には「山城守護」に補任されている。





■「金閣寺」は足利義満の法名「鹿苑院殿」と舎利殿「金閣」から「鹿苑寺金閣」⇒通称「金閣寺」と呼ばれ、「相国寺」の塔頭寺院である。

■その後、第四代将軍足利義持は「五位庄の半分」を足利家菩提寺の「等持院」に寄進したが、その後、「五位庄」は足利家菩提寺の「等持院」、「等持寺」の庄園に成っている。

■「東寺百合文書」(※京都の教王護国寺文書)に拠ると、室町時代には「五位庄」の範囲が氷見市の一部、高岡市の二上山の麓、高岡市佐野等の「五位庄の東部分」、「福野町野尻郷」迄の広範囲な庄園に拡大していた様だ。















🔷💧 「物部氏論考」⇒ 『越中』に残る物部氏族 (※『古代氏族系譜集成』より)

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■軍事氏族で天皇家と密接な「物部氏」と「神剣」の製作。
「大和国宇陀郡」から来たとされる「宇多刀工」が栄えた「越中吉岡庄」。
(※宇陀郡には神武天皇が入られたと云う。)
「越中吉岡庄」には出雲系の神「八河江比売」と皇室の最高神「正一位 高皇産霊神」を祀った「延喜式内社赤丸浅井神社」が鎮座している。


神武天皇が東征の時に、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった逸話は有名。
(※「日本書紀」)

■日本国の人皇初代神武天皇は、即位前には「神日本磐余彦尊」( カムヤマトイワレヒコノミコト)と云われた。磐余彦尊は東に緑の国がありそこを得たいと思われたが、既に「饒速日命」がそこに入っていた。磐余彦尊は幾度戦っても戦況は思わしくなかった。そこで、天照大御神は武甕槌神と相談して霊剣(布都御魂)を熊野の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手に進軍を再開したが、山路は険しく困難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏(ヤタガラス)を送り道案内とされた。 磐余彦は八咫烏に案内されて、莵田(宇多)の地に入った。磐余彦の前には八十梟帥(ヤソタケル)等の敵軍が充満して進路を阻む。磐余彦は高皇産霊尊が夢枕で指示した様に勝利を祈願した。遂に長髄彦との決戦となり苦戦する。そこへ鵄が現れて磐余彦の弓の先に止まり電撃の様な金色の光を発した為、長髄彦の軍は混乱し磐余彦に敗れた。そこで饒速日命は長髄彦を殺して磐余彦に降伏した。


【※「赤丸浅井神社」は神々を地上に遣わされた皇室の最高神「正一位 高皇産霊尊」を祭神とする。「赤丸浅井神社」を中心とする「越中吉岡庄」は藤原摂関家の長者「藤原頼長」の庄園であった。赤丸村領鍛治屋町島には「宇多国光」(※本国は大和。 宇陀郡より赤丸村鍛治屋町島に移住。古入道という。刀剣は「古宇多」と云う。) を祖とする「宇多派刀工」が工房を構え、南北朝から江戸時代迄栄えたと云う。「宇多刀工」や日本刀は刀鍛冶の祖の「天国アマノクニ」が「八咫烏神社」が鎮座する大和国宇陀郡の神泉で刀を鍛えた事が「日本刀の始まり」とされ、「刀剣の製作」は神事と密接な歴史を持っている。「大和国宇陀郡」と「吉岡庄」の繋がりは何か? 富山市の松倉郷を拠点とした「郷義弘」は宇多国光、正宗に教えを受けたと云う。】




■『古代氏族系譜集成』は国税局勤務の宝賀寿男氏が記された大著である。
加賀藩の「前田利家」が「物部神社」を崇敬し、「金沢尾山神社」は元、高岡市海老坂に在った「物部神社」を勘請した神社で、前田家の氏神として祀り、物部守屋の子孫、野見宿彌、菅原道真の子孫の物部氏であるとされる事から、「物部系図」に記載された事を要約して検討してみたい。

▼「加賀藩士松島家文書」に拠ると、「前田利家」は当初、「豊臣」を名乗り、次いで「源氏」を名乗り、続いて最後は「物部一族」の末裔で在る「菅原」を名乗ったと記されている。



■「物部氏族」は、神武天皇の前に大和に入った「饒速日命ニギハヤヒノミコト」の後裔である。神武東征時に「饒速日命」の子の「可美眞手命」が「長髓彦ナガスネヒコ」を誅殺して「神武天皇」に帰順したと云う。この功績で物部氏族は大和朝廷の初めから重きをなし、崇神天皇朝前後には幾人かの后妃を出す迄になる。「饒速日命」の系譜は『姓氏録』では「天神部」に収められる。
「物部氏族」ではその始祖「饒速日命」は「天押穂耳命アメノオシホノミコト」の子であると云う。物部系図に在る尾張氏族系譜では「天火明命」が「尾張氏族の祖」とされる。又、「饒速日命」の十四世孫からは「尾治連」と名乗り、「物部氏の祖先」とされる「宇摩志麻治命」はその一族で、十八世孫で在る。更に、この「宇摩志麻治命」の十一世孫には【物部鍛冶師連公】が記載されており「物部氏」が刀剣製作の始まりで在った事を窺わせている。

【※「古語拾遺」に物部氏の遠祖の逸話がある。
神武天皇が東征を行う年になって大伴氏の遠祖の「日臣命」(ヒノオミノミコト)は督将の元戎を率いて兇渠を斬り払い、命の功績に片を並べる者は無かった。物部氏の遠祖の饒速日命は敵を殺し輩を率いて官軍に帰順した。忠誠の効を殊に褒めて寵愛された。大和氏の遠祖の椎根津彦は皇船を迎え案内したので、香山の嶺に功績を表した。「賀茂縣主」(カモノアガタヌシ)の遠祖の八咫烏は宸駕を導いたので「菟田(ウタ)」の道に御璽を顕した。妖気は既に晴れてまた風塵も無く都を橿原に建てて宮室を作った。】

■「饒速日命」は「天忍穂耳命」の子で、「瓊々杵命ニニギノミコト」の兄弟で邪馬台の王家の祖「天火明命」の近い親族であったと考える。谷川健一氏は「物部氏」と「少彦名神」を祖とする「鳥取部」との近縁性や「物部・鳥取部」共に優れた鍛冶技術を持つと指摘する。「少彦名神」が出雲の「大穴持命オオアナムジノミコト」(※大国主命)の国造りに協力したと「紀記」等に見え、この兄弟が出雲で活動したと『出雲国風土記』に見える。「熊野大神」を奉斎した「出雲国造」も同じ「天目一箇命」の後裔ではないか。「天目一箇命」(※天太玉命)は或いは兄弟とされた「少彦名神」かも知れないし、「山代国造」の祖の「伊岐志邇保命」は筑紫の「大己貴命」の子で「天津彦根命」にあたるのか?

■「饒速日命」は畿内の河内国河内郡の地に入り、後に大和国鳥見白庭山(磯城郡)に遷ったと云う。その子「可美眞手命」とその正統は大和国十市(磯城)郡穂積里(現、田原本町大字保津)に居て穂積姓となり、「孝元天皇」~「成務天皇」期に后妃を輩出した。「穂」は稲の穂にもみられるが鍛冶部族の「火(ホ)」にも通じる事から、「天忍穂耳命」や「天火明命」、「五十研丹穂命」という遠祖の名に使用される。「饒速日命」が大和入りした時に「天物部」を率いており、崇神朝頃に分岐した支族の「物部連」がその軍事・刑罰という職掌から次第に強大化し、履中天皇朝の「伊弗」、雄略天皇朝の「目」など大連の位につく者を輩出した為に「物部氏族」と呼ばれることになる。「物部」とは、鈴木真年氏が「品物ヲ作ル也」と記しており、『旧事本紀』の「天神本紀」には二田物部・当麻物部・芹田物部・鳥見物部・横田物部など二十五物部が記される。(この「物部」自体が物部氏族とは限らない)
物部連の本拠は物部守屋大連の頃は河内国渋川郡だが、初期以来、大和国山辺郡の穂積郷・石上郷(天理市中央部の前栽町から布留町にかけての一帯)が同様以上に重要な地であった。古式土師器とされる布留式土器を出した「布留遺跡」(天理市布留町・三島町等一帯)は、古墳時代までの複合遺跡であり、物部氏族に関係するものとみられ、その近隣に同氏族奉斎の「石上神宮」や一族の墳墓もある。「布留遺跡」よりも古い「唐古・鍵遺跡」は穂積郷に近く、ここが物部氏族初期の居地とみられる。(★「物部氏」の後衛に埴輪を考えた「土師氏」がいる。)

■「蘇我馬子」が編集したとされる「先代旧事紀」に拠ると、越中国新川郡の「大新川連ダイニイカワノムラジ」は「物部一族の祖」だとされている。









■「物部氏族」の出自は極めて難解で、その一族諸氏(阿刀連、津門首、物部依羅連など)の分布・性格、奉斎神(石上神宮を和邇氏族の物部首〔のちに布留宿禰姓〕と共に奉斎)や祖神の所伝(山代国造と共通の祖神を有する)から検討したが、遠祖の「天目一箇命」・「少彦名神」兄弟の母は、「海神族綿積豊玉彦命」の姉妹、「豊玉媛」(高比売)であり、「饒速日命」の母は「足浜目門比売命」とみられ、「足浜は葦浜」の意で「猿田彦神」(豊玉彦命の子)の姉妹ではないか?

近江国浅井郡に居を構えた物部姓守屋流と称した古代豪族浅井氏が在る。
[★赤丸浅井神社の祭神は「葦那陀迦神 (アシナダカノカミ )」⇒ 「大国主神」の妹。大国主神の孫の「国忍富神」と結婚して「速甕之多気佐波夜遅奴美神」(ハヤミカノタケサバヤジヌミノカミ)を生んだ。
【古事記】「葦那陀迦神」=八河江比賣 、八河江比売= 八河沼比賣(ヤカワヌナヒメ)]⇒物部氏との関係は不明だが、「神名帳考証」[出口(度会)延経著]に拠れば「浅井神社とは浅井の神在ればなり」と記され、行基の所縁の琵琶湖近くの「矢合神社」の祭神であるとしている。
北陸使(北陸道将軍)の「大彦命」は阿倍氏、東海使の「武渟川別命」は大彦命の息子でつまり阿倍氏、西道(山陽)使の「吉備津彦命」は吉備氏、丹波(山陰)使の「丹波道主命」は息長氏と、みんな海人系の有力豪族である。赤丸村の「浅井神社」を開いたとされる「行基」も百済系、高志国の高志氏、和邇氏、海神族とされる。⇒(※行基の墓誌に「本姓は高志氏」と記載されている。)
一方、「赤丸浅井城」を居城とした「越中石黒氏」の祖の「利波臣」は「古事記」では「高志利波臣」とされ、物部氏が妃を輩出したとされる「孝元天皇」を祖とするとされる。「延喜式内社赤丸浅井神社」はこの「浅井城」の守護神だったとされる。
(※「孝霊天皇」を祖とするとする系図もある。)

■「浅井神社由緒」に拠れば、「浅井神社」は第五代孝昭天皇の時に「八河江比売神」を祭神に祀って創建されたとされ、「浅井とは浅井神社在ればなり」と伝わり、物部氏族の近江国の浅井氏の信仰する「大国主命」の孫の妻の女神を祭神として創建されたと云う。神社の建つ場所は「浅井谷」と呼ばれ、「赤丸村」に成る前は「浅井」と呼ばれた地域で在ったと伝える古書も在る。「赤丸浅井城」は越中石黒氏が「赤丸浅井神社」を信仰して、「浅井神社」から「浅井城」と名付けたとされる事から、この祭神や浅井神社の創建には、「越中石黒氏」の祖の古代氏族「利波臣」の影響が色濃く反映している様だ。
(※「蘇我馬子」が聖徳太子の編纂された書籍を校正して作成したと伝わる「先代旧事紀」では、「物部一族」の歴史が事細かく記載されており、物部氏族は歴代の天皇の中宮を輩出して皇室とも密接な一族で在った事から物部氏についての記載が中心に成っている。「旧事紀」には、「聖徳太子」の妻が「蘇我馬子」の娘で在り、蘇我氏→聖徳太子→物部氏の関係が背景に在ったと見られる。その中でも高志の中つ国と呼ばれた越中国の「新川郡」の祖の「大新川連」が「物部氏族の祖」で在ると記載される事は注目される点だ。)

■物部氏族は初期から極めて多数の支族に分かれ諸国に繁衍し、物部八十氏とも百八十氏とも云う。本宗家は垂仁天皇朝に「物部連」姓を賜ったと伝える「十市根命」後裔。
諸国の国造家として熊野国造(紀伊国牟婁郡熊野)、三河国造(三河)、遠淡海国造(遠江)、久努国造(遠江国山名郡久努郷)、珠流河国造(駿河)、久自国造(常陸国久慈郡)、三野後国造(美濃)等相当多くある。(※「先代旧事紀」の中の第十巻「国造本紀」参照)

・「三野後国造」は「三野前国造」と共に「三野国造」とされており、三野前国造と三野後国造とは、別系統に見えても遠祖は同じとみられる。三野前国造は伊勢の安濃県造同族で、三野後国造は物部氏族ではないか?
⇒「越中五位庄総社赤丸浅井神社」の域内の高岡市福岡町には「三乃郷」が在ったとされ、現在は「上簑、下簑」と呼び、鎮守社の「三乃神社」が鎮座している。

・ 駿河、遠江、三(参)河の物部氏系という国造については、参河・珠流河国造は共に「三野後国造」の支流ではないかとみられ、遠江の二国造家も参駿両国造と同系か和邇氏族かで水神性が濃い。伊予の「小市国造」も水神性が強く、珠流河国造と三野後国造の一族とみられる。これらは御井神(木股神)を奉斎し、その式内社が三野では各務郡(奉斎者は村国連か)、多芸郡(同、物部多芸連か)に鎮座する。

・物部氏では、用明天皇薨去後に排仏派の物部守屋大連は蘇我氏に敗れて大きく衰えたが、「壬申の乱」(※672年、天智天皇の子、大友皇子と皇弟大海皇子「→天武天皇」の戦い)後に勢力をかなり回復して、奈良朝以降の本宗家となった石上朝臣氏では左大臣麻呂、大納言宅嗣などの高官を輩出した。それも長くは続かず、平安期に入って衰えた。(※物部一族は「丁未の乱:587年」で蘇我馬子に滅ぼされた。)
中世以降の中央の官人では、支族の中原朝臣姓の押小路家が地下筆頭として存続し、同姓で医家の官人もあった。武家では、「熊野神人」出の「鈴木一族」(穂積臣後裔)、「熊野国造後裔氏族」、伊予の「河野・越智一族」(小市国造後裔)、武蔵の「児玉党」(久自国造後裔)、長門の「厚東一族」などが繁衍している。また、伊予の「越智支族」から出た「橘遠保」が「藤原純友追討」に活躍したが、この一族は「橘朝臣姓」を冒称し、武家橘氏として諸国に繁衍した。

■物部氏族から派生した姓氏。
【畿内地方】穂積臣(録・左京。[鈴木]-紀伊国牟婁郡の熊野大神神人より起り、紀州名草郡藤白の鈴木を宗家として、三河、尾張、駿河、伊豆、武蔵、上野、下野、下総、越中等多くの地域に分岐。特に三河では繁衍し、賀茂郡の矢並・足助・酒呑・則定・寺部・九久平・小原、碧海郡竹村などに分居し、江戸期には旗本に多い。[亀井]-紀州亀井村住、分れて出雲に遷り武家華族。雑賀、[戸野]-紀州人。[井出]〔井手〕、[山村]-駿河国富士郡人、越前福井の歌人橘曙覧の家人[もと正玄、のち井手] 、[出井]、[乙種]-駿河人。[吉田]、[荻]-三州人。[井谷]-遠州人。[木原]-遠江国山名郡木原邑より起る。[鳥居]、[神倉]、[常住]-熊野人。[土居]、[今城]、[得能]-伊予国宇和郡人で熊野鈴木一族の流れ、熊野の榎本一族か。[白玖]-讃岐国多度郡大麻神社祠官。なお、大和国十市郡の保津は族裔か。同吉野郡の芋瀬〔妹背〕、[梅本]は穂積姓というも、真偽不明)、穂積朝臣(録・左京。[百谷]、[宇倍]、[広岡]-因幡国法美郡人、ただし系図には疑問があって、実際には因幡古族伊福部臣の末か)、穂積部(美濃)、穂積(木積-河内国石切剱箭神社祠官)。
釆女朝臣(録・右京。[梅木]-大和国春日神人、一に紀姓。南都居住の伊狭川も同族か。なお、大和の都祁水分社神主の[釆部〔栄部〕]は族裔か)、釆女造、釆女連、釆宿祢。

物部連、石上朝臣(録・左京。[藁科]-駿河国安倍郡藁科より起る)、物部朝臣([堤]、[中山]、[北]、[島]、[岸田]、[菅田]、[西川]、[多田]、[豊井]、[布留川]、[上田]、[乾]、[西]、[薮]、[南]、[中]、[東]、[森]、[巽]、[別所]、[豊田]、[福智][堂]-大和国山辺郡の石上神宮祠官一族)、 石上大朝臣、 榎井連(朴井連)、 榎井朝臣、 春世宿祢(この改姓の榎井朝臣もある)、 弓削連([芦田]、[枝吉]-播磨人)、
弓削宿祢(録・左京。[稲生]-伊勢国奄芸郡の稲生明神神主。[多湖]、[星合]、[和田]、[伊能]-稲生同族。[蟹江]-尾張人。[重藤]-豊前国田川郡人。[弓削]、[山崎]-遠江国佐野郡弓削庄の人)、 弓削朝臣、弓削御浄朝臣(御清朝臣)、 物部弓削連([荻生]、[上野]、[平岩]、[長坂]、[都筑]、[勝]、[竹矢]-三河人、なお系図には疑問もある) 、今木連(録・山城。[今木]-和泉人)、屋形連、錦部首(録・[山城])、 河上朝臣、 葛野県主、葛野連(録・左京。葛野大連も同じか)、
中臣部、中臣葛野連(録・[山城])、 秦忌寸(録・[山城])、 秦宿祢([松尾]、[東]、[南]([葛野]-山城人)、 高岳首(録・[和泉]。丹後国与謝郡の[高岡]は族裔かという)、神野入洲連、 依羅連(依網連。録・左京、右京)、 物部依羅連(録・[河内])、 網部(録・[和泉])、 柴垣連(録・左京)、 積組連、積組造(録・[河内])、 小軽馬連(小軽間連)、軽馬連(借馬連、軽間連。[賀留]-大和国高市郡人)
曽根連録・左京、右京、[和泉]。[曽根]、[樋口]-大和国川合村広瀬神主、祢宜)、 曽根造、曽根宿祢、椋部(阿波国那賀郡人)、 椋椅部連(録・摂津未定雑姓。[倉橋]-摂州豊島郡人。また、摂州武庫郡の瓦林〔河原林〕は族裔か、称[菅原また平、藤原姓]、倉橋部宿祢、倉橋部朝臣)、 高橋連(録・右京、[山城]、[河内]。[堀内]-紀伊国直川庄高橋社司)、 高橋宿祢、 立野連、立野宿祢([立野-大和国平群郡人。大嶋-京官人で右馬寮、もと津田と称。近衛家侍の立野も同族か)、 桜島連(横度の改姓、大和国添上郡)、桜島宿祢、葛井連、伊勢荒比田連、小田連、縣使首(録・大和)。立野首(大和国城下郡鏡作郷)も同族か。肩野連(交野連。録・右京。河内国交野郡片野神社祠官の養父・[松尾氏]は族裔か、物部後裔と伝う)、 物部肩野連(録・左京)、 良棟宿祢([片野]-河内国交野郡人で後に常陸に遷住、称藤原姓)、
宇治連、宇治部連(宇遅部連。録・[河内]、[和泉])、 宇治山守連(録・[山城])、 宇治部、宇遅部直、宇治宿祢(録・[山城]。宇治-山城国宇治郡人。[石井]-京官人で九条家諸大夫、山城国紀伊郡石井より起る。城州久世郡の槇島〔真木島〕も族裔か、称藤原姓)、 柏原連(録・左京)。なお、大和国葛上郡の柏原造も同族か。
刈田首、刈田連、 鳥部連、 依羅田部連、 韓国連(辛国連。録・[和泉])、 高原連(同上の賜姓。[高原]、[土師]-備前国邑久郡片山日子神社祠官。河内-下野国人。泉州和泉郡唐国保の刀禰職横山氏は族裔か)、 物部韓国連(録・[摂津])、水間君(水間-大和国添上郡東山村水間より起る)、 水間宿祢。 文嶋連、 須佐連、 巫部連(録・[山城]、[和泉])、巫部宿祢(録・右京、[摂津]。[後藤]、[萬代]、[辻]-和泉国人)、当世宿祢。
大友-相模の藤原姓近藤能直が中原親能の養嗣となり、豊後で大いに繁衍、源姓とも称。大友一族には、[戸次]、[鵜本]、[片賀瀬]、[立花]、[野津原]、[志賀]、[朝倉]、[下郡]、[鶴見]、[久保]、[得永〔徳永〕]、[駒木根]、[吉岡]、[小田原]、[築井〔津久井〕]、[立石]、[清田]、[松岡]、[小川]等-以上の大友一族は藤原姓に改め、豊後国及びその周辺に住。[竹中]-豊後住、なお美濃の竹中半兵衛家はこの流れと称するも、別族か、その一族に[四宮]。[利根]-大友同族、豊後住、分れて上野に住。[日田]、[津江]、[矢野]、[平野]-豊後国日田郡人、日田郡司家跡を襲う。詫摩〔詫磨〕-肥後国託麻郡人、一族に[井上]、[平井]、[板井]、[平田]。[日並]-宗形神社祠官、称源姓。門司-豊前国企救郡人、吉原]-備後国御調郡人。 [本郷]-若狭国大飯郡の大族、称村上源氏。[田井]-紀伊人。また、筑後国三瀦郡の[堤]は、大友支流と称するが、疑問大。この堤の一族には[大石]、[高木]、[内田]、[藤崎]など。
・香宗我部-甲斐からの遷住で、土佐国香美郡に住んで甲斐とも号。甲斐源氏出自は仮冒として、大中臣(大仲臣)姓ともいうから、本来中原とは別族か。 土佐の香宗我部一族には、[甲斐]、[中山田]、[門田]、[中山]、[喜多]、[造手]、[松岡]、[岩原]、[水谷]、[青井]、[倉町]、[山本]、[倉橋]、[笠原]、[立山]、[西山]など。なお、同郡韮生郷に起り楠目城に拠った土佐七雄の一、[山田氏]は、香宗我部氏の初期の分岐というが中間の歴代が不明で、土佐古族の色彩もある。
・[甕]〔母台、母田井、茂田井〕-信濃国佐久郡住。丸子〔円子〕-同国小県郡人、同上族。 [樋口]、[今井]、[落合]-信濃国木曽より起る、甕以下は同族で本来信濃の古族の末か。 下野宇都宮配下の[今井氏]は兼平の後裔で、[滋野]姓を称した。

・[由比]-筑前国志摩郡人。一族に[河辺]、[飯]、[重富]及び早良郡の[弥永]。志摩郡の称源姓の[泊]、[松隈]も同族か。これらはおそらく筑紫国造同族の末流か。なお、建保・建武頃の筑前住吉社神官に権大宮司中原朝臣が見える)。

阿刀連、中臣習宜朝臣(摺宜朝臣。録・右京)、習宜連(中臣習宜連)、中臣熊凝連、中臣熊凝朝臣(録・右京)、熊凝朝臣、栗栖連(録・河内)、物部首(録・河内、山城未定雑姓)、日下部(録・河内)


■諸国の物部氏族
物部一族は諸国に広く分布するが、特に紀伊の熊野国造、伊予の小千(越智)国造及び常陸の久自国造の流れが各々の領域を中心にに大繁衍し、中世の有力武士団を出した。

①熊野国造の流れ⇒熊野直、熊野連(録・山城。和田-紀伊国那賀郡和田村人、中世称橘姓、熊野八庄司の一なり、河内にも住。竹坊、尾崎、河井〔河合〕、深山、大谷、堤、岩代、音無〔音无〕、宇原木、小池-熊野社家。曽根-熊野社家、又上野国碓日に分。宮脇、大熊-讃岐国香川郡十河に住。片山-讃岐人。鳥居、真砂、日高、津田、篠崎、大屋、関地-紀州人。稲熊-三河国宝飯郡竹谷神社祠官。熊野の本宮社家の竹内、壱岐、新宮社家の羽山なども熊野国造の族裔か関係者か。
愛洲(会洲、愛須)は紀伊志摩伊勢などに勢力を持ち、紀伊の一族に久留栖、三木、湯川、武田、川、別所、上(宇恵)、幸徳、波沙、坂本、尾喜など、また土佐の御本、武田、浜田(その末裔に田中光顕伯爵家も出す)などを出した。これら諸氏は、甲斐源氏の武田一族(奈古氏からなど諸説ある)の出と称したが、疑問大。紀伊古族の出は確かであるが、真年翁のいう熊野連姓かあるいは尾張氏族系の熊野古氏族の出かとみられ、後者の可能性もかなり強い(その場合、姓氏は湯母竹田連か)。
湯川(湯河)は熊野八庄司の一で、紀伊国牟婁郡道湯川に起り日高郡に拠る中世の大族、一族に大畑、沢、能城、天野、内川、日足、愛川、小松原など。熊野本宮祠官の坂本は右坐などにあり、尾治姓の坂本氏を継いだというが、本来、両者は同族か。また、越後の城氏の後と称した牟婁郡の松本・鬼ヶ城は、おそらく湯川の支流か。
楠木〔楠〕-熊野社家にあり、また河内に住み紀州に分れ、称橘朝臣姓。橋本-紀伊国伊都郡橋本村住人。高名-和泉国和泉郡人。大田-伊勢国安濃郡人。池田-摂津国池田に住、本来紀朝臣姓の家を継ぐ者を出す、ただし更に紀姓の人が相続ともいう。この池田一族には、摂津の荒牧、河辺、堀内、毛馬、辻、大塚、辰巳、山脇など。大饗-摂津人。神宮寺-河内国大県郡神宮寺村住人。佐備、石川、甲斐庄、隅屋〔須屋〕、野村-河内人。相郷-紀州人。則岡-紀州有田郡人。小南〔木南〕-紀州海部郡人。芋川-信濃国水内郡人。梶川-尾張人。奥田-伊賀人。数原〔須原〕-近江人。打越〔内越〕-出羽国由利郡人。賀茂-美濃国賀茂郡に起り、遠江国敷智郡に遷。杉本-丹波人。野口-駿河人。神岐-美濃人。山地〔山路〕-讃岐国豊田郡人、山地子爵家を出す。大塚-紀伊国牟婁郡に起り、駿河に分る。木俣〔木全〕-伊勢人、おそらく員弁郡の猪名部造族裔か。このほか、楠木一族の出と称する諸氏が多くあり疑問を留保しつつ挙げると、和泉の池樋・武、備前の楢村、伊勢の久間木や楠瀬など)、熊野朝臣、相賀直。
なお、牟婁郡居住で熊野新宮祠官の熊野部(高倉下後裔の熊野部千代包の後と称す)も同族か。この一族のうち、石垣は熊野にあったが、鵜殿は三河国宝飯郡にも展開した。紀伊の堅田連(堅田-紀伊国牟婁郡人)も熊野国造一族の出か(または尾張古氏族系か)。

②小市国造の流れ⇒越智直(小市直。録・左京。新居〔仁井〕-伊予新居郡人、称橘朝臣姓。橘、矢野、徳永、高部、金子、真名部〔真鍋〕、今井-同上族。北之川〔岐他川〕-伊予国宇和郡人、称紀朝臣姓で、また越智朝臣とも称。隣国阿波にも進出して、那東郡人に新居、古津、池田、高市が見える。 越智宿祢(越智朝臣姓の称も見えるが、これは私称か。河野-伊予人で、風早郡に起り同国に繁衍して一族甚だ多し、同族が土佐阿波等や京官人にもあり。久留嶋〔来嶋〕-予州野間郡来島に起る武家華族、もと村上といい、一族の能島・因島とともに海賊衆。正岡-伊予国風早郡の高縄神社祠官。稲葉、一柳-ともに美濃人で武家華族だが、系譜仮冒の疑いが大で、その場合は美濃古族の後か。林-美濃人。このほか伊予には一族きわめて多く、越智、高市、吾河、井門、石井、浅生、夏目、江上、萱戸、御谷、新居、拝志、吉田、井出、大野、寺町、弘田、児島、高井、浮穴、田窪、白石、遠藤、埴生〔垣生〕、浅海、周布、難波江、高尾、志津川、北条、久萬、石崎、松岡、得能、曽我部、免取、辻、大高、南、土居、小倉、神宮寺、宮田、合田、大瀬、今井、重見、木原、尾原、大井、今岡、野間、沖、井尾、久保、別府、戒能、片山、久保、黒川、井川、壬生川、福角、大内、出淵、仙波、池内、桑原、別宮、砂田、石田、青木、東条、日吉、松木、堺、一城、河内、和田、石川、平岡、富岡、久枝、柏谷等-伊予の河野同族。境田-日向諸県郡真幸院の天満宮大宮司。三島-日向薩摩人、三島子爵家を出す。小嵜-肥前国神崎郡人。福良-淡路の三原郡人。安芸国佐伯郡能美島の能美、山野井も河野同族と称。窪川-土佐国高岡郡仁井田五社祠官。新居、東、西-高岡郡の窪川一族。寺林-陸奥稗貫郡人。河上-下野人。
高橋〔のち三島〕-伊予国大三嶋の大山祇神社大祝家。鳥生、今治、島山、庄林、弥熊、大井、神野、山本、宮脇-三島大祝同族。また、藤原姓を称する忽那島の忽那、吉木氏も実際には河野一族。百々-近江国坂田郡人、一に橘姓、また宇多源氏京極支流と称。釜谷-伊賀国名張神戸司で伊勢神宮祠官。古森-大和国宇陀神戸司で伊勢神宮祠官、この二流の伊勢神宮祠官の家については系統不明。京官人でも、蓮華光院門跡坊官の榎本、二条家諸大夫の河野は越智姓と称)。出部直、伊豆部造。

③久自国造の流れ⇒大部造(常陸国久慈郡稲村神社祠官の高根は末裔か)、大部首(録・和泉未定雑姓)、大部宿祢。
有道宿祢(武蔵七党の一、児玉党を出したが、児玉郡を本拠に武蔵北部から上野国西部にかけて繁衍した。児玉-武蔵から分れて安芸国豊田郡にもあり、毛利氏重臣で一族から明治華族を出す。本庄〔本荘〕-児玉党より出て丹波に分れた家もあり、武家華族。奥平-上州甘楽郡人、なお三河国設楽郡奥平に起る武家華族奥平氏とその一族の和田・奥山などは、本来これとは別系で三河古族和邇部の裔か。
庄〔荘〕-武蔵国児玉郡人、分れて備中にあり、後掲。四方田-武蔵国児玉郡人、分れて陸奥加美郡に住し河内四頭の一。大滝、具下塚〔久下塚〕、北堀、本荘、牧西、若水〔若泉〕、小河原、宮田、蛭河、今居〔今井〕、長岡、小見野、粟生田、越生、宿谷、山崎、高坂、平児玉、秩父、与嶋、吉田、竹沢、稲嶋、柏嶋〔イ、狛嶋〕、新屋、眞下、御名、小河原、山越、木西、桜沢、吾那、志村、大淵、溝上-以上は武蔵人。大塚-武蔵に起り、出羽国置賜郡長井荘に分る。
小幡-上野国甘楽郡人で、戦国期の大族。その一族に、熊井戸、長根。小中山、大河原、多子、倉賀野、片山、大浜、鳥方、白倉、矢嶋、吉嶋、山名、嶋名、牧野、富野、大類、後閑、成嶋、反町、栗栖-以上は上野人。堀籠-上野国安蘇郡人。小代-武蔵国入西郡小代郷人、肥後に分れて繁衍。増永、倉満〔蔵満〕、荒尾、一分、中分、猿渡、片山-肥後国玉名郡の小代一族。荘、穂井田〔穂田〕、津々、福井、若林-備中国下道郡を中心に住。植木-荘一族で、同国英賀郡人。三雲、中条-近江人。若松-伊勢人。
武蔵国荏原郡に起る目黒氏は、児玉党とも畠山一族の出ともいい、源姓を称。陸奥伊具郡、出雲国飯石郡に分る。多久和-同一族で、雲州飯石郡人)。
白髪部造、白髪部連、眞髪部造(録・山城。原田-常陸国鹿嶋神人、久慈郡稲村神社祠官にもあり、伊達家臣の原田もこの一族か。神館〔上館〕、布田-同鹿嶋神人)、若湯坐造、若湯坐連(録・河内)、若湯坐宿祢(録・左京、摂津)。

④その他諸国物部氏族⇒畿内周辺の近江、伊勢、紀伊、三河、遠江、常陸、山陰の因幡、石見、長門、山陽の美作、四国の伊予、北九州などに、この氏族と族裔諸氏が濃密である。

物部宿祢(浅井-近江国浅井郡人、この同族は藤原姓あるいは橘姓と称するもの多く、本姓は物部とみられるが不明点も多い。脇坂-同州浅井郡脇坂庄より起る、武家華族。大野木、三田村、赤尾、田屋、礒谷、今木、山本-近江の浅井一族
奥村-尾張人で赤尾同族。小堀-近江国坂田郡小堀村より起る。川瀬-近江国犬上郡人。なお、浅井家臣の八田、岩橋、岩田、岩坪、脇坂、 中島、浅井、木村の諸氏は、祭祀関係からみて同族だった可能性がある)、物部浄志朝臣、中原朝臣(物部宿祢改姓)。江州栗太郡の物部には、勝部、玉岡、千代(姓氏不明で、物部玉岡宿祢姓というが疑問あり)。
【※赤丸村に赤尾・山本、木村姓有り。近くに岩坪村有り。浅井神社の“浅井”との関係?】

・物部連(厚東-周防国玖珂郷の物部連末流、長門国厚狭郡より起る。白松、木村、原、富永、河副、吉部、池、宇賀-長門の厚東一族。秋吉-同国美祢郡住。屋富〔弥富〕-同豊浦郡住。矢原-同吉敷郡住。世良-備後の厚東一族。以上は厚東同族で周防国人。飯田、倉見-遠江人。また、物部朝臣姓という厚狭郡の末富も、厚東一族か)。

・新家連(新家-伊勢国度会郡人、又三河に分る。徳田、今井-伊勢人)、新家宿祢(野田、新谷-河内国丹比郡人)、多芸連、多芸宿祢、猪名部造(録・左京)、春澄朝臣(古田-美濃国本巣郡住で称藤原姓、員弁郡に起る)、春澄宿祢。

・藤原恒見君、長田川合君(金子-石見国安濃郡川合村物部神社神主、明治に叙男爵、称物部姓。長田、川合-同社祠官。井原〔庵原〕、雲井〔雲居〕-石州邑智郡人。寺井-石州那賀郡人、以上は金子一族)。
【赤丸村浅井神社の辺りは古代の「川合郷」→川合が転化した「川人」は浅井神社の神官】

・風早直(風速直)
・信太連(根本、[朝日]-常陸国信太郡人。古徳-同那珂郡人。[菅谷]、信太、[福田]-信太郡人、称紀姓。宍倉-新治郡人で菅谷の族。田土部-同国筑波郡人で信太庄司の一族。篠崎-同筑波郡人、称藤原姓。鴨志田-信太郡に起り久慈郡に居住、平将門後裔と称)、物部志太連(浮島、木幡-常陸国信太郡人)、匝瑳連(下総国匝瑳郡。なお、武蔵国葛飾郡の匝瑳氏は族裔か)、匝瑳宿祢。
【五位庄に福田郷有り。池田姓多し。→物部氏?紀姓? 紀伊国造族の物部連?】

・伊福部臣(気吹部臣)、伊福部宿祢(伊福部、安田、池淵-因幡国法美郡の宇倍神社祠官。宮石-同国気多郡板井神社祠官)。因幡国高草郡の郡領置始臣は同族か。伯耆国日野郡楽々福神社旧神主の入沢・名沢〔那沢〕氏は、大矢口宿祢を同祖とし、物部姓という。日野郡の楽々福明神奉斎に関与した三吉、田辺や芦立〔蘆立〕も同族か。

・物部鏡連、物部文連(安芸-土佐国安芸郡の大族)。ともに土佐国香美郡に見えるが、同郡大忍庄山川村の領主・石舟明神祢宜で物部姓の物辺、末延氏は族裔か。同郡の八木、山川、清遠氏も物部姓。これら土佐の物部一族は物部同族の安芸国造の流れか。紀伊国造族の物部連と称した香美郡の延崎〔信崎〕も同族。土佐国香美・安芸両郡の称宗我部・惟宗朝臣・橘朝臣姓の諸氏(安芸一族、安岡一族)の殆どが物部文連・物部鏡連の同族とみられるが、便宜上、宗我部にあげる。香美郡の夜須もこれらの同族。

また、系統不明だが物部伊勢連もある。志摩の物部は、的矢〔的屋〕といい伊雑神戸総検校職。

■美濃の三野国造とその一族の流れとみられる三河国造(三河)、珠流河国造(駿河)は本来、饒速日命系物部氏族として微妙な違和感もないでもないが、ここに掲げる。同じく海神族系かともみられる遠江の遠淡海国造、久努国造も同様に記す(この両者は、和邇氏族系の色彩もあって、その可能性もある)。
・村国連(美濃国各務郡村国郷より起る大族)、村国奥連、物部射園連(同国厚見郡)。片県連(同国方県郡より起る)は同族か六人部連の族か。ほかに、彦坐王関係に掲げた三野国造を参照の事。

参河直、三河宿祢(永見-三河国碧海郡知立神主。同郡の重原氏も同族か)、 長谷部造(録・大和)、物部(大給〔荻生〕-三河国加茂郡人、のち松平の猶子に入り武家華族。平岩、長坂、弓削-三河碧海郡人、称守屋大連後裔。なお、清和源氏満快流と称する武家華族伊奈も、本来平岩一族か。伊奈一族には、額田郡の稲熊)、物部中原宿祢、興原宿祢、中原朝臣(秋野、田中、筧、多門、桜井-三河国額田郡人。井田-三河国額田郡人、分れて武蔵国多摩郡に住、称畠山重忠後裔は仮冒。藤原姓を称する額田郡の柴田氏も、筧一族か。清和源氏のほか、大江姓とも嵯峨源氏とも称した武家華族酒井氏は、碧海郡境村に起った井田同族。嵯峨源氏と称した額田郡の滝、大黒も同族か)。
【能登国人の長氏は長谷部と名乗る。→初瀬部】【赤丸村の柴田氏は宗良親王の随臣か?→藤原氏か物部氏か?】

・金刺舎人(珠流河国造後裔)、金刺宿祢(金指-伊豆人)、壬生直、若舎人部。珠流河国造の族裔としては、駿河郡人の大岡や大森、葛山、竹之下〔竹下〕などの諸氏が推される。藤原伊周後裔と称する大森一族は駿河東部・相模や尾張・三河などに繁衍して、前掲のほか、鮎沢〔合沢、藍沢、相沢〕、葦沢、篠葉、御宿、宮原、細井、岩城、藤曲〔イ藤田〕、大沼、河合、菅沼、神山、沓間、鷹満など。一族に稲熊、内海-尾張人。その姓氏は不明も、あるいは珠流河直(駿河直)、駿河宿祢か。竹之下は天智天皇末裔とも称。

・檜前舎人部、小長谷部直(ともに遠淡海国造後裔。なお、遠淡海国造の姓氏は不明であるが、一族の名からみておそらく遠淡海直か)、佐夜直(駿河人の佐野、大楠は族裔か)、久努直(久野-遠江国周智郡人、紀州徳川家付家老で伊勢田丸を領。中-同周智郡人。原、孕石、寺田、原田、小沢-同州佐野郡人。山名郡の山名、川井など、同郡粟倉明神社神主の北島、榛原郡の千頭、長上郡の橋爪、佐野郡の幡鎌なども、みな同族か。その殆どが為憲流藤原氏を称した)。
この他、遠淡海・久努両国造の族裔とみられるものには、長下郡等の浅羽、松下、松井や磐田郡見付総社神主の西尾、大久保などの諸氏。また、城飼郡の横地(浅羽と同じく称源姓)、榛原郡の相良、勝間田、丸山などの一族や、更には引佐郡の井伊も同族か(相互に同祖伝承をもつが、系譜には疑問もある)。これら両国造関係には橘紋・称橘姓がかなり見られることからみて、遠江出身の橘姓黒田氏(のち丹党加治氏から養嗣が入り、大名家となる)も同族か。大湯坐連、大湯坐宿祢や若倭部も、遠淡海国造の一族か。

・物部の従者関係をあげると、次のようなものがあるが、系譜や姓氏不明で『姓氏録』では未定雑姓(ここでは「未」として記載)として分類される。
天物部等二十五部としてあげられるものは、二田物部、当麻物部、芹田物部、鳥見物部、横田物部、嶋戸物部、浮田物部、巷宜物部、疋田物部、酒人物部(坂戸物部)、田尻物部、赤間物部、久米物部(来目物部)、狭竹物部、大豆物部、肩野物部、羽束物部、尋津物部、布都留物部、経跡物部、讃岐三野物部、相槻物部、筑紫聞物部、播磨物部、筑紫贄田物部。このほか、前掲と重複もあるが、阿刀物部、住跡物部、網部物部、筑紫弦田物部など。

・これらのうち、とくに勢力のあったものとしては、
舎人造(物部従者)、舎人連(同上族)、原造(未、右京。雑姓で物部従者)、度造(同上)、坂戸物部(未、右京。同上)、二田物部(録・未、右京。同上。吉野-越後国三島郡二田村の物部神社神主。三嶋、東海、白川、大矢、土生田-越後国三島郡人)、二田物部首(贄田物部首)、物部二田連(高波-常陸国多賀郡佐波波地祇神社神主。なお、陸奥磐城郡の贄田も同族か)、二田造(物部二田造。河村-河内国高安郡人、後土佐国に遷)、
相槻物部(録・未、山城。雑姓で物部従者)、竝槻忌寸、竝槻宿祢、当麻物部(雑姓で物部従者)、物部造、阿刀部(録・未、摂津。物部氏族か)、尋来津首(録・未、右京。伊香我色雄命の後というは仮冒か)、阿刀造、跡部首、肩野物部(頼信-美作国久米郡人。内田-作州苫田・真庭郡人)、横田物部(横田、松倉-大和国添上郡人。あるいは和邇氏族の流れで櫟井臣同族か)。また、播磨造は播磨物部の伴造家裔か、赤間稲置は赤間物部の族長か、豊前国規矩郡の規矩、小野田、志井、御佃は聞物部の後裔か、とみられている。寺人も物部族という。原連、原宿祢は原造の後か。
  このほか、伊予の力田物部連も見える。

※一部は文字数制限により省略して記載している。赤字は当ブログ掲載と関係する氏族を主に記載した。


     

💠「今昔物語」、「大鏡」に登場する「越中蜷川氏」の祖先「宮道氏」⇒足利将軍家に連なる名門「室町幕府政所代 越中蜷川氏」の「越中利波郡」の統治。

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■京都の「祇園社」(※明治から八坂神社)に魚津から立山、富山市に至る広大な「太田庄」を寄進した古代豪族「宮道氏」⇒室町時代には幕府政所代として越中の統治に関わっている。(※「蜷川氏」から「太田氏」や「吉岡氏」が出ていると云う。射水郡太田庄にも「吉岡村」が在った。)


■「藤原氏勧修寺家祖藤原高藤」と「越中蜷川氏の祖の宮道氏の娘」の婚姻 と宇多天皇中宮「胤子」の誕生!!


■「今昔物語」、「大鏡」には藤原氏と宮道氏の出会いを記している。この娘の「胤子」はやがて「宇多天皇」の中宮と成り、その子孫の「紀良子」は「室町幕府第三代将軍足利義満」を生む。





■「足利義満」は室の「日野業子」の菩提を弔う為に「越中五位庄」を「相国寺」に寄進して、「越中蜷川氏」が越中の利波郡・新川郡を統治したと云う。「越中守護畠山家文書」の「越中統治絵図」では五位庄の西庄は「畠山持国」と統治とされ、「赤丸浅井城」の位置に城郭が記されている。







🔴【熊野社】(高岡市福岡町赤丸鞍馬寺・舞谷) ⇒【衆徳山総持寺】(高岡市関町)の持ち宮として「後醍醐天皇」の皇子【宗良親王】が勧請されたと云う。

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■南北朝時代・興国三年、越中に入られた「後醍醐天皇」の「第八皇子宗良親王」は後醍醐天皇の庄園【越中吉岡庄】の【赤丸浅井城】へ入られた。親王は「城ヶ平山」の「極楽谷」に「越中宮極楽寺」(現在、高岡市博労町)を創建され、「熊野社」を祭られた。(※「越中宮極楽谷由緒」)


🔻「後醍醐天皇」が南朝軍の旗印として奈良県賀名生の「掘家」に遺された【赤丸の御旗印】

(奈良県五條市西吉野賀名生1)
【≪掘家hp≫奈良県西吉野村の北部・和田の丹生川の清流に臨むようにひっそりとある賀名生の旧皇居「堀家住宅」。延元元年(1336年)の年の暮れ、足利尊氏によって京の都を追われた後醍醐天皇は、吉野へと向かう途中に郷土堀孫太郎信増の邸宅に迎えられました。天皇を手厚くもてなした郷士「堀孫太郎信増」の邸宅はその後、後村上、長慶、後しすす亀山天皇の皇居として南朝の歴史を刻んできました。】
《※「承久の乱」の時に「後鳥羽上皇」の庄園の「赤丸浅井城」を守った「越中吉岡庄」の地頭「越中石黒氏」は宮崎氏、加賀林氏、井口氏等と共に上皇の味方として都へ登ったが、上皇の敗戦により北條氏の追討を逃れて都から全国各地へ落ちて行ったと云われ、一部は越前朝倉氏等に士官し、一部は東北、関東、中部地方に隠れ住んだと云う。この時の上皇軍の大将は「元能登守藤原秀康」で「越中石黒氏、加賀林氏、越中宮崎氏」、越中井口氏」等は「藤原一族」で在り、「掘氏」も「越中石黒氏」の一族と云われる。藤原一族は殆どが上皇軍に参戦したが「加賀林氏」の一族「加賀富樫氏」は幕府軍として参戦した為、以後は源氏の足利氏が政権を担った「室町時代」には室町幕府の重臣に成っている。》



■「延喜式内社赤丸浅井神社」に伝わるところに拠ると、「宗良親王」は「総持寺」の持ち宮として「浅井城」と「清水観音」の間にも【熊野社】を祭られたと伝える。
この「熊野社」はその後、「赤丸浅井神社」に合祀されている。
(現在もこの跡地は高岡地方法務局の公図には「社地」として記載されている。)














🔻「越中五位庄 郷社 延喜式内社赤丸浅井神社」