goo blog サービス終了のお知らせ 

赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴【瑞龍寺奉納刀“家重”と北陸の名刀たち】開催概要会期(2019年10月12日〜12月1日)「会場」高岡市福岡歴史民俗資料館

2021-04-13 | 富山県高岡市福岡町
(高岡市hp⇒クリック)
高岡市/第32回特別展「 瑞龍寺奉納刀“家重”と北陸の名刀たち 」

■越中吉岡庄(福岡町赤丸周辺)に伝来した【宇多刀工】等の技術を継いだ「加賀藩の刀剣」を展示!!

🔻高岡市福岡町【高岡市福岡歴史民俗資料館2019年特別展】を開催。!

【瑞龍寺奉納刀“家重”と北陸の名刀たち】
開催概要
会期 2019年10月12日〜12月1日
会場 高岡市福岡歴史民俗資料館
住所 〒939-0143 富山県高岡市福岡町下向田畦ケ谷内15


💠【宇多刀工】
越中吉岡庄(富山県高岡市福岡町赤丸舞谷・鍛冶屋町島)で鍛えられた【越中刀剣 宇多】
[初代宇多国光の太刀]


[南北朝時代の太刀は古宇多と云う]
(日本刀剣保存協会特別保存刀 古宇多)





「吉岡庄古絵図」


「人車記」⇒別名「兵範記」(近衛家陽明文庫)に記載される「越中吉岡庄」










●●【木舟城保存会月見の宴】の高岡徹氏(越中史壇会研究委員長)の講演会記録(2016,11,13)

2021-04-13 | 富山県高岡市福岡町


■毎年、恒例の【木船城月見の宴】開催!!
「高岡徹氏」は富山県に奉職されていた時に、富山県内の一般に余り知られていない古城の調査を多く手掛けられ、富山県の古城調査の先達とも云える方で、福岡町教育委員会が発刊した「中世城館調査報告書」では、「木舟城」や「赤丸城」等も調査報告を出されている。特に「赤丸城」については本格的に現地調査や城主の中山氏の古文書も初めて紹介され、「赤丸城」が具体的に初めて紹介された。又、「吾妻鏡」に登場する「(吉岡)成佐」の古城と見られる「吉岡谷」の「吉岡東砦」、「西砦」についても報告書を出されており、歴史の闇に隠れた赤丸村周辺の古城調査を初めて行った方である。

●「木舟城講演会の要旨」(富山県高岡市福岡町木舟)
「木舟城」のすぐ側を唐又川の支流が流れ、その末端は小矢部川に流れ込んでいたとの事。又、この支流の三ヶ所に「船着き場跡」が在ったと云う。又、すぐ北側には北陸道(中田道)が在り、この道は富山県境の倶利伽羅峠から富山市茶屋町に至る直線的最短距離で結ぶ道路で在り、往古、木曽義仲が般若野を通り倶利伽羅峠に向かった時にも進軍した道路だとか。この中田道は意図的に雁行させて進軍を阻み、木舟城の周辺は沼田で敵が容易に近付けなかったが、沼田に石を積んで造られた様な軟弱地盤で在った為に、天正13年11月の飛越地震では木舟城が9m近くも陥没して前田利家の弟の秀継夫妻以下全員が地中に沈んでしまった事。
しかし、その翌年(天正14年)には豊臣秀吉から上洛を催促されていた上杉景勝一行が木舟に宿泊して歓待されて、帰り道にも宿泊していた事。豊臣秀吉が佐々成政を攻める為に呉羽山に陣を構える前には、途中の木舟城から佐々軍が出撃して戦いが在ったとか。




■高岡市福岡町大滝地域は赤丸村周辺が「吉岡庄」と呼ばれていた鎌倉時代に、馬場村の吉岡谷に住む「(吉岡)成佐」(※「吾妻鏡」)が開いた地域だと木舟石黒家には伝わっており、庄川支流の唐又川、木舟川の下流が赤丸周辺で小矢部川と合流していたと言う事からも、赤丸村の「鞍馬寺」、馬場村・加茂村の「下鴨神社」、「上賀茂神社」等と木舟城の「貴船神社」が一連の関連で勘請された事が今回の講演会で立証されたと思われる。
(※他にもいろいろ興味深いお話が有った。)

★最近、高岡徹氏が発刊された「戦国越中の攻防」と言う書籍は、長く富山県立図書館の学芸員もされた著者が研究・実地調査をされてきた事を集大成した大著で、「石黒氏」の他、「赤丸城主中山氏」の動静等にも触れられており、福岡町教育委員会が初めて「赤丸城城主中山氏」について発行した「中世城館調査報告書」で、具体的に、敦賀市博物館に保管される「中山正弥家文書」を初めて調査、解説されたのも高岡氏で在り、赤丸城の中山氏の歴史発掘は高岡氏の功績によるものが多い。なかなか興味深いお話が多数掲載されている。
(発刊 岩田書院)



🔴【室町幕府御粮所 越中五位庄】⇒【五位庄総社延喜式内社赤丸浅井神社】と【越中守護畠山持国の居城[赤丸浅井城]】

2021-04-12 | 富山県高岡市福岡町
📕『越中五位庄』の記録!!
⇒【室町幕府第三代将軍足利義満】が「相国寺」(※「鹿苑寺金閣」)に寄進した後も足利家菩提寺の「等持院」・「等持寺」の庄園として続いた越中の庄園。

















■「万山編年精要」(※「万年編年精要」、「相国考記」)(応永12年7月11日条;1405年)には、「足利義満」が日野夫人の追善料として「五位庄」を京都相国寺に寄進した事が記載される。
(※「富山県史 中世」)









■足利義満が相国寺に寄進する前は、「斯波氏」の所領であった事が永和二年(※1376年)の「越中守護斯波義将内書案」に見られ、(応永20年;1413年)3月18日付の「斯波義郷奉行やなた某書状案」(※東寺百合文書)により斯波義郷が奉行で在った事が判る。後の、応永22年(1415年)10月には「足利義持」が「五位庄」の半分を「京都等持院」に寄進した事が富山県史中世編に記載されている。
(※足利義持御判御教書案・等持院常住記録)









🌸🏯【富山県西部の赤丸浅井城とその出城の木舟城】 【徳川御三家水戸徳川家 副将軍水戸光圀】に仕えた【助さん】の事⇒「佐々木助三郎」は、富山県高岡市の【木舟城城主前野加賀守】 の子孫!!

2021-04-12 | 富山県高岡市福岡町





🔻【越中吉岡庄】の山城「赤丸浅井城」と出城の「木舟城」の考察!!
「後白河上皇」と「崇徳上皇」が争った【保元の乱】で、「崇徳院」側で戦って敗れ、全国の藤原氏の頂点に立った「藤原摂関家藤原氏長者藤原頼長」の全国に在った庄園は、勝者の「後白河上皇」に没収された。「藤原頼長」の個人庄園の全国29庄の直轄庄園の中には、「後白河上皇」の「後院領」に編入され、後白河上皇の創建された「蓮華王院三十三間堂」を維持する為の庄園として寄進されたものがある。その中に富山県西部の赤丸村の周辺に拡がった「越中吉岡庄」が在り、その庄園は、「後鳥羽上皇」から南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、皇室庄園として続いた。

その範囲は、「五位庄惣社赤丸浅井神社由緒」(室町時代から越中五位庄になっている)に出てくる、小矢部市北部から高岡市国吉郷、「石黒光景」の居城「赤丸浅井城」からその子の「石黒光弘」の居城の「木舟城」も含む「利波郡」で在ったと見られる。

(※「越中吉岡庄」の範囲は近世の「五位庄」の範囲を超えたもので在った様だ。又、室町時代に足利義満が相国寺の庄園として寄進した「五位庄」は、更に拡大して、越中守護の館で在る「赤丸浅井城」を中央として、小矢部川流域の海沿いの「六渡寺村」から「福光町」辺りの地域迄を含んでいたと見られる。)

利波郡五位庄福光町には、石黒一族の「福満五郎」が居た「福光城」が在ったとされるが、「福光城」は一向一揆衆に敗れ、後は「木船城」に拠ったとされる。高岡市立野に比定される「東大寺庄園越中杵名蛭庄絵図」には、「石黒上里」、「石黒中里」や「石黒川」が記される。いずれが発祥地かは明らかでは無いが、明らかに藤原一族の「越中石黒氏」の発祥地は高岡市立野地域で在り、当初は「杵名蛭庄」の庄官を勤めて、小矢部川の全域を見晴らす山城の「赤丸浅井城」を防衛拠点としていたが、鎌倉時代の源頼朝が「後白河上皇」の庄園の「吉岡庄」に「地頭の成佐」を配置した時期に、この「成佐」が現在の高岡市福岡町大滝地区を開発したと福岡町木舟の石黒一族に伝わっている。「源平盛衰記」には高岡市伏木に残る「六渡寺村(六動寺村)」に関係するとられる「六動太郎光景」(赤丸浅井城石黒太郎光景と同じ?)の名前が見られ、かつての「六渡寺」には、篤く仏教を信仰して「仏教の六道」に由来する「六動寺」が在ったと見られる。石黒氏は「越中利波郡の郡司利波臣」の後継者で在るとされるが、「古代豪族利波臣」が各地に東大寺の庄園を開発して、各地域の中心神社には「東大寺庄園」から「神田」が寄進されており、「赤丸浅井神社」にも【東大寺庄園越中石粟庄】から「神田一段」が寄進されていた。




【東大寺大仏造営の時に、「米五千石」を寄進して、「越中国司」に任じられ「東大寺修院過去帳」の筆頭に記される「利波臣」の末裔とされる「越中石黒氏」が、代々世襲した「越中利波郡」の大滝村(※木舟)も、源頼朝配下の地頭の「越中吉岡庄地頭 成佐」が開いた土地と伝えられる。「吉岡谷」と呼ばれる地域が赤丸村と馬場村の間の地域に現在も残り、古くはこの場所が「成佐」の居館跡で在ったと見られる。この居館の周辺には、「東砦」、「西砦」と呼ばれた軍事的な拠点跡も残っている。(※「木舟城古今誌」、「吾妻鏡」、高岡徹氏論文「福岡町中世城館調査報告書」)】



■「皇室庄園」の【越中吉岡庄】は、南北朝時代末期に「五位庄」と改名されて足利室町幕府の軍俵を賄う「粮所」に成り、次いで、「三代将軍足利義満」によって「相国寺」に寄進され、後にも「等持院」、「等持寺」等の足利家菩提寺の庄園として寄進されていた。
(※「相国考記」、「万山編年年精要」)



▼富山県西部は奈良時代から平安、鎌倉、南北朝時代末期迄は、藤原氏領、上皇、天皇領の「吉岡庄」として伝領した。




■南北朝時代末期に、足利家庄園として横領された「五位庄」は「吉岡庄」の庄域を更に広げ、「利波郡」のほぼ全域に迄及び、小矢部川を挟む東部(※般若野庄には五位の東庄を含む)と西部(※福野町野尻は五位庄に含む)に分かれて、東部は石黒氏等の武将の知行地と成り、西部は守護畠山一族の知行地とされた。富山市蜷川郷に城を構えた室町幕府政所代の蜷川新右衛門は利波郡を統治したと云う。
(※室町時代の「赤丸浅井神社」での法要記録の中に「越中五位庄利波郡赤丸村住藤原直家」が営んだ法要記録が在り、その中で「赤丸村」は「五位庄利波郡赤丸村」と記載されており、絵図に見られる「利波郡」は「蓮間郡」とされる小矢部市の一部を除いて「利波郡」に含まれていた様だ。⇒「富山県史中世」)
(※「東寺百合文書」・「畠山家文書」・「蜷川村の昔」)





▼【越中木舟城】は【赤丸浅井城】の出城で、「赤丸浅井城城主石黒光景」の子供の「石黒光弘」が平安時代末期に居城にした。「石黒光弘」は【源平盛衰記】や【平家物語】にも登場する。
(※「越中石黒系図」)



🔻富山県の古書には「石黒光弘の後裔石黒光景」と記載されるものが在るが、「越中石黒系図」では明確に石黒光景は石黒光弘の父として記載されている。(※「石黒氏の歴史の研究」小矢部市図書館)

◆越中利波郡の加賀藩時代の「十村役」(村長)で在った杉野家に遺された「木舟城絵図」。


◆平成30年(2019年)に新発見された、江戸時代初期の古文書で加賀藩の軍学者「有沢永貞」が描いた加賀藩の全城郭を描いた「加賀藩城郭絵巻」(※写本)。その中に記載される「木舟城」と見られる絵図。「前田利家」が攻略、新設した加賀藩の初期の城郭が「国主城郭絵図」として描かれている。








▼「室町時代」には足利氏の「御粮所」(※軍事の兵糧を調達する場所)となった「利波郡五位の東庄」には、「福満城」、「木舟城」に「石黒氏」の記載が在る。又、小矢部川西部の「利波郡」の「赤丸城」には、室町幕府管領「畠山満家」の長男の越中守護「畠山持国」の記載が在る。(※「越中絵図」羽曳野叢書ー畠山文書)








◆戦国時代には、【織田信長】は越中に侵攻して、家臣「佐々成政」は家老の「佐々平左衛門」を「木舟城城主」にしたが、その次には、「佐々平左衛門」の娘を妻にした「前野加賀守」を木舟城城主にしている。その子は後に「佐々」の姓を名乗っており、この子孫から通称「助さん」と呼ばれる水戸光圀の家臣で、「大日本史」の編纂にも関わった【佐々木助三郎】(※佐々宗淳[サッサムネキヨ])を輩出している。












▼【佐々成政】は「宇多天皇」を祖先とした【宇多源氏】で、近江国佐々木を拠点とした「宇多源氏佐々木氏」である。この一族からは、近江国を領した「六角氏」等が出ている。又、この一族からは、南北朝時代の「太平記」に登場する「甲賀宇多氏」や越中吉岡庄鍛冶屋町島(※赤丸村「赤丸城」の麓)で南北朝から江戸時代迄名刀を産出した「宇多刀鍛冶」、「木下藤吉郎」改め「関白豊臣秀吉」等の人物を輩出している。
(※木下氏は「宇多源氏高島氏」)
この一族は、室町時代に「織田家」等と同様に足利一族の「斯波氏」に仕えたが、ある時に斯波家が間違えて「佐々」を宛名にした書状を与えた。その後、「佐々木氏」の中でも、この一族は後に「佐々」を名乗っている。

元々、「摂関家長者藤原頼長」の庄園で在った「越中吉岡庄」は、没官されて「上皇」や「天皇」の庄園に編入され、「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄、伝領した。その時代から江戸時代、明治時代を通じて、藤原一族と云われる「越中石黒一族」は様々な時代の節目に登場している。















🔴【室町時代に初見される「越之中邦利波郡五位庄赤丸村」】(富山県高岡市福岡町赤丸)

2021-04-11 | 富山県高岡市福岡町
■【南朝天皇「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」は室町幕府御粮所になり、「越中五位庄」となる。】


🔽【両部神道、三社権現形式】
「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」の別当寺【門跡寺院聖護院派山伏 川人山鞍馬寺】の遺品





💠【後醍醐天皇下賜の赤丸の御旗】
後醍醐天皇は「赤丸の御旗」を旗標に鎌倉幕府と戦われた。
赤丸村は「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」で在り、赤丸城ヶ平山の麓には、伊勢国司「北畠親房」の支配下に在った「大和国宇陀郡」から刀鍛冶の「宇多派初代 宇多国光」が「越中国吉岡庄鍛冶家町島」(※赤丸村鍛冶屋町島)に移り住んだ。この一派「宇多派」は越中各所に広がって、江戸時代迄、大量の刀剣を作刀している。富山県の重要文化財や豊臣秀吉遺品の中に「宇多刀剣」が見られる。「豊臣秀吉」は「宇多天皇の末裔の宇多派高島流」を唱えている。









「越中宇多刀」








■室町時代の「越中国」は「管領畠山満家」により「八郡」に編成され、「赤丸浅井城」には「室町幕府越中守護畠山持国」が入った。(※「畠山家記」、「越中絵図」、「羽曳野市史」大阪府羽曳野叢書)















🔽「室町時代」に「足利家の直轄庄園」に成った「越中五位庄」が、「足利義満の妻業子の菩提を弔う為に臨済宗相国寺」に寄進された為に、「赤丸浅井城」の周辺からは臨済宗以外の寺院が立ち退いたと伝わる。

🔽「赤丸村川人山鞍馬寺」、「赤丸浅井神社」の前で、「越中邦利波郡五位庄赤丸村住の藤原直家」が父親の法要を営んだ記録「光源東海和尚録」に初めて【赤丸村】という呼称が登場する。

(※【光源東海和尚録】「富山県史中世」⇒東海和尚は神保氏で、後に「能登総持寺」の住持を勤めた。)
(※「光源寺」⇒鎌倉公方から越中を賜った成田氏が越中に創建した「光源寺」は、高岡市の守山から富山市に動き、加賀藩の菩提寺に成った。)


🔴【越中石黒氏】の一族【牧野太郎二]が「後醍醐天皇皇子宗良親王」を迎えたと伝わる【越中射水郡牧野】の【高木城】!!

2021-04-10 | 富山県高岡市福岡町
■【越中射水郡の高木城】

戦国時代に神保氏の家臣「寺嶋牛介」や兄の「小嶋甚助」が居城にしたと云われる【幻の城】の【高木城】。







■南北朝時代に「後醍醐天皇」の庄園で在った富山県高岡市福岡町赤丸を中心とした【越中吉岡庄の赤丸浅井城】に「石黒重之」が「宗良親王」をお迎えしたと云われ、越中石黒氏が興国三年に「後醍醐天皇第八皇子宗良親王」を先ず迎えた城として「越中高木城」が登場する。
この場所は、明確な資料は無かったが、射水市で確認した所、射水市北高木から大島町高木に在ったとされる。この地域を発掘調査した記録によると、数々の遺品が発掘されていると云う。神社庁の記録では「大袋庄高木城」となっており、その中心には「道神社」(※36ケ村総社)が在った様だ。この隣接の高岡市下牧野地区には「宗良親王」が滞在されたとされる「樸館塚」や親王所縁とされる「長福寺」等がある。










🌸🏯 【木舟城】(※高岡市福岡町)の秋 ⇒「貴船神社」には真紅の彼岸花が咲き乱れています!!

2021-02-20 | 富山県高岡市福岡町
【木 舟 城 古 絵 図】
(※加賀藩十村役杉野家文書)




■「越中木舟城」は越中利波郡トナミ に在り、「越中石黒氏」が歴代、居城として来た城だが、越後の「上杉謙信」が攻めて来た時にはその支配下に成ったり、「織田信長」の家臣「佐々成政」が越中国主になるとこの城は佐々家家老「佐々平左衛門」の居城となる。「佐々成政」が「能登末森城の戦い」後は、侵攻してきた「豊臣秀吉」に降伏し、「前田利家」の支配下に成る。しかし、飛騨を震源とした天正の大地震に因って沼地に建てられていた城は地中に埋没し、城主「前田秀継」以下の家臣共々、全滅したと云う。その後、木舟城下の住民は石動町(※小矢部市)の「前田利秀」の居城の「今石動城城下」や高岡市の「木舟町」等に分散して移動している。
「越中石黒系図」等によると、元々、「木舟城」は「延喜式内社赤丸浅井神社」・「赤丸浅井城」を中心とした「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄続いた皇室直轄庄園「越中吉岡庄」に築かれた「赤丸浅井城」の出城で在り、「赤丸浅井城城主石黒光景」の子供の「石黒光弘」が居城にしたとされる。この庄園は、室町時代になると、足利幕府の粮所と成り、「足利義満」は「五位庄」を「相国寺」に寄進して、地頭として畠山一族を配置している。古絵図には、「畠山持国」の居城「赤丸浅井城」や「石黒氏」の居城の「木舟城」・「福光城」が記載されている。(粮所;軍粮を賄う為の庄園)
(※「越中統治絵図」畠山文書)

▼上皇~天皇家庄園の【越中吉岡庄】(※平安~南北朝時代)の主な領有者
・後白河上皇
・後鳥羽上皇
・後醍醐天皇










■「越中石黒氏」は源平の「利波山の戦い」(※倶利伽羅山の戦い)や後鳥羽上皇の「承久の乱」、「南北朝の戦い」等にも登場し、古代氏族「利波臣」や「藤原氏の加賀林氏」の末裔とされ、「古事記」にも「高志利波臣」として登場する「天皇家子孫」とされる一族だ。富山県には、古くからこの支配地域を「利波郡」と呼び、近世には「砺波郡」や「西砺波郡」・「東砺波郡」として地名が残っている。
(※「平家物語」・「源平盛衰記」)














■【越 中 木 舟 城】(富山県高岡市福岡町木船)














🔽最近発見された【木船神社】の御神体
(※大彦命⇒石黒一族の祖、 天正元年)


■木舟城絵図の中に【石原殿】と云う場所が在り、「木舟城主佐々平左衛門」 (※佐々家家老。妻は佐々成政の娘。)の子孫は金沢へ移って「石原」と改姓して、初代は「石原宗左衛門」と改名している。その子「石原善兵衛」の時に加賀藩から客分として「150石」を給されている。
(※「先祖由緒帳 石原才二郎系図」金沢市立玉川図書館)





■【五郎衛門三昧サンマイ】
【木舟城絵図】の西部には「五郎衛門三昧」が記されており、この中には嘗て、三基の「五輪塔」が在ったが、区画整理の時に城跡の西の「神明社」の境内に動かされた。この「五輪塔」は鎌倉時代から南北朝時代に盛んに造られたものと酷似している。恐らくはその時代に越中利波郡を統治していた「越中石黒氏」の遺跡と見られる。この地域に「五郎衛門家」が残っておれば間違いない。

🔽室町時代の「畠山文書」(※「羽曳野資料叢書」)では、室町時代の赤丸浅井城には「越中守護畠山持国」、木舟城は「遊佐氏」、福光城は「石黒氏」が統治していた事が記されている。



▼「三昧」は「火葬場」の事で、「●●三昧」と固有名詞を冠した三昧は、「五郎衛門家専用の火葬場」で在って、その一族以外は使用出来なかった。赤丸村にも、柴野城主「寺嶋牛介」の子孫が加賀藩から赤丸村を知行されて「寺嶋三九郎」と名乗った一族専用の「三九郎三昧」が在った。これ等の専用の火葬場はその地域を知行された武士階級が使用した三昧で在り、庶民は別の場所で野焼きしていた。

🔴🔹 「 赤丸浅井神社」の神官「川人貞良氏」の記録 ⇒ 南北朝時代の【越中吉岡庄】の記録!!

2021-02-14 | 富山県高岡市福岡町
■赤丸村の【城ヶ平山】は後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」に在ったが、後醍醐天皇の第八皇子の【宗良親王】は南北朝時代の興国三年に吉岡庄(赤丸村)へ入られ、「赤丸浅井城」へ入られてその宿舎は「城ヶ平山」に「親王屋敷」が設けられたとされ、現在も「親王屋敷跡」が遺されている。

宗良親王の「李花集」には
『かそふれば七とせもへぬ 頼みこし 七の社のかけをはなれて』 と御詠歌された。
又、建武二年、赤丸城ケ平山に御殿を築かれ、御遷殿の御歌に
『城かきをきつき 八重の垣平らかに このうへなきや 乗り合ひの里』 と歌われて、この御殿の建つ場所を「城ケ平」と名付けられられた。
























■[赤丸浅井神社の宝物]に見られる[加賀藩第13代前田斎泰]の親筆「浅井神社」









■【石黒越中守重之公御事歴】
(昭和14年2月28日 川人貞良誌⇒越中の南朝の歴史研究者で延喜式内社赤丸浅井神社神官46代目・教員「昭和16年没」)

▼略説; 石黒重之公は吉野朝時代の越中に於ける勤皇党の旗頭であって、一族宮崎貞範公が宮崎城を根拠に新川郡即越中の東半を風靡し、京都に往来して、後鳥羽上皇に忠勤を抽んでたのと比肩して、重之公は宗良親王を奉じて、木舟城を中心に、浅井城・福光城を連ね、城を砺波・射水の両群即越中の西半に振い、吉野朝57年間、よく足利方に対抗して、朝廷の一支柱となったのである。
勤皇の事蹟としては、常陸国小田合戦に武功のあったことと、宗良親王が各地ご転戦の後、越後の寺泊より御出船あらせられ、越中の名子の浦に御着船遊ばされたのをお迎え申して、自館に入れ奉ったことが明記されているのである。
なお宗良親王の越中で詠み給うた御歌並びに越中に遺し給うた御事跡、又重之公の子重行公の行動等が、その勤皇の事実と功績とを証明するのである。更にその系図と思想系統・信仰系統を調べると、その偶然ではないことが點頭かれるのである。
系図―①、石黒大介閣下家譜(抄出)
―忠頼―・・・ 次頁
藤原利仁―叙用―吉信―伊博―為時―為頼―頼基―基康―基重―基成―重武―基永―基連―基教―重定(之)―重行―重直―朝房―親基―仲重―茂連―高重―重成。
―光慶―重通―満直―惟清―安胤―重紹―重敬―宣迢―重香―重厚―重興
②、石黒敏雄氏系図(抄出)
藤原鎌足―房前―魚名―鷲取―高房―時長―利仁―叙用―吉信―忠頼―則高―為輔―伊博=為延=為頼=頼基(以下大介閣下ノ家譜トナル筈デアルガ本系図ニハ略サレテオル)
忠言―則景―光景―光弘―英光―成秀―秀政―光政―光重―重高―光吉―成光―政成―氏光―光昭―光綱―光国―光直―光教―成親―成定―成綱―成重
③、本朝尊卑分脈系譜離要集巻(抄出)
時長―利仁―叙用―吉信―忠頼―則高―為輔―忠言―則景―光景―光弘(光弘ハ木舟城築城者ナリト伝エラレテイルガ本系図ニハコレ以下略サレテオル)
 ―伊博―為延―為頼―頼基―基康―基重―基成=重茂(武)=基高=基永=基有=基蓮=基教=基久
④、三州誌による木舟城主の系図(抄出)
光弘・・・数代不明・・・光直―光教―成親(觀)―成綱―左近
⑤、湯原家記による木舟城主の系図(抄出)
光弘―国綱―光直―光則(教)―成親(觀)―成綱―左近
⑥、湯原八之丞氏家系による木舟城主の系図(抄出)
成光…某甲…此以下五六代失名・・・光教―成親(觀)―成綱―九郎左衛門―左近
 以上各種の系図を見るに精粗の相違もあり、文字にも多少の相違はあるが、戦国時代に於ける木舟城主は利仁の孫、吉信の子、忠頼の裔である所の光弘が始祖であって、織田信長に暗殺された成綱の子迄を記しているのである。成綱の子は成重とも左近とも記している。
 吾人が吉野朝の忠臣と仰ぐ重之公は利仁の孫である所の吉信の子で、忠頼の弟にあたる伊博の裔であって、その子、重行は尾張に隠れ、重行より八代目の重成は尾張侯に仕えて、世々家老となり、その家が栄えて重興氏即大介閣下となったのである。
 但し、大介閣下の家譜では、伊博から九代目の基永は基成の子重武の子となっているが、尊卑分脈では重茂(武)の弟基高の子となっている。これは他の史料を俟って判定せらるべきことと思われる。

勤皇の文献 ①、「浪合記」 延元二年宗良親王名子貴船山城主石黒越中守重之が館に入らせ給ふ
②、「湯原家記」 冬十月、暦應元年戊寅南朝延元三年宗良親王駿河より信濃に就き大河原に至りて香坂高宗の家に寓す北陸に志を南朝に通ずるものありと聞き微行して越中の国に就き石黒氏の家を主とし到處詠歌以て述懐す(三州志鞬櫜餘考)
③、「通鑑」 興国元年冬十月宗良親王駿河より信濃に就き給う また越中に入り石黒に頼り給う
④、「遠江風土記」 宗良親王興国三年信濃国を立ち越中へ就き給ひ、名子の浦石黒越前守重之の館へ入らせ給ふ。六年信州に移り給ふ
⑤、「櫻霊記」 北国の兵士、南朝に心を通ずる族あり。宗良招に応じ、潜に越中国石黒某が館に就き
⑥、「射水郡誌」 興国三年宗良親王越中に就き奈古浦石黒越前守重之が館に入らせ給ふ
⑦、「石黒大介閣下家譜」 重定、越中守奈呉郷貴布禰城主迎宗良親王入城常州小田合戦有功
⑧、「石黒敏雄氏系図」 光吉、稱九郎入道建武来足利臣桃井直常居越中州放生津欲取石黒氏之邑而併之屢與光吉戦不克後遂連和観應二年新田義宗自越後州就京時光吉以兵属之
⑨、「赤丸名勝誌」 浅井城、花園天皇の頃より石黒光弘の後裔此地に住して延元中次郎光景の城にありて南朝のために謀ることあり石黒氏は北條氏を忌みて新川に転ず(中略)赤丸領の内浅井の城とて有此古城昔天正帝宮様御入被遊共以後下間和泉居城と申傳候(下略)
⑩、「越中勤王史」 石黒左近太夫将監盛行いまの西砺波郡の木舟に籠り(中略)石黒次郎光景延元以来同郡浅井城により両氏共に吉野朝廷に心を寄せたる勤王の武士であって孰れも宗良親王を奉迎した(中略)親王は当時まづ石黒郷二十四ケ村の者を鼓舞して専ら吉野朝廷へ志を通じさせられ、遂に水波両郡に及び衆民恭敬庇護して財物を奉った(中略)又地名辞書には加越能三州志に載せる宗良親王石黒の館に移り給ふとは何処と判らないが、石黒郷の中と見る方が穏かであると説いてある(下略)
⑪、福山壽夫著「宗良親王」  
親王復、寺泊を発し越中に就かせ同国の住人石黒盛行の迎ふる所となりて御住居を名子の浦に営み給ひぬ

文献に対する考察 重之公の名義は諸書に散見する所であるが、大介閣下の家譜では重定とあるので、何れが正しいかは疑問である。然し定の草書と之とは誤り易いから、諸書に伝ふる史実と、大介閣下の家譜に記す事蹟とを比較する時、重之公と重定公とは同一人であることに疑わないと考えられるのである。
 次に重之公の稱へが遠江風土記・射水郡誌では越前守としてあるのに、浪合記及び大介閣下の家譜では越中守となっているので、これも疑問といえば疑問だが、常識的に見て越中守の方が妥当のように考えられる。
 又越中勤王史や福山氏の著書には石黒左近大夫将監盛行が木舟城に籠ったとあるが、これは三輪国治氏の説に従へば南方紀傳が原據のようであるが、木舟城と関係深い石動町観音寺文書には、「観音寺は本覚山と称し真言宗高野山金剛寺末にして(中略)木舟の城主石黒氏累代の祈願所なり、然るに石黒左近将監藤原盛行天正九年七月織田信長に嫌われ佐和山の城にて自殺云々」とあるから、或は盛行といふのは信長の為に暗殺された成綱と同一人物ではないか、然らば盛行は吉野朝の人物だはなくして戦国の人物といふことになるのであるが、南方紀傳が余程確実な史料とすれば逆に観音寺の文書が誤伝で、盛行は或いは重之公と同一人物ではないかとも考えねばならぬのである。一段の研究を要する問題であるが止むを得ぬ。今一つ石黒敏雄氏の系図にある木舟城主石黒光吉が□属桃井直常と戦ひ、後直常がこれと和睦した。観應二年(正平六年)新田義宗が越後より京に赴く時、光吉も兵を率いて之に従ったといふのを重之公との関係が如何なるのかといふ疑問が起こるのである。此の疑問を解決するには重之公が果たして何処の城主であったかといふことを明瞭にしなければならぬ。これに就いての私の見解はこうである。浪合記に「名子貴船山城」とあり、大介閣下の家譜に「奈呉郷貴布禰城」とあるに鑑み、名子(奈呉)が郷名であると考えねばなるまい。名子が郷名であるとすれば長岡郷であろう。長岡郷は後世糸岡郷と称え、木舟は糸岡郷に入るのである。従って奈呉郷貴布禰城とは、今日の西砺波郡大瀧村木舟にあったので、それが即重之公の居城であったのである。故に後世、即戦国時代に越中の西半に武威を振った木舟城主石黒氏の祖先たる光吉は重之公とは同族である。重之公とは気脈も通じ、宗良親王に対しても忠勲を励んだではあろうが、時には桃井直常とも和を講ずる程だから、当時の木舟城主ではなかったのである。光吉或いはその系統が木舟城主となったのは、應永年間に重行公が尾張に隠れた後のことである。
然るに三輪氏は重之公の居城は木舟ではない。久々湊に「苗古城」といふのがあって、久々湊の石黒好雄家の過去帳に「是以前御先祖法名書物は紛失いたし相知不申併御先祖之儀は八ノ宮様御供に御下り相成り候御方にて久々湊村居住則九郎右衛門先祖に御座候と申傳有之」とあるから、此の九郎右衛門の先祖こそ重之公で、重之公の居城は苗古城であったのだと主張されるようであるが、私の見る所では此の九郎右衛門の先祖こそ光吉で、放生津を根拠にした桃井直常がその領地を奪わんとしてしばしば、攻めたのはかかる近接の地であったからでもあると考えられる。
これに反して、今は故人ではあるが、生前熱心な郷土史研究家の奥田庄次郎氏は、名子は阿古の訛傳であって、宗良親王の御歌にある名子浦は阿古浦であり、名古城は阿古城である。而して阿古城は浅井城の別名であると力説されたのである。阿古が浅井の別名であることは事実であって、古記録や古図及現存する地名等によって、浅井城の東麓一帯が阿古下と称え、往古は悪王が淵という漭濺たる一大深淵で、実に小矢部川と庄川との合流點になっていたといふのである。川下に當って氾濫を防ぐ為に石堤を築いた所が石堤村で、深淵の所々に川原・白川原・荒屋敷・中居等の字があり、川の向には向野がありこれも字名として残っている。而して浅井神社の御身體は悪王淵よりお上りになったという伝説があり、城ケ平山の殿様井戸からは漁網の錘が堀上げられたのでも、往昔の状況が想像されるのである。然し阿古が浅井の別名であっても、宗良親王の御歌にある名古浦は阿古浦であるとはちょっと受取りにくいのである。更に三輪氏は林喜太郎氏の説として、「重之公の貴船山城は、大瀧村の木舟では山城とはいいかねるし、さしたる要害でもないから、浅井城がさもなくば浅井城に近い一層要害な地でなくてはならぬ。」といって居られるが一考すべき説かとも思われる。
猶ほ富山中学の大村氏は、「貴布禰社が山城国から遷されたといふ説は面白いが、貴船神社は鞍馬の麓にあるのだから、京都の鞍馬を写したといはれる赤丸村の鞍馬寺からは隔たりすぎるようだ。これが同時に、或は同一趣旨で写されたものとすれば、もっと近くなければならぬ。」と述べられた。
所で、赤丸名勝誌及び越中勤王史に見える、浅井城の石黒次郎光景とはどんな人か、石黒敏雄氏の系図及尊卑文脈の系図によれば光弘の父が即光景である。すると延元や正平には生存しない筈である。尊卑文脈にはもう一人光弘の七代の祖則高の弟に成家といふ人がある。その成家の玄孫も光景といふ人である。此の二人の内の誰かが浅井城を築いたもので、その子孫が代々城主として居住し、延元の頃の城主が傳へられる通り、勤王方として活動したのではないかとも考えられているのであるが、浅井城居住の石黒氏は、後亀山天皇御還京後、早くも新川郡に遁れたらしく、名勝誌では北條氏を忌んでとなっているが、実際は将軍方の厭迫に耐えかねて去ったものらしい。従って文献は勿論伝説さえも充分ではないのである。又福光城の石黒氏は文明年中まで続いたが、文明年間一向一揆の為に滅ぼされたといふ。木舟の石黒氏は天正年中まで繁栄したので、文献も多く、伝説も多いのである。但し、前にも言った通り木舟城の石黒氏は系統が途中で変わっているようである。結局重之公の居城を確定するには今一応の検討を必要とするのである。
茲に又一つの問題がある。それは宗良親王の御居住の名子浦は新湊の海岸であるといふ説及び牧野が宗良親王の御潜匿の地であるといふことについてである。これに就いては先年北陸日々新聞の越中古城物語に「浅井城を繞りて吉野朝時代の越中と砺波」と題し、「名子と牧野」といふ小題で詳論したのであるが、其の後「新湊町資料」に引用した古図を見ると、名子浦は氷見郡小境辺の海岸の名称となっているので、新湊の名子町は後世の名称であると感じたのである。又石黒敏雄氏系図中にも見える如く、足利の臣桃井直常が放生津を居城として、宮方の光吉と争ったとすれば、年代に多少の疑問はあるが、此の附近は宗良親王に対し奉っては危険地であったことを裏書されたような気もするのである。
こらは某氏の談話であって、文献を見た訳ではないから、確かな証拠とは申しかねるが、天明年間に牧野の十村役、荒木初穂といふ人の書上に「私先祖は鎌倉将軍の宮の御伴をして来たもので云々。」いふことが書いてあるといふことである。一方砺波誌には鎌倉将軍宗尊親王の御歌「あけすとも猶影のこせ白妙の卯花山の短夜の月」といふのを宗良親王の御歌としてあるのである。すると射水・砺波の地方では宗良親王の御歌とか御遺蹟とかいふものの中には、他の御方の御歌や御遺蹟が、無意識か故意かは知らぬが混在していることがあるといふのである。竟り牧野の宗良親王に関する伝説は此の種のものだといふのである。
 思想系統による考察 石黒・斎藤・富樫・林・宮崎等北陸武士の鼻祖たる藤原利仁は尊皇義勇の士であったことは周知の事実であるが、寿永の頃、源義仲が以仁王の令旨を奉じて、僣上驕奢な平家討伐の義軍を起すや、石黒太郎光弘・高楯二郎光延・泉三郎・福満五郎・千国太郎眞高・向田二郎村高・水巻四郎安高・同小郎安經・中村太郎忠直・福次郎範高・吉田四郎・賀茂島七郎・宮崎太郎・南保二郎・入善小太郎等越中の武士は皆奮起して応じたのである。殊に光弘は石黒一族の指導者として、その勇武を歐はれている。即「小勢を以て十萬余騎には當り難し」との軟論を押えて、「大勢小勢をば云べからず、如何にも御方を後にあて、敵に向は武士の法也、軍せずして参たらば、定めて尋給はんずらん、勢は幾程ぞ、陣をば何に取たるぞ、御方には誰が手負討たれたるやと」説いて、些か五百余騎にて、加賀国に入り、安宅渡に馳集り、城を構えて平家を待程の勇士であった。
越中前司盛俊の大中差の矢に射られ、弟の福光五郎の肩に助けられても、十日ばかりの灸治で、砺波山の合戦に出た程の豪気さであった。かかる忠義勇武の思想信念は越中に於ける石黒一族の誰もが堅持する所であった。
 承久三年北條朝時が北陸道を京に上ると聞くや、後鳥羽上皇の御旨を奉じた宮崎政時(定範)は、越中の東境、宮崎の地でその大軍を防いだのである。宮﨑政時は光弘の子孫で、石黒の一族である。惜しい哉時に利あらず退いて越中の西境、砺波山一帯で北陸軍を食い止めようと計った。かつて京都からは仁科盛遠が援軍を率いて到着したので、早速軍議を凝らし、自身は仁科と力を協せて黒坂口を固守し、志保山口は同志の糟谷有名、左衛有久、伊王左衛門等をして固守せしめ、越中の同族、野尻・河上・石黒等も之に應じたが、兵僅かに七百ばかりであった。此の合戦に仁科・糟谷等は戦死し、林・石黒等は敵将結城の陣に降るの止むを得ざるに至ったのである。然しこれが為に越中の勤皇党が屏息した訳ではなかったのである。
 元弘三年京都の両六波羅が陥ると聞くや、越中の勤皇党は忽ち蜂起したのである。そして北條方の守護名越時有を放生津の館に攻めた。一時は畏くも恒性皇子を弑し奉った程の暴虐な時有も、この度は入水しなければならぬこととなったのである。かくて越中に於ける北條方の勢力は顛覆して建武中興の新政を迎えることが出来た。
 然るに悪逆、足利尊氏の謀叛は再び北條時兼をして、その叛逆を肆ならしめる機会を作った。即時兼は鎌倉に於ける北條時行、京都に於ける西園寺公宗と気脈を通じて叛乱を企て、一時は猖獗を極めたのである。これについて一挿話がある。石堤村麻生谷西光寺は「開基了順の祖先は田原藤太五世の孫、鎮守府将軍藤原利仁の第三子光義と称し、後冷泉天皇の朝、康平七年越中守源義家に従い当国に降り砺波郡井口郷に住み井口三郎光義と称した。
 光義五世の孫光成は養藤蔵人と称した。光成九世の孫光高は養藤蔵人成綱と改名したが元弘二年名越時兼に攻められて戦死した。成綱の嫡子養藤倉之助が剃髪して天台宗に帰依して法名を了順と号し同郡廣谷村に一宇を建て西光寺と称した。と伝えているが、成綱が時兼に攻められたということは年号に数年の誤謬があるが、時兼謀叛の際の石黒一族の動向を物語るものと考えて宜しかろうと思うのである。
 要するに重之公の祖先及び一族中の先輩は藤原利仁といわず、石黒光弘といわず、宮崎定範も養藤成綱も勤皇の思想強烈な人々であり、寿永の高楯・泉・福満・千国・向田・水巻・中村・吉田・賀茂島・宮崎・南保・入前の如き、承久の糟谷・伊王・野尻・河上・石黒・林等の如き何れ劣らぬ忠勇の士が多かったのであるから、これ等の人々の勤皇思想を継承し、剛毅忠勇の感化を受けて、自身も早くより朝廷に通じ、志操を堅くしたのであろう。常州小田合戦に功があったといえば、北畠親房公にも親炙し、神皇正統記の思想をも注ぎ込まれていたに相違あるまい。従ってよく五十七間の忠勲を励み、子孫をして更にその操守を堅からしめることが出来たものと想像される。
信仰系統による考察 尊卑分脈に鞍馬寺縁起を引用して、「利仁為鎮守府将軍智勇□偉
足将師突□之類莫不歸服爰下国高蔵国郡盜蟻聚千人結黨蔵峯安寫其前鋒自関東貢朝之調庸雜物為□黨類常被抄功国之蠧害唯以在之因玆公家被忽撰其人天下所推僱在利仁可討罰昊類之由被絲綸之雖悦清撰尚恐難勝仍為仰天王之加被参籠當山(鞍馬寺)祈祷即有爾現楊鞕首着下野国高蔵山麓時之晩夏六月十五日也心有思忽令作攏漸及深漏近召腹心之武士間云大雲降哉即従不知将略答云天晴将軍大怒賜劔令死又經小時召他勇士所問如初伏思前車之誡詐稱降雪之由利仁甘心服膺己及半夜陰雪四合寒雪高積萬谷千岩不辨高下徐至遲明雪止利仁運千里之籌率四方之兵各着鹿敷不物鵝毛賊従飢凍不能歩利保死勝遂失一人當千遂斬凶徒献□萬許是以振天下武略抬海外」
と記しているが、藤原利仁が鞍馬の毘沙門天を信仰したことは明らかである。従って越中に於ける利仁の後裔たる石黒の一族が鞍馬寺の奉紀する浅井神社を崇敬したことは疑いの無い所である。亦、鞍馬寺の麓の貴船社を崇敬したことも考えられる。だから石黒の一族が当地に移した貴布禰社を崇敬したことも無理ではないのである。而して萬一某氏の説の如く、光景が浅井城を築き、光弘が木船城を築いたものとすれば、浅井神社は浅井城の鎮守をして残し置き、新城の鎮守としては、貴布禰社を遷したのではないかとも考えられる。若しそうだとすれば鞍馬寺と貴布禰社とが隔たり過ぎるという大村氏の不審も解決さるゝ次第である。而も木船城主石黒氏の明神崇敬は殊に甚深で、重之公の子重行公が木舟を去るにあたってはそのご神体を奉じて行ったという。そして、各地を廻り巡って尾張国に永住の地を定めると、大井神社をして奉社したのである。大井神社には貴船明神の外に塩釜様もお祀りしてあるというが、これも諸国遍歴の事実と関係深い神様らしいのである。大井神社には大炊介重行公が本遷・鎮祭した神社だから大炊神社と称えたのが、後世大井の文字を用いるようになったものと考えられる。偖て重行公が御神体を奉じて去られたことは当地では知られていなかったが、貴布禰社にご神体はおわさぬという伝説は古くから木舟に語られている所である。兎に角重行公が明神の御神体を奉じて去ったことが、重之公の木舟城主であった一証左と見なければなるまい。
石黒一族が浅井神社を崇敬したのは当時の武人の間では、毘沙門天の信仰が盛であったからであることは、前に鞍馬寺縁起にある通であるが、浅井神社は元来八河江比賣命を祀った神社であるのに、どうして本地毘沙門天と稱えるかということに私は大きな疑問を持っていたのであるが、萩行密岩師の説に、八河江比賣命の御別名が葦名陀迦神とすれば、その理由を梵語で解釈が出来るとの事であった。即「□□(アシ)は剣、3□□(ナダ)は呼號者、□(カー)はインドラ即ち創造神となるから、葦名陀迦神は即剣戦を持ち雄叫をなせる創造神であるから、御神徳が毘沙門天に似通っている。」というのである。惟うに八河江比賣命は治水上の御威徳は八龍の如く、水利上の御功績は作物の育成そのものであり、而も祖神として無限の愛撫を垂れ給うたのであるから、御神徳のお盛んな點、実に剣戦と雄叫を創造力の上に顯現し給うのである。
猶ほ毘沙門天を嵩皇産靈神と崇められたのは、昨年北日誌上に発表した通りの事情によることで、浅井神社が天台神道の影響を受けた一證で、宗良親王の御信仰の系統を曳いているのである。当時毘沙門天の信仰と相並んで、観音の信仰も極めて盛んであった。禅恵法師は浅井城の南麓に総持寺を再興し、千手観音像を安置して、皇運の恢弘・皇族及び忠臣の冥福を祈り、真言教勢の拡張を計った。昭和十二年五月この観音像は国宝に指定されたが、指定理由は国宝略説第三輯に載せられている。「(前略)像高二尺四寸四分寄木造、玉眼嵌入、漆箔、像内腹背及び首枘、膝裏等に左記の銘がある。是によれば正平八年仏師幸賀竝に頼眞の手になり、四月三日に納置せられたもので、銘文中にある金剛位禅恵は河内金剛寺の学頭禅恵法師であろう。總持寺は慶長年間今の高岡市に移転以前は西砺波郡赤丸村の地に在った。李花集に興国三年宗良親王は諸国転戦の後、越中国に赴かれ、名子浦に駐り給うことが見える。赤丸は庄川沿岸に位し、名子浦に遠くなく、南朝方の策源地であった関係上、王事に盡せる禅恵も亦当地に来りしことかと思われ、而かも金剛寺所蔵の佛書中に禅恵の筆録多いのにも拘らず、本像銘記の正平八年には記載するものを存しないことはこの間の消息を物語るであろう。即ち本像は製作年代も知られ、その造像銘記は北越地方に於ける南朝の動静を窺うべき資料としてその像値を認むべきであろう(以下略)」とある。像内には藤原浄圓大檀那等の文字も讀め、其の他信徒の法名らしいものを多く記してあるが、此の藤原浄圓は浅井城主ではないかと想像され、常時禅恵の教化によって、観音の信仰は非常な勢いで高まったものと見え、木舟城主もその附近即城南の五社村に法憧院を建て、祈願所としたのである。法憧院は後観音寺と稱え、木舟城石動町に移転の際、石動町の現地に遷ったのである。
 某氏の説によれば、安居寺の国宝、正観音像も木舟城に近き長岡神社の本地佛であったというのである。其の証拠は安居寺の仁王古像の腹腔内に銘及び慶長二十年二月の文字があり且つ某氏所蔵の古文書に同寺は同年の移転であり、正観音像の逗子及び鎮座は金沢藩の老臣岡島備中守の寄進で、観音堂また仁王像はその奥方の寄附であるといわれているが、かかる大刹が木舟城から程遠からぬ七社に在ったとすれば、必ずや木舟城主の信仰保護を受けたことと思われる。そこで木舟城主の観音信仰という点から、禅恵法師を中心とする総持寺・観音寺・安居寺の連絡及び安居寺に傳える宗良親王及び長慶天皇の御事蹟と重之公の勤皇精神及び勤皇事蹟等に何等かの關係があり得ると思われるのである。此の項に就いては論議すべき問題も多いが、今は省略する。
宗良親王と重之公 宗良親王の御歌並びに御遺蹟が重之公の事蹟と功績を証明する点に就いても、昨年北日紙上で、「宗良親王と石黒氏」「木船城と石黒氏」「七社の御勧請」「知識引と五位庄」「極楽寺と熊野社」等の小題目を掲げて論じた所である。
 その要旨は重之公を頼らせ給うた宗良親王は、木舟城よりもより要害な浅井城に遷り給い、武神としての浅井神社を御崇敬の余り、都で御崇敬の篤かった清水・愛宕・加茂・八幡・北野・山王・熊野の七末社を御勧請あらせられ、且つ、祭紀の費として、五位庄各戸より、毎年玄米一升宛の初穂米を奉納せしめられたのであるが、これを知識引と唱え、その管理を川人山鞍馬寺の四十八坊に、なさしめられると同時に、皇運恢復の為四十八坊の法力及び武力をも御利用遊ばされたのである。
 その後更に要害なる馬場村極楽の地をうつし、極楽寺を創建し給うてからは極楽寺が、知識引の管理に当ったのである。極楽寺が他に転出してからは四十八坊中の東坊がこれを管理し、徳川時代を経て明治四年に及んだのである。徳川時代に知識引の初穂米を管理した帳簿は今も浅井神社の社務所に保管されて居るが、天冠山定規日鑑という石堤村三光寺の蔵書には写真の様な記事があって、知識引の裏書をしている。
 此の間重之公は浅井城・鞍馬寺・極楽寺等と連絡して越中の勤皇勢力に努力したに相違ない。
重之公の墓所と重之公 重行公が木舟城を去った理由も昨年北日紙上で、「勤皇越中の顯れざる理由」という小題目下で論じておいたが、要するに後亀山天皇御還定の後、足利将軍は越中統治の癌として、五位庄に於ける蔦宮方勢力の粉砕に全力を傾注し、或は武断的に、或は政治的に、そしてまた宗教的にあらゆる方策を用いたので、その弾厭政策の徹底と倶に、重行公のみならず、武士も社人も寺院も、幕府に屈服することを好まない者は皆遁鼠したのである。転出を欲しない者は膝を屈し節を曲げて、蔦宮方であったことの誇りを隠し、家系・由緒を紛更して、□迫の手を免かれようとしたのである。
だから重之公の墓所も確たる証左はない。貴布禰社の境内にある五輪塔はそれであるといわれているけれども、これは慎重な調査研究を要する問題であると思うのである。
結論 要するに重之公の事蹟は故意に破壊隠匿された形跡が彰半としている。其の記載は極めて断片的であり、その系図も完備したものではない。生死の年月日も、墓所も判然しないが、自己及びその後継者によって、吉野朝五十七年間の越中勤王党を率い、越中の西半を根拠として、強大な足利幕府の勢力に対抗して、朝廷支持の任を完了したことだけは見逃すことの出来ない勲功である。これが戦史に花々しい一旦の討死を遂げて、その志を事業の挫折したのと較べて同日の論にはなるまい。
(昭和十四年二月二十八日 川人貞良誌)
 添付写真
明治二十八年六月製作浅井神社境内外見取絵図
久々湊石黒好雄家過去帳
天冠山定規日鑑
石黒重之公の墓所

石黒家々譜抄
利仁(延喜十一年任上野助 十二年鎮守府将軍武蔵守左近将監)―叙用(正四位下 齋宮頭)―吉信(従五位下 中務少輔加賀介)―伊博(従五位下民部少輔 越前国押領使)-為時(従五位下 越中及領北陸道七箇国)-為頼(従五位下越前権介 領北陸道七箇国押領使惣進捕使)-頼基(従五位下右衛門 号竹田四郎太夫)―基康―基重(四郎左衛門 中務丞)―基成(従五位下 勘解由判官)―基永(四郎左衛門)―基連(九郎兵衛)―基教―基久(九郎左衛門射)-重定(越中守 越中国奈呉郷貴船城主迎 後醍醐天皇皇子宗良親王入城有勤皇功 親王於城中有詠歌見新葉集李花集等□其後常州小田合戦有武功)-重行(大炊介 應永年中遭乱去越中僚倒赴尾張潜在春日郡如意属山田庄 開基如意山瑞応寺奉納大般若経六百巻)-朝房(右馬允 嘉吉年中営替 六所大明神)―親基(七郎右衛門尉)―仲重(治郎兵衛尉)―茂連(四郎左衛門尉)―高重(三郎左衛門)―重直(九郎左衛門)―重成(善九郎 長久手合戦有功 出家仕徳川家康)―光慶(新八郎)―重通―満直(五郎八)―惟清(九右衛門)―安胤―重紹―重敬(武兵衛)―冝迢―重香―重厚(太郎)―重興(大介 正四位勲二等 陸軍軍医中将)

大井神社
所在  愛知県西春日井郡楠村如意
祭神  岡象女命、速秋津彦命、速秋津姫命
    式内 国帖従三位
    本殿棟札に記して曰く「明徳四年石黒大炊介重行奥州塩釜六所明神の尊像を負いて尾張に来り春日郡如意郷に住し嘉吉二年壬戊三月石黒右馬允 藤原朝房本殿を改め造営し相殿に六所明神を勧請せり」
祭典 後新□ 陰暦八月十八日 現在陽暦十月十八日
神祭家 鎮座当時より慶長十四年迄は、代々石黒家奉仕せしが
寛文二年 松岡助太夫 禰宜より後代々松岡家奉仕す
氏子区域  現在 如意村
(平成27年1月4日、石黒秀夫転写)
■「石黒氏の歴史の研究」(※石黒秀雄著)によれば、「赤丸浅井城城主石黒光景」は「木舟城主石黒光弘」の父に当たる。


🔴💠🔹 【 越中五位庄】に残る「清和源氏」の記録⇒【源義家】、【木曽義仲】、【源頼朝】、【源義経】の記録!!

2021-02-14 | 富山県高岡市福岡町




■「福岡町史」には富山県西部の五位庄の高岡市福岡町の【向田(村)は康平7年 (1064年) に「源義家」が越中守の時、 家臣の向田行光に命じて開拓した場所】と記載され、越中国は源氏の棟梁として「八幡太郎義家」が越中守として統治していたとの記載が在る。福岡町歴史民俗資料館には「向田遺跡」から発掘された「清原たけすえ」の署名が在る埋経に使用した「経筒」が保管されている。源義家が奥州統治に関わった事と奥州に栄えた清原氏の遺品が五位庄で発掘されている事は興味深い。又、奥州平泉にも「埋経」の文化が在ったと言うことから、藤原摂関家長者藤原頼長の庄園「越中吉岡庄」と同じく頼長の配下で在った奥州の藤原氏にも同じ文化が在ったものと見られる。因に「藤原頼長」は奥州にも五ヵ所の庄園を持ち、奥州藤原氏に管理させていた。(※「兵範記」)
※「越中国五位庄」には多くの「八幡社」が建立されており、八幡太郎義家の尊崇の歴史が在ったものだろうか?





🔻「源義家」については、越中国の射水氏の「三善為康」が著した「朝野群載」の中で康平7年に「源義家が越中守への赴任を希望した事」を記載している。




■源平の倶利伽羅谷合戦の前にも源氏の「木曽義仲」が利波山の麓の「埴生護国八幡宮」に戦勝祈願をしている。又、この倶利伽羅谷の戦いでは越中石黒氏等と共に福岡町向田の領主の「向田氏」や小矢部市蟹谷郷の「蟹谷氏」等が木曽義仲に従軍している。





■「後白河上皇」の庄園「後院領」で在った「越中吉岡庄」(※富山県高岡市福岡町赤丸浅井神社を郷社とした庄園)に、「源頼朝」は弟の「源義経」を逮捕する為に「吉岡庄地頭成佐」を配置した。しかし、「成佐」が、「後院庁」へ庄園からの上がりを納付しなかった為に「後白河上皇」の側近の「藤原経房卿」が頼朝に対して苦情を書き送っている。その回答文書が「吾妻鏡」に「吉岡庄地頭成佐の不法事件」として掲載されている。










■又、【義経記】では、義経主従が奥州に落ち延びた時に「五位庄二位の渡し」(※鎌倉時代には「吉岡庄」)から「如意の渡し」と言う川下りルートで小矢部川を下ったとされ、「二位の渡し」では歌舞伎『勧進帳』のモデルに成っている《弁慶の義経打擲事件》が起こっている。







🔴【衆徳山総持寺】(※高岡市関町)に安置される福岡町木舟の【貴船神社】の御神体【大彦命像】の遍歴!!

2021-02-14 | 富山県高岡市福岡町
【能登末森城の戦いに出陣する前田利家】
(※【淳正公家伝】加賀藩前田家第十五代「淳正公(利嗣)」所蔵)
「能登末森城の戦い」では、攻める「佐々軍」(※「木舟城佐々平左衞門」、「守山城神保氏張」、「五位庄柴野城寺嶋牛介」、「赤丸城中山直治」)と「前田利家軍」が激突したが、決着はつかなかった。
(※「寺嶋牛介」は「中山直治」の叔父)








🔻【木舟城の鎮守社【貴船神社】の「御神体」】
最近、発見した高岡市関町の「総持寺」(元々、五位庄赤丸村に在った。)に安置される「貴船神社」の御神体。長く木舟城の城主で在った越中石黒氏の祖先「大彦命」の「神像」と見られる。
➡【天正元年、大彦命】と見られる文字が彫り込まれている。




◆後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」(※高岡市福岡町赤丸)から動いたとされる古刹の「高岡山総持寺」は、前田利長の菩提寺「瑞龍寺」が隣接地に創建された時に、山号の【高岡山】が瑞龍寺に召し上げられ、現在は「衆徳山総持寺」になっている。(※「富山県大百科辞典」富山新聞社刊)

◆この寺は室町幕府から「安堵状」が出されていた古刹で在った。(※【蔭涼軒日録】足利義満が創建した京都府「相国寺」の記録)





◆総持寺には「越中吉岡庄」の領主で在った【後鳥羽上皇】の祈願仏が祭られている。
胎内名に「後鳥羽上皇」の法名【本願聖人 金剛位理卿】が記される。




■【木舟城城主越中石黒氏】の祖先「利波臣」の祖「高志利波臣」(※「古事記」)

🔽この御神体とされる「石像」には、「越中石黒氏」の祖先同族の「(北陸道将軍)大彦命」の名前と「天正元年」の記載が在る。
⇒「彦」は「ヒ」+「子」の略か?

🔽【大彦命】は「先代旧事記」(※伊勢神宮神官度合延経 著)では、【越前、越中、加賀、能登、越後を領した「高志国造」は「大彦命」の末裔】とされる。
《※「古事記」では、「孝霊天皇」の子孫に「高志利波臣」の記載が在る。
又、「先代旧事記」では越中の「射水国造」は蘇我氏の同祖の「武内宿弥」の子孫とされるが、「石黒系図」では「利波臣」と「射水臣」は同祖とされる。「越中石黒系図」では、「武内宿弥」を祖とするという説明と「藤原不比人」の末裔の藤原氏とする説が在り、累代の婚姻や分家等に因って様々な系図が作られている。》

🔻【先代旧事記】に記載される「越中石黒氏」の祖先の「高志国造」
(※「古事記」には「高志利波臣」と記載される。)








■【木舟城】と「石黒氏」
「総持寺」で発見した「貴船神社」の「御神体」の【大彦命】は、年代から想定すると、佐々軍が入城する前の城主で在った【越中石黒氏】が製作したものと見られる!!
石黒氏は織田軍に攻められ天正年間に木舟城を去っている。








🔻「石黒氏居城」の「木舟城」
・天正年間(1573年 - 1591年)、越中国中田城、越中国柴田屋館(天正3年(1575年)頃か)を攻めたとされる。
・天正2年(1574年)7月、上杉謙信に攻め落とされて臣従した様だが、それ以前にも臣従、離反していたフシがある。
・天正5年(1577年)12月23日に書かれたとみられる『上杉家家中名字尽』に石黒左近蔵人(成綱)の名が見える。
・天正6年(1578年)、上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方に付いた。
・天正8年(1580年)2月、天正9年(1581年)4月と2度にわたって一向一揆勢の重要拠点で当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち、結果焼亡させているが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされた。因みに同年7月、石黒成綱を始めとする石黒一門30人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されたが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図るも、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて殺害され、豪族としての石黒氏は滅亡している(成綱の子は後に加賀藩に仕えている)。



🔻「木舟城主佐々成政」の入城
・天正8年7月、織田信長軍の圧力に抗し切れず「木舟城主石黒宗信」が「木舟城」から海路を使って退去した。結果、「木舟城」は織田方の手に落ちて佐々成政の支配下に入り、成政の重臣佐々平左衛門が入った。
《◆「木舟城主佐々平左衞門」の娘婿「前野加賀守」の子孫に、水戸光国の家臣【佐々木助三郎】(※通称【助さん】)が居る。》
・天正12年(1584年)、佐々軍(木舟城佐々平左衛門、守山城神保氏張、柴野城寺嶋牛介、赤丸浅井城中山直治)15000名が「能登末森城」攻略のため木舟城を出発するも撤退【末森城の戦い】。
・天正13年(1585年)5月、木舟城主佐々平左衛門が越中国守山城主神保氏張、越中国井波城主前野勝長と共に、前田方の越中国今石動城を攻めたが、守将の前田秀継、利秀親子によって撃退された(今石動合戦)。



🔻【前田家入城】
.天正13年8月、豊臣秀吉の北国征伐(富山の役)により成政が降伏(なお、この時に成政は大した抵抗もせずに降伏したと云われているが、成政軍の一部が木舟城辺りで夜討ちを仕掛け、前田軍に数十人の死傷者が出たという記述も在る。成政降伏後に前田軍が慰霊祭を行ったとされるが、その時の死者に対して行なわれたものと思われる)。木舟城は前田氏の支配下に入り、前田利家の末弟である秀継が城主となって4万石を与えられた。
・【飛越大地震】同年11月、天正大地震発生。これにより城の地盤が三丈(約9m)も陥没。木舟城は倒壊して秀継夫妻は多くの家臣等と共に圧死した。遺体が見つかったのは3日も後の事だったと云う。また城下も壊滅的な打撃を受けた。遺領は秀継の子である利秀が継いで木舟城に入った。
🔽この時に前田軍は貴船神社の御神体を引きずり出して犬の首に縛り付けて木舟城の前を流れる川に投げ入れて「御神徳が在るならば浮かんで見よ」と嘲り笑ったと言う。この「御神体」が現在、高岡市関町の「総持寺」に密かに祭られている。この直後に起こった「飛越大地震」でぬかるみの上に建てられた木舟城は土の下に埋もれて、城主以下全員が土中に埋もれて死亡した。貴船神社の御神体の「天罰」と言われて、その伝承が語り伝えられた。
「越中石黒氏」の祖先は東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進したと伝わる「越中国利波郡」の名前の由来にもなっている古代豪族「利波臣」の末裔とされて、奈良時代から南北朝時代に越中西部に勢力を持っていた。そこへ、尾張の前田家が攻め込んだ事から、地元民衆の反感が強かった様だ。同じく、尾張から木舟城へ入城した「佐々成政」は信義に篤い武将と伝えられて越中では信頼されていたが、その後に越中に進攻した「前田利家」は各地で「浄土真宗の一向一揆」を皆殺しにしたり、「天台宗石動山」に攻め込んで「全員皆殺し」にして一千以上の人の首を山門に吊したと言う「悪逆非道」の武将で在った。
・天正14年(1586年)5月、利秀が上洛途中の上杉景勝を木舟城に迎えているが、震災の痛手からの立て直しは困難であるとの判断から、その年のうちに廃城となる。行政機能は今石動城に移され、城下の民は四散した。小矢部市の今石動城下に残る糸岡町、鍛冶町、御坊町、越前町などの(旧)町名は木舟城下にあった町名に由来していると云う。慶長14年(1609年)に高岡城が築かれるとゆかりの町人がと移住し、今日に木舟町の名を遺している。
(wikipedia参照)


🔴富山県と北海道に遺されている【愛山姓のルーツ】 「京都愛宕山」の信仰を受け継いだ皇室庄園「越中吉岡庄」に伝わった「坂上田村麿像」を尊崇する文化!!

2021-02-14 | 富山県高岡市福岡町





📕室町時代の「畠山文書」(※大阪府羽曳野市叢書)に「越中国利波郡五位庄赤丸村」(富山県高岡市福岡町赤丸)として見える「越中五位庄」は、「南北朝時代」迄、「越中吉岡庄」と呼ばれた藤原摂関家、天皇家の庄園で在った。
「延喜式内社赤丸浅井神社」は、皇室ゆかりの「門跡寺院聖護院派」の末寺で、修験道寺院の「川人山鞍馬寺」の三社権現の一つで在り、「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」を抱えたのが「三社権現形式」の「川人山鞍馬寺」で在った。
元々は京都の「鞍馬寺」を勘請したものだが、そもそも「鞍馬寺」は「京都東寺」の建設責任者で在った「藤原伊勢人」が創建した寺院で在った。「藤原伊勢人」は夢に「賀茂の神」が現れ「鞍馬寺」の建立を命じられたと言う。その為に「鞍馬寺」と一体的に公家に信仰されたのが、「賀茂神社」、「下鴨神社」で在り、「越中吉岡庄」も度々、「上賀茂神社」、「下鴨神社」の庄園として寄進された時期が在り、「越中吉岡庄」にも「上加茂社」、「下加茂社」が祭られていた。上加茂社の旧地は現在も「福岡町加茂」と言う地名となって遺され、その御神体は「鳥倉八幡宮」に合祀されている。下加茂社の旧地も「赤丸浅井城」の裾野に遺されており、御神体は「舞谷八幡宮」に合祀されている。「舞谷村」の名前は、「下加茂社」に奉納された「舞」を舞った「舞屋」から来ていると伝える。これらの信仰は、長く「吉岡庄」を所有していた「藤原摂関家」の信仰で在り、京都の天皇、公家の信仰でも在った。
(※この両社の神域を巡行した「御神輿」はその後、「福岡町歴史民俗資料館」に寄進され、ロビーに展示されている。)






■富山県高岡市福岡町赤丸は古くから「藤原摂関家領」で在り、伝承では、藤原摂関家で「この世をば望月の月も欠けたる時も無しと思えば・・・」と歌ったと伝わる「藤原道長」の子孫が関わった地域で、「保元の乱」で「藤原摂関家長者藤原頼長」が「後白河天皇」を担いだ「源義朝」・「平清盛」に討たれて、以後は天皇の退位後の「後院領」と呼ばれ、「後鳥羽上皇」以後も南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、「皇室庄園越中吉岡庄」として伝えられた。「赤丸浅井神社」は「延喜式内社」で在り、かつては、「越中国司が天皇の代参をした国幣小社の社格」で在り、この地域53ヶ村を代表する「惣社」で在った。しかも、その御神体は「皇室八神の一」で在り、「大伴氏」「佐伯氏」の祖先神でも在る【高皇産霊神】を祭神とする。従って、「越中吉岡庄」は京都の公家文化を色濃く伝え、浅井神社には天皇の皇子の「宮様達が都の文化を写し・・・」と伝えられている。

◆《二人の二宮》
「赤丸浅井神社」には、浅井神社を中興された「文武天皇」の二宮で聖武天皇の義弟の「通称、元正天皇二宮の石川朝臣広成」と、「後醍醐天皇の八宮の宗良親王」が「二宮」として伝えられる。
(※「二宮」とは、文武天皇の次男の「石川朝臣広成」と言う意味と、同じ母親から産まれた二番目の皇子と言う意味の後醍醐天皇の皇子の「宗良親王」を指す為に、同じ「二宮」と言う事から、往々にしてこの二人は混同されて「二宮」として伝えられている。「石川朝臣広成」は「続日本紀」や「万葉集」にも登場する人物だが、藤原氏の長老の「藤原不比人」が娘の「宮子」が産んだ「首皇子(聖武天皇)」を即位させる為に、「石川朝臣広成」の母親の「石川刀自娘」が不貞を働いたとして皇室から追放したとされる。しかし、文武天皇の妹で母親代わりをしていた蘇我氏系の「元正天皇」は、勅令を出して「天皇の子供は全て親王とする」と命じられた為に、「石川朝臣」と賜姓されて、後には「高円朝臣」と賜姓されている。かつて、「中臣鎌足(藤原)」と「大兄皇子(天智天皇)」が「蘇我蝦夷、蘇我入鹿」を滅ぼす「一巳の変」が起こり、蘇我氏は勢いを失ったが、一族の「蘇我石川麿」は憚って「石川姓」を名乗っている。)

▼室町時代には、「越中吉岡庄」は「越中五位庄」と成り、「足利義満」は「五位庄」を「金閣寺」で有名な「相国寺」の庄園として寄進している。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」の背後の山には、京都の愛宕修験道の「愛宕山」を勘請した「愛宕社」が在った。
(※「赤丸浅井城」や「川人山鞍馬寺三社権現」の「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」、「愛宕社」、「清水観音堂」、「音羽の滝」等が描かれた【川人山三社古墟図】⇒石川県立図書館「森田柿園文庫」)


「音羽の滝」等の在りし日の写真が赤丸小学校校長室に飾られていた。
(※越中福岡の菅笠製作技術保存会長を務める舞谷村城山孝氏所蔵)






■「東大寺領越中吉岡庄」


「越中吉岡庄」の郷社「延喜式内社赤丸浅井神社」には、「東大寺庄園越中石粟庄」から「神田一段」が寄進された。(※正倉院「東大寺庄園石粟庄図」)















■室町時代には足利義満庄園として相国寺庄園「越中五位庄」に成っている。


■「浅井神社」の背後には同じく京都の「愛宕修験道」の本山「愛宕山」が勧請され「坂上田村麿」を本尊とする「愛宕社」が祭られていた。この寺院は明治の廃仏毀釈の時に廃寺に成り、その僧は「愛宕山」から「愛山」と名乗って還俗して、新天地を求めて北海道へ移住した。この時にその財産を「赤丸浅井神社」の鳥居等として寄進しており、現在も遺されている。
現在、「愛山姓」は富山県高岡市、北海道、東京等の限られた地域に遺されている。




■赤丸村浅井神社裏の山に在った「愛宕社」が廃仏毀釈で廃寺になると、「坂上田村麿」の像は同じく赤丸村の総持寺隣接に在った高岡市関町の「天景寺」の客仏として迎えられて、現在は高岡市関町の「火伏の神」として崇敬されていると言う。


🔴【赤丸村浅井城 中山判官物語】富山県高岡市赤丸「赤丸浅井城」の伝説上の城主「中山国松」の資料が明らかになった。⇒ 「赤丸浅井城城主中山治部左衛門尉」の「米貸付証文」(※敦賀市立博物館)

2021-02-12 | 富山県高岡市福岡町
●「赤丸浅井城」は、戦国時代に「中山国松」が城主で在ったと語り継がれて来たが、敦賀市博物館に保管される「赤丸浅井城城主」の末裔の「中山正弥家文書」では、「中山治部左衛門尉(国松)」の名前が見られる。
中山氏の子孫の「中山直治」は、「佐々成政」と「前田利家」が戦った「能登末森城の戦い」に佐々軍として参戦して敗れて、敦賀に落ち延びて今井家の養子に入ったと云う。
(※【判官】;「判官物語」とは、源義経の物語を指し、「義経記」の原型とも云える物語で在る。『判官 ホウガン』とは、衛門府、兵衛府、検非違使等の「佐スケ」の次の官名を指し、「尉 ジョウ」の呼称で呼ばれる。義経が『判官』と呼ばれるのは、木曽義仲を京都で追討し、平家を一ノ谷で破った功績により、寿永三年[1184年]には「左衛門少尉」、「検非違使少尉」に任じられた。この「少尉」を「判官」と呼ぶ事から「源義経」は『九郎判官義経』と呼ばれた。赤丸村の「二位の渡し」で起こったとされる「義経記」の「弁慶の義経打擲場面」に関守の「平権守」が登場するが、この人物はこの検非違使の役人をイメージしている様だ。南北朝末期から「赤丸浅井城」の城主で在ったと伝わる「浅井城城主中山氏」が、その官名を何れも「中山治部佐衛門尉国松」、「中山吉衛門尉」等と名乗っている事から、「赤丸浅井城の中山氏」も『判官』で在った。)





■「赤丸浅井城」の城主「中山治部左衛門尉(国松)」から米を借りていた「赤丸村妙法寺」の事!!

敦賀市博物館の「中山正弥家文書」に、「赤丸浅井城城主」が遺した数十通の証文が残されている。その中に「妙法寺 道正」が「(中山)吉衛門尉」が借入の「口入人」として「中山国松」から米を借りた事を示す米の貸付証文が遺されて居る。
この城について調査されて来た高岡徹氏はその著作の「戦国期越中の攻防」の中で、この「妙法寺」がどこかはハッキリしないとされているが、地元に残る「長善寺」と言う古刹がこの「妙法寺」で在った可能性が高い事が分かった。

■「長善寺」(高岡市福岡町赤丸)



■【朝日山長善寺 由緒】と【赤丸浅井城城主中山治部左衛門尉国松】

「貞享二年 寺社由緒書上」(金沢大学日本海文化研究室 編)では、「長善寺」は「元和七年(1621年) 僧 道正 の中興」とされ、敦賀市博物館に保管される「赤丸浅井城中山家文書」には同時期に「妙法寺 僧 道正」の1584年の米借用証文が残されている。この「道正」が同一人とすると、この時期に「長善寺」は「妙法寺」と言う名前で在り、真言宗か天台宗で在った可能性が在る。住職に問い合わせた所、この寺は元は「真言宗」で在ったと云う。又、「赤丸村 長善寺」から分かれた「福岡町 長安寺」は「大永六年(1526年) 僧 玄淨が再興」とされ、同じく「和田村 善宗寺」は「天文十七(1548年)年 僧法知が再興」とされる。これ等の時期は上杉謙信が越中に侵攻した時期に成り、これ等の寺院は、一向一揆の影響で次々に浄土真宗に改宗していた時期と見られる。
【※「越中一向一揆」は、文明11年(1479年)頃から天正4年(1576年)にかけて、越中の瑞泉寺と土山御坊門徒らが中心となった一向一揆。文明13年(1481年)、福満城の石黒氏は瑞泉寺の一向一揆衆と対立するようになり、石黒右近光義は医王山惣海寺と組んで越中一向一揆衆と山田川で戦ったが、敗れて福野安居寺で自害して果てた。能登畠山氏の要請を受けた上杉謙信は、天文十七年(1548年)八月二十一日、越後の春日山城を出発して越中攻略に向かった。これは、天文十一年(1542年)に越中を攻めた時に長尾信濃守が討ち死にした為に今回はその弔い合戦でも在った。元亀三年(1572年)5月、武田信玄の呼びかけに応じた形で富山県西部の砺波や五位庄(富山県高岡市福岡町赤丸周辺)等に集結した加賀や越中の一向一揆連合軍は、五位庄に集結し、そこから北陸街道を東に向けて進発した。】




■「敦賀市博物館」保管の「中山正弥家文書」の「妙法寺道正米借入文書」によれば、「赤丸長善寺」は元々、「妙法寺」と言う真言宗寺院で在り、その時期に「赤丸浅井城城主中山国松」に対して「口入れ」したのは、「吉衛門尉」と「太郎兵衛」と記されている。
この「吉衛門尉」は、「中山治部左衛門尉(国松)」と同じく「尉」の位で在り、中山氏同族の武士と見られる。

・「中山正弥家文書」(敦賀市博物館 蔵)の「妙法寺 道正 米借入証文」
→口入人 「(中山)吉衛門尉 」 、 「太郎兵衛」
(※赤丸村には数軒の中山家が残っているが、「太郎兵衛」については不明)


■赤丸村の古村と言う集落には 「吉衛門さ」(太吉郎)と呼ばれる古い家系が在り、ヒアリングするとこの家は「赤丸城主中山国松の子孫」と語り継がれており、「中山」を名乗り、現在も「赤丸城ケ平古墳の下」には「300坪」の山林を有すると言う。この地域は「縄伸び」が10倍で在る事から、実際には「3000坪」の広大な山林と成り、現に、城ケ平山の裾には「中山島」と言う地名が法務局で見られる。中山家の当主と奥様に聞くと、先祖から「中山国松」の子孫だと伝え聞いており、「中山国松」は「赤丸城ケ平古墳」の下に屋敷を構えていたと云う。


■「赤丸浅井城」と「赤丸城」
天正年間(1573年~1591年)に、「五位庄城主寺島氏」の下で赤丸村周辺を治めていた国人領主で、「浅井城」城主として「中山国松」が居り、「赤丸城」には弟の「次郎兵衛」を配したとされる。「上杉謙信」が越中を攻めた時に「守山城神保氏張」は上杉家中と成り、「柴野城城主寺島牛介」は「五位庄安堵状」を謙信から与えられた。(※「寺島蔵人家文書」金沢市)「浅井城城主」が亡く成った直後に、「前田利家」と「佐々成政」が戦った「能登末森城」の戦いに赤丸城城主と成った「中山直治 12才」は、伯父の「寺島牛介」に従って初陣を飾った。しかし、その後、「豊臣秀吉」が富山の呉羽山に侵攻すると「佐々成政」は秀吉に降伏して、「浅井城 中山直治」は縁者を頼り越前敦賀に逃れた。その時に、持ち出した大量の証文や系図等が「中山正弥家文書」として、敦賀市博物館に保存されている。この系統は「藤原氏」を名乗る。



■「赤丸城城主」の系統の「中山清暉家」の先祖は、この時に加賀藩に仕官して、以後、藩士として幕末を迎え、現在、この子孫は高岡市羽広に居住され、「由緒」や「知行目録」等を保存されている。この系統は「源氏」を名乗る。




■赤丸村の山林には、嘗て、中山一族の墓所が在り、そこには、「中山」を名乗る墓が建ち並び、立野の長久寺を菩提寺とした。これ等の中山一族の中には「平家」を名乗る一族が在り、各々の中山家は現在、無縁に成って居り、正確な系図は分からない。 赤丸村の「浄土真宗西派 性宗寺」や舞谷村「永賢寺」は中山国松の系統が出家して開いた寺として伝わっている。

🔴【越中吉岡庄】(富山県高岡市福岡町赤丸周辺)の領主【後醍醐天皇】とその皇子達の足跡!!

2021-02-12 | 富山県高岡市福岡町






■富山県高岡市には「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」、「木船城」へ入られた「後醍醐天皇」の皇子「宗良親王」の足跡と、名越氏に捕らえられて暗殺された高岡市二塚の「恒性皇子」の墓(宮内庁管理)が在る。
この時期に越中では、鎌倉幕府北條一門と後醍醐天皇の南朝側が暗闘を続けていた。
高岡市には「後醍醐天皇」に関わる伝承が多い。
元々、赤丸村舞谷に宗良親王が創建されたと伝わる高岡市博労町の「越中宮極楽寺」では、現在も「南朝天皇後醍醐天皇皇子宗良親王」の信仰を伝えている。
又、富山県高岡市福岡町赤丸には宗良親王が入られたと伝わる「赤丸浅井城跡」が在り、宗良親王が勘請されたと伝わる多くの神社の跡地も遺されている。
「富山県高岡市福岡町赤丸」の「赤丸村」の命名は、「後醍醐天皇」が奈良県賀名生の掘家に遺された「南朝の旗標」の【赤丸の御旗】に由来すると見られる。この「掘氏」は、「承久の乱」で「越中吉岡庄」から都へ攻め登った「越中石黒一族」の「掘氏」と見られ、【南北朝時代に石黒一族の棟梁「石黒重行」が「後醍醐天皇の皇子宗良親王」を「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」に迎えた】と伝えられている。
越中では、「高岡市長」を八期も勤めた「掘市長」も「石黒一族」と云われている。(※「高岡市史」)











🔴【東大寺大仏造営と越中国礪波郡郡司一族「利波臣志留志」】⇒東大寺大仏造営の貢献をした【越中国礪波郡郡司】の実在記録!!

2021-02-11 | 富山県高岡市福岡町

■【東大寺修院過去帳】
毎年2~3月に開催される「東大寺二月堂」の「お水取り行事」では「東大寺の創建・維持に貢献した人々の過去帳」の【東大寺修院過去帳】が転読される。越中国礪波郡郡司の「利波臣志留志」は「米五千石(※「東大寺要録」➡「続日本紀」では、「米三千石、庄園100丁歩」と記録される。)を寄進して寄進者筆頭に記されており、「越中石黒氏」はこの「利波臣」の末裔と伝えられる。
(※「利波臣志留志」は「大伴家持」の後に「員外介」に任じられて「越中国司」に任じられている。)







◆【東大寺大仏造営の時に米五千石を寄進した越中国利波郡郡司一族の利波臣志留志の実在記録】





「利波臣志留志」は【聖武天皇】が発願された「東大寺大仏造営」のために、「越中国司大伴家持」の下で越中各所の東大寺庄園開発を担当して、「国指定重要文化財東大寺庄園図」には「利波志留志」のサインが遺されている。「万葉集」には「大伴家持」が東大寺の僧「平栄」を迎えて歓迎の宴を開いた事が記録されている。



■毎年、3月に執り行われる東大寺の二月堂の「お水取り行事」では、必ず東大寺大仏建立の関係者の名前が記載された「上院修中過去帳」が御経の転読の時に読み上げられる。大仏造営の時に率先して米五千石を寄進した「利波臣志留志」は、「利波志留志」として最初に読み上げられるが、そこでは、聞き慣れない言葉で読み上げられる。実物を御覧頂くと判るが、何と「リハシルノリ サクハン」と詠まれている。
この意味は謎で、辞書には【作半】として
『中世、荘園で領主と作人が収穫を刈り分けて折半すること。また、その田。新開地・川成りなど収穫が安定しない土地に多くみられた。』となっている。
と云う事は、【「利波氏」の「志留」は『作人』で在り、東大寺と収穫を折半している人】と云う意味になる。







■「東大寺」の解釈では「サクヮン」とは、当時の四等官の【志】を指しているとしている。当時は国家へ「寄進」する事によって官位を買う仕組みが有り、地方の郡司が中央政府の官位に就く事は大変に名誉な時代で在った。
【令外官】
 [検非違使]⇒「別当 カミ」・「佐 スケ」・「尉 ジョウ」・「志 サカン」
この「志サカン」は権限は無く、文書を読み上げたりする雑事を担当した下級官吏で在ったと云う。