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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🔹【越中国利波郡五位庄赤丸村】と表示される歴史上の初見⇒室町時代、1495年の記録に見える室町幕府御粮所【川人山鞍馬寺】・【赤丸浅井神社】!!

2021-04-17 | 富山県高岡市福岡町
●富山市蜷川の「蜷川新右衛門」の菩提寺「臨済宗最勝寺」を開いた「亀阜豊樹」が【川人山鞍馬寺】・【赤丸浅井神社】で「赤丸村住藤原直家」の父親の十三回忌、十七回忌法要を営んだ記録に、【利波郡五位庄赤丸村】が歴史上、初めて登場する。














「義経記」に登場する「五位庄の二位の渡し」は「赤丸浅井神社」の前に在った小矢部川の舟乗場の事。(※「五位庄」は南北朝時代迄、皇室庄園「越中吉岡庄」で在り、「義経記」は室町時代に記載された為に「五位庄」と記載されている。)



(※蜷川新右衛門は「一休さん」に登場する「新右衛門さん」の事。連歌の宗祇の高弟で、蜷川氏は室町時代には室町幕府政所代として「越中新川郡、利波郡」を統治したと言う。)

🔴【赤丸村古代帳】皇室庄園「越中吉岡庄」、「越中五位庄」の鎮守「延喜式内社赤丸浅井神社」の古代記録!

2021-04-17 | 富山県高岡市福岡町

















●【赤丸古代帳】と赤丸村初代村長『中島吉造』!!

・「延喜式内社赤丸浅井神社」の歴史を伝える古記録。
赤丸村の初代村長の中島吉造は大正十一年十月三十一日に亡くなった。明治二十二年町村制となり、明治三十年村長を辞任して、後に西礪波郡議会議員等を歴任して七十三歳で亡くなっている。明治四十一年三月、五位庄五十三カ村総社延喜式内社赤丸浅井神社を「県社へ昇格」する運動が興り、赤丸村村長中島吉造を中心として赤丸浅井神社の社歴「赤丸古代帳」が編集された。中島吉造は、福岡町に菅笠技術を伝えた伊勢の人「大野源作」の子孫の大野一族で、源作の子孫の次兵衛が赤丸村の向野新村を開き、一族は向野新村に移り住んだとされる。その後、向野新村に祀られていた「神明社」は「赤丸浅井神社」に合祀され、跡地は向野集会所に利用されている。以下は中島吉造家の仏壇から近年発見したこの著作の抜粋で、神社にのみ伝わって、一般の氏子は目に触れる事も無く、神官と一部の有力者にのみ伝えられたものである。(※当時の浅井神社宮司は川人外二郎、富山県知事は川上親晴であった。)

「赤丸浅井神社」は「神社明細帳」に記載される由緒に拠れば、養老元年三月の創建とされ、皇室、国主、武将に崇敬されて社領、寶物等の寄進を受けたが、元弘・建武年間より屡々五位庄で戦乱が有り、神社も数回の兵燹にかかり記録、宝物等悉く焼失したと云う。天正十三年に越中国主となった前田利長は古来の社領、社格を踏襲して、山林三千歩を寄進して神社の修復料とし、五位庄五十三カ村に令して各戸毎に年一升の玄米を知識米と唱えて祭典の時に献納する事を指示した。元和三年には改めて、前田利長の厳命に拠り祭礼への参拝を解怠するべからずと達した。以後、歴代加賀藩主はこれ等を恒例としていたが、明治維新の時にこの知識米の制度は廃棄された。この制度は、越中では赤丸浅井神社と射水神社の二社にのみ許された制度であったと云う。氏子は一万五千四百拾八人、戸数二千六百参拾戸、境内外地は八段九畝十九歩であった。 内訳は福岡町三百二拾五戸、西五位村三百八拾九戸、五位山村二百八拾六戸、山王村三百二拾八戸、赤丸村二百三戸(※各戸年三升の割当て)で、総石高は玄米で六石の石高であった。

●「赤丸浅井神社由緒」

・「延喜式 神祇上 神名下 十 二十九丁目 越中国三十四座 礪波郡七座 並小 浅井神社」
・「大日本史 二百五十九巻 神社志十六巻ノ中百十七丁」浅井神社在赤丸村 以下略
・「日本総國風土記」越中国礪波郡浅井神社圭田八十三束和銅元年戌申九月始奉圭田行神礼有神家巫戸今在赤丸村 以下略
・「類聚國史 第百八十巻畿外奉勅 宮社ノ部」天武帝九年四月越中國礪波郡気多大明神奉勅使献綿二百紙依災蝗
・「三州地理志稿」式内浅井神社 越中國礪波郡在赤丸村末社置石堤村
・「三州故墟考 巻ノ六丁目」赤丸城一ニ浅井ト號ス名一跡也 五位庄赤丸村領ニ在リ浅井トハ赤丸村ニ浅井神社アレバ也 式内ノ神ナリ 以下略
・「新編越中風土記稿 古記」浅井神社 神田百束十字田園 人皇五代孝昭天皇御宇三年戌辰ノ鎮祭 以下略 ・「観跡聞老志 正應二年※1289年」浅井神社礪波郡赤丸村ニ今共神社アリ 以下略 (注:翌年後醍醐天皇が誕生。「赤丸村」初見)
・「北越地理志稿 延寶年中 ※1673年~1681年迄」赤丸気多大明神國府南四里式内帳所載浅井神社 中略 礪波郡一宮也 社領弐百石別当鞍馬寺山號川人 以下略
・「越中國史 寶永年中つ延喜式内浅井神社礪波郡五位庄赤丸村ニ在リ 以下略
・「巡拜薄舊祠記 寛文年中」赤丸権現ハ延喜式ニ浅井神社ト載セラレシシ神社是也 以下略
・「中越神社考」五位庄赤丸村領ニ大社今猶存ス 式ニ載スル所ノ浅井神社是也 盍シ浅井ノ神バ位庄ノ總社ニシテ所謂土地神也 以下略
・「越ノ下草」浅井神社今赤丸村ニアリ 以下略
・「北陸巡遊記 貝原篤信編※貝原益軒:名は篤信、字は子誠、号を益軒
・「損軒・柔齋」浅井大明神ノ大社アリ 前ニ鳥居アリ 正一位浅井大明神トノ額アリ 是ヨリ社ニテ列樹ノ杉アリ 社ハ東向茅葺ナリ 邉地ニハヨキホドノ大社ナリ 昔ハ四十末社アリシト云フ
(正徳三年洛陽六角堂通御幸町西入書林 茨木多左エ門 板行)
・「磐翁巡回記」赤丸村正一位浅井大明神ノ社アリ 延喜式内神名帳ニ礪波郡浅井神社トアレハ是ナリ
・「越中寶鑑」延喜式内浅井神社ハ礪波郡赤丸村ニアリ 以下略
・「礪波史」赤丸浅井神社ハ礪波郡赤丸村ニアリ 式内の一ナリ 以下略
・「北陸鉄道案内」延喜式内浅井神社ハ養老元年ノ勘請ニシテ西礪波郡赤丸村ニアリ

●「浅井神社寶物目録」
1.寄進状 壱通 宝永十七年九月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
2.書状 弐通 寛永十六年三月及五月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
3.書状 弐通 慶長十年九月及元和八年五月第三世利常ヨリノ書
4.御員筆額 一面 明治十一年正三位前田齋泰ノ書
5.古額 壱面 丈二尺 五寸 巾一尺四寸二分 但シ文字不明
6.古鏡 三面 一ハ直径三寸六分 一ハ直径三寸三分 一ハ直径三寸 右ハ往古神祇官ヨリ御下賜ノモノト言傳フ 7.太刀 一腰 丈一尺六寸 村正ノ作ト言傳フ
7.太刀 一腰 丈一尺六寸 村正ノ作ト言傳フ
8.刀 一腰 丈一尺二寸四分 無銘白鞘
9.刀 一腰 丈二尺一寸五里 銘アルモ不分明
10.古鏡 一面 直径七寸壱分 藤原丈長ノ作
11.大鰐口 壱個 延寶六年八月吉日ト記セリ 目方約八貫目アリ
12.古記録 参拾弐冊 慶長以降天保ニテ古文書一冊ノ半数約百枚アリ
13.古画 壱軸 兆殿司ノ筆(二王像)
14.古画 壱軸 高祖神変大師ノ御影 大師ハ泰澄大師ナリ

●「盛阿弥」盛阿弥ハ刀鍛冶ニシテ永享年中赤丸村ニ住セリ 鍛冶ノ跡アリ(中越史料雑纂)現今鍛冶屋町島ト小字残レリ ( ※ ⇒永享年中に鰐口等の制作で文化財に残る「平氏盛阿弥」の事か?)


















■「越中吉岡庄」(赤丸村)に栄えた【宇多刀鍛冶】⇒【宇多国光】・【宇多国宗】・・・・・・・・









💠🏯【越中国木舟城とは?】  【水戸黄門の側近 助さん】の素性⇒【 佐々木助三郎は「越中木舟城 城主佐々成政」 の末裔】!!

2021-04-17 | 富山県高岡市福岡町
■【織田信長】は越中に侵攻して、家臣【佐々成政】は家老の【佐々平左衛門】を「木舟城城主」にしたが、その次代には「佐々平左衛門」の娘を妻にした【前野加賀守】が木舟城城主に就任している。



■その子は後に「佐々」の姓を名乗っており、この子孫から通称【助さん】と呼ばれる水戸光圀の家臣で、「大日本史」の編纂にも関わった【佐々木助三郎】(※佐々宗淳[サッサムネキヨ])を輩出している。










■系図に記される説明によると、「宇多源氏佐々木氏」は室町幕府尾張守護代の「斯波家」の家臣で在ったが、ある時に、主家斯波家からの書状に誤って「佐々」宛てに書かれていた為、その後は【佐々】を姓として名乗ったと云う。しかし、その後は、「佐々木」に復姓している。
「織田信長」が出た「織田氏」は当初、室町幕府の「斯波家」の家臣で在ったが後には斯波家を追放して尾張守護代に就任した。
「佐々家」の「佐々成政」は尾張「比良城」に生まれて織田家に仕官し、「豊臣秀吉」、「前田利家」等と「織田信長」の家臣として戦国時代を戦ったが、「佐々成政」が越中に入り、「前田利家」が能登に入ってからは小競り合いを繰返し、遂には「能登末森城の戦い」で激突した。この時に、「佐々成政」は家老の「佐々平左衛門」 を高岡市福岡町の「木舟城」に配置して、高岡市守山城の「神保氏張」や高岡市柴野城の「寺嶋牛介」、高岡市赤丸浅井城の「中山直治」と共に、「前田利家」の城の「能登末森城」を攻めた。(※「末森記」)

・室町時代の「五位の西庄」・「五位の東庄」









■加賀藩軍学者が描いた「木舟城」と見られる絵図。
木舟城は佐々氏の跡に加賀藩前田家が入ったが、飛越大地震の為に崩壊して城主以下、全員が地中に埋没した。その為、木舟城の遺跡を明確に残す史料は無いが、1600年代の加賀藩初期の軍学者【有沢永貞 アリサワナガサダ】描いた「国主城郭絵図」には、初期の前田家の城絵図が描かれている。



※[有沢永貞]【寛永15年(1638年)~ 享保元年(1715年)】は、江戸時代の加賀藩の軍学者。孫作俊澄の子。門弟からは梧井庵先生とも呼ばれた。越中土肥氏の一門で上杉、最上氏に仕えた有沢采女長俊の孫。
伯父の関屋政春に甲州流軍学を学び、その後、山鹿素行、佐々木秀景に師事して甲州流軍学を極め、【甲陽軍鑑】の注釈書等が在る。加賀藩士は有沢永貞に学ばざる者はなかったとされ、加賀藩では甲州流軍学を[有沢流]と呼ぶ。子の武貞、致貞と共に軍学者として「有沢三貞」と云った。城館の実地調査等も多く手がけ、貴重な史料を残している。(wikipedia参照)

🔴【南朝後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」】 南北朝時代の異形の天皇「後醍醐天皇」と「真言宗立川流」で使用された法具「割五鈷杵(ワリゴコショ)」

2021-04-17 | 富山県高岡市福岡町




■【異形の天皇 後醍醐天皇】
「越中吉岡庄」を庄園としていた「後醍醐天皇」は、大日如来を示す「赤丸の日輪」が付いた冠を被り、空海が唐から持ち帰った「東寺の重宝の袈裟」を身に着けて、両手には「割五鈷杵(ワリゴコショ)」を持ち、自らが東寺長者文観に師事して体得された真言宗立川流の秘術を以て鎌倉北條幕府倒幕を祈願され、「天皇の親政」、「王政復古」を目指された。





🙏明治維新は「後醍醐天皇」の「親政」を目指した為に、南朝顕彰運動のシンボルとして「後醍醐天皇像」が掲げられた。






■真言宗立川流の調伏で使用されたと言う密教法具「割五鈷杵(ワリゴコショ)」
; 縦に二分割できる五鈷杵で、その中心に「仏舎利」を入れる事を目的とするもの。また、分割した際にそれぞれが人形(ヒトガタ)にも見えることから、真言立川流においては「人形杵」(ニンギョウショ)とも呼ばれた。現在は、一般に使用する事は無い。(Wikipedia)



南朝の「後醍醐天皇」は、「東寺長者文観」から`【真言宗立川流】の秘法を伝授されて鎌倉幕府の調伏をされた。この秘法は、立川流で行われた「髑髏に精液を塗る」と言う秘法が用いられた為に、門外不出の秘法とされた。



🔴【赤丸城ケ平古墳群出土の玉石】⇒南砺市福光町では現在も『玉盃』が製作されている!!

2021-04-17 | 富山県高岡市福岡町






■赤丸城ケ平古墳発掘の「勾玉」。「蛇紋岩」と「翡翠」は新潟県糸魚川市に流れ出る「姫川渓谷」から産出する。「玉」は小矢部川からも産出し、青石、赤石、黒石、白石、紫石等の様々な色がある。現在も福光町では「玉杯」が生産されている。小矢部川水系にはこれ等の岩盤は発見されておらず、「玉石」の状態でしか産出していない。小矢部川河川敷や小矢部川水系の農地等からこれ等の「玉石」が産出している。
新潟県糸魚川市に流れ出る姫川渓谷は古来から「翡翠」の産地で、この翡翠から多くの「勾玉」が生産されていた。勾玉は皇室では天皇の権威を示す「三種の神器」の一つとされる。赤丸村の「城ケ平古墳」からも「翡翠」の「勾玉」が発掘されている。
🔽【小矢部川水系の様々な貴石】
南砺市福光町では現在も「玉杯」が造られている。






🔴🔹【高岡大仏の由緒】の考察⇒【室町幕府足利義勝】と【越中五位庄】の「赤丸村」!!

2021-04-17 | 富山県高岡市福岡町
【高岡大仏の由緒】






●高岡市の「守山極楽寺」(※元赤丸村極楽谷に後醍醐天皇の皇子宗良親王が創建されたと伝わる。越中宮極楽寺)の伝承では、高岡市指定文化財【高岡大仏】は、「越中吉岡庄」の領主の「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」を避けて「多田(源)義勝」が越中に来て建立したものだとされる。



■現在、高岡市には博労町極楽寺と坂下町極楽寺の2ケ所の極楽寺がある。博労町極楽寺は五位庄極楽谷(赤丸村)に後醍醐天皇八宮宗良親王が創建されたと伝わる。博労町極楽寺の【越中宮極楽寺由緒】には赤丸村に240年近く在ったのだと云う。(牧野に在ったと云う説もある。)
坂下町極楽寺は博労町極楽寺の末寺である。極楽寺は五位庄極楽谷(赤丸村)に創建され、その後高岡市の守山に移った。現在の高岡大仏は、【およそ800年前、摂津の国多田(兵庫県)に住む源(多田)義勝が「承久の乱」[承久3年(1221年)]を避け、入道して越中に移り、二上山麓で護持してきた丈 8寸の金銅仏を腹中に納めた一丈六尺の木造大仏を造営したのが高岡大仏の始まりと伝わる】と言う。その後、330年を経た天文弘治の頃、神保安芸守氏張が守山城を築きこの大仏を鎮守仏と崇めたとさ
れる。

◆【越中宮極楽寺由緒】
高岡市博労町校下にある古刹で赤丸村極楽谷に後醍醐天皇の皇子「宗良親王」が創建されたと伝える。この中には「高岡御車山祭」の真実が記載されている。










★高岡市国吉の柴野城には、上杉謙信から五位庄安堵状を受け守山城城主神保氏張と行動を共にした寺島牛介が、赤丸浅井城は中山氏が居城としていた。現在、高岡の「大仏寺」境内の鐘楼には寺島牛介の子孫で加賀藩高岡町奉行であった寺島蔵人が造った高岡町の時鐘(現存の物は再製造した物)が掛けられている。

■大仏は慶長14年(1609年)前田利長が高岡城築城の時に現在地の大手町に移された。その後150年を経て荒廃した為、坂下町極楽寺第15世等誉上人はこれを憂え、弟子の良歓を勧進職として延享2年(1745年)9月に再建された。
以来、高岡市民に親しまれたが、文政4年(1821年)6月の大火で類焼したが腹中の金銅仏のみが焼失を免れた。その後、極楽寺第26世譲誉上人が発願し、田中、津幡屋、桶屋等の信徒が再建に奔走して天保12年(1841年)木造一丈六尺の座像が建てられた。光背の舟御光の頂上に三重の宝塔を据え、この中に火中出現の金銅仏を安置、火中出現仏の左右に十二光仏を並べ、更に全面に千体仏が配された。
しかし、明治33年(1900年)6月の高岡大火で再び焼失した。信徒の世話頭松木宗左衛門は大仏の復元を一生の悲願とし、極楽寺第31世良禅上人と共に不燃の大仏の鋳造を発願、荻布宗四郎らの協力により昭和7年(1932年)12月に完成、翌年5月に開眼式が盛大に挙行された。
その後、昭和56年、平成19年に部分的な改修が行われて、今日、高岡市の観光名所となっている。
(概要)
総高 18m85cm 座高 7m43cm 総重量 65t
特徴 鎌倉大仏には無い外径4m54cmの円光背を背負っている。
(※「極楽寺資料」参照)

■【源義勝】;源義勝は源氏の名乗りで、 この系統から「多田満忠仲」という勇将が出て「多田まんじゅう」として伝えられる。いわゆる「多田義勝」というのはこの子孫の「義勝」と解される事からこの人物は室町幕府将軍足利義勝を指している。
室町幕府第七代将軍足利義勝。永享6年2月9日(1434年3月19日)に第六代将軍足利義教の嫡男として生まれた。義教が嘉吉の乱(1441年)で暗殺された為に、わずか9才で将軍職を継いだ。しかし、足利義勝は、将軍職を継いでからわずか8ヶ月で、病死したと伝えられる。

【※第7代将軍足利義勝(父:足利義教、母:日野重子 )
生誕 永享6年2月9日(1434年3月19日)-死没 嘉吉3年7月21日(1443年8月16日)  享年10歳(満9歳) 
墓所は安国寺慶雲院にあったが、焼失して現存せず遺骨等も所在不明となっていると言う。木像は足利氏菩提寺等持院に現存している。応永22年(1415年)越中五位庄の半分が足利家菩提寺等持院に寄進される。下地は守護畠山満家にに預け置きになる。(※「足利義持御判御教書案」)】
⇒「源義勝」の年代は「承久の乱」では無く、この年代では嘉吉元年(1441年)に「嘉吉の乱」が起こり、父の室町幕府第六代将軍「足利義教」は「赤松満祐」に暗殺されたため室町殿へ移され、翌嘉吉2年(1442年)に管領「細川持之」らに擁されて9歳で将軍職を継ぎ、第7代将軍となった。

(▼「足利義教」を暗殺した赤松氏は、その遺臣達が「南朝の遺児」を騙して殺害し、天皇の「神璽」を取り返して幕府に献上した。その功績で「加賀半国」(※石川郡、羽咋郡)を知行されている。)

▼この由緒からすると、嘉吉元年(1441年)に「嘉吉の乱」で「足利義教」が暗殺され、混乱の中で足利家菩提寺等持院の庄園「五位庄」の越中守山に逃れたその子の「足利義勝」は、父の「足利義教」の供養の為にこの大仏を造った事になる。
(※義勝の越中在住の記録は無い。)
「越中五位庄」は足利義満が相国寺(塔頭寺院は金閣寺)の庄園として以来、足利家とは密接な関係にあり、石堤村西光寺縁起に「明應の頃将軍足利義材越中に逃れ一向宗徒に據り當寺に陣止せし事あり 永正二年義材(義植と改)再び将軍となるや麻生谷村山岸領分の寄進を受け 永正二年、永祿六年直安、景直より墨付 たりといふ 」として、「足利義材が越中に逃れた時に石堤西光寺を本陣として戦い、後に寺領の寄進を受けた」として足利家と五位庄の歴史を記載している。又、富山市の「蜷川の郷土史」に拠ると、室町時代には「足利義満」の近臣の「蜷川新右衛門」の一族「越中蜷川氏」が新川郡、利波郡を統治していたとされ、足利義満の母はこの越中蜷川氏で在ったと記載されている事から、当然、砺波郡の「五位庄」と幕府は最も近い関係に在ったと見られる。

■管領「畠山氏」の本国で在った「河内国」(大阪)の「羽曳野市史」に、【管領「畠山持国」が第6代将軍の「足利義教」が恐怖政治を行った為に家臣の赤松氏に暗殺されると、その後継として幼少の「足利義勝」を将軍にして、義勝が夭折すると、その後継には「足利義政」を据えた】事が記されている。






◆管領「畠山持国」は二度、管領に就任して「河内国」の他に「越中国」も統治した。「越中国」の「五位庄」は「室町幕府御料所」として足利家が直轄して、「足利義満」は自らが創建した「臨済宗相国寺」(※「塔頭寺院鹿苑寺金閣」)に室の菩提を弔う為に寄進した足利家にとっては重要な庄園で在った。「羽曳野資料叢書」の「畠山文書」の中に室町時代の「越中絵図」が記載されており、その絵図の「赤丸浅井城」の部分には【畠山持国】の記載が在る。
管領「畠山持国」は越中の抑えの城として「赤丸浅井城」を居城とした様で、この時期に「足利義満」の縁者で室町幕府政所代を勤めた「越中蜷川氏」が「新川郡、利波郡」を統治した(※「蜷川の郷土史」)と云うから、守護代としてこの「蜷川氏」や幕府で要職を勤めた「神保氏」が実務を行ったと見られる。「蜷川家文書」に拠ると、氷見市の「阿怒庄」は「蜷川新右衛門親当」が直務し、「神保氏」を「代官」にしている。この時期には「守山」や「六渡寺村」は「利波郡五位庄」に含まれており、この時期に赤丸村に在った「高岡山総持寺」も海沿いの地域に動いたとされる事から、「守山極楽寺」もこの時期には海沿いの地域へ動いたものと見られる。「総持寺」が海沿いの地域へ動いた時期に、「管領畠山満家」の三回忌が持国によって盛大に執り行われている。(※「大須観音文書」)



■【源氏系図】には、【「室町幕府第7代将軍足利義勝」は、管領の「畠山持国」、「細川持之」によって第7代将軍に推された。「足利義勝」は8歳にして将軍と成り、十歳で夭折した】と記載される。





◆「越中守護畠山持国」が小矢部川河口の六渡寺村の「総持寺」で父親の「畠山満家」の法要を行った。
【射水市の松山学芸員は愛知県史編纂の過程で名古屋市の宝生院真福寺が所蔵する古文書の「越中国般若野庄之内東部集福寺堂供養舞楽曼荼羅供記録」(※1435年、永享7年)に越中の4つの寺で行われた舞楽を加えた法要の式次第などが詳細に記されたものを調査した所、その中 に総持寺のルーツを示すとみられる記述があったと発表されている。記録には「濱惣持寺(はまそうじじ)」の金堂の再建に伴って舞楽が奉納され、その 寺の本尊は「千手観世音菩薩」と記されている。法要で僧が読んだ「表白(ひょうびゃく)」に寺周辺の風景は「北海之金波ヲ」とあり、学芸員は「夕日に照らされた富山湾の情景を読んだ」と推測されている。寺が北方で海に面する事と本尊の伝承を考え合わせ「濱惣持寺」は六渡寺浜に建ち、現在の総持寺の室町期の姿であると結論づけた。】と北日本新聞で発表された事が有る。この法要は「畠山満家の三回忌法要であった」と云う。総持寺が元々在った利波郡五位庄赤丸村は「足利義満」によって「臨済宗相国寺」へ寄進された為、「赤丸浅井城」の周辺から臨済宗以外の寺院が立ち退かされたと伝えられる。
「畠山満家」は永享5年(1433年)9月に死亡して、その後は子息の「畠山持国」が家督を継いでいる。

◆丁度、応永12年(1405)「足利義満」により五位庄が室の日野業子の追善料として京都相国寺に寄進され、その後、「足利義持」により「五位庄の半分」が足利氏菩提寺の「等持院」に寄進されて下地は守護「畠山満家」に預け置かれた時期に当る。総持寺の大旦那であった池田家に伝わる「総持寺由緒」に拠れば、「応永九年1402年頃に国主は五位庄からの移転を命じた」と有り、「足利義満」は応永15年(1408年)に亡くなっており、その子の「足利義持」は室町幕府第4代将軍《在任は応永元年(1394年)- 応永30年(1423年)》となり、「応永22年(1415)「足利義持」により半分が足利氏菩提寺の等持院(京都市左京区)に寄進され下地は守護畠山満家に預け置かれた」と伝わる所から、「総持寺*観音寺と呼ばれた」は 「足利義満」が五位庄を【臨済宗相国寺】に寄進する為に「五位庄」の赤丸村の「浅井城」付近から移転を命じられた。(※高岡市柴野の「臨済宗三光寺」は南北朝時代に三光国師の称号を後醍醐天皇から賜った三光国師の名前から「三光寺」と称するが、この寺には、室町時代には臨済宗以外の寺院は全て赤丸村周辺から立ち退きを命ぜられたと伝わっていると云う。)

◆応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した応仁の乱や、足利一族の騒乱【※第10代将軍足利義稙(義材)は明応2年(1493年)畠山基家討伐のため河内に出陣中、細川政元のクーデターによって、将軍職を追われ、一時期は越中の神保氏を頼り射水市に落ち延びている】等により越中が騒乱の渦中に在った為、その後、総持寺は大旦那の池田家の所領の高岡市内に移転したと見られる。 射水市の学芸員は「1500年代に入ると、六渡寺近辺は戦が絶えず、寺は戦乱を免れる為高岡に移ったのではないか」とされている。

◆長録三年(1459年)の「相国寺蔭凉軒日録」には、「長録三年の飢饉」の結果、足利将軍菩提寺の「等持院」・「等持寺」から幕府に対して「越中守護畠山政長が年貢を納めないので直接統治したい」と申入れるが脚下されている。
この年に、「越州総持寺」はその領地を安堵する旨の「安堵状」を受けた事が記載されている。





◆【越中総持寺由緒】
⇒[延喜式内社赤丸浅井神社]に伝わる「神官川人貞良氏」の著作
【長慶天皇の五位庄に於ける御遺跡】(※高岡市立中央図書館蔵書)






■【管領畠山満家】と【越中守護(赤丸浅井城)畠山持国】










◆「源義勝」となっている部分は、年代が「足利義勝」の年代では無く、「承久の乱」は「北条義時」の年代になる。【承久の乱】は「源義勝」の父親の「室町幕府将軍第六代将軍足利義教」が「赤松満祐」によって暗殺された「嘉吉の乱」の誤りと見られる。



■これ等の事実から推察すると、「高岡大仏の由緒」に登場する「源義勝」は、「赤丸浅井城」を居城として越中を統治した「畠山持国」に擁立された【室町幕府第七代将軍足利義勝】という事に成る。




❖【南朝記録】『浪合記』 赤丸浅井城、越中木舟城に後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」を迎えた【石黒重行】の記録

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町





『浪    合    記』

応永四年世良田大炊助政義[ 弥次郎満義ノ子]桃井右京亮宗綱ト議シテ[宗綱実父ハ三州額田郡吉良弥三郎有信子母ハ桃井駿河守義繁女ナリ] 妙法院宗良親王ノ御子兵部卿尹良ヲ上野国ニ迎ヘ奉ル此尹良親王ハ遠江国飯谷カ館ニテ誕生ナリ御母ハ飯谷井伊介道政女也延元元年尹良ノ御父宗良親王ヲ道政主君ト崇奉リ遠江国ニ迎ヘ旗ヲ揚テ京都将軍ト挑戦尹良ハ大和国吉野ニ御座テ御元服ノ後正二位中納言一品征夷大将軍右大将兵部卿親王ニ成ラセ給フ元中三年八月八日源ノ姓ヲ受サセ給フ然ルヲ新田小田世良田桃井等其外遠江三河ノ宮方与力ノ者相議シテ桃井和泉守源貞識ヲ以テ吉野ヨリ上野国ヘ迎ヘ移シ奉ル[貞識ハ桃井伊豆守貞綱二男ナリ]
  吉野ヨリ供奉武士
大橋修理大夫定元     岡本左近将監高家
山川民部少輔重祐[或ハ朝祐]恒川左京大夫信規
此四人ヲ新田家ノ四家ト云
  吉野ヨリ供奉公家庶流
堀田尾張守正重   平野主水正業忠
服部伊賀守宗純   鈴木右京亮重政
真野式部少輔道資  光賀大膳亮為長
河村相模守秀清
此七人ヲ七名字ト号ス是十一家ヲ吉野十一党ト宮方ノ武士申ス也二心ナク尹良君ヲ守護シ奉ル飯谷井伊介秋葉天野民部少輔遠■其外西遠江ノ兵共御旅行ヲ守テ先駿河国冨士谷宇津野ニ移シ田貫カ館ニ入レせ奉ル此田貫次郎ト申者ハ元ハ冨士浅間ノ神主ナリ神職ヲ嫡子左京亮ニ譲リ宇津野ニ閑居ス次郎カ娘ハ新田義助ノ妾ナリシカハ其好ニヨリ宮ヲ受取奉ル井伊介ハ親王ヲ宇津野ニ入レ奉リテ兵共ヲハ残シ其身ハ国に返リケル冨士十二郷ノ者ハ新田義助厚恩ノ者共ナリ其中ニ鈴木越後守正茂同左京亮正武井手弾正正弼正房下方三郎宇津越中守ヲ始我ヲトラシト尹良ヲ饗応シ奉ル
同五年ノ春宇津野ヲ出御アリテ上野国ニ赴キ給フ所ニ鎌倉ノ兵共宮ヲ襲奉ル十二郷ノ兵柏坂ニテ防戦フ尹良ハ越後守カ館丸山ニ入給フ桃井和泉守四家七党守護シ奉ル敵数日館ヲ取巻テ攻ケレ共宮方四方ヨリ起リテ鈴木ニ加勢ノ兵多カリシ和泉守丸山ヲ出テ鎌倉ノ大将上杉三郎重方嶋崎大炊助カ陳ニ懸テ主従百五騎上杉カ備タルマン中ヘ切テ掛ル上杉カ兵五千余騎桃井ニ追立ラル上杉カ郎等長野安房守モ討レ兵共戦疲レテ引退ク和泉守追討テ往ヲ嶋崎ハ桃井カ追往其跡ヲ取切ント備ヲ右ニナス桃井是ヲ見テ我勢ヲ二手ニナシ一手ヲ嶋崎カ三百騎ニ指向ケ残ル勢ヲ以テ上杉ヲ追大橋岡本堀田平野天野等都合二百余騎嶋崎ニ向テ戦ケル嶋崎モ前後ヲ取巻レテハ悪カリナントヤ思ケン勢ヲ段々ニ引テ一騎モ討レス山浪マテ引ニケル上杉ハ二百余騎討レ其夜ハ上一色ニ陣ス桃井モ勢引テ皈ル井手弾正少弼越後守ニ語曰新田ノ一族ノ御働珍シカラス候ヘトモ今日ノ御合戦某ヲ始十二郷ノ兵共目ヲ驚シ候ト云フ鈴木云フ老テハ何事ヲ申スモ御赦免ヲ蒙リ申スニテ候フ大事ノ前ノ小事ニテ候フ君ノ御供ニテ候ヘハ必ス道スカラ御合戦ニ危キ御働御無用ト云フ貞識曰鈴木殿の仰肝ニ入候君ノ御供中ハ合戦ハ無益ニテ候ヘトモ鎌倉ノ者共桃井カ供奉ニテ候ニ何ノ沙汰ナシト存ル所モ無念ニ存シ其上ニクルカ面白サニ追候ヒシト笑ゝ語リケル鈴木モ路次警固ノタメニ宇津越中守下方三郎鈴木左京高橋太郎此四人に二百八十騎ヲサシ添ヘテ送リ奉リケル尹良ハ丸山ヨリ甲斐国ヘ入リ玉フ武田右馬助信長我館ニ入レ奉テ数日御滞留アリ八月十三日上野国寺尾ノ城ニ移ラセマシマス新田世良田其外ノ一族寺尾ノ城ニ馳集ル同十九年四月二十日上杉入道憲定兵ヲ上野国寺尾ニ発シ世良田太郎左衛門尉政親ヲ攻ム政親ハ戦数回ノし後疵ヲ蒙リ今ハイカニモ叶マシト覚ヘケレハ長楽寺ニ入テ自害ス法名俊山ト号ス二郎三郎親氏勇つ力ヲハケマシ敵陣ヲ切リヌケ新田ニ赴ク同六月七日木賀彦六左衛門尉入道秀澄カ兵二十五騎ヲ農人ニ出立セ新田相模守義則底倉ニ蟄居セシヲ夜ニマキレ彦六カ兵新田カ家ヲ取巻キ時ノ声ヲ上ク義則進ミ出戦疲レテ終ニ討死セリ
同二十三年八月十五日名月ニ事寄セテ上杉入道禅秀鎌倉ノ新御堂満隆ヘ行キ謀叛ヲ勧メ廻文ヲ以テ武蔵上野下野ニ触ニケル新田世良田千葉岩松小田等ノ一族時ヲ待ケル兵共思ゝニ旗ヲ揚ル桃井宗綱禅秀ニ加テ鎌倉ヲ攻テ江戸近江守ヲ国清寺ニテ討取リヌ宗綱ヤカテ近江守カ首ヲ武蔵国■郡矢口村ノ川端ニ梟シ高札ヲ立ツ
 今度攻相州鎌倉於国清寺討捕江戸近江守
 奉為 新田義興主☆如件
  応永二十三年丙申十月十日
        桃井右京亮源宗綱
トソ書ニケリ近江守ハ義興ヲ矢口ノ渡リニテ船ノノミヲ抜テ河水ニ溺ラシ殺シケル江戸遠江守カ子ナリ
同二十四年正月十日満隆持仲ノ親族上杉禅秀カ家頼百七十人戦敗レテ悉ク自害ス同五月十三日岩松治部太輔武州入間川ニテ中村弥五郎時貞ニ生捕レテ誅セラル桃井宗綱ハ薙髪シテ下野入道宗徹トソ名乗ケル同三十年小栗孫次郎満重鎌倉ヲ背キ下総ニ下テ結城ニ楯籠ル下野入道并ニ宇津宮左衛門尉持綱真壁新七郎義成佐々木隠岐入道等小栗ニ一味シテ合戦ス桃井ハ八月十三日ニ下野落合ニ皈ヘリケル同三十一年新田小三郎義一世良田大炊助政義同修理亮親季同万徳丸政親桃井入道宗徹大江田安房守羽河安芸守景庸同安房守景国宇津宮ノ一類大岡次郎重宗宇津越中守道次大庭雅楽助景平熊谷小三郎直郷児玉庄左衛門尉定政酒井与四郎忠則鈴木三郎兵衛政長天野民部少輔遠■同対馬守遠貞十田弾正忠宗忠大草三郎左衛門尉信長布施孫三郎重政千村対馬守家通石黒越中守上野主水正山内太郎左衛門土肥助次郎小山五郎左衛門尉并ニ四家七党以下ノ兵共尹良ヲ供奉シ上野国ヲ出御有テ同四月七日ニ信濃国諏訪千野六郎頼憲カ嶋崎ノ城ニ入御マシマス同国住人小笠原七郎正季木曽カ郎従千久四郎祐矯並ニ高坂滋谷カ一族等千野カ城ニ参リテ尹良君ヲ慰メ奉リ旅行ノ御脛ヲ休メケル世良田桃井其外十一党ノ者重テ相談アリテ尹良ノ御子良王君ヲ一先嶋崎ヨリ下野国落合ノ城ニ皈皈シ奉ル四家七名字并ニ桃井貞綱世良田政親熊谷弥次郎同弥三郎桃井左京亮宇佐美左衛門尉開田上野天野土肥上田小山等御供ニテ七月十八日ニ落合ニ皈城アリニケル尹良ハ千野カ城ヲ八月十日ニ御立有テ三河國ヘ移ラセ給ヒケル時
 サスラヘノ身ニシアリナハ住果ントマリ定メヌウキ旅ノ空
ト書セマシマシテ千野伊豆守ニ賜リケル後ノ世マテ千野カ家ノ重宝ニソナル尹良ハ参河國ヘ渡御有テ吉良ノ西郷弾正左衛門尉正庸其外桃井義繁カ厚恩ノ者共多カリシカハ是者共ヲ御頼アリテ上野下野ニ時ヲ待ツ新田世良田ノ一族ヲ催シ再ヒ旗ヲ揚ケ落合ニマシマス良王ト牒シ合セ宮方ノ残兵ヲ集テ合戦可然ト相談一決シテ嶋崎ノ城ヲ御出アリ参河國ヘ赴ムキ玉フ参河ヨリ御迎トシテ久世土屋等多ク参リケリ十三日飯田ヲ越ヘサセ玉フ所ニ杖ツキ峠ニテ賊卒道ヲ塞テ財宝ニ心ヲカケ奪取ント馳集リ此ノ山彼ノ谷ヨリ矢ヲ放ツ小笠原千久カ兵防戦テ賊ヲ征ス同十五日飯田ヨリ三河ニ向フ大野村ヨリ雨夥ク降テ道路大河ノ如シ未尅ヨリ風雨猶烈シク十方暗夜ニ等シ野武士又俄ニ起ツテ駒場小次郎飯田太郎ト名乗テ尹良君ヲ襲奉ル下野入道宗徹世良田次郎義秋羽河安芸守景庸同安房守景国一宮伊予守酒井七郎貞忠同六郎貞信熊谷弥三郎直近大庭治部太輔景郷本多武蔵守忠弘以下防戦フ賊ヲ討テトモ切トモ賊ハ案内ハヨク知タリ彼ニ集■ヨリ駆出テ水陸ヲ走リ畦岸ニ聚テ散々ニ矢ヲ放ツ味方天難逃カタク襄運是ニ極テ尹良君免レサセ給フ事カタク大井田一井賊ノ為ニ討ル下野入道并ニ政満ハ小山ノ麓ノ在家ニ主君尹良ノ御輿ヲ舁入サセ御自害ヲ勧奉ル宮ハ残ル人々ヲ召レ年コロ日此ノ忠義後ノ世マテ御忘アルヘカラストテ甲斐ゝシク御生害有リケレハ入道ヲ初主従二十五人思ゝニ自殺シ家ニ火ヲ懸悉☆爛セシコソ悲ケレ政満ハ御遺言ヲ守リ此難中ヲ免レテ上野国ニソ皈ヘリケル時ハ応永三十一年八月十五日信濃国大河原ニテ尹良親王御生害ナリ宮ノ御腹ナサレシ処トテ世話ニ宮ノ原ト云ナリ討死ノ死骸ヲ埋テ一堆塚トス是ヲ千人塚ト云也石塔ハ信濃国並合ノ聖光寺ニ有リトナン 応永三十一年八月十五日合戦討死法名
大龍寺殿一品尹良親王尊儀[後醍醐天皇皇孫]
大円院長■宗徹大居士[桃井入道宗綱]
智真院浄誉義視大居士[羽河安芸守景庸]
依正院義傳道伴大居士[世良田義秋]
良王君伝
御父ハ兵部卿尹良親王母ハ世良田右馬介(※イ大炊助)政義女也上野国寺尾ノ城ニテ誕生
正長元年■月ニ寺尾ヨリ下野国三河村落合ノ城ニ入ラセ玉フ永享五年上野国ヲ出テ信濃国ニ赴キ給フ笛吹峠ニテ上杉カ兵馳セ来テ戦フ良王君木戸河内守カ城ニ入リ給ヘリ同五月十二日木戸カ城ヲ去テ木曽カ■領金子ノ館ニ居ス千久五郎金子ヨリ我カ館ヘ迎ヘ奉ル同年ノ冬世良田政義桃井伊豆守貞綱等良王ヲ尾張国海部郡津嶋ヘ入レ奉リ然ルヘシトテ四家七名字其外ノ兵士一決シテ同七月■十二月朔日三河国ヲ打越ントテ並合ニ至リ給フ然ル所ニ先年一宮伊予守ニ討レシ飯田太郎カ一類宗綱ニ討レシ駒場小次郎カ弟其外彼等カ親属トモ宮方ハ親兄弟ノ敵ナレハ此所ヲハ通スマシ討取テ孝養ニセヨヤト大勢馳セ聚リ良王ヲ取巻キケリ桃井貞綱世良田政親児玉貞廣以下並合ノ森ノ陰ヨリ討テカカリ賊徒百三十余人討捕ル同二日酉ノ尅ヨリ亥ノ時マテ防戦フ其間ニ良王ヲハ十一党宇津宮宇佐美天野上田久世土屋佐浪等合ノ山マテ退ケ奉ル貞綱貞廣ヲ始メ野田彦次郎加治監物以下二十一騎討死セリ同三日桃井満昌合ノ山ニテ稚子ニ問フハ汝等ハ何ノ里ノ者ソ昨日並合ノ合戦ノ終ハ不聞☆ト稚子七八人ノ内一人答曰某ハ並合近村ノ者ニテ候昨日並合ノ町口ノ家ニ武士大勢込入腹切テ候大将モ御腹召レ候由承候ト云満昌其腹切タル者共ノ死骸ハ如何ト問稚子曰武士共切腹ノ後家ニ火ヲ懸テ候ヒシカ風烈吹テ並合ノ町中皆焼失候也今暁何者トハ知ラス一文字ノ笠印一番笠印竪木瓜ノ紋付タル兵共焼跡ヲサカシ鎧太刀ノ焼金ヲ拾ヒ申スヲ見テ通候ヒシ哀ナル事共也ト語ル満昌是ヲ聞テ良王君ニ告申セハ頓テ大橋修理太夫定元ヲ召テ満昌ニ添ヘラレ平谷ヨリ並合ニ遣シ討死ノ者共ヲ吊ハシム一文字ノ笠印ハ世良田殿一番ハ山川木瓜ハ堀田ナリ何モ満昌定元ニ会テ共ニ涙ヲ流シケル政親辞世 倭歌ヲ或家ノ蔀ニ書ヲカレシ定元討死ノ死骸ヲ取集並合ノ西ニ寺アリケレハ此僧ヲ頼テ葬ケル同日ノ暮ニ定元ハ平谷ノ陣所ニ皈ル満昌ハ野武士等カ首を梟良王君政義ノ残シヲカレシ歌ヲ聞シメシテ御袖ヲ濡ラサレケル其歌ニ
 思ヒキヤ幾世ノ淀ヲシノキ来テ此浪合ニ沈ヘキトハ
御供ノ士卒此ニ跼シ彼ニ蹐テ天地モ寛カラス同五日三河国鳴瀬村(※今成瀬村)ニ到ル里人是ノ人々ヲ疑テ入レサリシカハ満昌祖父ノ所領坂井郷ニ行テ正行寺ヲ頼ム[或説曰作手ノ正行寺村ヘ入御ト云々然レハ坂井郷ニ非サル歟]正行寺ハ満昌カ親戚下妻カ知人ナリ良王此所ニ四五日御滞留有リテ尾州津嶋大橋定省カ奴野城ヘ入リ給フ
永享七年十二月二十九日良王君尾州津嶋入御四家七名字宇佐美開田野々村宇津宮十五人御供ナリ時に粮米ヲ絶一会村(※今市江村)ヨリ米五十石余ヲ献ス是米ヲ十五人ノ者ニ領給フ翌年正月二日ヨリ飯粮ナカリシニ日置村ヨリ米二十五石ヲ進ス又此ヲ御家人ニ賜フ其レヨリ十五家毎歳正月二日ニハ必ス米ヲ撞コトハ是ヨリ始マル津嶋年始ノ嘉例ナリ良王尾州ニ隠レ給フ後宮方ノ武士諸国ニ蟄居ス其大概如左
桃井大膳亮満昌
 三州吉良ノ大河内ニ住ス参州桃井ト云是裔ナリ大河内坂本ノ祖
大庭雅楽助景平
 三州深溝ニ住ス稲吉祖
熊谷小三郎直郷
 三州高力ニ住ス参州熊谷此裔也高力ノ祖
児玉庄左衛門定政
 三州奥平ニ住ス奥平祖
酒井与四郎忠則
 三州鳴瀬ニ住ス後大浜ノ下宮に蟄居成瀬七郎忠房太郎左衛門忠親ハ正行寺ニ居ス
 此三人者兄弟ナリ新田ノ一族大館ノ裔大館太郎兵衛親氏子ナリ
大岡忠次郎重宗
 三州大草ニ住ス大江田ノ裔ナリ
鈴木三郎兵衛政長
 三州矢矧ニ住
大草三郎左衛門信長[※後称豊後守]子也
 遠江国有王ノ高林善八郎政頼カ弟
天野民部少輔遠
 遠江国秋葉ノ城ニ居住ス対馬守遠定父也遠■永享七年十二月兎ヲ秋葉山ニテ狩リシ
 富樫ノ林介(※加賀林氏➡富樫は一族)ニ附テ三州ノ政親[※政親ハ富樫政親]ニ贈リシ也
塩尻云永享十一年十二月天野民部少輔遠■己領内遠州秋葉ニ於テ兎ヲ狩得テ
 信州ノ林藤介光政トイフ者ニ依テ徳川殿ニ献ズ
布施孫三郎重政
 小笠原カ郎等也信州ヨリ良王ヲ供奉シ三州ニ赴キ野呂ニ居住ス
宇津十郎忠照
 三州前木ニ住ス桐山和田ノ大久保祖也元トハ駿河国富士郡住人宇津越中守二男也
宇津宮甚四郎忠成
 同国大久保ニ住ス
熊谷越中守直房
 近江国伊吹山ノ麓塩津ニ住ス雨森カ一族トナル江州熊谷是也
土肥助次郎氏平
 土肥三郎左衛門尉友平子也尾張国愛智郡北一色ニ居ス

長谷川大炊助重行【※越中木船城城主石黒重行】
 越中国名子ノ貴船山城主石黒越中重之カ子尾州春日部郡如意ニ居ス  
(※「名古ノ」とは石黒氏の本拠地赤丸浅井城の事か?)

≪≪▼【「木舟城」は「赤丸浅井城」の出城】浅井城の石黒光景は木舟城石黒光弘の父親で、「赤丸浅井城」の前には木舟城脇に通じる「阿光ヶ淵」と言う小矢部川の淵が拡がっていた。木舟城の脇を通る庄川支流の河川は赤丸浅井城に通じており、「阿光ヶ淵」≪浅井城、浅井神社創建の聖武天皇の弟の石川朝臣広成について元正天皇が「吾子アコ」と呼ばれた。≫と言う淵に流れ込んでいた。≫≫


矢田彦七之泰
 堀田ノ一類尾州春日部郡矢田ニ居ス
此外諸氏処々ニ潜居セシ者猶多シ■クハ記スニ不■
永享七年十二月二日合戦討死法名
 定綱院義功鉄柱居士[桃井貞綱]
 天光院真誉紅月居士[世良田政義]
是ハ良王津嶋奴野ノ城御座ノ時先年戦死ノ武士等カ夢後ヲ吊ハセ給ヒシ時ノ法名トカヤ
良王ノ供奉ノ僧
蓮台寺某阿
 相模国藤沢ノ遊行ノ弟子良王ノ御供ニテ尾州津嶋ニ居住セリ依之蓮台寺建立ス
吉野ヨリ尹良親王ニ供奉セシ僧ニハ明星院実相院宝寿院観音院ハ良王ノ祈願所ナリ依テ上野国ヨリ尾張国津嶋マテ供奉ス依之津嶋ニ観音院ノ一寺建立也天王ノ社僧トナル四筒寺也
一品征夷大将軍尹良親王
 応永三十一年八月十五日信濃国大河原二於テ薨ス大龍寺殿ト号ス尾張国海部郡門
 真庄津嶋天王社ノ境内若宮是也永享八年六月十五日十一党ノ者ノ社ヲ建テ祭ル同郷大龍寺ハ親王ノ御菩提所也
良王君
 明応元年三月五日逝去御歳七十八瑞泉寺殿ト号ス同三年三月五日天王ノ境内ニ社ヲ建テ御前大明神ト称シ奉リ始テ祭ル
永享七年十二月二十九日良王津嶋天王ノ神主カ家ニ渡御七名字ノ者共神楽ヲ奏ス此吉例末代マテ用ヘシト也同八年正月元旦雑煮ヲ良王ニ上ル魚ナシ伊勢蛤ヲ■トス御飯ハ半白米也汁物ハ尾張大根ノ輪切■ハ小鰯ノ干タルニ大根ノ削ヲ入レテ上ル此年ヨリ御流労ナシ
永享八年二月十一日京都ヨリ平井加賀守廣利公方家ノ命ヲ奉シ三千ノ兵ヲ率シ参河遠江ニ下向シ新田ノ余族ヲ捜リ求ム故右京亮政義ノ二男万徳丸政親此時蔵人ト称シテ三州松平ニ隠居給ヒシヲトカクシテ生捕テ梅原肥前守ニ預ク又桃井満昌ヲハ正行寺ニテ捉ヘ江州志賀澤田八郎ニ預ク児玉貞政ヲハ奥平ニテ欺キ捕ヘテ布施因幡守ニソ預ケル此三人ヲ以テ京都ニ皈リ室町ノ獄舎ニ入ル五月三日三條河原ニテ三人ヲ失フヘキニ定マリケル平井情アル者ニテ頃日遊行上人在京ノ時ナレハ道場ニ行キテアハレ三人ノ命ヲタスケマシマセカシト申ケレハ上人ケニモトテ翌日弥阿弥[※弥ノ字誤カ]ヲ以テ将軍義教ニ言上シテ曰ク三河ノ罪人近日御刑罪ノ由其レニツキ古例ニ同氏ノ朝敵ノ首ハ朱塗ニシテ梟シ候トカヤ其昔頼朝卿ノ弟其外同志ノ者ノ首ヲ藤澤ニ梟セラレシ時モ朱塗トコソ伝ヘ承リ候然ルヘクハ古例ノ如クセサセ給ヘト申サル将軍聞メシテ尤也其上朱ニテ塗テハ首ノ肉モ早クハ■(※壊ノ字爛ノ字成ヘシ)マシトテ廣利ニ命シテ三人カ首ヲ切テ朱塗ニシテ獄門ニ懸クヘシトソ仰ケル廣利畏マリ頓テ三人ヲヒソカニ獄中ヨリ出シ己カ宿所ヘ迎ヘ賀茂静原梅谷修理亮ガ家ニ潜シ居キ年ノホド似タル罪人三人ヲ殺シ首ヲ朱ニ染メ獄門ニゾ懸ケル其後政親并ニ桃井児玉ヒソカニ遊行上人ノ弟子トナリテ剃髪シテ時家ニ交リ四国ニソ出ニケル義教将軍赤松満祐カ為ニ弑セラレ給ヒシ後世廣クナリテ満昌ハ三州ニ皈リ大河内式部少輔ト改称ス貞政モ再ヒ三州ニ来リ作手ニ住シ奥平監物トソ称シケル政親ハ政阿弥陀佛トテ上野国万徳寺ニ行ヒスマシテ御座ケルカ文正元年十月ニ寂シ給ヒケリトカヤ
永享十一年洞院大納言実熈三河国ニ流サレ大河内ニ在ス嘉吉三年皈落有リテ内大臣二任ス皈落ノ時松平太郎左衛門尉泰親当家ノ者ニテ金銀ヲ借シ奉リテ供奉ス泰親女ハ実熈ノ妾ナリ此妾ニ男子一人有リ富永五郎実興ト称ス三河国富永ノ御所ト云ハ実興殿ノ事ナリ三州山本ノ祖也又尾崎山崎等モ此子孫也
 実熈ハ東山左府ト称ス従一位康正三年ニ出家法名元鏡博学多才ノ人也 尾州津嶋其法式船十一艘ヲ飾リ十一党ノ者ノ家ノ紋ヲ引ク此祭始ル事同国佐屋村ニ台尻大隅守ト云剛ノ者アリ良王ニ讐敵ナリ此台尻ヲ可討計策ナリ天王神祇アリ大隅一族ヲ催シ船ヲ飾リ津嶋ニ推シ来ル十一党ノ船十一艘ハ津嶋ニアリ大橋カ船一艘ハ一会村ヨリ推シ出ス相図ヲ定テ大橋カ船推ス渡ルヲ十一艘ノ船相待大隅守此計ヲ不知一族ヲ船一艘ニ乗セ祭ヲ見ル相図ヨキト大橋カ船推出シ津嶋ニ来ルヲ見テ十艘ノ船モ推ス前後ヨリ台尻カ船ヲ取巻テ時ノ声ヲ揚テ大隅守カ船ヲ討沈ム其一類不残討レ水ニ溺レテ死スル者多シ宇佐美宇津宮開田野々村ハ陸ニ居テ水ヲヲヨキ上ル者共ヲ討捕ル是ニ依テ祭ノ船ヲ出サス大矢部主税助ハ台尻カ一味ノ者ナリシカ良王ニ内通シ台尻カ船ノ幕ヲ取テ船中見エルヤウニソ支度シケリ其後大矢部ハ命ヲタスケ賞ヲ賜テ天王拝殿ノ番ニソ加ヘケル後世ニ至ルマテダンシリ討ト囃子ヘシト良王ノ命ニ依テ毎年囃子カハル事ナシ台尻ヲ討シハ十四日ノ夜ナリ十一党ノ乗タル船ヲハ一類一党ノ者ノ外堅ク禁シテ不乗或ハ他家ヲ乗スル時ハ四家七名字ノ者ノ装束ヲ免シテ乗スルナリ是ヲハ主達家ト名ツク良王自ラ神主ノ家ヲ継テ天王ノ境内ニ居マシマス四家ハ奴野ノ城ヲ守リ宮中ノ守護也七名字ハ社家供僧往古ヨリ執行シ来ル神事祭☆毎ニ☆宮中ニ出仕シテ酒掃以下ノ怠慢ノ下知人也宇佐美今津宮開田野々村ハ津嶋五ヶ村ノ町人百姓其外他国ヨリ参詣ノ武士☆ノ役人也
 尾張國海部郡門真庄津嶋社
牛頭天王ハ欽明天王ノ御宇海部郡中嶋ニ光ヲ現ス是ヲ見レハ柳竹ニ白幣アリ神詫ニ我レハ素盞烏尊也此所ニマシマシテ日本ノ惣鎮守トナルヘシト依之社ヲ建テ崇メ奉ル始テ柳竹ニ現シテ鎮座シ玉フヨリ柳竹ヲ居守トハ号スルナルヘシ 素盞烏尊ハ天照大神ノ御弟ニテ武塔大神トモ申シ奉ル 村上天皇ノ天暦二年戌申勅使有リテ社ヲ建テ給フ 或説曰中嶋郡玉ノ村ノ大神神社御同躰ト云々 今ノ柏森ノ地ナリ後村上院建徳元年正月二十五日正一位ヲ授ケ日本惣社ト号ス 牛頭天王八王子一王子是津嶋三所ト云フ 後亀山院弘和元年ノ冬勅命ヲ奉テ大橋三河守定省造営ス今ノ宮地也
 左太彦宮 今弥五郎殿是ナリ
武内大臣ト平定経ト二座也 定経ハ地主ノ神ナリ 後村上院正平元年七月十三日夢相アリテ堀田弥五郎正泰 後叙従五位下任左衛門佐 崇奉ル時ノ人願主ノ名ニヨリテ世ニ唱テ弥五郎殿ト云フ
 奴野城
大橋三河守定高正慶元年ニ始テ築ク其前ハ城ナシ右大将頼朝卿ヨリ大橋ノ先祖肥後ノ入道貞能ニ隠退ノ領トシテ尾張國海部郡門真庄ヲ永代下シ賜フ是故ニ足利家天下ヲ知リ玉フト雖トモ大橋氏領知頼朝下文ノ如クナリ定省カ時良王ヲ津嶋ニ隠シ申セ共京都ヨリ何ノ子細ナカリシトソ
肥後守貞能文治ノ此ヨリ津嶋ニ居ス其子貞経肥後國ニ住セリ貞経カ子大橋貞康参河國額田郡ニ往テ居ス其所ヲ大橋ト号ス大河内中根大橋此三ヶ村ハ隣郷ナリ
尹良親王ノ女櫻姫ト申ス姫君大橋定省嫁シテ男子数多生ス 修理亮貞元三河守信吉等ナリ
 大橋家傅
其先祖ハ九州ノ守護大橋肥後守平貞能末葉ナリ肥後守平家滅亡ノ後ハ肥後國大橋ト云所ニ蟄居ス其後宇津宮ヘ仕テ常州ニ赴キ出家ス三河國ニ移リテ住ス其所ヲ大橋ト云フ然テ尾張國熱田ニ潜居セリ時ニ農家ノ女二人ヲ妾トシテ各ニ女ヲ生スカクテ頼朝貞能ヲ尋シム尾張國原ノ太夫高春カ扶助スル由キコヘシカハ梶原源太景季ニ仰セテ原カ城ヲ攻メシム貞能ヲ☆ニシテ鎌倉ニ下ル即比企谷ノ土ノ篭ニ入ル貞能カ妻肥後國ニテ生セシ男子一妙丸[後称貞経]父カ生死ヲ尋子鎌倉ニ下ル鶴岡ノ八幡宮ニ毎日毎夜詣テ法華経ヲ高声ニ読誦シ父ノ事ヲ祈ル事数月也容色直人ニアラス世ノ人奇異ノ思ヲナス此事頼朝卿ノ御台所聞召サレ御尋アリ頼朝卿ニカクト告給フ頼朝卿即コレヲ召テ意趣ヲ問シム一妙丸泣テ父カ事ヲ詳ニ上達ス是レニ依テ憐愍ヲ加ヘラレ貞能カ命ヲタスケ安堵ノ下文ヲ賜リ九州ニ皈ヘサル此大友ノ元祖ナリ
此一妙丸貞能カ家ヲ継給フナリ貞能ヲ尾張ニテ扶持セシ原ノ太夫高春ハ千葉上総介広常カ外甥ナリ薩摩守平忠度ノ外舅也云々
貞能カ子大橋太郎貞経後裔代々尾張三河ニ居住ス貞能尾張ニテ生セシ四女子[二人ノ妾同月同日ニ二子ヲ生ス]後ニ頼朝卿鎌倉ニ召テ一人ヲハ三浦佐原太郎平景連ニ下サル真野五郎胤連カ母也一人ヲハ佐々木三郎兵衛西念ニ下サル小三郎盛季カ母ナリ一人ヲハ安芸國羽山介宗頼ニ下サル一人ヲハ大友四郎大夫経家ニ下サル豊前守能直カ母也彼四女子生レタル里ヲ末代マテノ験ト其村ヲ四女子ト名ツク其後四女子ノ母ヲ神ニ祭レシメ給フ社アリ後ニ是レヲ取タカヘテ頼朝ノ宮ト号ストナン
 長享二年戌申九月十八日         
 天文二年癸巳三月五日写之了不可及他見者也
 正徳三年癸巳九月中旬写之者也 

『※金沢市立玉川図書館 加賀藩資料』 


【「浅井城」、「浅井神社」古墟図(石川県立図書館森田柿園文庫)】には、「浅井城」、「赤丸浅井神社」、「阿光ヶ淵」等が克明に記される。


◆【後醍醐天皇第八皇子宗良親王】の事蹟を伝える「川田順著」の「宗良親王」




🔴【室町時代の越中五位庄の変遷】[五位庄赤丸村]に創建された【天景寺】と播磨の赤松一族の再興!

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町


■【明徳の和約】明徳 3 年/元中 9 年(1392 年)年に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で和議と皇位継承について結ばれた協定で「明徳の和談」、「元中一統」とも云う。
この和約に従って同年閏 10 月 5 日(1392 年 11 月 19 日)南朝の「後亀山天皇」が吉野から京都に帰還し、北朝の「後小松天皇」に三種の神器を譲って退位し、南北朝の合一が成った。これに因り建武 3 年(1336 年)以来の朝廷の分裂状態が終了した。
・明徳三年(1392 年)足利義満により相国寺は伽藍の大造営が行われ、大法要が営まれた。(※「相国寺供養次第」)
・応永 12 年(1405 年)足利義満により五位庄を室日野業子(ナリコ)(定心院)の追善料として『京都相国寺』に寄進される。「金閣寺」は相国寺の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為「金閣寺」と呼ばれている。
・応永 22 年(1415 年)足利義持により五位庄の半分が足利氏菩提寺の臨済宗等持院(京都市左京区)に寄進され下地は管領畠山満家に預け置かれた。(福岡町史)
→実際の管理は守護代が担当していたと云う。
《※「等持院常住記録」の寄進状記録による。(富山史壇 2000.03 第 131 号)》

《※足利尊氏が夢想疎石を開山として請い、代々 足利氏の菩提寺になった「等持院」は、元々、「仁和寺」の一子院を前身としており、「足利義持寄進状」では守護請け地とされている。「衆徳山総持寺の千手観音像」が伝えられたとする「河内天野山金剛寺」も仁和寺末で有る。》

⇒南北朝の合一が成った後も南朝復興の運動は続いた。この時期を「後南朝」と呼び、この運動は応仁の乱[室町時代の応仁元年(1467 年)に発生し、文明 9 年(1477 年)迄の約 10 年間]迄続いた。1414 年(応永 21 年)、4 年前に京都を出奔して吉野にいた南朝最後の天皇の「後亀山上皇」とその皇子「小倉宮」を支持して伊勢国司北畠満雅が挙兵するものの室町幕府の討伐を受けて和解し上皇は 2 年後に京に帰った。後亀山上皇崩御後の 4 年後の 1428年(正長元年)に皇子が無かった「称光天皇」が崩御して北朝の嫡流が断絶した為に後小松上皇は北朝の伏見宮家彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとした。北朝が皇統断絶して皇位継承権を失ったとする南朝側は激しく反発し南朝の忠臣の北畠満雅は再び、小倉宮聖承(故後亀山上皇皇子の小倉宮恒敦の皇子)を担いで伊勢で挙兵したが、幕府軍と戦って敗死。この事件から応仁の乱に至る迄、南朝の子孫は断続的に活動を続けた。1443 年(嘉吉 3年)に、南朝復興を唱える日野家傍流の日野有光等が「後花園天皇」の暗殺を企てて御所に乱入し、暗殺未遂だったが、三種の神器の剣と神璽を奪って南朝皇族の故後亀山上皇の弟の孫に当たる「 通蔵主」・「金蔵主」の兄弟を担いで比叡山に籠る「禁闕キンケツ の変」を起こした。幕府軍は首謀者を討ち、剣を奪い返したものの神璽は後南朝に持ち去られた状態であったが、1457 年(長禄元年)に、「嘉吉の乱」[※嘉吉元年(1441 年)播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府 6 代将軍「足利義教」を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に討たれお家は断絶した。]で取り潰された赤松氏の復興を願う赤松家遺臣の石見太郎、丹生屋帯刀、上月満吉らが、大和・紀伊国境付近に本拠を置いていた後南朝勢力に「臣従する」と言って、逆に後南朝勢力を襲い南朝の末裔という「自天王」(尊秀王)・「忠義王」兄弟を殺害して神璽を奪い返した。
→(長禄の変)



■赤松氏はこの功績により幼少の赤松政則に勲功として「加賀北半国の守護職」、「備前新田荘」、「伊勢高宮保」が与えられお家の再興を果たした。代わりに「加賀北半国」の守護だった富樫成春は追放されたが、承久の乱以後勢力を拡大した国人領主の富樫氏の勢力は強く、能登守護の畠山氏が赤松氏を支援したとされる。この「加賀半国」は羽咋郡等の加賀北部で、越中の西部にはこの時に赤松氏が居城にしたと云う「五位庄の加茂城」の伝承が残る。
五位庄加茂山に創建され後に金沢に動いた「雲龍寺」や、赤丸村舞谷に創建され後に高岡市内(総持寺の近くの関町地内)に動いた雲龍寺の末寺の「天景寺」は「笹竜胆」の源氏の家紋を用いており、赤松氏所縁の寺とする歴史を持っている。

「五位庄加茂山」(左の山)と「赤丸城ヶ平山」(右の山)

加茂山の「雲龍寺」は金沢へ移転し、その後を受けて「天景寺」が赤丸城ヶ平山の麓に創建された。いずれも播磨の赤松氏ゆかりの寺と言われ、「源氏」の「笹竜胆」を寺紋としている。

■赤丸村から高岡駅南の高岡市関町に動いた「天景寺」は加賀藩士の赤松氏の再興と言う。

「越中絵図」(※「畠山文書」羽曳野市)



🔴【越中射水氏】の子孫【三善為康】が編纂した「朝野群載」と高岡市福岡町向田村の開発!!

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町
■越中の古代氏族「射水氏」の子孫は都に上京して算博士の「三善氏」の養子になり、鎌倉幕府でも要職を歴任した。
(※越中の射水郡は射水氏の所領)






「源義家」(※八幡太郎義家)については、越中国の射水氏の「三善為康」が著した「朝野群載」の中で康平7年に「源義家が越中守への赴任を希望した事」を記載している。





■「福岡町史」には富山県西部の五位庄の高岡市福岡町の【向田(村)は康平7年 (1064年) に「源義家」が越中守の時、 家臣の向田行光に命じて開拓した場所】と記載され、越中国は源氏の棟梁として「八幡太郎義家」が越中守として統治していたとの記載が在る。福岡町歴史民俗資料館には「向田遺跡」から発掘された「清原たけすえ」の署名が在る埋経に使用した「経筒」が保管されている。源義家が奥州統治に関わった事と奥州に栄えた清原氏の遺品が五位庄で発掘されている事は興味深い。又、奥州平泉にも「埋経」の文化が在ったと言うことから、藤原摂関家長者藤原頼長の庄園「越中吉岡庄」と同じく頼長の配下で在った奥州の藤原氏にも同じ文化が在ったものと見られる。因に「藤原頼長」は奥州にも五ヵ所の庄園を持ち、奥州藤原氏に管理させていた。(※「兵範記」)
※「越中国五位庄」には多くの「八幡社」が建立されており、【八幡太郎義家】の尊崇の歴史が在ったものだろうか?





■【源平盛衰記】の「木曾義仲」の「埴生護国八幡神社」への戦勝祈願。
源平倶利伽羅山合戦に臨んで「木曾義仲」は「越中国人池田次郎」の案内で源氏頭領の武将「八幡太郎義家」の名前が入っている「埴生護国八幡神社」へ戦勝祈願の願文を納めた。「池田次郎」は「越中吉岡庄」の鎮守「延喜式内社赤丸浅井浅井神社」の門前に屋敷を構えていた「池田氏」と見られる。「池田氏」は氷見郡、吉岡庄赤丸村、小矢部市池田地区等広範囲に所領を持っていたと言う。(※「治承寿永の内乱論序説」朝香年木著)

【木曾義仲群将図(喜多川歌麿作)】越中吉岡庄赤丸浅井城を居城にした「石黒光景」の弟で木舟城「石黒光弘」が載る




「治承寿永の内乱論序説」(朝香年木著)には、国人領主「池田氏」の所領「池田地区」が載る。


倶利伽羅山合戦戦場


「延喜式内社赤丸浅井神社」





「藤原頼長」、「後白河上皇」、「後鳥羽上皇」、「後醍醐天皇」に伝領した「越中吉岡庄」


🔴【皇室庄園 越中吉岡庄】(※富山県高岡市福岡町赤丸村周辺)に遺される二人の「二宮(皇子)」の伝承!!

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町


🔽「延喜式内社赤丸浅井神社」に遺される皇室の「菊紋」




🔽「延喜式内社赤丸浅井神社」は「皇室八神の一」で、「大伴氏」・「佐伯氏」の祖先神の【高皇産霊神】を主祭神として祭る。




🔻「元正天皇二宮(聖武天皇の弟)石川朝臣広成」と「後醍醐天皇の皇子宗良親王」の軌跡!!

「越中国利波郡五位庄赤丸村」の「赤丸城遺跡」の麓には「親王屋敷跡(八宮屋敷跡)」や「親王塚」の遺跡が遺されている。


【※「福岡町史」】南北朝時代末期迄続いた「越中吉岡(芦岡)庄」の古絵図





■赤丸村の城ヶ平山に「親王塚」と伝わる古跡がある。【延喜式内社赤丸浅井神社】は「元正天皇二宮の創建」と伝えられ、「続日本紀」には「文武天皇」の「二宮」の「石川朝臣広成」の話が載っている。実は、この皇子は「文武天皇」が夭折された為に、残された幼い皇子の為に、文武天皇の姉「元正天皇」が代わって即位されて母親代わりを勤められた。この皇子の一人は、「首皇子オビトオウジ(聖武天皇)」で有り、その弟の皇子(二宮)は長じて「石川朝臣広成」と賜姓された。この「石川朝臣広成」は元正天皇の時に「赤丸浅井城」へ入られ、東北33ヶ国を統治されたと伝わる。「石川朝臣広成」は、「大伴家持」と共に「恭仁京」で「内舎人」の職に在って、「万葉集」にも三首の歌を遺されている。又、「大伴家持」が越中国司の時に開発が進んだ越中の「東大寺庄園」の「石粟庄」(※重要文化財石粟庄図)から「延喜式内社赤丸浅井神社」へ「神田一段」が寄進されている。



■又、南北朝時代に、「越中吉岡庄」の領主「後醍醐天皇」は「足利尊氏」との戦いで皇子達を戦線に派遣して「建武の中興」を果たされたが、後には、「足利軍」に各所で敗戦した。その為に、越中には興国三年、「第八皇子宗良親王」(※全体としては「八番目の皇子」の事で、母親を同じくする皇子では「二番目の皇子」を指す)が入られて「赤丸浅井城」に入られたと言う。従って、この「宗良親王」も別名「二宮」と言われる。

🔽「石川朝臣広成」・「宗良親王」の系図


🔽「後醍醐天皇皇子 宗良親王肖像」(※高岡市福岡町木船「石黒家」所蔵)


🔽「職原抄」に記載される【内舎人】ーー「天皇」に近侍して護衛等の雑事を担当した。








🌼「赤丸浅井神社」の伝承⇒「二宮伝承」(福岡小学校生徒作品部分)




■赤丸村の「親王塚」は、この二人の親王のいずれの親王の墓かは明らかでは無い。しかし、「宗良親王」の墓は既に「静岡県」に宮内庁が認めた墓が有り、この墓は「石川朝臣広成」の墓ではないかとの説がある。
「赤丸浅井神社」の奥宮と並んで、代々「七軒百姓」を勤めた旧家の「石川家」がある。この石川家は代々、赤丸浅井神社の門前に屋敷を構えていたが、この屋敷は現在も遺されており、古い鎌倉時代の仏像を伝えていると言う。又、この「石川家」の古い墓碑には、「皇室」の「菊紋」が付けられた墓碑が有り、この一族が皇室に連なる一族である事を窺わせている。
この本家は明治に入り北海道へ移住して、現在はその分家が赤丸浅井神社門前に遺されている。



🔽「延喜式内社 五位庄53ヶ村総社赤丸浅井神社 縁起」



🔽「後院領・皇室庄園 越中吉岡庄」の歴代領主


🔴【仏教の都「越中吉岡庄」】【東大寺お水取り行事】で唱えられる「東大寺修院過去帳」と、高岡市関町【国指定重文総持寺千手観音像】!!

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町





(※東大寺広報)

■■毎年三月に行われる「東大寺二月堂のお水取り行事」で唱えられる【東大寺修院過去帳】には、【聖武天皇】他の皇族等と共に越中国司【利波臣志留志】や鎌倉時代の【禅恵】・【頼真】等の氏名が記載される





■【東大寺修院過去帳】に記載される【禅恵】・【頼真】の名は、河内金剛寺から赤丸村に伝わった高岡市関町の「国指定重要文化財木造千手観音像」の胎内にも記載される。(※同名異人か?)
その他に【後鳥羽上皇】の法名「金剛位理卿」も記される。(※【赤丸浅井城】は「利波郡司利波臣志留志」の末裔の「越中石黒氏」の居城で、後の「越中吉岡庄」は「後鳥羽上皇」の庄園であった。)








■「東大寺上院修中過去帳」
東大寺お水取り行事の五日目と十二日の初夜の終わりには、東大寺所縁の人達の「過去帳」が読み上げられる。

🔽『東大寺上院修中過去帳』記載の関係者
⇒本願聖武天皇、元正皇太后、光明皇后、行基菩薩、孝謙天皇、藤原不比等、橘諸兄、良辮僧正、實忠和尚、大仏開眼天竺僧正、隆尊律師、観音願主尾信勝、虚空蔵願主尼善光、造寺知識功課人、大仏師国君麻呂(百済から亡命した仏師)、大鋳師真国、高市真麿、鋳師柿本男玉、大工猪名部百世、小工益田縄手
材木知識五萬一千五百九十人、役夫知識一百六十六万五千七十一人、金知識二十七萬二千七十五人、役夫五十一萬四千九百二人、 米五千石奉加利波志留志、銭一千貫奉加河俣人麿、銭一千貫車十二両牛六頭奉加物部小嶌、銭一十貫奉加甲賀真束、別当良興僧都、良慧僧都、永興僧都ーーー桓武天皇ーーー嵯峨天皇ーーー淳和天皇ーーー仁名天皇ーーー文徳天皇ーーー陽成天皇ーーー光孝天皇ーーー宇多天皇ーーー宇多天皇ーーー朱雀天皇ーーー村上天皇ーーー冷泉天皇ーーー圓融天皇ーーー長官頼忠関白ーーー華山天皇ーーー一条天皇ーーー三條天皇ーーー後一条天皇ーーー後朱雀天皇ーーー後冷泉天皇ーーー後三條天皇ーーー堀河天皇ーーー白河天皇ーーー近衛天皇ーーー鳥羽天皇ーーー後白河天皇ーーー虚空蔵並増長天大仏師幸慶法眼ーーー当寺造営施主将軍頼朝右大将ーーー青衣女人ーーー大勧進栄西僧正ーーー当寺造営大施主将軍實朝将軍ーーー平義時左京権大夫(北条義時)ーーー後高倉法皇ーーー大仏脇士観音並廣目天大仏師快慶法眼ーーー同脇士多聞天大仏師定慶ーーー禅惠法師ーーー後堀河天皇ーーー四條天皇ーーー平泰時左京権大夫(北条泰時)ーーー後嵯峨天皇ーーー頼真大法師 他 (一部分抜粋)
(慶應二 丙寅書写 宮内卿晋海) (※「青衣女人」飯島幡可著)




後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」の赤丸村の「延喜式内社赤丸浅井神社」は「越中国司利波臣志留志」の時代に「聖武天皇の弟」が創建されたと伝わり、「東大寺庄園石粟庄」から「神田一段」が寄進されている。

















(東大寺庄園越中石粟庄「砺波市」から延喜式内社赤丸浅井神社に『神田一段』が寄進された)






【室町時代の越中国】越中守護畠山持国の「赤丸城」と室町幕府御粮所「越中五位庄」に在る「西光寺」!!

2021-04-15 | 富山県高岡市福岡町
■【室町時代の越中国】
越中利波郡の西部に在った室町幕府御料所【越中五位庄】。
五位庄赤丸村の「赤丸城」には、「越中守護畠山持国」の名前が在る。
(※大阪府羽曳野市資料叢書「畠山文書」)


●「五位庄石堤村」の『西光寺縁起』に見られる藤原氏の「越中井口氏」と「足利幕府将軍足利義材」の越中中郡放生津での滞在記録。(※「足利末世記」、「畠山家記」)





[赤丸村隣地の高岡市石堤に在る「西光寺縁起」に、井口氏と越中吉岡庄地域との関わりを示す痕跡が見受けられる。「西光寺」は赤丸浅井神社の至近距離に在る。]

◎「西光寺縁起」
応安元年了順の開基にして初め天台宗なりしが明応年中真宗に帰し今は本派に属す。廣谷山と号し西光寺の名を綽如上人より賜る。了順の俗姓は鎮守府将軍藤原秀郷五世の孫光義 康平七年三月越中守源義家に従ひて當國に下り礪波郡井口郷に住し井口三郎光義と稱す 光義五世の孫光成は俵藤太(※「藤原秀郷」:田原に住み、大ムカデ退治の武勇伝が在る。)を縁り養藤蔵人と號す 光成九世の孫光高後に蔵人成綱と改め井口城に據る  元弘二年名越時兼に攻められ戦死す 年三十九 嫡子倉之助逃れて隠處を求め礪波郡山川村 石堤村山川村也 の開祖となる 倉之助の無常を悟り剃髪染衣して応安元年天台宗に帰依し法名を了順と改め草庵を結びて出家す。 大骨、四辻 山川地内、と轉遷して後ち廣谷 石堤村西廣谷瑞京寺干場 に一宇を建立せり。亨徳二年麻生谷 石堤村麻生谷現境内 へ移転したり、明應の頃将軍足利義材越中に逃れ一向宗徒に據り當寺に陣止せし事あり 永正二年義材 義植と改 再び将軍となるや麻生谷村山岸領分の寄進を受け 永正二年、永祿六年直安、景直より墨付 たりといふ 了秀の世延寶八歳秋十五日、十日市九郎兵衛の寄進せる鉅鐘成る 工人加州金澤住人河江長兵衛作 元禄十三年六月八日堂宇類焼に際し鉅鐘敗れたり 了淳元禄十五年に堂宇 今の本堂 再建せり 了照 現住 明治四十五年庫裏を改築せり
一説 鎮守府将軍藤原利仁の後裔井口三郎ともあり
累世左の如く養藤の姓を冒し檀家三百有餘あり
定紋 圓に三俵は秀郷百足退治の功により龍宮より賜はりたる大豆栗米(永世祿)の三俵に縁りて票示せりと傳ふ
 以下省略  (※「石堤村史」参照)

【※「応安年間」は南北朝時代の元号の一つで北朝方にて使用された。1368年から1374年迄。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。足利義満により越中吉岡庄は京都の相国寺(金閣寺)に寄進されている。西光寺は当初、南朝側として戦ったが、足利氏が支配するに及び北朝側になったと云う。足利義満が将軍となり越中国を管領畠山満家に委ねた時に、越中国は八郡に改編され、「越中国利波郡五位庄赤丸城」には満家の子供の畠山持国が越中守護として在城した。➡常時は羽曳野市に在住。】










🔴🌸 【藤原摂関家長者 藤原頼長】の庄園【越中吉岡庄】⇒富山県高岡市福岡町赤丸の【延喜式内社赤丸浅井神社】!!

2021-04-14 | 富山県高岡市福岡町

●【藤原摂関家に伝領した越中の庄園文化】
【越中吉岡庄】「藤原摂関家庄園」、「上皇・天皇家庄園」の郷社「延喜式内社赤丸浅井神社」に伝わる「熊野信仰」










◎[藤原道長の系図]  
【道長---頼道---師実---師道---忠実---頼長】 
 越中吉岡庄の領主だった「藤原頼長」の先祖は「藤原道長」になる事から、道長時代から吉岡庄は摂政藤原道長の庄園だったのかも知れない。ちなみに「藤原頼長」は先祖の名前の「御堂(藤原道長)・宇治殿(藤原頼通)の御名字の一字」を貰って命名されたと云う。













■「延喜式内社赤丸浅井神社」には、昭和期迄【勅使桜】と称する大木の桜が二本植えられていた。
この桜は、奈良時代に「一条天皇」が「勅使川原左京」を勅使として、「赤丸浅井神社」に「蝗害」を防ぐ為に遣わされ、その時のお手植えの桜と云われ、「一条天皇」の時代の「左京職」は、一条天皇の叔父の「藤原道長」が任命されていた。










■この桜は、「勅使桜」の他に、「遅桜」とも呼ばれ、越中の農作業の始まりを報せる桜の木で在り、この桜木は御神木として白山信仰の神の「木花咲夜姫」の象徴とされた。その為に、赤丸浅井神社へは多くの「白山修験道」の山伏が拝礼に訪れる。
嘗て、高岡市関町の「総持寺」は赤丸村に在って「本山派修験道聖護院派川人山鞍馬寺」の後継の「赤丸浅井神社」の信仰とも密接で、「当山派修験道」は真言宗の流れを汲む修験道で在る事から、真言宗の「総持寺」にも白山山伏の拝礼が在ったと云う。

【※本山派は三井寺系の修験道で、当山派は金峯山を拠点とし、三宝院(醍醐寺)を本寺とした。修験道の開祖とされる役行者エンノギョウジャ(役小角エンノオヅヌ)を信仰する。明治維新で「修験道廃止令」が出ると、各々の寺院は天台宗、真言宗への改宗を強制された。】
▼「本山派修験道聖護院派川人山鞍馬寺」は明治維新の動乱期に、還俗して「神官」に成り「川人他治馬」と名乗っている。
⇒現在は「白川神道三乃神社」の神官が兼務している。
【※「白川神道」は伊勢神宮の神官「度合氏ワタライ」が主唱したもので、両部神道の色彩も遺す。江戸時代の「度合延経」は「神名帳考証」の中で「浅井神社の浅井とは浅井の神在れば成り」として、「赤丸浅井神社」の祭神が浅井氏が信仰した琵琶湖の神の「八河江比売神」で在る神社で在る事を指摘している。
一方、「伊勢神道」は「花山天皇の子孫」が提唱されたもので伊勢神宮の信仰を伝える。】

■赤丸村は嘗て「後白河上皇」の庄園の「越中吉岡庄」で在ったが、「後白河上皇」は原因不明の頭痛に悩まされていた。 ある時に夢枕に熊野修験道の僧が夢枕に立ち、この僧は「熊野の川に生える柳の根が頭の中に入って苦しい!」と訴えた。上皇は早速、熊野の川を調べると、遺骸の頭蓋骨に柳の根が入り込んだものが発見された。そこで、上皇はその遺骸を供養して、その柳の大木を伐って自らの住まいに「蓮華王院三十三間堂」を創建して、その中に一千一体の「千手観音像」を祭られ、熊野には三十四回の参詣を繰返したと云う。「後白河上皇」は自らが出家された「三井寺」に「熊野三山検校」の地位を与えて熊野三山の保護を命じられた。
その為に、その後の歴代天皇は熊野参詣を繰返したと云う。又、「熊野信仰」を伝えた賀茂氏が信仰する京都の「賀茂御祖神社」を保護された。そもそも、この「賀茂氏」は神武天皇が大和宇陀郡に入られる時に「金色の鳶」に変身して神武天皇を道案内したと伝えられて、大和国宇陀郡には賀茂氏の象徴の三本足の「ヤタカラス」を祭る「ヤタカラス神社」が在り、歴代天皇が崇敬されたと云う。
「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄、皇室庄園として続いた「越中吉岡庄」の「延喜式内社赤丸浅井神社」の背後には「総持寺の持ち宮」と伝わる「熊野社」の跡地が在り、この神社は現在、「赤丸浅井神社」に合祀されている。










【※越中に伝わる「熊野信仰」は皇室庄園に伝わった信仰で在り、皇室の「伊勢神道」、「白川神道」に対抗した「吉田神道」の「高岡関野神社」が「熊野信仰」を伝える筈も無い。「吉田神道」は元々、「鹿島神宮」、「春日大社」の流れを汲み、ある時に突然、「伊勢豊受神」が飛来したとして「神祇管領長上」を名乗り、「神祇官」の伊勢神道を排除して徳川幕府と手を組み、「神社祢宜諸法度」を幕府に出させて神道を独占しようと企んだという。(※「大鏡」)
古来、熊野は修験道の修行の聖地とされ、「延喜式神名帳」に「熊野坐神社(熊野本宮大社)」と「熊野速玉大社」と在り、「熊野那智大社」は那智の滝を中心とする自然の修行場そのものと見なされていた。3社が興ると3社の神が3社共通の祭神とされ、「神仏習合」によって「熊野本宮大社」の主祭神の「家都御子神(ケツミコノカミ」)《※「家都美御子神(ケツミコノカミ)》は「阿弥陀如来」、新宮の「熊野速玉大社」の「熊野速玉男神(クマノハヤタマノカミ)《※速玉神(ハヤタマノカミ)》は「薬師如来」、「熊野那智大社」の「熊野牟須美神(クマノムスミノカミ)」《※夫須美神(フスミノカミ)》は「千手観音」の垂迹神とされた。熊野の3神は「熊野三所権現」と呼ばれて主祭神以外も含めて熊野十二所権現と云う。
又、「那智山青岸渡寺」は、一千日(3年間)の滝籠りをされた「花山法皇」が、永延2年(988に)に行幸されて「西国三十三ヶ所第一番札所」として定められた霊場で在る。本尊の「如意輪観世音像」は、仁徳天皇の時代の4世紀頃に、インドから那智に渡来した裸形上人が那智滝の滝壺で見つけて本尊として安置されたと言われる。
「熊野信仰」は熊野の自然そのものと「熊野三山」、「那智山青岸渡寺」を信仰する「両部神道」、「修験道」の信仰で在り、「唯一神道」を唱えて「廃仏毀釈」の先頭に立った「高岡関野神社」が「熊野社」を祭り、高岡市の「御車山祭り」で熊野社の鳥居を飾った「二番町の山車」を引き廻す等して、之が「高岡関野神社の祭礼」と銘打つ等、は誠に笑止な事だ。明らかに、神社簒奪の企みが現在にも平然と行われて、市民もこの嘘に熱狂している。】



■越中には南北朝時代の後醍醐天皇の皇子「宗良親王」が「吉岡庄極楽谷」に「越中宮極楽寺」を創建され、合わせて「熊野社」を祭られたと伝わる。現在、高岡市熊野町には、「宗良親王」が創建されたと伝わる「先宮熊野社」が在り、「前田利家」はこの神社に「先宮」の称号を与えたと伝わる。(※「越中宮極楽寺由緒」)













🚩🗾 ●「越登賀三州史」(※「富田景州著」に見る加賀藩時代の越中、能登、加賀の領地変遷!!

2021-04-14 | 富山県高岡市福岡町
🔘【加賀藩政時代の領地の変化】
《「越登賀三州史」(※「富田景州著」石川県図書館協会発行)
・加賀藩時代の越中、能登、加賀の領地(※部分)》

🔷【加賀藩直轄領】の変化


















🔷【近江国】には二ヵ所に加賀藩の分国が在った。

◆今津村は1864石で、秀吉が前田利家の大阪への旅の休憩地として与えたもので、豊臣家の大老を辞するに当たり秀吉に返上を申し入れたが、秀吉はこの地を「芳春院(※利家の妻まつ)」の化粧料」として「芳春院」に与えた。

◆海津村は加賀藩領の尾添村、荒谷村の代替えとして加賀藩に与えたもので、福井県と石川県の境に在る「白山」の神領と支配権を巡り、福井県大野市の「平泉寺」と石川県白山市鶴来町の「白山宮」が争った為、仲裁した幕府はこの二村を幕府直轄領として、代わりに琵琶湖を臨んだ海津村を「藩邸」として与えたが、実際には、この地は大阪、京都への物流の拠点としての「蔵屋敷」が置かれた。




🔴🔹 大阪府羽曳野市の 【畠山文書】に見られる【越中絵図】⇒室町幕府【管領畠山持国】の統治下の【赤丸浅井城】と【高岡大仏】の創建!!

2021-04-13 | 富山県高岡市福岡町




■この絵図には、「赤丸浅井城」の記載と「管領 畠山持国の統治地域」の記載が在る。
【源氏系図】には、【「室町幕府第7代将軍足利義勝」は、管領の「畠山持国」、「細川持之」によって第7代将軍に推された。「足利義勝」は8歳にして将軍と成り、十歳で夭折した】と記載される。








⇒【高岡大仏】は、【源義勝】が父の菩提を弔う為に、現在の「高岡市守山」に初め、創建したものだと云う。当時の「守山」は「管領畠山持国」の統治下にあり、「五位の東庄」に含まれて居たと見られる。小矢部川と庄川の間の「福野町野尻」は京都の「東寺百合文書」に記載される所では、「五位の東庄」と呼ばれ、高岡市中田~戸出地区に拡がって居た「徳大寺家庄園」の「般若野庄」は「五位の東庄を含む」と記載されている。