赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴【延喜式内社赤丸浅井神社の歴史】と「寧楽(奈良)・鎌倉時代」の文化!! ➡【聖武天皇】・【石川朝臣広成】・【大伴家持】!!

2021-04-18 | 富山県高岡市福岡町


■越中国の古代庄園【越中吉岡庄】(※高岡市福岡町赤丸)で展開された奈良時代、鎌倉時代の歴史!!



■「聖武天皇」・「石川朝臣広成」・「大伴家持」・「利波臣志留志」の活躍した時代と「延喜式社社赤丸浅井神社」➡東大寺大仏建立の時の「聖武天皇」と「行基」等


■「越中国司大伴家持」➡「延喜式国幣小社赤丸浅井神社」には国司が参拝し、「赤丸浅井神社」には、「皇室八神」の一柱で大伴氏の祖先神とされる「高皇産霊神」が祭られている。




🔽「加賀藩第十三代藩主前田齋泰」は篤く赤丸浅井神社を崇敬して、「浅井神社」の軸を奉納して、東京都板橋区の「加賀藩江戸下屋敷」の庭には「赤丸山」と言う築山を築いた。この文字の写しから作成された額が現在も「赤丸浅井神社」の拝殿に【額装】されて掛けられている。








▼東大寺庄園を開発した「利波郡郡司 利波臣志留志」は、「東大寺大仏建立の為に米五千石を寄進」して、「員外介」と成り、「大伴家持」の後に「越中国司」に任じられた。





▼【東大寺衆院過去帳】⇒東大寺大仏建立の時の「寄進者名簿」に掲載される「越中国司利波臣志留志」

(東大寺所蔵文書)

▼東大寺大仏建立の時の「寄進者名簿」➡【東大寺上院修中過去帳】は現在も尚、毎年三月の、「東大寺お水取り行事」で転読される。「利波臣志留志」は臣下の中で寄進者筆頭として読み上げられ、その功績が大仏に報告される。






・「聖武天皇」が東大寺大仏を建立された時に、「越中国司利波臣志留志」は越中で東大寺庄園を開発して、自らも米五千石を東大寺に寄進して「大伴家持」の後に越中国司に任じられた。
「越中国司利波臣志留志」は、「延喜式内社国幣小社赤丸浅井神社」へ天皇の代わりの勅使として、毎年、「朝廷」からの捧げ物の「幣帛」を参じて拝礼に出向いていた。(※「延喜式」)
・「大伴家持」が国司として東大寺庄園の開発を推進した時に、石黒氏の祖先とされる「利波臣志留志」は、「赤丸浅井神社」に「東大寺庄園越中石粟庄」から「神田一段」を寄進した。「利波臣志留志」は「大伴家持」の後に「越中国司」に任じられた。
・近年迄、富山県には、「西礪波郡」、「東礪波郡」の地名が在り、この「礪波郡(利波郡)」は、「利波臣志留志」の「利波(礪波・砺波)」から名付けられた。富山県西部の「砺波市」には、多くの「東大寺庄園跡」が在り、人々は篤く「利波臣」の業績を顕彰して【(砺波)礪波市】と名付けている。

■しかし、この歴史も知らない高岡市等では、「西礪波郡(福岡町、等)」をわざわざ廃して、根拠の明らかで無い「高岡市」と改名している。高岡市周辺にも、「須加庄」、「くぼ田庄」等多くの東大寺庄園が周辺を取り巻いている。

そして、尾張国からの侵略者で、殺戮と恐怖で民衆を奴隷として働かせて、自らは金銀で飾り立てた豪華な生活を続けた「加賀藩前田家」の呪縛に今も縛られて、「高岡城」を目玉にした観光振興を進めている。
しかも、高岡市教育委員会はデタラメの歴史を子供達に伝え、かつての「利波郡」の京都、奈良の都にも匹敵する華々しい歴史を圧殺して伝えず、今も尚、「加賀藩前田家の恩顧」だけを唱えて、しかもあろう事か「歴史創造都市」等とどの面下げて標榜しているのか? これが、近代的な都市とはとても考えられない稚拙な統治者や教育者に率いられ、歴史にもならない歴史を「創造する為」に加賀藩恩顧の古い商人達の家や加賀藩恩顧の「寺社」等に湯水の様に税金を投入して、市民達が気付けば、今と成っては「財政破綻」の淵に立たされ、誰も責任を取らない無法都市が出現している。
「何故、輝かしい歴史をドブに捨て去り、わざわざ嘘の歴史をでっちあげるのか? 何故、歴史を創造する必要があるのか? 何故、子供達に真実の郷土史を伝えず贋物造りを進めているのか?」
高岡市のこの標語では、自らで【贋物都市】を宣言している様なものだ。
高岡市中央図書館に【ある贋作物語】と言う「名著」がある。これは「高岡市史」の編集者の友人でも在った「高岡市内の医師桜木成一氏」が、「高岡市のまがまがしい贋物の文化」を告発されたもので、【資料編】すら全く無い、根拠の無い歴史を伝える「高岡市史」に拠っている【高岡市の歴史、文化】を痛烈に批判されたもので、現在は更にこれが「当然」の様に伝えられている。

















「西礪波郡紀要」には、「越中石黒氏の末裔は累代、赤丸浅井城に拠った」と記される。「源平盛衰記」には、「赤丸浅井城石黒光景(六道太郎光景)」とその息子の「越中木舟城石黒光弘」が記載され、「石黒氏」や「加賀林氏」等の藤原氏は「越中吉岡庄の領主後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」等では「上皇軍」として都に攻め上った。又、南北朝時代の「後醍醐天皇」が起こされた「足利氏との戦い」では、「越中石黒氏の石黒重之」は「後醍醐天皇の第八皇子宗良親王」を「赤丸浅井城」に迎え、城ヶ平山に「親王屋敷」を設けて親王の為に戦った。この時、「南朝軍」は「後醍醐天皇が創られた赤丸の御旗」を掲げて戦ったと言う。
南朝【後醍醐天皇】の軍旗【赤丸の御旗】
(※奈良県賀名生の「掘家住宅」に遺される後醍醐天皇手書きの軍旗)





・「赤丸浅井神社」を創建された「石川朝臣広成」は「聖武天皇」の義弟で、「大伴家持」と共に恭仁京で「内舎人」として従事して、「万葉集」に和歌三首が掲載される。


・「延喜式社社赤丸浅井神社」は当時の国法に載せられる「延喜式の国幣小社」で在り、この格式の神社には、毎年、「越中国司」が天皇に代わり「幣帛」を納める為に参拝していた。





・「聖武天皇」の腹違いの弟の「石川朝臣広成」は、「元正天皇二宮」と呼ばれ、「延喜式社社赤丸浅井神社」を創建されたと「浅井神社由緒」は伝える。浅井神社社殿には各所に「天皇家の菊紋」が刻まれる。
・「赤丸浅井神社」の奥殿の背後には、天皇家の「菊紋」が刻まれた「石川家」の墓標が遺されている。
・古代に、小矢部川と庄川が合流していた「吾子淵」では「二位の渡し」と言う小矢部川の渡し場が在り、これが「義経記」では「二位の渡し」と記される。(※後の「五位の渡し」)





▼これらの関係を示す資料は、「続日本紀」や「万葉集」、「東大寺記録」等に遺されており、当時はこれらの人物が赤丸浅井神社に関係していた事が立証される。







「赤丸浅井城」、「越中川人山鞍馬寺」、「延喜式内社赤丸浅井神社」、「末社石堤浅井神社」、「末社舞谷八幡宮」、「清水観音堂」、「愛宕山」等の全容を描いた【川人山鞍馬寺、浅井神社三社、赤丸浅井城古墟図】(※「森田柿園文庫」石川県立図書館)



■【石川朝臣広成】について、「続日本紀」・「川人山三社記」・「赤丸浅井神社由緒」では、「元正天皇の二宮」とされる。元正天皇は文武天皇の姉で、文武天皇が早逝された為に、「祖母」の元明天皇や「叔母」の元正天皇が「首オビト皇子」(聖武天皇)が成長する迄の母親代わりを勤められた。「石川朝臣広成」は、「文武天皇」の「嬪ビン」と呼ばれた「石川刀自娘イシカワノトジノイラツメ」)との間にできた妾腹の子供で在った為に、「二宮」と呼ばれた。「赤丸浅井神社」は皇室の神社で在り、祭神の「高皇産霊神」は神々を地上に遣わされた「神々の指令神」として、又、皇室を守護した「大伴氏」とその一族の「佐伯氏」の先祖神ともされ、様々の神々を従えて「大和国」を統一し、皇居の「大伴門」、「佐伯門」の門番も勤めた。「大伴家持」が天皇に奏上した歌の、軍歌にも成った「海行けば・・・」の歌には、「天皇の為には身を捧げて戦った大伴氏」の決意が込められている。「万葉集」に「大伴家持」の歌と共に「石川朝臣広成」の歌三首「が掲載されており、「延喜式内社赤丸浅井神社」の神殿の背後には、「皇室の菊紋」が入った古い「石川家墓標」が遺されている。かつては、「赤丸浅井神社」の前を通る北陸道を通る者達は、全員「下馬、下篭」して必ず「赤丸浅井神社」に拝礼して通行したと伝わる位に尊い神社で、「越中国司大伴家持」も朝廷の勅使として幣帛を納めた「延喜式」と言う国法にも記載される「二位の宮」として全国にも鳴り響いた神社で在ったと云う。その為に、「小矢部川」と「庄川」支流が合流していた赤丸浅井神社前の広大な淵は、「阿光ヶ淵」と呼ばれ、これは天皇が我が子を呼ぶ時の「吾子アコ」に由来する。「続日本紀」では、「元正天皇」が「聖武天皇」の幼少期に発布された勅書に、「吾子美麻斯王」と記載される。








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