高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

芸術家は魂の調律師である

2021-02-25 15:05:08 | 日記

芸術家は魂の調律師である。

これがぼくの芸術家の定義であり、このゆえに芸術は人間の生活にとって必要なのである。 
 
 
簡潔であるが、この定義はぼくの経験のひとつの結晶であり、記しておくに価すると思う。




 



フランス革命について 

2021-02-14 16:02:10 | 日記
高田博厚『パリの巷で』(1960)より

2019年06月30日(日) 記す。
 
「王と国民の相惚れ、フランス革命」 187-189頁 
 
《 それから私は、国の人情は国民の主権者に対する態度に現われていると思う。権力者と国家主権についての私の歴史観や、フランス革命の発生原因や経過についての私の判断をここに述べるつもりはないが、近代国家成立以前の昔から、民衆と常に密接な関連をもっていたのはヨーロッパ諸国でもフランスだけだった。メロヴァンジァン王朝の昔はともかく、カペー王朝歴代の王もフランス国民の是認の上に存続しており、民衆の王への反逆はなかった。議会制度と革命の皮切りはイギリスだったが、フランスにはそれがなかった。フランス革命後の共和国派は、シャルル五世に対するエチエンヌ・マルセルの圧迫を民衆革命の師表のようにあつかっているが、これは当時のフランス民衆であるパリ市民(ブルジョワ)の王権力に対する意志表示であると共に、マルセルが間もなく同じパリ市民の手で虐殺されてしまった事実に、民衆が王の存在を是認していることが現われている。
 小泉信三が皇太子を守って欧州旅行に来た折、パリ大使だった西村態雄に一夕共に招かれた。雑談の中で私がこのフランス王存続の原因について話したら、かれは「それを皇太子に一席話してくれませんか」といったが、ともかく王権力に宗教性神秘性を持たせなかったフランス人の意識こそむべなるかなと、私は思う。これには、権力の絶対性を認めず、王の神格化を許さなかったキリスト教精神が大いに影響しているのだが、パリ市民が王を自分と同位の人間視したところに、貴族階級間のアンシクロぺディストの自由思想や大革命の泉があった。それで、フランスのカぺエ王朝ほど長く続いた王権もなく、また王から封建的性格を早くから奪ってしまった国も他にない。そうしてフランス歴代の王ほど国民、パリ雀からひやかされ、流行歌の種になったものもない。フランスの王様物語を書くと厖大な本ができ上るが、だらしがないと思えるほどに民衆と縁が深く、それで民衆から馬鹿にはされたが憎まれた王はいない。ギロチンにかかったルイ十六世もまたマリー・アントワネット女王も国民から憎まれてはいなかった。人が良くて気が弱くて大食漢でなんにもしなかったから、社会力学の作用で民衆を暴民化させてしまったので、ロベスピエールやマラーも、サン・ジュストの煽動に乗ったものの、はじめから王を首切ろうとは考えていなかった。ともかくフランスの王権と民衆の関係は非常に興味深いものであり、社会革命の大師表のように奉られているフランス革命もアンドレ・モーロアがいっているように、「王と国民の相惚れ」から生れ落ちた私生児だった。ここにも今日まで継承存続しているフランス人、パリ人の「人間味」の人情が出ているのだろう。そうして日本のそれと考え合わせると、なかなか重大な問題を日本的性格は持っていると、私は思う。戦後にわか作りのデモクラシーでは改められない根深いものがあり、更に長い時間をもって日本人の意識を高めて行くより外ないのだろう。とにかくまだまだ子供なのである。》 
 
 
 
 
皇太子時代の現上皇へのご進講の機会が、高田さんにはあったことは、知られているが、ここにその内容が述べられている。ともあれ甚だ興味深い歴史的文化的述懐であるので、全文筆写する気持になった。
 
 
 



きょうの梅の花

2021-02-08 17:37:56 | 日記




きょうははじめてメジロが、一羽ではなくて二羽で梅の花に来てたよ。

かわいいわね。 まるであなたとわたしみたい 笑  

ぼくのしたこと、きっとこれでよかったんだね。 









その夜 

ねえ、まるで雪みたいじゃない? 

笑 おっしゃりたいことを書いておくのもいいんじゃない ? 

銀河みたいでもあるね。






人間を思い出そうとするなら、きみの演奏を聴けばよい

2021-02-08 16:25:58 | 日記


裕美ちゃん、お元気ですか。ぼくはこのところ、これといって良いことがあったとも思えないのに、しっくりとして落ち着いています。きみへのこのおたよりを書いていても、そうです。ぼくが、世のなかのことについて、じぶんが感じることを、いい子ぶらずに正直に告発していることも、ぼくを落ち着かせる作用があるように感じます。言いたいことを率直に言うと、落ち着くのですよね。それが欺瞞ではなく、根源的に正当な場合にはね。

では、今週の文章から:

・不良か真面目か 正しい判断とは 2021年01月30日(土)

基本的な問題に我々は振り回されている。たとえば、不良とか真面目とかいう概念を、すぐ、他者にも自分にも割り当て、それで判断したつもりになっている。この概念で何をかんがえているのか。この概念の適用で個別者をどう総括しているのか。図式的枠組もいいところであり、想像力のおままごとである。そういうことが、我々が普通やっている判断ということなのである。個人から国家までそれをやっている。こういう恣意的判断にたいして批判的であることを止めれば、正しい判断というものは止む。ぼくは、判断することを止めろと言っているのではない。反省が大事なのであり、その反省の集積もまた、判断の集積にほかならないのである。日常的にやっていることを反省することが、正しい判断への第一歩である。それで、不良か真面目かという問題をとりあげた。というのは、ぼくは本性が不良なのではないか、でもそれでいいではないか、不良力というものだってありそうである、と、さっき真面目にかんがえていたのである。そして、ぼくのその思惟の粗雑さにじぶんで唖然となったのだ。ああ、こういうことを日常的にやっているのだな、と気づいた。ぼくはふだん如何に、他者を、真面目か不良かという枠で、判断していることだろう。じぶんも不良ではないかと一瞬以上思い、それからそれを肯定してやろうとしたとき、いかに、これしきの概念にも振り回されているじぶんであるかに、あきれた。ありのままのじぶんは、ぼくは、不良でも真面目でもないのだ。ぼくらしいあり方をしているにすぎない。それをそのまま知ればよい。不良でも真面目でもないぼくを。そして反転して他者をもそのように知らなければならない。借りものの概念を介さずに、具体的な他者をそのまま知らなければならない。ここで、「知る」という言葉にぼくが籠めた感情は熱い。冷静でありながら情熱的だといってよい。正しい判断は、きっとここから始まるのだ。思いがけずもこの始まりにじぶんが、ぼくが至ったことで、いまは前進としよう。 



・ 虚しいものを自慢する 01月30日(土)

人間は、虚しいものを自慢したがる。知識とか地位とか。

虚しくないものは自慢したがらない。音楽ができるというようなことは。



・ぼくの本質 II 01月30日(土)

ぼくは、積極的にものを識りたがるほど俗物ではない。ほど遠い。これは怠けだろうか。

識りたがりやは、〈何かを識っている〉というじぶんの基準に合わせて他を評価したがる。じぶんの本質はじぶんに隠して。隠すという意識すらないだろう。



・思考と作詩の境界 ヘルダーリン 記  01月30日(土)

《この問いが出るか出ないかに――この問いにはいつまでも答えがされないにちがいないが――視線はしだいに仰ぎ見る目になる。一瞬の微光がぱっと光る――春、花、ばら、あかねさす紫雲が、早くも近づく夜を背景にして。思考と作詩の境界がここではっきりする。思考は問題点を、問題を提出することはできる――しかし何か思考的な答えをしたところで、ここでは決してそれでは十分でないであろう。作詩は、現実を創造しながら、全く別の次元からこの問いを克服していく。 

  夕べの空にひとつの春が花と咲き出る。  》


ウルリッヒ・ホイサーマン「ヘルダーリン」 101頁



・登山と、ぼくがピアノを弾くこと 01月31日(日)

たとえばさ、 

ええ、 

登山するのは、どういう心境だろうね。道楽とは云えないものがあるよね。真面目とか不真面目とか不良とか云えないよね。ぼくがピアノの難曲に挑むのは、山に挑む登山に近づけられないことはない … 

まあ、そうやってごじぶんを精々弁明なさることね 笑 

とにかく、山がそこに在るから登るように、曲を弾く。 そして アランの言うように、じぶんでつくる幸福はぜったい裏切らない。みずから「もの」に取り組むことによって得る充実はね。ピアノを弾いてよい根拠はそこにある。いっさいの概念や規範を超えてね。
 高田さんも、「つくって」いるときだけが仕合せだった。  



・第45巻 01月31日(日)

ぼくの電子欄本 第45巻ができました(ぼくのブログの文章や写真を収めたものです)。自分用の一冊だけだけど。今回の表紙には、また、きみの写真を使いましたよ。2007年ライヴで演奏しているきみの厳粛な表情の写真です。とても満足しています。



・ゲーテが現在に生きていたら 02月01日(月)

ゲーテは大の眼鏡嫌いだったという。眼鏡をかけて面接に来る者には、愛想のつくりようがない、ということらしい。現在の・・・社会にゲーテが来たら、どういう反応を示すだろうか。

人間はいつまでも、自然性を離れた意識構えを抱えて生きてはいられない。陸上生物なのに、いつまでも水中で生きているような不自然さと緊張には、命懸けで抵抗するようになる。気の緩みなどではなく、いのちの平衡をとるために もとに戻ろうとする生体の強固な復元作用である。人類は今回、人間が生きるということについて、深く学ぶところがあったはずだ。 
 我慢くらべの段階は過ぎた。いまはもう、人間であろうとするか、人間もどきになるかの、各自の選択の段階である。 



・ぼくは、途上的な性格はけっして良いとはいえない 02月01日(月)

ぼくは、途上的な性格はけっして良いとはいえない。振り返ってみてそう思う。それは、ぼくの本質が一貫していることと矛盾しない。 

あなたが「途上的な性格」とおっしゃるのは、その時々の過去のあなたの言動のことよね。 

もっと良い言動が、その時、ありえた、という、余裕ができた現在からの気づきだね。ぼくの本質に照らして反省できるというのは、まだ救われている。死んでもできない者たちがいる。それが無明ということなのだろう。 

あなたの本質は知性ね。魂の知性だわ。 

同じことだけどね、ぼくの本質は魂だ。知性がそれに照らして反省できるものをぼくはもっている。 



・本音で充実していると感じるものに打ち込むのが自然 02月02日(火)

ピアノは片手間にやれるものじゃない、と、つくづく思うようになっている。それでもやろうとするなら、その片手間で弾ける程度に甘んじるべきである。 じぶんが本音で充実していると感じるものに打ち込むのが自然である。 それでも、どんなに片手間程度に弾けるピアノでも、いいものだよ。



・””美しいものをもたらす心は美しく善である”” 2021年02月03日(水)

不変で普遍な意味のある節 

2016年01月12日

ふと気づいたことがあります。善行より善いものがあります。それは美しい心をもつことです。美しい心は、美しいものを此の世にもたらすことができることによって実証されます。いわゆる善行は心の良し悪しとは関係なく為されるにすぎないものです。結果は有用かもしれませんがそれだけのもので、極論すればつまらないものです。美しいものをもたらすことこそ尊いのです。美しいとは 飾ることなく美しいことです。飾ったものは余計なものだとすぐわかるではありませんか。そのもの自体が美しいのが美です。これはみなが知っていることです。ですけど ほとんどは意識して効果としての美をひねりだすことをやめませんね。人間の大いなる矛盾です。そういうものでほとんど社会は覆われています。わかっているのにみな実践しない。ぼくは美しいものを収めて自分の欄に載せたい。それが実現できているとしたら、それはぼくの心の美しさの証です。これにまさる人間の美魂の実証はないでしょう。誰も、天も、それを否定できない。ましてや社会の万人がかかっても。
 遠慮することなく真に美しいものに専心しましょう。飾る偽善でなく純粋に美しいものに。これにまさるものは存在しないことをけっきょく人生は教えるでしょう。



・人間の一生で、昔、と言えるものはひとつもない 02月03日(水)

人間の一生で、昔、と言えるほどのものはひとつもない。 みな、昔、昔、と言うが、記憶を観念化しているのでなければ、じぶんの感覚に即して言っていないのではないか。ぜんぶ、いますぐそこにある記憶なのだ。現在は、その記憶でできている。



・ヘルダーリンの、ディオティーマとの出逢いについて 02月04日(木)

《詩人にそなわった本来の意味での詩的能力、すなわち、ある人物の姿を直接みとめ、根源的回想という時をこえた実体から詩作する能力を信ずることの方が重要であろう。 
 ・・・・・・じつは内的にも外的にももうとうに存在していたが―――運命的に現実のディオティーマとなって現われる―――、すなわち全く一定の振動だけを受けつけるアンテナが、明白にこのような振動をもっている人を見つけ出す、いわば夢遊病者のように、しかも内面では最高度に目覚めて見つけ出す、このようなことがおこる場合、それは詩的な力、すなわち感じとり形成する張りつめた力の、適確さを示すものにほかならない。このような緊張の法則は外的現実と内的現実をへだてる壁よりもはるかに強い。そのあいだの壁は合理の世界では高々と築かれているように見えるが、詩的な力の前にはうすいものなのだ。 
 この精神的な人物が「ディオティーマ」という名をとるのは、そののちイェーナ時代の稿(『ヒュペーリオンの青春時代』)のなかである。この名はプラトンの『饗宴』からとったのであるが、そのなかでとりわけディオティーマの声が愛の思想を展開している、だから「愛の司祭」なのだ。一年後にヘルダーリンはズゼッテ・ゴンタルトに出会い、そのなかにディオティーマをみとめたのであった。》 

ウルリッヒ・ホイサーマン「ヘルダーリン」 130頁 


それにしても何という卓越した文章だろう! 



・偶然な行為というのは存在しないのではないか 02月05日(金)

どうもそう思う。これは直接経験ではなく、経験の積み重ねによって、どうもそうではないかと推量するのだ。ぼくがふと或る本をとって読みはじめる。これはその時期になったからではないか。読んで、そう思うのである。本のことを言ったが、すべてそのようではないかと思うことができるような経験を、ぼくらは日常しているのではないかという気がする。 



・人間を思い出そうとするなら、きみの演奏を聴けばよい 02月04日(木)

――「きっと忘れない」にあらためて深く知った きみの演奏の天上的な完璧さ―― 


どうしたの? 

うん、今夜きみの演奏を聴いていてね、この曲ぼくも弾いてみたい、って思うような演奏は、きみしかできない、と思ったよ。そのくらい、余人のできる演奏じゃないよ。簡潔に言うに留めるけどね。

いま聴いていらしたのは? 

うん、いちばんくり返し聴いてきた「きっと忘れない」だよ。ぼくもじぶんではじめて弾いた曲だけど、それだけに あらためて静かに深く、それを感じてしまった。難曲だとかそういうんじゃない。この色合い、造形は、きみにしかできない、と、はっきり感知したよ。そういういみでは超難曲だよ。きみのような音色を実現しようとすればね。きみの弾くものすべてに言える。どんな曲でもきみの演奏は、音色(すごく単純に、音色、と言うけどね)の完璧さが、そう、音色の魂的な完璧さが、人間を超えている。きみはほんとうに不思議なひとだ。 

そこまで感動してくださるのね。 

人間であるかぎり、みんなきみに感動するとおもうよ。人間を思い出そうとするなら、きみの演奏を聴けばよい。


___   

ぼくのディオティーマは、裕美ちゃんだから、詩人ヘルダーリンがよくわかるようになったのです …… その経験の類似にほんとうにびっくりしています。 

ぼくの思いが きみに届きますように。 

どうかお元気で。

ぼくの魂の伴侶 裕美ちゃんへ 


きみの正樹より 


 2021年2月5日