高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

「自然」に沈潜して「自己」と「神」を触知する

2021-02-25 18:37:07 | 日記

美術への、思索性のある関わり方をしたい。


以下、2020年02月25日記す。
(高田博厚 芸術論)

 
利口な人間は、自然性から遊離しているかぎり、(存在論的に)みな阿呆だ、と言うべきだろう。この自然性、あるいは端的に言って、自然のなかにしか、人間が深まる根源はない。人間は動物とはちがう経路を通って、この自然のなかに沈潜してゆかねばならない。 この意味での自然を、人間はけっして単純に会得することはできない。芸術創造などは、この会得に向っての労苦の路である。この路において、自己と神とを知らねばならない。
 
 
 
 
 


ドビュッシーのバッハ観(高田さんの紹介による)

2021-02-25 15:31:38 | 日記

ぼくは唯一バッハのBWV639のピアノ編曲を弾けるのみだが、高田さんの、次に紹介しているドビュッシーのバッハ理解を、宜なるかな、と感じる。 ドイツ性を捨象したとき、普遍的な音楽感性が学ばれるだろう。 

 
「かわいい音律の気分」としての世の「ドビュッシズム」にたいして、高田さんは、ドビュッシー自身の言葉を引用して、こう言う: 

《ドビュッシー本人は彼の音楽理論を一言で言いきっている。「バッハ爺さんに一切の音楽がある。彼はハーモニー形式など問題にしていなかったのだ。彼は自由な音感を愛し、その流れが並行したり逆行したりする時思いもかけぬ花が開く。彼の手帖のどの頁もこの不滅の美にみちている。真のアラベスクが開花した時代だったのだ」。宗教感があまりに深いためにしばしば忘れられている「楽天家バッハ」の本質をついた理解である。ドビュッシーも少しも反逆的無軌道ではなく、骨の髄からフランス伝統の中にあり、ラモーやその頃のクラヴサン手、さらに遠く十六世紀のフランス音楽家を継承している。》 
 
 高田博厚 「ドビュッシーからラヴェルへ」(1962) より (著作集III 338-339頁) 
 

 
高田さんの親友であったアルチュール・オネゲルの、次の言葉も貴重であると思う。 
 

《「音楽は建築であり、これは文学的、絵画的欲求のためにも絶対に犠牲にしたくない。」(オネゲール)》 
 同 (342頁)