ぼくは唯一バッハのBWV639のピアノ編曲を弾けるのみだが、高田さんの、次に紹介しているドビュッシーのバッハ理解を、宜なるかな、と感じる。 ドイツ性を捨象したとき、普遍的な音楽感性が学ばれるだろう。
「かわいい音律の気分」としての世の「ドビュッシズム」にたいして、高田さんは、ドビュッシー自身の言葉を引用して、こう言う:
《ドビュッシー本人は彼の音楽理論を一言で言いきっている。「バッハ爺さんに一切の音楽がある。彼はハーモニー形式など問題にしていなかったのだ。彼は自由な音感を愛し、その流れが並行したり逆行したりする時思いもかけぬ花が開く。彼の手帖のどの頁もこの不滅の美にみちている。真のアラベスクが開花した時代だったのだ」。宗教感があまりに深いためにしばしば忘れられている「楽天家バッハ」の本質をついた理解である。ドビュッシーも少しも反逆的無軌道ではなく、骨の髄からフランス伝統の中にあり、ラモーやその頃のクラヴサン手、さらに遠く十六世紀のフランス音楽家を継承している。》
高田博厚 「ドビュッシーからラヴェルへ」(1962) より (著作集III 338-339頁)
高田さんの親友であったアルチュール・オネゲルの、次の言葉も貴重であると思う。
《「音楽は建築であり、これは文学的、絵画的欲求のためにも絶対に犠牲にしたくない。」(オネゲール)》
同 (342頁)