高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

ヘルダーリンの「愛」と「決意」 

2021-02-07 14:22:31 | 日記

ヘルダーリン記

 



ウルリッヒ・ホイサーマン 「ヘルダーリン」 139頁
 
 
 
 
 
『ヘルダーリンの答えは雄大で、ただ集中された敬虔性のエネルギーだけでなく、ディオティーマの《学校》でよみがえった心情の力によって説得している。
 「愛するエーベルよ、あなたのように、これほど失望し傷ついておられるのは、りっぱなことなのです。真理と正義に対する関心が深すぎるために、それが存在しないところにまでそれを見ようとすることは、誰にでもできるということではありません。たとえ真理と正義を求める気持ちのあまり、冷静な観察ができなかったとしても、それはその気持ちが余りにも気高かったために時代に合わなかったのだと、みずから考えることが許されるでしょう……人類のありとあらゆる実りと花がふたたび開くのを、希望のうちに見たと思ったその場所から、絶望して別れを告げることがどんなに限りなく悲しいことか、わたしも知っております。しかし、ひとには自分自身があり、また少数ながら自分と結ばれたひとりひとりがあります。この自分自身と少数の個々人のなかに一つの世界を見いだすことは、これもまた美しいことです……わたしは未来の、心の持ち方の革命を信じます……」 
 ・・・ このエーベルにあてた手紙で、おそらくはじめて、成熟するものを純粋に内面的に静かに育てようとする決意が、もともと内面的な力にふさわしいものであるにがい確信をもって行なわれたのだ。』 
 
 
同141-142頁
 
 
 
 
 


精神の真空地帯 ” 湧いてくる感慨 ” 高田さんの魂の軸

2021-02-04 03:25:23 | 日記
高田博厚 芸術論
 
以前(2014年)書いた下の文章に関して:

高田さんの魂の軸は、清潔さにあるとおもう。日本と、何の精神的関係も覚えなくとも、感覚的次元で縁は感じていたのだ。そこから、じぶんだけのために離れるわけにはゆかない。「自分のためならフランスに居たほうが安全なのは知っているのだが、それでここに留まるのは何だか不潔な気がするのだ。やはりぼくは日本人だから。」 と高田さんは言ったことを、ぼくはくり返し凝視した言葉で覚えている。 
 
ぼくはやはり、きみに癒されつつ 高田さんの生涯をたどることに集中するのが正しい。そこに、ぼくの現存在における牢固とした砦がある。精神の真空地帯に入ることだから(真空では雑音が聞こえない)。 
 


2014年05月20日(火) 00時22分57秒
 
ひとやすみしているうちに或る感慨が湧いてきた: それにしても日本国籍だということで(自分と国との間に何の繫がりも感じないと公言していながら)自らの身のためにも安全だと分かっていてしかも愛する者がいる自分の生活の地を自然体の感覚で離れる決心をする高田博厚という人はいったいどういう存在なのだろう。この後の先生の生死の間をさまよう長期の苦しみを識っているだけに・・ 先生も予想しようともしなかったであろうが、もし予想できていたとしても、やはりおなじ感覚でパリを、フランスを去って縁の無い地におもむいたのであろうか。この人は、心の(魂の)軸を何処に持っていたのであろうか。それがいまのぼくの、自分が先生とよんでいる人への新鮮な感慨である。その本質を気づいていなければならないであろうこの感慨を解く力がいまぼくにはない。くりかえし先生とぼくとを繫ぐ魂の地下水脈へ沈潜し想起(このふたつは同じことだ)してゆかなければならない。遙かに感知しているかもしれないのだが。いま、この感慨を書き留めるだけでせいいっぱいだ。 (きみも自分のこころに問いかけてみてくれたまえ。)