高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

本質的に意味不明な「神の怒り」としての集合容喙現象

2023-02-04 18:25:52 | 日記

本質的に意味不明な「神の怒り」としての集合容喙現象



 
ヤスパースの「昼の法則と夜への情熱」という、ぼくがいちばん引っ掛かって(惹きつけられて)いた章節を翻訳したが、太古の昔から、ぼくが集合容喙現象とよぶ経験はあったのだろうと、ぼくは確信している。旧約聖書に記載されているような現象経験なのだ。それが問題の章節の締めくくりとして述べられている(「神の怒り」[Zorn Gottes])。これをたしかめてぼくは安堵した。そういうものなのだ。あれこれ詮索し対処を工夫しても仕方がない。人間には解らず、責任のとりようもないものなのだ。この章節の結論が、ぼくの経験でもあるのだ。正誤を超えて じぶんを生きるよりほかのことは人間にはできない。再読訳してよかったとおもう。
 
 
(集合(的)容喙現象とぼくの呼ぶものについて関心のある方は ぼくの別ブログの主題的にこの現象を扱ったテーマ枠をお読みください。「高田博厚先生と友と神に」)
 
 
 




”自分の「高田博厚の世界」” '17

2023-02-04 17:30:17 | 高田博厚の芸術哲学

”自分の「高田博厚の世界」”


 

2017年07月28日 

 
ネットで高田博厚の作品も検索できるようになったのは、いいようで、大衆レベルの目線を介して触れるのがよくないようで、両面ある。ネットを利用することと、ネットの雰囲気を再び締め出して自分のほんらいの「高田博厚の世界」に戻ることとを、自分のなかで意識して行い、自分のほんらいの世界の境位を意識して保ち深めるのは、とうぜんである。 
 
 
 
芸術というのは、ほんとうに知性のある者が携わるべきなのだ。ところが、すくなくとも日本では、すこし知性のある(けっして本当の知性とも思えないが)者は、知識のほうに逃げてしまう。結果、あまり知性のあるとはいえない者が芸術に携わり、世間も、そういう者たちを持ち上げざるをえない。芸術の現実にわれわれが常住的に覚える不満は、単純に、こういう事情に起因しているようにぼくには思われる。
 高田博厚は、ほんとうに知性のある者が まともに芸術に取り組めばこれだけのことができるということを証する稀な例であると思う。 
 
 
 
 
 
 


生きてくれていたらいいのになあと思える人間はなんとすくないことか

2023-02-04 16:45:00 | 日記

生きてくれていたらいいのになあと思える人間はなんとすくないことか



 
高田さんは、人間の最大の美質として、会いたくなるひと、ということを言っていた。上の表題は、ぼく自身の言葉による その言い換えにほかならないとおもう。
 
それにしてもそういう人間のすくないのに半ば愕然とする。


そういうことにも想到せずに自己主張(その動機は相手をやりこめること)している者の気が知れない。

(殆どの者は、嫌われることに嬉々として精を出している。そしてその報いを相手に責める。 こういうことはあまり詳細に書く必要はない。ぼくの中の「やりこめよう」とする気持も再燃するから。 およそ議論というものはそういうもので、心の交流とは関係ない。 )







参照 「スターリングラード攻防戦の勝利から80年」

2023-02-04 15:03:58 | 参照
つぎはロシア側の限定的記事であり、参照として読んでいただきたい:
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スターリングラード攻防戦の勝利から80年 地獄の200日間、撤退は認めない ソ連軍はいかにしてドイツの侵略から街を救ったか
2023年2月2日, 09:00 (更新: 2023年2月3日, 17:27)

© Sputnik / Zelma
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メディア
ロシアでは2日、大祖国戦争における最も重要な戦いの一つ「スターリングラード攻防戦(1942〜1943)」の勝利記念日を迎える。この戦いによって、ソ連とナチス・ドイツとの戦いは根本的に転換することとなった。なぜこの戦いがロシアの歴史にとって重要なのか、この街で戦う兵士の平均寿命が15分だった時代にソ連軍がどのようにスターリングラードを防衛したのか、スプートニクの記事で詳しく説明する。
街は初戦の数日間でほぼ占領された
ロシア南部の街ヴォルゴグラードは、1961年までスターリングラードと呼ばれていた。スターリングラード攻防戦は1942年7月17日に始まり、初戦の数日間で全8地区中7地区が占領された。

赤軍の支配下にあったのは、この街の南部だけだった。その非人道的な状況の中で、ソ連軍はドイツの侵略と戦わなければならなかった。
「一歩も下がるな!」
1942年7月28日、ソ連軍の最高司令官だったヨセフ・スターリンは、「一歩も下がるな!」という命令(国防人民委員第227号)を出さざるを得ないほど、スターリングラードの心理的緊張とパニックは異常なレベルに達していた。この命令は、戦線の戦略的状況が急激に悪化し、赤軍が大敗を喫して撤退し始めた際に下された。
この命令の狙いは、軍の敗北主義的な感情を排除し、軍隊の厳格な規律を確立することだった。スターリンは、上位の指揮官の命令なしに部隊の退却を許した指揮官は、どの階級であっても解任し、軍法会議にかけるよう要求した。
要塞と化したアパート
スターリングラード攻防戦の頃に使用されていたドイツ側の地図を見ると、4階建ての普通のアパートが難攻不落の「要塞」に変わったと記されている。このアパートは58日間、ソ連兵のグループによって守られた。このアパートは、指揮を執った上級曹長の苗字をとって「パブロフの家」と呼ばれ、世界中に知られている。

 
ソ連連邦英雄のヤコフ・パブロフ軍曹。後方に写っているのは破壊されたアパート

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破壊されたパブロフ氏のアパート。スターリングラード

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破壊されたパブロフ氏のアパート。スターリングラード

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ソ連連邦英雄のヤコフ・パブロフ軍曹。後方に写っているのは破壊されたアパート
1942年秋、ドイツ軍がこの町に進駐すると、文字通りすべての道で戦いが繰り広げられた。ドイツ軍はこの年の9月23日にパブロフの家を攻撃したが、最初の攻撃はドイツ側に何の成果ももたらさなかった。このアパートは、各階と地下に陣取った25人の守備隊によって守られていた。ドイツ側が1日に何度も攻撃を行なったにも関わらず、パブロフの家の守備隊は抵抗を続けた。
現在、パブロフの家は不屈の精神、英雄、軍事的功績の象徴の一つとなっている。

レニングラード封鎖突破から80年 ソ連軍による英雄的な都市解放の歴史
1月19日, 00:56
 
スターリングラードの最も恐ろしい日
スターリングラードの歴史に残る運命の日、それは1942年8月23日のことだった。この日、軍用機200〜300機からなるドイツ軍の軍団が次から次へと波状攻撃を行い、街の中心と北側を実質的に破壊してしまった。この町は事実上、壊滅状態となった。正確な死傷者数はまだ確定していないが、死者数は4〜8万人といわれている。しかし、スターリングラードが占領されることはなかった。無慈悲な砲撃はその目的を達成することはなく、赤軍兵士たちの闘志は折れなかったのだ。
スターリングラードでの平均余命は15分
スターリングラードで戦う兵士の平均寿命は、ドイツ人、ロシア人を問わず、約15分であった。つまり、突然この街に放り出された人間は、翌日まで生き残れる可能性はほとんどないほど、激しい戦闘が繰り広げられたのである。
 

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スターリングラードでの戦闘に参加する通信兵(1943年2月)

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ドイツ軍の空襲を受けたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)の駅前広場(1942年9月)

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スターリングラードでの戦闘に参加する第95小銃師団第241小銃連隊小隊長のパーヴェル・ゴールドバーグ軍曹(1944年11月)

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荒廃したスターリングラード(現ヴォルゴグラード)から避難する人々(1942年8月)

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ヴォルガ川から見た燃える街(1942年8月)

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スターリングラードでの戦闘に参加する通信兵(1943年2月)

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ドイツ軍の空襲を受けたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)の駅前広場(1942年9月)

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スターリングラードでの戦闘に参加する第95小銃師団第241小銃連隊小隊長のパーヴェル・ゴールドバーグ軍曹(1944年11月)

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荒廃したスターリングラード(現ヴォルゴグラード)から避難する人々(1942年8月)

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ヴォルガ川から見た燃える街(1942年8月)
地獄の200日間
スターリングラード攻防戦は、1942年7月17日に始まり1943年2月2日に終結した。この期間はちょうど200昼夜。 ちなみに、ドイツ軍は約40日間(1940年5月10日から6月22日)でフランス全土を制圧した。
勝利への道  ウラヌス作戦
夏から秋にかけて驚異的な損失を被ったソ連兵は、「ウラヌス作戦」命名された反攻を実行するべく意志を固めた。ソ連軍の3人の将軍(N.F.ヴァチューチン、A.I.エレメンコ、K.K.ロコソフスキー)によって、ドイツ第6軍(司令官はパウルス)を包囲し町を解放することが計画された。この時、主に砲兵の準備に重点が置かれた。
80分間に及ぶ強力な砲撃準備と「カチューシャ」ロケット砲の一斉発射の後、1942年11月19日にこの作戦が開始された。
 

 
撃墜されたドイツ軍の偵察機(1942年10月)

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爆薬の箱を置く工兵(1942年7月)

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© Sputnik / Vladimir
 
ソ連兵が眠る集団墓地(1942年2月)

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© Sputnik / Zelma
 
ヴォルガ川沿いで行われる戦闘(1942年10月)

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解放された街に旗を掲げる兵士(1943年2月)

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捕虜となったドイツ兵(1943年2月)

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戦闘終結後、街の路上で建物の解体作業をする女性たち(1943年6月)

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ヴォルガ川を渡るはしけ(1942年12月)

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戦闘の合間に昼食をとる兵士たち(1943年1月)

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親を亡くした子どもたち(1942年9月)
11月30日、ソ連軍はスターリングラードでドイツ軍を事実上包囲し封鎖した。1943年1月8日、ソ連軍司令部はパウルス第6軍司令官に降伏の最後通牒を出したが、ヒトラーは断固として降伏を拒否した。そして、ソ連軍は第6軍を完全に撃破するための攻勢作戦を開始した。その後、スターリングラードは解放された。
スターリングラード攻防戦は、大祖国戦争がソビエト軍にとって有利になる転機となった。ロシアでは現在、11月19日は「ロケットと大砲の日」と定めされている。






参照 「課題はウクライナ人の対ナチ闘争を知らしめること」

2023-02-04 04:06:30 | 参照
【全文】課題はウクライナ人の対ナチ闘争を知らしめること=メドベチュク宇最高議会元議員
 
2023年1月26日, 15:00 (更新: 2023年1月26日, 20:44)
© Sputnik / РИА Новости
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ウクライナ最高議会のヴィクトル・メドベチュク元議員はウクライナ当局による政治的追及を受けた経歴を持つ。投獄され、人質交換の末にロシア側へ身柄を引き渡されたが、このたびRTテレビの取材に応じた。以下にインタビューのQ&Aを紹介する。
Q.メドベチュク殿、あなたは長い間沈黙を守ってきましたね。ついに政治的影を抜け出し、かなり大きな記事を書き上げられた。しかし私たちが自分の目で最後に目撃できたのはあなたの交換が成立した日です。その日の感情を話していただけますか。
A.もちろん気持ちは複雑でした。私は交換が成立すると信じていました。一方、私は最後まで疑っていました。2022年9月20日、この交換が成立することを知りました。私はウクライナ機にほぼ12時間、あるいは14時間は搭乗していました。アンカラに航空機で輸送された際、この交換は成立すると明確に理解しました。そこで機体を降りると、ロシア機を目にし、この交換が成立することを認識しました。私は心からロシア連邦の指導部に感謝しています。これは最も困難な時期でした。私の人生にとって、そして私の家族の人生にとって。一方、ウクライナでは不当な刑事訴追の可能性が迫っていました。刑事事件を捏造されていたのです。そしてこれはウクライナ当局が私に伝えていたことですが、禁錮15年の可能性がありました。
Q.そしてあなたは交換され、ロシア連邦へやってきた。ですが、どのようなステータスなのですか。
A.そうですね、ステータスはとても面白い話です。私にはウクライナ国民というステータスがありました。そしてウクライナ国民としてのパスポートもありました。ですが、ご存知の通り、ゼレンスキーは目的を掲げました。それは野党政治家としての私を駆逐し、私との戦いを最後まで遂行することです。
ゼレンスキーは完全に狂気の道を突き進みました。私にはロシア国籍があるという疑惑を口実に、私の国籍を剥奪したのです。私がロシア国籍を所有した試しはありません。私はウクライナの政治家です。これまでも、そして今も。
私はウクライナから逃げていませんし、降伏していません。さらなる戦いを続けていました。自宅軟禁の状態でも。戦い続けていました。交換の結果、解放された後も。そしてこの3ヶ月間も。あなたはインタビュー冒頭、長い間沈黙を守っていたと言われましたが、実際のところ、これは沈黙ではありません。これは活動でした。ウクライナを助けることに加え、ウクライナ国民とロシア国民、いずれの利益にも資するために。この成立した状況下において。戦闘行為を踏まえて。数千人が犠牲になった状況を踏まえて。インフラが破壊されていることを踏まえて。ウクライナで戦争が続いていることを踏まえて。しかし、この戦争はウクライナではなく、西側の利益のために行われているのです。米国、英国に加え、ロシアとの関係をシロクロはっきりさせようとしている他の多くの国々こそ、それはゼレンスキー政権がすでにやったことですが、ウクライナを利用し、ロシアと対決する上で必要な一種の演習場、拠点に作りかえたのです。だからこそ私は自分のチームを回復し、まとめあげる為にこの数ヶ月間を費やしてきました。多くの人々がキーウ(キエフ)からやってきました。多くの人々が今、ウクライナ国外にいます。中にはロシアにいる人も。欧州やトルコにいる人も。彼らは戦いを続ける用意があります。彼らは今後も自分について宣言する用意があります。
ロシアでも、ウクライナでも、西側でも、新たなウクライナの声に耳を傾けることが必要です。それは存在します。ゼレンスキーが標榜するレジームは指先でこねあげられたレジームです。拷問で築き上げられたレジームです。ゼレンスキーはウクライナ国民が結束したと言います。状況を見極める力を無くし、ヒステリックにただ反ロシア、ロシア嫌いを叫ぶという意味では結束したと言えるかもしれません。ですが、実際はちがいます。アンチ・ロシア以外にもウクライナ領にはこの点について公言することを恐れる人たちがいますが、彼らはウクライナとロシアの関係に見られる特徴や、今日成立した内容を支持したことはありません。彼らはウクライナ人です。私と同じように。
私は自分の考えを裏切ってはいません。逮捕されながらも。6か月間にわたってウクライナ保安庁で拘束されていた時も。私は戦いを続けます。そして私はこの新たなウクライナが、声をあげることを恐れる人たちの立場があらゆるところで明確になることを望みます。ロシアでも、ウクライナでも、西側でもそうです。新たなウクライナを体現する人がいることを伝えたい。バンデーラのウクライナでも、ファシズムのウクライナでもない、新たなウクライナです。それはゼレンスキーが表明する声明やネオナチ政策とは全く無縁です。
Q.あなたは記事の中で、ウクライナ救済のためには新たな運動が必要だと指摘されました。この国が地政学的分割の場となることに反対すると。
A.その通り。ゼレンスキーの政策に反対する人々は存在します。この新たなウクライナに耳を傾けるべきです。その代表部が登場すれば、その声に耳を傾けられるならば、その声は聞き入れられる可能性があります。仮にこれを信じる人々が、この流れで行動する用意のある人々がこれらの人々を結束し、「いや……そうなのだ、我々はウクライナを去ったが、我々はウクライナ人なのだ」と発言するならば。そして私たちは将来のことを考えたい。なぜなら今日、実際のところウクライナは存在しないからです。憲法に記されています。ウクライナは独立し、主権を持った民主主義国家であり、法治国家であり、社会的国家であると。しかし、ウクライナは独立と主権を失いました。何故なら14年以降、この国は西側、米国、英国の完全な外部管理に移行したからです。国内ではマスコミが不当に閉鎖され、司法と憲法の秩序も存在しません。別の視点を唱える人々は駆逐されるのです。経済は破壊されました。GDPは今日30%も下落しました。製造業の下落は70%です。今日の失業率は35%です。社会保障政策は今日、実現しようがありません。
したがってこれは事実上、国家ではないのです。実際上の国家でなくなったのは、国家政策の根本においてはゼレンスキーとその徒党が推進するネオナチの政策があるからです。
Q.では、ウクライナでは何かを変えることができるとお考えですか。新たな人物が例えばやってくるとして、それは次なるオリガルヒ(新興財閥)になるのではないでしょうか。どうにかしてウクライナのアンチ・ロシア的視点を解決できると思いますか。
A. 第一に、アンチ・ロシアの機運を変えることはできます。それを容認しない人がいますから。この人たちは主張すること、自分の声を恐れています。なぜなら、抑圧的な仕組みで抹殺されるからです。その仕組みは民主主義と法治国家の理念を損なうものです。裁判所もなにもないのです。存在するのはゼレンスキーとその徒党が下す大統領令だけです。その徒党はいま、そんなことしかしていません。
次に、あなたが言っていた問題に戻りましょう。例えば別のオリガルヒだったり、そういう人が選ばれるとします。選ばれるには国家が必要です。しかし、国家は、私が然るべき論拠を提示した通り、ウクライナという国は今日存在しません。どんな選挙がウクライナでありえるというのでしょう。そうです、ゼレンスキーは指名できます、選挙だといいます。でもこれは選挙ではありません。
Q.ゼレンスキーが耐え抜くと思いますか。長期にわたっていまのポストに留まりますか。
A.ゼレンスキーの運命は私には分かりません。ですが、私は言うべきです。私は言いたいです。ウクライナに対し、ウクライナ国民に対し行ったことについて彼は責任を取るべきです。彼が国家を破綻に導いたのです。彼が国を戦場に放り投げたのです。彼がやったことです。というのも、思い起こしていただきたいことがあります。今日は残念ながら多くの人が忘れてしまいましたから。 2月24日以前にあったことを。戦争を避けるために全力をつくす必要があったのです。戦争を引き起こさないために。問題はゼレンスキーがそれをできたかどうか。私は答えます。できました。それどころか、私は主張します。彼はそれを行う義務がだった。彼はミンスク合意に従って行動する義務があった。 メルケル、オーランド、それにポロシェンコがワンワン吠えていることはご存知でしょう。
Q.誰もそれを守ろうとしなかったのですか。
A.その通りです。
Q.ではどこに保証があるのですか。同じような人が登場し、同じようなことにならないという保証は。
A.そうしたことを将来的に防ぐためにも、ウクライナという国家の破壊に繋がった根本的原因を排除する必要があります。それを実現できるのは、国家政策からネオナチを駆逐するときです。軍国主義的国家でなくなる時です。いま一度、強調しておきますが、我々は国の将来ではなく、ウクライナ人の将来について話をしています。これがもっとも大事なことで、私たちはこれに取り組んでいます。ウクライナ人の未来です。ではどのような国で、いかに彼らが生きていくのか、これはウクライナ人が決めることです。そのウクライナ人こそがいま、新たなウクライナを体現しているのです。