裕美ちゃん、きみの「BEST+3」を聴く境地に気づいて以来、きみの演奏の聴き方が あたらしくゆたかになりました。このアルバム以前のきみのアルバムの聴き方ももちろんそのままで、そのうえにさらにきみの魂の世界の光景がゆたかに広がったのです。感動のよろこびの幅が広がりました。きみの演奏態度の源に、聴く者が感応できてはじめて、きみの音楽の心が伝わる、と思います。これは思想でも同じで、ひとつの思想を理解するということは、その思想の源である著者の魂の境位に、読む側が気づき反応し得てはじめて成ります。だから、ぼくは、思想と芸術は互いに一致する本質があると思っているのです。そういう、魂の不動の境地と云うべきものに達した人間こそ、信頼し尊敬できるひとだと思っているのです。裕美ちゃんはぼくにとってそういうひとです。きみの作品に触れれば、それを、尊敬と愛を、同時に感じ、信じざるをえません。そのためには、触れる側が、高まらなければなりません。きみは、若くて、よくそういう境位に達したなあ、とあらためて感嘆します。思想に関わって理屈の次元に留まっている者らなど、比較にもなりません。すべては、魂に達してはじめて本物なのです。きみが、ごじぶんの価値をよく自覚なさって、大事になさることを祈ります。
きみにも読んでもらえそうな最近のぼくの文をつぎに載せました。 私事ですが、昨日は、それが最後にできたのはどのくらい前か憶えていないくらい、ひさしぶりに、睡眠導入剤一錠だけでぐっすり眠れました。ずっと、二錠飲まなければ眠れない状態がつづいていたのです。それだけに、積もり積もっていたような疲労も覚えています。自分の薬害後遺症の体を耐えて生きていることによるだけでなく、いまの不自然な社会環境の制約によって皆が抱えているはずのストレスによる疲労もあるだろうと自己解釈しています。この制約は、人間生活にとって間違ったものですので、義憤を感じない日はありません。できる対策はすべてやっていると言い訳したい為政者らのパフォーマンスにつき合わされているだけです。社会のなかで生きている人間の愚かしさおかしさを、こんなに感じたことはありません。いまの生活環境がどれほど馬鹿げた愚策によるものか、しっかり、気を確かに持って、表立って反抗しなくとも、騙されないようにしていなければならないと思います。
・ゲーテの格言に優る人生訓 2021年04月10日(土) 02時
人間関係の問題などということは、自分がどういう志で生きているかを自覚し直せば、もう解決しているものだ。
小人はそれが無いから、対症療法の沼に沈むのである。
・本性・自由・必然 04月12日(月) 14時
自分の本性から為すことは、自由な行為であり、かつ、必然な行為である。
そのかぎり、〈為さないこともできた〉という思いは、妄想である。いつもぼくは、自分の本性からの行為のみをしている。そしてその行為はいつも正しく、ぼくに果報のみをもたらす。
想定的な外的基準でぼくの行為を測ってはならない。このほうが妄想なのである。
・”緻密さのない誠実さは盲目であり、誠実さのない緻密さは空虚である・人生の定位” 04月13日(火) 00時
この渾身の感動的節を初再呈示
言葉・文章によっても人間の浄化はあるのだ。自分の書いたものによって、いま、ここで、それを確かめた。 ぼくは自分の文章に懸けよう。
2016年02月15日:
ぼくは、人生が始まる前に人生を終わってしまうようだ。二歳で死んでゆく子供とあまりちがわないというのが正直な実感だ。[人間は]人生そのものを「準備」(ベライトシャフト)とみたり、「想起」(アナムネーシス)とみたり、「或る目醒めへの道程(シュマン)」とみたり[するが]、つまり、人間が「思惟する存在」であるということは、必然的に、有限な人生を突破超越する志向をもって生きるということである、といえる。ここで心しなければならないことは、そういう「超越志向の思惟」において、できうるかぎり緻密であらねばならず、浮足立った安易な観念にとりついてはならない、ということであることを、この瞬間にもますます切実に感じる。人間が「人間」に、本物になるか否かは、ここにかかっていることはあきらかだ。真実の者になるか、偽りの者になるか、そういう決定的に重要な岐路が、まさに自分のみが自分を判定しうるような仕方で、自分自身にかかっている・・そういう緻密さと誠実さの自己課題に、ひとりひとりは直面している。これこそが「人間の生」であり、「人生」の本質なのだ。そういう峻厳な自己吟味を、担わないのであれば、大衆という蔑称に甘んじるか、無恥に開き直るしかない。そういう者が多いほど、「人間の尊厳」の意識は薄れてゆくのが、社会であり、民度とはその様相のことである。「ただしくかんがえることに人間の尊厳がかかっている」(パスカル)とはこのことであることを、各自はいっさいの浮つきなく自覚すべきである。そして日本はこの人間課題において、まさに二歳の子供のように未熟であり、人間の尊厳の条件の殆ど以前である、ということを。世で人間の生が軽く扱われるのは、為政者の暴圧だけでなく、国民ひとりひとりの、人生をかんがえるいい加減さに、責任がある。「実存は己れの超越者に面して己れ自身となる」(ヤスパース)とは、教義ではなく、各自が自分自身に誠実に緻密に関わる(行為する)ことのなかで、それが必然的根源的であることに気づきつつ確認するような、謂わば公案的命題なのである。己れへの緻密さと誠実さなくしてこれを確認することは不可能である。緻密さのない誠実さは盲目であり、誠実さのない緻密さは空虚である、と箴言化しうるものである(ヤスパースの実存と理性の連繫にかんする箴言と同様)。人生が与える経験量にもまして、与えられた経験にいかに緻密で誠実な思惟を働かせ、「人生が人生の中だけでは為し得ないものすべて」(デュ・ボス)〔高田博厚「分水嶺」巻頭句〕にたいし「準備」し、あるいは魂の想像力のなかで「想起」するか、ひとえに個々の「人間の思惟」に懸かっている。人生が結局、約束してくれていいはずのことも与えてくれないなら、人間の総合的思惟力、すなわち「魂の想像力」が、人生成就のためにますます「人間の条件」なのである。
人生は、何を経験しえたかにもまして、何を想念しえたかであろう。
〔この節を書きはじめたとき、こみあげてきた想いとしてあったものを、どうにか言葉にしえたろうか。作文は、着想(インスピレーション)からはじめる作曲に似ているだろう〕
ぼくの欄には、ありきたりのスピリチュアリズムにあきたらずもっと直截に求めるべきものを求める読者が訪れているだろう。これは当然であって、宗教の代用と自立的探求[と]は、違うのである。
ぼくの直観は、超越志向[というもの]は人間であるかぎり精神本能的にあるが、この超越を真実に果たすには、いかに具体的な自己生密着沈潜の思惟行為が必要であるか ということであり、この思惟行為を真実に(つまり誠実かつ緻密に)果たすことが、「人間の思惟」すなわち「哲学すること」(フィロゾフィーレン)である、ということである。それは予めの法則性や教義に拠ることなく、純粋に、すなわち自己の自立的思惟行為のみによって、「超越する決断」に至り、「超越する瞬間」を見出してゆく、全人格的精神行為である。それは、自己の生を真実に、つまり純粋に借り物に依らずに人間として生ききることそのものである。そして、およそ人間の真理なるものは、そのような自立的生の貫徹をとおしてのみしか会得しえないことを確信すること[が本質的に大事]である。
・反省と尊重 04月15日(木) 22時
過去に為したことを反省するならば、その為したことの動機を尊重することも同時にしなければならない。それが、俗物ではない証である。人生の深化あるいは歩みは、多分それの繰り返しである。
・聖行 04月15日(木) 23時
ねえ、どうしてわたしにそこまでしてくださるの?
ぼくの魂が決めた聖行なのさ。きみがじっさいにはどういうひとかもちろんぼくは知らないよ。でも、感じて信じることは、知ることよりも位が上だとは思わないかい? じっさい、きみの作品は、感じさせて信じさせる力がある。これはこれまでのぼくの人生で無かったことなのだ。 高田さんを除いてはね。
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どうかお元気で
愛する、恋しい裕美ちゃんへ
正樹より
2021年4月16日
(一部改訂・略)