高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

想像と記憶の意味、「神」へ至る路について 高田博厚「音楽と思い出」より

2020-09-21 13:46:01 | 日記

(高田博厚 芸術論)

このような文章は写し書くことじたいが魂の功徳になると思い …
 
このような文章が書けるひとはやはり無条件にぼくの先生である。
 
彼、高田の言う「神」を、これほど正確に感得させる文章も(敢えていうが)稀だろう。神に回心させるほどの美の経験の意味を。
 
 
《 そこで私は、音楽が天啓として私たちに与えてくれる「想像(イマジナシオン)」と「思い出」の意味を理解する。私たちは平生、社会の中で存在することや、他との関係や、また自分自身の中のことがらについて、精神的にもまた生理的にも、さまざまな相互関連の上に運命的に立っていると思っているが、よく反省してみると、むしろ反対に、自分の中に、まるで互いに関係のない多様の要素がばらばらに併立しているのに驚く。ある外部の力が、私たちの中にそれらを押しこめ、私たちがそれらを受容することを余儀なくされているだけであって、矛盾がそのままに存在しているだけである。そうして私たちの真の調和とか諧和はもっと他にある。それを私たちに暗示してくれるのが芸術なのである。そういう調和の世界が事実に実現するかしないかの問題ではなく、そういうものが私たちに在ることをのみ芸術は感じさせ、窺わさせる。優れた芸術、とくに音楽が、私たちに「人生」を連想させ、思い出の中にひたらせるのは、この賜物なのである。想像とか空想の美しさは、まだ知らぬ未来にかけるもののように、一般は思っている。これは逆であろう。想像の真の美は過去へ遡って過去が再現するところにある。なぜなら経験なくして、人間はどのような想像も生まれず、またすばらしいのはこの過去への想像自体が節度、全く数学的な節度(ムズユール)を持っていることである。しかもその中で、私たちの「人生」が私たちにとって自由であったように、限りない「自由」を持つ。そしてこれは常に一貫しており、結局は私たち人間は、「神」というより他現わしようのないものに結ばっている。人間が生きて経験したがゆえに、人間に在る「想像」や「思い出」の美しさは、ついに「神」に至るものと思われるがよい。音楽がそれを最も見事に示してくれている。 
 私はギリシアに行って、アクロポリスのパルテノンを見た時、とっさにバッハの音楽を思った。これは私の予備知識でもなんでもなかった。ギリシア建築のあの列柱の秩序の諧和が、バッハの音階を連想させたのでもなかった。そういう秩序と諧和を生むに至った人間の深く広大な愛情を感じ、現前するものが、それの「懐かしき風景」であったのである。音楽はそこへ私たちを直接に導いてくれる。モーリアックが『夜の終り(ラ・ファン・ド・ラ・ヌユイ)』の中で、テレーズに言わせている。「たぶん、ただ音楽だけが、二つの魂を顕わにして示し合わせるでしょう……」。このあまりに直接な力におびえて、トルストイは『クロイツェル・ソナタ』を書いたのであろう。モーロアもどこかで書いていた。愛情の嵐を抜けてきた男女が、魂の鎮ったとき、男が女に言う。「ね、フーゴー・ヴォルフのあの『隠棲(フェルヴォーゲンハイト)』を歌ってごらん……」。ヴォルフもまたそのようにして、「古い肖像画へ」や「廃址の柱」を作ったであろう。それからデュパルクはボードレールのあの『旅への誘い(アンヴィタシオン・オオ・ヴォアヤージュ)』や『前世の生活(ラ・ヴィ・アンテリユール)』を曲にしたろう。そしてシューベルトは「夕陽に向かって(イム・アーベントロート)」を書き、シュトラウスは「明日(モルゲン)」を書いたであろう…… 》 
 
高田博厚著作集 III、296-297頁 「音楽と思い出」 1953年