良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

叱らなければ、子どもは賢くなれません!

2011-05-01 01:26:27 | 悪い子、悪い親?

「何やってんだー コラ待てー ほんとにあんたって子は、どうしてこんなにやっちゃいけない事ばっかりするんだろうねえ、逃げ足だけは速いんだから
 下町のお母さんが、こんなふうに大声で怒鳴り散らしながら、ほうきを持ってガキ大将の息子を追っかける・・・むかーし子どもの頃に見たテレビドラマの一こまです。昭和のドタバタホームドラマ・・・というところでしょうか

 こんなドラマの中の情景を思い出しながら考えてみると、最近、子どもに大声で怒鳴る、叱りつける母親の姿を見かけなくなりました
 電車の中、デパート、スーパー、いろいろなところで昔と変わらず「駄々をこねる子どもの姿」「泣き叫ぶ子どもの姿」を見る事はありますが、案外そういう場面で見るお母様の姿はみな一様に冷静で、ほとんどの場合、皆さん「静かに子どもに語りかけている」ように思えます。その様子は、叱る、というよりは、「叱っているパフォーマンス」にも見えてしまいます
 中には、完全に無視をして、全く我が子の悪事、大騒ぎを意に介していない様子の強者のお母様もいらっしゃいます。子どもが騒いだり、泣いたりしている横で、平然とメールを打っていたり・・・

 やっとお座りできるようになった赤ちゃんが、ティッシュの箱の前に座り、うれしそうにピュッピュッとティッシュを抜いています。出せば自然に次のティッシュが飛び出してくる・・・赤ちゃんにとっては大発見 「引っ張り出せば、次のティッシュが出てくる」ということを学習をします。
 
 幼い子どもが、自らの経験、体験を通して様々なことを学んでいくことは、それはそれはすごく意味のある事です 音を立てて、脳が働いている・・・
 しかし、だからと言って、この『ティッシュ出し』は良くない事。遊ぶ道具ではありません。そこで、お母様は叱ります。本当に恐い顔をして・・・
 「どうしてこんな悪い事をするの ダメじゃないの ティッシュがもったいないでしょ もう絶対してはいけません
と大声で注意します。
 赤ちゃんにすれば、大発見をして驚喜し、ご満悦で遊んでいたにもかかわらず、鬼のような形相のママに大声で叱られ・・大泣き

 0歳児であるこの赤ちゃんには、理屈などは通じません。ママが言った「こんな悪い事」も「ティッシュがもったいない」の意味も、実際には通じていないのです。
 ただ、いつもやさしいママが、確かに大声で恐い顔をして怒っている・・・この事実は赤ちゃんにとって衝撃であり、その衝撃は「ママが恐い顔をして、大声で怒鳴った」という記憶として残ります。

 この子は、たぶん二度と『ティッシュ出し』はしないでしょう。ティッシュの箱を見つけた時、当然おもしろかった記憶「引っ張れば、次のティッシュが出てくる」というおもしろさが甦り、またやってみようか、と思うでしょうね 
 しかし、そのおもしろかった記憶を思い出すと同時に、恐かった「ママの形相と声」も思い出されるのです

 幼い子供達は、理屈ではないところで「いけない事をしたんだ」「いけない事をしたからママに叱られたんだ」というふうに「罪の意識・罪悪感」を学びます。
 きゃー・・・これはおもしろそうだなあ・・・と思っても、気持ちのどこかにパパやママに叱られた時の「恐かった思い・嫌な思い」が甦り、こんな事をしたら、きっと大変なことになってしまう・・・という気持が生まれるのですね。そして、禁止されていることはしない、という意識が育ちます

 ここ10年ほどは、「叱る教育」は罪悪のように言われてきました。
「ほめて、伸ばす」の全盛期だった、と言えるでしょう。だから、世の中のパパ、ママは、子ども達にとっての「お友達のような存在」に成り下がり(と私は思っています)、ある意味ではなめられ、うるさいだけの人となり、何の影響力も与えない庇護者になってしまった・・・ 最近では、「大人を自分と同等に見ている子ども」の多いことに驚かされます。

 話を「叱る」にもどしましょう。
確かに、たとえ小さな子ども相手にでも、0歳児のような何も理屈が理解できないほど小さな子どもでなければ、必ず、頭ごなしに叱る、怒鳴るのではなく、きちんと「叱る理由を伝える」「叱られる理由を理解させる」ことは大切なことです
 しかし、公共の場で騒ぐ、社会のルールに反する行為をしている、何か危険なことをしている、のように「禁止」をさせなければいけない時には、そんな悠長なことは言っていられません
 まずは、「止めさせる事が先決」であって、なぜ止めないといけないかを子どもに「伝えること」「説くこと」は二の次です。
 
 叱る側がきちんと「叱る理由」を伝え続ければ、なぜその行為がいけないか?という事はわかるようになります とは言え、小学校に入るまでの幼い子供に、理路整然とした説明から「罪の意識」を育てることは大変むずかしい事です。

 「叱る」「諭す」「説く」これは人に何かを理解させる時に使う方法です。しかし、幼い子どもを相手に、スマートに「諭す・説く」だけでは、禁止は出来ません
 電車の中でいつまでも「座りたい、すーわーりーたーいー!」とぐずぐずと文句を言う我が子に・・・
 「〇〇ちゃん、だーめ。そんなこと言っちゃダメよ~ ほら、見てごらんなさい。お席、空いていないでしょう?」
 などと笑顔で上品に言っているお母様を見ると、
 「ねえ、お母さん、あなた、間違ってません?なにをここで上品ぶってるんですー?今は、ピシッと叱る時ですよ あなたの猿芝居は、滑稽なだけ 意味なーし」と心の中で言ってしまいます。そんなお母様は、叱るパフォーマンスにご自分で酔っているだけです

 平成も20年をとうにすぎた今、お母様方に「昭和の下町のお母さん」になってください、と言っているわけではありません
 ただ、時には人前であろうと、叱るべき時には大きな声を出し、子どもが日頃は滅多に見ることのない怖い顔で、ビシッと叱ることも必要です
 思わず、子どもがびくっとするような、そういう瞬間だって成長のためには必要です{/kaminari/

 いつも子ども相手に「ああ、ごめんごめん!」とわけもなく謝っているママばかりが増殖し、子ども達は知育教育ばかりを受けただけの、本当の意味での賢さを育ててもらっていない、我がままな王子様や王女様ばかりになってきています
 巷では、勘違いの「品良く叱るお母様」と「全く言われた事を聞こうともしない子ども」の喜劇が展開しています。

 毅然と叱る、ピシリと叱る!親が思っている以上に、子どもにとっては貴重な「学習の時」なのですよ



子ども達の節電

2011-04-11 10:56:22 | 良い子、良い親!

「節電」「せつでん」今や関東では、幼稚園児でもこの言葉を知らない子どもはいませんね。
「節電」は、ずっとずっと以前からその必要性が叫ばれ、その運動も続いていたわけですが、実際にはオール電化の集合住宅も増え、結果的に大きく電気に依存する生活に移行していたことは否めません

 私の子どもの頃は、炊飯器といえばガスが中心でした。火力の強いガス釜は、おいしいご飯を炊くことは今でも有名です 電話も、プルプルプル・・・という電子音でかかってくること慣れるまでには時間がかかりました。ジリジリジリジリン、ジリジリジリン・・・黒電話の音は、なかなか良いですよ 今では、一部の携帯電話で、この着信音が内臓されていますね。時々、その携帯電話の着信音を聞くと、妙に懐かしく、どんな人がそれを使っているのかな?などと見てしまいます
 いずれにしても、電気はまるで「空気」のように、私達の生活の中心に君臨していたのでした。

 先日、恒例の介護帰省で大阪に行った私は、まず、新大阪駅について「大きな違和感」を感じてしまったのでした そうです、駅が「明るい」のです つい2時間10分前、新横浜駅改札を入ったときは、キヨスクの看板の照明は消され、駅構内の照明もあちこちが間引き点灯の状態だったのに・・・です。
 
 町全体が節電生活に入った当初は、駅やスーパーが暗く、何となく沈んだ気持ちになったものですが、いつしかそれに慣れてくると、煌々と電気をつけているお店をみると「なんだ、この店は!電気の無駄遣いじゃないか」などと思うようになっていました。
 新大阪駅は、明るい そして、地下街もデパートも、どこもかしこも明るいのです 一部、全国展開をしているコンビニは、表の看板の照明を消していましたが、むしろ大阪の人たちの言葉を借りると、「コンビニが暗いと、入る気にならん。コンビニはあかるないとアカンなあ。」
 大阪で、どんなに節電をしてもらっても、関西電力から東京電力のエリアに電気を分けてもらうわけにはいかないので、暗くする必要性はありません。でも・・・節電生活の中で、すでに1か月近くを過ごしていると、あちこちのピカピカのネオンサインやめちゃくちゃ明るい駅にも、罪悪感を感じてしまうようになっていたのですねえ

 人の「慣れ」というものは、そういうもの、です。
最初のうちは「」や「」と思っていたことであっても、次第に感覚がなれていけば、それが「当たり前のもの」として受け入れられるようになります 今回は、まさにそれを体感したように思います。

 習慣をつけること・・・これは、子どもを育てていく上で、さまざまな場面で要求されることです。家庭教育の柱、と言えるかもしれませんね
昔から「早寝早起きの習慣」などと言われます。きちんと挨拶をする習慣 ご飯を残さずに、さっさと楽しく気持ち良く食べる習慣 手洗いやうがいの習慣 靴をそろえる習慣 あげるときりがありません。
 ただ、こういう家庭教育の中で躾の一部として施される「習慣づけ」は、その多くがマナーやエチケット、健康維持に関するものです。

 しかし、今回の「節電の習慣」は、幼いころから社会性を養う、社会貢献の一部として施されるもの、ですね
本来は、幼い子どもにこういうことを主眼とする習慣を身に着けさせるのは、実際にはなかなか難しいことなのですよ。けれど、子どもながらに関東の首都圏の子ども達は3月11日の地震を経験し、それぞれに直接的にその地震の影響を受けました。
 そしてその後、繰り返し流される地震、津波のニュース映像で、子ども達なりに「確かな何か」を感じているのです

 お父様、お母様方の中には、今回のことに限らず「悲惨な映像は見せない」という方がたくさんおいでになります。その意味はわかります。私も、そういう映像を、縛り付けるようにして凝視させる必要は感じていません。
 でもね、「現実を知ること」「自分の身の回りで起こっていることを知ること」を知り、子どもながらにそれを理解する必要性は絶対にあります これは、この世に人として生まれた限り、当然のこと、ではないでしょうか?
 見せない、聞かせない、経験させない・・・これでは、五感を通して学ぶチャンスを敢えて奪っているもの同然ですね
大切なことは、それを「どう伝えるか?」であり、そこが大人の手腕にかかるところです

 お教室で、5歳の子ども達に・・・
 「まどか先生、セツデン、ちゃんとしている?」
と真顔で尋ねられます。私は一生懸命に・・・
 「えーっと・・・洗面所の電気をね、使わないときには消してます むー、それから、お風呂の乾燥が終わったら、このごろはずっと換気扇をまわさないで、ドアを開けるようにしているわ。・・・それから、給湯、給湯ってね、蛇口をひねると、すぐにお湯が出てくるようにするやつね、あれを、ずっとスイッチつけっぱなしにしないで、お湯を使うときにスイッチを入れるようにしてるわよ
と説明をすると、とても満足そうに、「えらいね」と言ってくれます。

 「節電」をする意味、その必要性を、各年齢の我が子達にわかるように説明をする知恵を絞り、良い習慣をつけてあげましょう。いつも私があちこちに書くように、せめて元気な私達が、この大きなマイナスから学び、プラスに転じていけるような実践を心がけなければいけない!心からそう思っています


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2011-03-18 17:59:15 | すてきパパママにご提案

ここ数日、スーパーやコンビニに行くと、愕然とします。
ほとんど商品のなくなった棚が並んでいるのです。今週のはじめは、カップ麺やレトルト食品。でも、そのうち乾電池、パン、お水、お米、牛乳、卵、納豆、トイレットペーパー・・・となり、今では、ある意味で「手当たり次第、買えるものは買っておこう」のような買い物の仕方になったようで・・・今日、午前中に立ち寄ってみると、おせんべいやポテトチップスまで、姿を消しました

 昨日、震災の報道をする特別番組の中で、この「買いしめ、買いあさり」についての話題があり、心理学者がこの状況について、学術的に解説をしていました。
  「最初は、家族のため、自分のために備蓄をしよう、という真っ当な思いだったのに、いつのまにか『あった!買える!』ということが満足感になり、目の前にあるものを買うだけで安心してしまう、という気持ちになっていくのですねえ・・・」
 なるほどなあ、と思いました。

 乾電池や懐中電灯が必要なのは、よくわかります パンも、調理をしなくても食べられますから、何かおおごとがあってライフラインがストップした場合にも「買っておいて良かったね。」と思えるものでしょう。牛乳も、小さな子どものいるご家庭では、絶対に必要でしょうね。
 でも・・・
ほぼ毎日のように、開店と同時にスーパーに駆けつけて「入荷しました」の張り紙のあるものの棚を走り回り、複数個買っていく・・・万が一のための備蓄用だったり、停電の時のためだったり、正当な理由はたくさんあるでしょうが、果たして、全員、このようにしている人達にとって、カゴの中のものは、本当に必要なものなのでしょうか?

 自分を守る 家族を守る そうですね。
 自分(達)の身は、自分(達)で守る いらぬお世話を他人にかけない すばらしいです。

 でも、自分(達)以外の人のことを考える、自分(達)さえ安心になるのではなく「みなが安心でいられるように考える」という思いも、あって良いのではないでしょうか。

 私は、どちらの思いも正しいと思います。
私は地震のあった日、横浜のビルの9階にいました。揺れが一旦おさまった時、階段で1階まで下りて外に出ると、地震発生後わずか10分弱でしたが、横浜駅西口は大混雑で、誰もが通じない携帯を握りしめていました
 私はすぐに「家まえ歩こう 7,8キロだから」と決断し、歩き始めました
 帰宅困難者となった夫と娘は、会社や友人のお宅に泊まりました。
 
 私は地震発生から、まる一日一人で自宅で過ごし、家族や親戚、友人の無事を知ったあと、本当にとてもたくさんのことを考えました。一番考えたのは、「小さなお子様のいるご家庭のこと」でした
 
 私が「7,8キロだから歩こう!」と決めたのは、確かに、日頃からよく横浜―菊名間を歩くからでもあり、一応は健脚であることから、「長い距離を歩くこと」に抵抗がなかったからです
 でも、私ではなく、すごいアスリートで、歩くことにも走ることにも抵抗のない人であったとしても・・・
  小さな子どもが一緒だったとしたら?

 抱っこや、昔のように「おんぶ」をしていれば、歩くことは可能です。百歩譲って、ベビーカーを押していてもOKでしょう。
 しかし・・・
  2,3歳の子どもの手を引いていたとしたら?
  幼稚園や保育園帰りで、疲れた子どもが一緒だったとしたら?
 私のように、即決で「歩く」とは決められなかったでしょう。
上手く早めにタクシーを拾えば私よりも早く、帰宅できたでしょうが、いろいろと考えてタクシーを待っていたとしたら?帰宅はずっとずっと遅れ、子どもはむずかり、ミルクや食事、お手洗いの心配もでてきていたことでしょう。(何と、同じ時間に横浜にいたご近所の方に後日お聞きしたことですが、横浜駅のタクシー乗り場で待って、来ないタクシーを待っていたら、帰宅したのは夜の10時だったそうです

 地震の夜、何度も来る大きな余震にドキドキしながらも、テレビを観ながら何とか気丈にいられたのは、私が一人だったからです。
 もし、夫は帰宅できず、母一人で怖がる子どもを守らなければならなかったら?どんなに不安で、泣きたい思いになったことでしょう

 また、商品のなくなっていく棚を携帯のカメラで撮り、遠方にいる友人に「日本じゃないみたいです。昔の共産国の商店のようです」などと書いて、写真を添付して送っている私です。そんな私が、必死に備蓄を考えず、「まあ、あるものを、少しずつ、工夫して食べましょう!」と思えるのは、間違いなく、すでに大人になった娘と、夫との暮らしだからなんですよね。
 まだまだ小さなお子様(たとえ高校生であったとしても)と一緒の暮らしであれば、三度の食事のことは、真剣に考えなければなりません

  自分のことを守る、我が子を守る、家族を守る!そのために「買う」こと。
  少しでも人のことを思い、買いしめ、買いあさりをしないこと。
 
 これは、どちらが正しい、正しくないではなく、親として、どちらに近い行動をするか?ということでしょう・・・

 ただ、ひとつ、私が多感な子どもを持ったお父様、お母様に絶対に申しあげたいこと それは・・・
  空っぽの棚を見せて、それが「なぜ起こっているのか?」を教えてあげてください。
  そういう現象を「パパ(ママ)は、どう思っているのか?」を話してあげてください。
  商品がなくなっていくお店を見て、「パパやママは、どうしようとしているのか?」を伝えてあげてください。

 そして、地震を含めた今の状況を、子どもにわかる言葉で伝え、被災者、被災地に思いを馳せることだけではなく、「今の自分達が置かれている立場」について、子どもと一緒に考えて欲しい、ということです

 幸い、ご遠方にご実家やお親しい縁者がおいでになる方は、春休みになったこの時期、きっと期間を決めずに帰省をなさることと思います。
 おじいちゃま、おばあちゃまは、どんなに離れたところでご心配をされていることでしょう 「そんな怖い首都圏にいるよりも、こっちに帰っていらっしゃい」親とすれば、当然の思いですね。
 53歳になった娘に対しても、やっぱり「今日は大丈夫?何か送ってあげる?」と、私の母はメールや電話をよこします。もし、私が「今日、すぐに10キロのお米を、うちと、T(私の息子です)のところに送ってくれる?」などと言ったとしたら、母はどう対処できるというのでしょう?それでも、日頃はメールで済ます用も、今はひっきりなしに電話をして、あれこれと気遣ってくれます。

 ただ、それでも、「ああ、これで安心 もう大丈夫。良かった良かった」「これで、いつも通りの生活ができるのよ」というのではなく、自分達が暮らす東京や横浜で(今は、全国各地で買いしめが始まっていると聞きますが)何が起こっているのか?を教えてあげ、そして、幼いながらも、子ども達がそれに対して、「どういうことを言うのか?」「どんなふうに考えるか?」を聞いてあげてください

 子どもは、未熟で未経験な存在です
でも、未熟なりに、考えさせるチャンスを与えると、しっかりと考える能力を持っていますし、また、その能力を育ててあげなければなりません
 いつも「守ってあげる」ばかりで、子どもに考えさせるチャンスを与えていないと、「考えられない子ども」にしか育ちません

 空っぽの商品棚。きっと、子どもにもインパクトはあるはずです
こんなマイナスの時期だからこそ、元気な私達は、縮こまらず、子ども達をも縮こまらせず、頭をしっかりと働かせてあげましょう
 この復興を支えていくのは、これからを生きていく「子ども達」なのですから

私達の役割 - 巨大地震の報道に思うこと

2011-03-14 10:12:54 | すてきパパママにご提案

 テレビでは、地震の夜はひたすら首都圏のターミナル駅の映像が映し出され、「帰宅困難者」向けと思われる情報が流されました。自宅でそれを見る家族も、頻繁にやってくる余震に恐ろしさを感じながら、状況に応じて迎えに出たり、自宅待機をしたりしながら、夫が、妻が、子どもが無事で帰宅すること、所在を確認することに必死になりました。

 一夜明けると・・・映像は一変。
今まで、一度も見たことのない、想像を絶する光景が画面には映されていました。
 「津波」「TSUNAMI」4年前のスマトラ沖の地震で、大人である私達は、その脅威を知ったはず、でした。しかし、「知っている」という思いは、何と薄っぺらなものだったことでしょう。

 あの日以来、何度も何度も流される映像。
レゴで作った家のように、水の中で流され、浮かぶ家々。何にもなくなった海岸線の町の様子。時間が経つにつれて、一般人から投稿される生々しい映像も増え、私達は今回の地震がもた
した(もたらしている)未曾有の惨事を、じわじわと実感することになりました。
 繰り返し、繰り返し見る映像。あの映像の中には、きっと多くの人達の命があるはずです。心ない(と感じてしまう)被災者へのインタビュー。泣き崩れる人達、真っ暗な中で冷たい食事を採る人達を映すカメラ、などなど。私は、「もうやめて!」と叫びたくなりました。
 首都圏からさまざまな手段で現地に入ったテレビ局の人間は、暖かい暖房の効いた家も、家族もいるんでしょう?!こんなふうに、人の不幸を報道することって、いったい何??
 これは、阪神淡路大震災の時にも感じたことでした。きっと、同じ思いをもって、テレビのスイッチを消す方も少なくはないのではないでしょうか。

 でも、私は考えてみたのです。
幸か不幸か、そういう生々しい映像が流れる今の時代・・・その惨状の実態を、知ることのできる時代・・・そんな時代に生きている私達には、きっとその惨状を見ることによって、あらためて考え、実行する「その役割」がある・・・
 我が家のある東横線の菊名は、陸の孤島になりました。東横線は、午後5時半までは、渋谷-武藏小杉間しか運行されません。JR横浜線は運休。少なくとも、電車利用では都心に出かけることは叶いません。 グループ3のこの地域は、12時20分から約3時間、停電になります。
 生々しい報道を見て、悲惨な現場を映すな!と憤り、もう見ないようにしよう、と思うだけではなく、深い祈りの思いを持ってその現状を直視し、遠く離れた私達に「できること」を、一生懸命にやっていくこと。それが、私達の役目なのではないか?

  一生懸命に節電に取り組むこと。
  停電に備えること。
  品薄になったスーパーに行き、食べることにも事欠く被災者達を思うこと。
  交通機関の不便さに甘んじること。
  そして、被災者、亡くなった1万人を超えるであろう方々のために祈ること。

 多くの私学は、今日はお休みになったと聞きました。これから、学校が再開されても、通学にはさまざまな不便があることでしょう。お父様、お母様のご心配やご不便は、幼稚園から同じように電車通学をさせた母親として、十分に理解できます。
けれど、子ども達はその経験から、きっと多くを学んでくれるに違いありません。また、学べるような働きかけ、言葉かけは大事だと思います。私達の日常は、決して「当たり前のものではなく」ということも実感できるでしょう。
 携帯電話に大きく依存し、通じなくなると、たちまちパニックになってしまう自分達のことも、あらためて実感しましたね。私達は「いつでも携帯電話で、つながることができる」と過信し、それがなかった時代のように、非常時にはどうするか?を、十分に考えていなかったことにも思い至りました。

 ご卒業生の中には、今回の被災地にご実家、ご親戚がおいでになるご家庭もあります。

 私達にできること。幸い、こうして生きて、家族とともに暮らせている私達にできること。是非、考え、実行してみませんか?

雪あそびのあとで・・・

2011-02-12 16:28:52 | つぶやき
 みなさんは、「スノーマン」というお話しをご存知でしょうか?
1978年、レイモンド・ブリッグス(Raymond Briggs)というイラストレーターであり作家でもあるイギリス人が描いた、ほぼ文章のない絵本です
 4年後の1982年、その作品はダイアン・ジャクソンという監督が、短編のアニメーション映画として映像化。翌年のアカデミー賞では、短編アニメーション部門で最優秀作品となっています
 この映画のサウンドトラック盤のメロディー(ハワード・ブレイク作詞作曲)は、あまりにも有名ですね。セリフのない映像のバックに、もの悲しく流れるメロディーは、最初から、結末の何とも言えない悲しさを予言させているかもしれません

 昨日は、久しぶりに首都圏でも雪が降りました 朝、カーテンを開けると、見慣れた町の明るい風景が、一転、雪国のような静かな音のない世界になったように思えました。祝日だったために、町全体が静かだったからかもしれません・・・
 我が家でも、アルバイトがお休みだった娘は朝から家にいて、ひっきりなしにレースのカーテンを開いては、「ねえママ、まだどんどん降っているよ」とか、「ちょっと積もってきたみた~い」とか、まるで小さな子どものようなウキウキした声で報告してくれていました

 とうとう、家の中でじっとしていることの出来なくなった娘は、「ママ、ちょっとポストに行ってきて・・・むー、ちょっとお散歩してくる」と完全武装で出かけていきました きっと、それほど急がない郵便物だったのだと思いますよ
 彼女は、本当にご近所をうろうろと散歩したようで、帰宅するやいなや「ひや~、寒い寒い 」と言いながらお湯を沸かし、とても嬉しそうに話してくれました
 「あのね、マンションの1階のあちこちには雪だるまが立っていてね かわいいの!小さい子ども達は、朝からさっそく作ったんだね そっこらじゅうに、いっぱい小さな雪だるまがいるのよ」と笑顔で話してくれました。

    
                                   {
                
                          
    
                                

 こんな感じでしょうかね・・・ 我が家でもそうでしたが、日頃、あまり雪をみない都会の子ども達は、雪が降り、積もってこようものなら、突然、「小動物」のような感じではしゃぎまわりますね 
 嬉々として娘が語る町の様子を聞きながら、私の昔、大雪が降り、マンションの中庭でお友達の親子とご一緒に、結構大きな「かまくら」を作った時のことを懐かしく思い出していました

 でも・・・
今日、教室でクラスを終えて帰ってくる時。私は何とも切ない、悲しい気持ちになったのでした
 あちこちに放置された小さな雪だるま達・・・どれもすでに完全な形は留めず、半分になっていたり、倒れていたり、中には踏みつけられていたものもありました

 雪は、解けるものです。
雪だるまを、ずっとそのままで置いておくことはできません。

 でもね、大はしゃぎで雪だるまを作っただけで終わりですか?雪だるまには命はないし、雪でできているんだから、解けるのは仕方がない・・・
 子ども達に、アッケラカンと、そう教えますか?

 是非いちど、お時間がある時に、「スノーマン」の絵本でも、アニメーションでも、観てみてください
 エンディングを迎えた時、もしあなたがそれでも「雪だから、解けるのはしかたがない」と無感動に思われたとしたら・・・私はとても残念です

 科学の進んだ現代。世の中の事象は、すべて科学的に説明が出来ることでしょう。いつだったか、私が「お腹がすきました」と話したら、「お腹がすく、ということも、きちんと数式で表すことができるのですよ!」と生徒のお母様に教えていただいたことがありました

 でも、何でもかんでも学術的に理解し、知識を最上のものとして学んでいったとしたら、そこには豊かな感性は育ってはいかないでしょう・・・

 今夜は雨が降るそうです
その雨で、小さな雪だるま達は、完全になくなってしまいますね でも、すっかり解けたなくなってしまうまでに、「雪だるまさん、楽しかった さよなら ありがとう」そう、心から言える我が子に育ってほしいものだ・・・と思っていただければな・・・そう思いました。