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教育テレビをみながら、でくのぼう宣言について考える

2008-01-11 21:47:17 | 生活デ哲学スル
ひとりで家にいる時にテレビをつけることなどなかったのですが・・・
最近はこ初々さんともども、NHK教育テレビのお世話になっています。その番組の中に「にほんごであそぼう」というものがあるのですが、どういうわけかずっと宮沢賢治の「雨にも負けず」が朗読されており、聞けば聞くほどそのよさがじんわりとしみてきます。私があぁいいよねぇ、と思うのは一般によく知られている冒頭部分よりも、最後の部分です。

「東に病気の子供あれば/行って看病してやり/西に疲れた母あれば/行ってその稲の束を負い/南に死にそうな人あれば/行ってこわがらなくてもいいといい/北に喧嘩や訴訟があれば/つまらないからやめろといい/日照りの時は涙を流し/寒さの夏はおろおろ歩き/みんなにでくのぼーと呼ばれ/褒められもせず/苦にもされず/そういうものに/わたしはなりたい」

なんというか、これを「美徳」として捉えて「いいよねぇ」と思うのではなく、「社会には絶対にこういうでくのぼう的余剰人員が必要だ」と思うのです。今の世知辛い世の中では、社会の構成員の全てが生産(経済)活動や育児/介護の労働に組み込まれていることが期待され、それ以外の「なにもしていない」人員は「何の役にも立たない」とその存在を否定(排除)されてしまいます。ですが全員が全員「緊急にせんなんことがあって、すぐに手を離せない」状態というのは、どう考えてもシステムとして脆弱すぎる。何か予想外のことがおこったときにすぐに駆けつけて力になれる人員が皆無では、本当のところ困るのです。しかし「特に何もしていないけれど、時間だけはあるよ」という人員を抱えられるような経済的ゆとりも、精神的成熟も、今の社会には見当たらないように思います。

しかしながら先日雑誌を眺めていると、「みんながでくのぼうのようになったらいい社会だ」と言ってでくのぼう宣言をされておられる方がいましたが、社会の構成員全てがでくのぼうでも困ってしまうのです。やはり生産(経済)活動や、育児/介護を中心的に担う人員というのも当然のことながら必要です。ここで私が思うのは、「オレは一生でくのぼう」「私は一生働き続けます」と一人の人間が役割を固定しなくてもいいんじゃないかなということ。例えば定年まで勤めあげて「これからはオレはでくのぼうになるよ」と言ってもいいし、子どもが少し手を離れるようになったら「わたし、半でくのぼうできるわ」と言ってもいい。ながーいながい人生の中で、よいタイミングがきたらそれぞれにでくのぼう宣言できる社会になったらいいですね。

なんていうことを、教育テレビをみながら思っているハハはあんまりいないだろうなぁ・・・いやぁ、ためになります、教育テレビ。
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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (UME)
2008-01-12 19:34:00
わたくし、「普段はとってもいそがしい」けど、「時々でくのぼうよ」という人々に特にとっても育児を支えられておりますので、このような「でくのぼう的あり方」に大賛成でございます。そして、自分のやっている仕事も、仕事数が少ないときは「自分ってでくのぼう的」なさびしさもちらっと感じますが、お会いしている人々からは、「この場所はゆとりがある」と思ってもらえるのではないか、とか思ってます~。
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Unknown (初々)
2008-01-12 20:04:05
>UMEさま
大賛成して頂けて嬉しいです~。でも(特にUMEさんのところのような)職場にゆとりがあるってものすごく大切だと思います。私は病棟勤務していた時、患者さんから「看護婦さんは忙しそうだから・・・」と幾度となく遠慮されてしまい、「こんなに誰もかれも忙しくていいのか!!」と常に思っておりました。必要なときにいつでも手を差しのべてあげたいし、手を差し伸べてもらえるのだという安心感を持ってもらいたいにも関わらず・・・
UMEさんが職場復帰をされたら、私(とオット)は半でくのぼうとしていつでもばんこちゃんをレスキュー!?しに行きますので、どうぞ頼ってくださいね~。
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