「おひとりさまの老後」(上野千鶴子著)が70万部を売り上げるベストセラーになっている・・・
いつか医療・介護現場が、権利の主張ばかりする、クレーマーで「消費者」な患者さんたちで溢れ返るのではないかと危惧していた私は、上記の事実を知って「よ・・・読まねば・・・傾向と対策のために・・・(気が重い)」と、恐る恐る手にとって読み始めたのです。ご存知の通り著者は口が悪いので、読んでいて何となくゲンナリはしてくるものの、「あぁこの人は、私が勝手に思っていたように愚かな人では決してないんだな」という事実を知ることになって、ちょっと拍子抜けしました。「医療(介護)はサービス。お金を払っているんだから、それ相応のサービスを受けられるようにどんどん求めなさい。」というようなことが書かれてあるものとばっかり思って構えていたのですが、著書にはきっぱりはっきりと「お金とケアの質は比例しない」と書かれているんですね。そしてそれを踏まえたうえで、「介護を受ける心得10か条」として、介護を受けるノウハウ(主にコミュニケーション論)が記してありました。そこには、「感謝する」なども含まれており、「へぇぇぇ。この人がそんなこと言うとは思わなかった!」とびっくりさえした私です。しかしその一方で著者が「お金とケアの質は比例しない」という現場の厳然たる事実に直面してそのような心得を立ち上げたのではないかと思うにつれ、どこか切実さのようなものが感じられもし、「ううう、この人もしんどいよねぇ」と同情すらしてしまいそうでした。
今後どうなっていくかは分かりませんが、現時点においては「お金とケアの質は比例しない」つまり「お金を払いさえすれば、いいケアがうけられるということはない」、これはもう動かし難い事実ですし、この消費社会の中でそれが守られていることにほっとしさえします。医療はサービス業だ、ということが言われて久しいですが、このような観点においても医療はサービス業であるとは言えない。はっきりと言いましょう、「医療は人間関係」なのです。だから上野さんも「医療(介護)にカネを払え」ではなく、「医療(介護)をどう賢く受けるか」つまり「医療(介護)者とどう上手に関係を作っていくか」というコミュニケーションのノウハウを記さざるをえなかったのでしょう。そしてそれは、これまで「消費者」としてサービスを受ける側にしか立ってこなかった人々にとっては新奇なコミュニケーションスタイルであり、自分が身につけてきたノウハウでは対応ができないために必要になってくるのです。
「カネを払いさえすれば、いい医療(介護)が受けられる」と吹聴しない点では評価されますが、「かわいくても、かわいくなくても、介護を受ける権利がある」とサインをして書店に掲げている著者・・・こういうところが、「まだまだだよねぇ」と偉そうに思う私です。もちろん、「かわいくても、かわいくなくても、介護を受ける権利がある」のは当然です。そんなことは、声を大にして言わなくても、原則として正しい。きちんとした教育を受けてきた医療(介護)従事者であるならば、その原則をわきまえているはずです。でもここが「人間関係」の難しいところですが、どんな人が目の前にいようとも、全て行うケアが同質になるかというと、そうではない。もちろん最低限やるべきこと、心をかけること、配慮すること・・・そういったラインが守られるのは「ルールとして」当然なのですが、それ以上の+αは「患者さんと、医療(介護)者の関係によって、引き出される」のです。よい関係を築けている患者さんのもとへは自然とよく足を運ぶでしょうし、「あの人、どうしているかな・・」と関心を持つことによって細かいことに気がつき、よりきめ細かなケアに結びつく。一方関係がかんばしくない患者さんのもとへは自ずと足が重くなるでしょうし、必要最低限以上のことを「なんとか、してあげたい」という動機づけにも乏しくなってしまいます。そんなことでいいのか、平等ではないではないか、という批判も聞こえてきそうですが、「人が(病み、障害をもつ)人を、思いやる」という営みの中で行われるのが医療(介護)である以上、いわゆる「平等」には限界があるのも事実です。しかしこの人の「思いやる力」が動機づけになっているということこそが、「カネとケアの質が比例しない」ことを守っている。そう言えると思います。
話は戻りますが・・・かわいくても、かわいくなくても、介護を受ける権利はある。それはそうです。しかし「あぁこの人、かわいいな~」と医療(介護)者が思うような関係が築かれている場合、+αが引き出さされる可能性は高くなります。もちろん、全ての患者さんがかわいくなる必要もないですし、「かわいい」だけが+αを引き出す(人間的)資質ではありません。気持ちのいい人、尊敬できる人・・・そういう「人間的魅力」をどこかに見いだせるかどうか。言ってしまえば、人間として魅力があればあるほど、よい医療(介護)が受けられる。お金が入り込んでこない限り、おそらく医療(介護)はその構造を持ち続けることでしょう。
そんな意味においては、上野さんが「介護を受ける心得10か条」を記したのは意義の大きいことだと思います。「クレームばっかり言っていても、いい医療(介護)は受けられないよ。クレームを言って、よりよいサービスを引き出すという消費社会のルールは通用しないよ。」ということを宣言した、その意義は非常に大きい。医療(介護)を受けるということは、「人の前に、どんな自分でたつか」ということが問われるということ。それが、匿名でサービスをやりとりする消費関係とまったく違う点なのです。ある面では厳しいですけれど、そういった成熟が必要な関係が残っているというのは希望であると私は思っています。
いつか医療・介護現場が、権利の主張ばかりする、クレーマーで「消費者」な患者さんたちで溢れ返るのではないかと危惧していた私は、上記の事実を知って「よ・・・読まねば・・・傾向と対策のために・・・(気が重い)」と、恐る恐る手にとって読み始めたのです。ご存知の通り著者は口が悪いので、読んでいて何となくゲンナリはしてくるものの、「あぁこの人は、私が勝手に思っていたように愚かな人では決してないんだな」という事実を知ることになって、ちょっと拍子抜けしました。「医療(介護)はサービス。お金を払っているんだから、それ相応のサービスを受けられるようにどんどん求めなさい。」というようなことが書かれてあるものとばっかり思って構えていたのですが、著書にはきっぱりはっきりと「お金とケアの質は比例しない」と書かれているんですね。そしてそれを踏まえたうえで、「介護を受ける心得10か条」として、介護を受けるノウハウ(主にコミュニケーション論)が記してありました。そこには、「感謝する」なども含まれており、「へぇぇぇ。この人がそんなこと言うとは思わなかった!」とびっくりさえした私です。しかしその一方で著者が「お金とケアの質は比例しない」という現場の厳然たる事実に直面してそのような心得を立ち上げたのではないかと思うにつれ、どこか切実さのようなものが感じられもし、「ううう、この人もしんどいよねぇ」と同情すらしてしまいそうでした。
今後どうなっていくかは分かりませんが、現時点においては「お金とケアの質は比例しない」つまり「お金を払いさえすれば、いいケアがうけられるということはない」、これはもう動かし難い事実ですし、この消費社会の中でそれが守られていることにほっとしさえします。医療はサービス業だ、ということが言われて久しいですが、このような観点においても医療はサービス業であるとは言えない。はっきりと言いましょう、「医療は人間関係」なのです。だから上野さんも「医療(介護)にカネを払え」ではなく、「医療(介護)をどう賢く受けるか」つまり「医療(介護)者とどう上手に関係を作っていくか」というコミュニケーションのノウハウを記さざるをえなかったのでしょう。そしてそれは、これまで「消費者」としてサービスを受ける側にしか立ってこなかった人々にとっては新奇なコミュニケーションスタイルであり、自分が身につけてきたノウハウでは対応ができないために必要になってくるのです。
「カネを払いさえすれば、いい医療(介護)が受けられる」と吹聴しない点では評価されますが、「かわいくても、かわいくなくても、介護を受ける権利がある」とサインをして書店に掲げている著者・・・こういうところが、「まだまだだよねぇ」と偉そうに思う私です。もちろん、「かわいくても、かわいくなくても、介護を受ける権利がある」のは当然です。そんなことは、声を大にして言わなくても、原則として正しい。きちんとした教育を受けてきた医療(介護)従事者であるならば、その原則をわきまえているはずです。でもここが「人間関係」の難しいところですが、どんな人が目の前にいようとも、全て行うケアが同質になるかというと、そうではない。もちろん最低限やるべきこと、心をかけること、配慮すること・・・そういったラインが守られるのは「ルールとして」当然なのですが、それ以上の+αは「患者さんと、医療(介護)者の関係によって、引き出される」のです。よい関係を築けている患者さんのもとへは自然とよく足を運ぶでしょうし、「あの人、どうしているかな・・」と関心を持つことによって細かいことに気がつき、よりきめ細かなケアに結びつく。一方関係がかんばしくない患者さんのもとへは自ずと足が重くなるでしょうし、必要最低限以上のことを「なんとか、してあげたい」という動機づけにも乏しくなってしまいます。そんなことでいいのか、平等ではないではないか、という批判も聞こえてきそうですが、「人が(病み、障害をもつ)人を、思いやる」という営みの中で行われるのが医療(介護)である以上、いわゆる「平等」には限界があるのも事実です。しかしこの人の「思いやる力」が動機づけになっているということこそが、「カネとケアの質が比例しない」ことを守っている。そう言えると思います。
話は戻りますが・・・かわいくても、かわいくなくても、介護を受ける権利はある。それはそうです。しかし「あぁこの人、かわいいな~」と医療(介護)者が思うような関係が築かれている場合、+αが引き出さされる可能性は高くなります。もちろん、全ての患者さんがかわいくなる必要もないですし、「かわいい」だけが+αを引き出す(人間的)資質ではありません。気持ちのいい人、尊敬できる人・・・そういう「人間的魅力」をどこかに見いだせるかどうか。言ってしまえば、人間として魅力があればあるほど、よい医療(介護)が受けられる。お金が入り込んでこない限り、おそらく医療(介護)はその構造を持ち続けることでしょう。
そんな意味においては、上野さんが「介護を受ける心得10か条」を記したのは意義の大きいことだと思います。「クレームばっかり言っていても、いい医療(介護)は受けられないよ。クレームを言って、よりよいサービスを引き出すという消費社会のルールは通用しないよ。」ということを宣言した、その意義は非常に大きい。医療(介護)を受けるということは、「人の前に、どんな自分でたつか」ということが問われるということ。それが、匿名でサービスをやりとりする消費関係とまったく違う点なのです。ある面では厳しいですけれど、そういった成熟が必要な関係が残っているというのは希望であると私は思っています。