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京都生活手帖

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おひとりさまの老後を読んで

2008-03-18 16:25:47 | 生活デ哲学スル
「おひとりさまの老後」(上野千鶴子著)が70万部を売り上げるベストセラーになっている・・・

いつか医療・介護現場が、権利の主張ばかりする、クレーマーで「消費者」な患者さんたちで溢れ返るのではないかと危惧していた私は、上記の事実を知って「よ・・・読まねば・・・傾向と対策のために・・・(気が重い)」と、恐る恐る手にとって読み始めたのです。ご存知の通り著者は口が悪いので、読んでいて何となくゲンナリはしてくるものの、「あぁこの人は、私が勝手に思っていたように愚かな人では決してないんだな」という事実を知ることになって、ちょっと拍子抜けしました。「医療(介護)はサービス。お金を払っているんだから、それ相応のサービスを受けられるようにどんどん求めなさい。」というようなことが書かれてあるものとばっかり思って構えていたのですが、著書にはきっぱりはっきりと「お金とケアの質は比例しない」と書かれているんですね。そしてそれを踏まえたうえで、「介護を受ける心得10か条」として、介護を受けるノウハウ(主にコミュニケーション論)が記してありました。そこには、「感謝する」なども含まれており、「へぇぇぇ。この人がそんなこと言うとは思わなかった!」とびっくりさえした私です。しかしその一方で著者が「お金とケアの質は比例しない」という現場の厳然たる事実に直面してそのような心得を立ち上げたのではないかと思うにつれ、どこか切実さのようなものが感じられもし、「ううう、この人もしんどいよねぇ」と同情すらしてしまいそうでした。

今後どうなっていくかは分かりませんが、現時点においては「お金とケアの質は比例しない」つまり「お金を払いさえすれば、いいケアがうけられるということはない」、これはもう動かし難い事実ですし、この消費社会の中でそれが守られていることにほっとしさえします。医療はサービス業だ、ということが言われて久しいですが、このような観点においても医療はサービス業であるとは言えない。はっきりと言いましょう、「医療は人間関係」なのです。だから上野さんも「医療(介護)にカネを払え」ではなく、「医療(介護)をどう賢く受けるか」つまり「医療(介護)者とどう上手に関係を作っていくか」というコミュニケーションのノウハウを記さざるをえなかったのでしょう。そしてそれは、これまで「消費者」としてサービスを受ける側にしか立ってこなかった人々にとっては新奇なコミュニケーションスタイルであり、自分が身につけてきたノウハウでは対応ができないために必要になってくるのです。

「カネを払いさえすれば、いい医療(介護)が受けられる」と吹聴しない点では評価されますが、「かわいくても、かわいくなくても、介護を受ける権利がある」とサインをして書店に掲げている著者・・・こういうところが、「まだまだだよねぇ」と偉そうに思う私です。もちろん、「かわいくても、かわいくなくても、介護を受ける権利がある」のは当然です。そんなことは、声を大にして言わなくても、原則として正しい。きちんとした教育を受けてきた医療(介護)従事者であるならば、その原則をわきまえているはずです。でもここが「人間関係」の難しいところですが、どんな人が目の前にいようとも、全て行うケアが同質になるかというと、そうではない。もちろん最低限やるべきこと、心をかけること、配慮すること・・・そういったラインが守られるのは「ルールとして」当然なのですが、それ以上の+αは「患者さんと、医療(介護)者の関係によって、引き出される」のです。よい関係を築けている患者さんのもとへは自然とよく足を運ぶでしょうし、「あの人、どうしているかな・・」と関心を持つことによって細かいことに気がつき、よりきめ細かなケアに結びつく。一方関係がかんばしくない患者さんのもとへは自ずと足が重くなるでしょうし、必要最低限以上のことを「なんとか、してあげたい」という動機づけにも乏しくなってしまいます。そんなことでいいのか、平等ではないではないか、という批判も聞こえてきそうですが、「人が(病み、障害をもつ)人を、思いやる」という営みの中で行われるのが医療(介護)である以上、いわゆる「平等」には限界があるのも事実です。しかしこの人の「思いやる力」が動機づけになっているということこそが、「カネとケアの質が比例しない」ことを守っている。そう言えると思います。

話は戻りますが・・・かわいくても、かわいくなくても、介護を受ける権利はある。それはそうです。しかし「あぁこの人、かわいいな~」と医療(介護)者が思うような関係が築かれている場合、+αが引き出さされる可能性は高くなります。もちろん、全ての患者さんがかわいくなる必要もないですし、「かわいい」だけが+αを引き出す(人間的)資質ではありません。気持ちのいい人、尊敬できる人・・・そういう「人間的魅力」をどこかに見いだせるかどうか。言ってしまえば、人間として魅力があればあるほど、よい医療(介護)が受けられる。お金が入り込んでこない限り、おそらく医療(介護)はその構造を持ち続けることでしょう。

そんな意味においては、上野さんが「介護を受ける心得10か条」を記したのは意義の大きいことだと思います。「クレームばっかり言っていても、いい医療(介護)は受けられないよ。クレームを言って、よりよいサービスを引き出すという消費社会のルールは通用しないよ。」ということを宣言した、その意義は非常に大きい。医療(介護)を受けるということは、「人の前に、どんな自分でたつか」ということが問われるということ。それが、匿名でサービスをやりとりする消費関係とまったく違う点なのです。ある面では厳しいですけれど、そういった成熟が必要な関係が残っているというのは希望であると私は思っています。
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子どもは哲学実践者

2008-03-16 15:43:20 | 生活デ哲学スル
わりと飽きっぽいこ初々さんですが、お座りができるようになった8ヶ月ごろから今に至るまでずっと続いていることがあります。それは、ゴミ箱の中身を一つ一つぜーんぶ出してしまうことと、これまた同様に、お財布の中身、お札、小銭、カード類、ぜーんぶ取り出してしまうことです。いろいろなおもちゃには流行りすたりがあるのですが、この2つの行為に関しては、はじめてから今に至るまで、日々延々と繰り返されています。うっかり、ゴミ箱やお財布をこ初々さんの手の届くところに置いておこうものなら、悲惨なことになってしまいます。(だから我が家では、お財布だけでなくゴミ箱も高い所に置いてある。)

こ初々さんのこの執着を見ていると、“価値”の本質を見せられているように思うのです。つまり、ゴミ箱あさりもお財布開きもどちらも「隠されているものを露わにする」という行為なんですよね。こ初々さんにとって“価値”とは“隠されているもの”であると。「価値があるから隠されている」のではなく、「隠されているものに価値がある」のだと。その意味では、こ初々さんにとってお財布の中身も、ゴミ箱の中身も等価であるわけです。

でもこれを子どもの“他愛のない行為”とは言えないと思うのです。だって、お財布の中身って、日本銀行(ひいては日本政府)や銀行・クレジット会社が保証しているからこそ“価値”があるのであって、政府や金融会社の保証能力が信じられなくなったら、「紙くず同然。ケツもふけねぇ鼻もかめねぇ」ってことですもんね。「隠されているから価値がある」というのは、何も子どもの好奇心だけの話じゃなくて、日々のワイドショーのネタから、体型を隠しつつ見せるボディコンシャスな衣服から、行列しないと買えない何かから、情報理論における情報の価値に至るまで同じ構造が働いているわけです。ちょっと話はそれるけど、人が興味を失っちゃいけないものに対しては、人はその長い歴史の中で「わざと隠して価値を捏造する」という方略をとってきたのだなぁ。つまり、セクシャリティーのことだけど。「子どもは偉大な哲学者」とは言い古された表現ですが、それに倣うなら、「子どもは偉大な哲学実践者」ですね。

そうそう、最後にもう一つ。こ初々さんを見てて面白いのは、お財布の中身もゴミ箱の中身も、取り出してしまった後のモノには全く興味を示さないこと。隠されているものをあらわにしてしまえば価値はない。「あぁぁ、価値は消費されてしまったのだなぁ」と散らかったごみとお札をより分けながら思うのでした。

オット初々
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教育テレビをみながら、でくのぼう宣言について考える

2008-01-11 21:47:17 | 生活デ哲学スル
ひとりで家にいる時にテレビをつけることなどなかったのですが・・・
最近はこ初々さんともども、NHK教育テレビのお世話になっています。その番組の中に「にほんごであそぼう」というものがあるのですが、どういうわけかずっと宮沢賢治の「雨にも負けず」が朗読されており、聞けば聞くほどそのよさがじんわりとしみてきます。私があぁいいよねぇ、と思うのは一般によく知られている冒頭部分よりも、最後の部分です。

「東に病気の子供あれば/行って看病してやり/西に疲れた母あれば/行ってその稲の束を負い/南に死にそうな人あれば/行ってこわがらなくてもいいといい/北に喧嘩や訴訟があれば/つまらないからやめろといい/日照りの時は涙を流し/寒さの夏はおろおろ歩き/みんなにでくのぼーと呼ばれ/褒められもせず/苦にもされず/そういうものに/わたしはなりたい」

なんというか、これを「美徳」として捉えて「いいよねぇ」と思うのではなく、「社会には絶対にこういうでくのぼう的余剰人員が必要だ」と思うのです。今の世知辛い世の中では、社会の構成員の全てが生産(経済)活動や育児/介護の労働に組み込まれていることが期待され、それ以外の「なにもしていない」人員は「何の役にも立たない」とその存在を否定(排除)されてしまいます。ですが全員が全員「緊急にせんなんことがあって、すぐに手を離せない」状態というのは、どう考えてもシステムとして脆弱すぎる。何か予想外のことがおこったときにすぐに駆けつけて力になれる人員が皆無では、本当のところ困るのです。しかし「特に何もしていないけれど、時間だけはあるよ」という人員を抱えられるような経済的ゆとりも、精神的成熟も、今の社会には見当たらないように思います。

しかしながら先日雑誌を眺めていると、「みんながでくのぼうのようになったらいい社会だ」と言ってでくのぼう宣言をされておられる方がいましたが、社会の構成員全てがでくのぼうでも困ってしまうのです。やはり生産(経済)活動や、育児/介護を中心的に担う人員というのも当然のことながら必要です。ここで私が思うのは、「オレは一生でくのぼう」「私は一生働き続けます」と一人の人間が役割を固定しなくてもいいんじゃないかなということ。例えば定年まで勤めあげて「これからはオレはでくのぼうになるよ」と言ってもいいし、子どもが少し手を離れるようになったら「わたし、半でくのぼうできるわ」と言ってもいい。ながーいながい人生の中で、よいタイミングがきたらそれぞれにでくのぼう宣言できる社会になったらいいですね。

なんていうことを、教育テレビをみながら思っているハハはあんまりいないだろうなぁ・・・いやぁ、ためになります、教育テレビ。
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アセスメント力について

2007-10-14 23:25:14 | 生活デ哲学スル
昨日の話の流れから続けて書いておこうと思いつつ、昨日は力つきて書けなかったことを。

昨日は「食べること」をアセスメントしてみましたが、その視点や考え方、方法~つまり思考過程~は、おそらく看護に特有のものでしょう。ずいぶん前から「看護と介護は、どこが違うのか?」という議論がされており、往々にして「看護は医療行為ができるが、介護は医療行為を行えない」などと結論づけられてきたように思いますが、医療行為が行えるか行えないかというような瑣末な問題で覇権争いをしていても無意味であると私は常々感じていました。私が考える看護と介護の違いは、看護の特有なアセスメント能力にこそある。看護師は単に「医療行為を行えるひと」ではないのです。看護を特徴づけているのは医療行為にあるのではなく、病気や障害を持つ人の見方~つまり、「病気や障害によって、そのひとは今身体的、精神的にどのような状態にあるのか。それによって日常生活上、どのような困難を抱えているのか。またその困難な状況に対して、どのような援助を行うことができるのか。」ということを考えることの出来るアセスメント力なのだと私は思っています。もちろん介護には介護のアセスメントがあるのかもしれませんが、看護のアセスメントは看護教育の中核をなすものであり、「看護師はそのような教育を受けてきている」ということが前提になっているのです。

ここで実際にあった例をひとつ。

Aさんは自宅でお母さんを介護されていますが、介護保険のサービスを入れ、週に何度かヘルパーさんに来てもらっています。そんな状況でAさんが次のようなことをおっしゃって困っておられました。「ヘルパーさんに色々して頂けるのはいいんですけど、母がヘルパーさんに何でもやってもらってしまうんですよ、本当は自分で出来るのに・・・」。おそらくヘルパーさんは、利用者さんであるそのお母さんに「あれして、これして」と頼まれればその通りにせざるを得ないのでしょう。しかしこれが訪問看護だったら、こうはいかないと思います。まず看護師がすることは、「その人が病気、障害によってどういう状況にあるか、それによって何が出来ないか」を細かく評価すること。自分で立つことができるのか、介助が必要なのか、立ってトイレまで歩けるのか、付き添いが必要なのか、トイレの中でパンツやズポンをあげたり下げたりできるのか、それとも介助が必要なのか・・・そういったこと(どこからどこまで自分でできて、どこから介助が必要なのか)を、身体的な状況をふまえたうえで判断します。そのとき「自分で出来ること」を、その方のかわりにするようなことはしません。その人から「出来ること」を奪うようなことはしない。今出来ることを大切にし、これからも可能であれば「出来ること」を増やしていく。看護の援助の方向はそこにあるのです。患者さんが「こうして、ああして」というところだけに合わせるのではなく、~つまり、表層的なニーズだけに応えるのではなく~「中長期的にみて、その人がどのようになったらいいのか。その人の力をどう維持し、引き出していくか。」というところを視野に入れながら援助をしていく。それが看護の目指しているところです。そのような意味からも、看護は決してサービス業ではないと私は思っています。患者さんの「今、目の前の」ニーズに応える~つまり、患者さんの現在のニーズに対して、それと等価のものを交換する~だけが、看護の仕事ではないからです。

さてしかし、「看護はアセスメントだ!」と息巻いたところで、このアセスメントに失敗することもしばしば。「この方は、パンツの上げ下げは自分で出来ないので介助してあげてください。」なんて先輩に申し送って、「え、この人自分でできるよ。」なんて言われてしまうと、「うわ、実力ありか!」とガックリくることも。患者さんのほうが上手で、看護師を使いわけているんですねぇ。まぁでもそうやって様々な人が関わる中で、患者さんが甘えられる人がいるってことも、案外大切だったりするんだな。多様で複雑な人間関係の中で営まれるからこそ、看護は面白いともいえます。(人間関係もアセスメントの材料にいれていかなくてはなりませんしね。)

そして育児もアセスメントがとても大切だと思う今日このごろ。目の前の赤ちゃんが、「どんなふうになっていったらいいかな。」ということを視野に入れながら(つまり時間を考慮に入れながら)、今赤ちゃんはどんな状態なのだろう、それに対してどんなことができるだろう、ということを考えていくやり方は、案外と育児の日々になじむような気がするのですが、どうかな。




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看護のおしごと

2007-08-05 22:47:47 | 生活デ哲学スル
精神科医師中井久夫先生の「こんなとき私はどうしてきたか」を読み始めました。中井久夫先生といったら、「医者が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。」という書き出しから始まる「看護のための精神医学」があまりにも有名ですが、「こんなとき私はどうしてきたか」もその延長線上にあるような本です。

それにしても中井先生は医師であるにも関わらず、「看護できない患者はいない」と看護の本質をずばり言い表すことができるんですね。すごいなぁと思います。看護職でもそのように表現し、言いきることのできる人って少ないのでは・・・とすら思うくらい。そしてそれは精神科だけに限ったことではもちろんなく、どんな診療科においても等しく普遍的に言えることでもあります。

医師が病気を診断し治療するーつまり、病気(や障害)そのものを扱うのに対し、看護が扱うのは「病気(や障害)から派生する、生活を営む上で困ること」です。例えばがんの患者さんがいるとしましょう。医師はがんという診断を下し、それに対して治療を行いますが、看護が問題にするのは「がん」という病気ではありません。がんという病気を患うことによって生じること、例えば痛みがあって夜よく眠れないだとか、食事をとることができないだとか、あるいは死への恐怖を感じるだとか、そういった患者さん自身が感じたり体験している生活上の「困ったこと」に焦点を当てて、病気を体験する以前とは違った新しい生活を再構築していくお手伝いをするのが看護の仕事です。ですから、「病気になったけど、何も変わらないし、困っていないよ」という方は別として、どんな状況、どんな人でもーたとえ病気が治らず死にゆくときも(つまり医師が治療を断念するときも)ー看護という営みはなされ得ます。そういう意味で、「看護できない患者はいない」んですね。

精神科でも同様です。例えば幻聴や妄想のある患者さん。医師はそれに対して治療を行いますが、看護ではそれ自体を問題として扱うことはなく、それは「ある」ものとして関わり、援助を行います。つまり、幻聴にしても妄想にしても、それをどうこうするというのは看護の仕事ではないということです。では何を問題にするのかというと、幻聴なり妄想があることによって患者さんが「困ること」。おそらく患者さんが幻聴なり妄想があることで困っているのは、まず一番には「怖い」ということでしょう。幻聴や妄想の内容によっても異なりますが、例えば「テレビで死ねと言われている」などという内容でしたら、患者さんが怖くて仕方が無いというのは当然です。そういった患者さんが感じている恐怖を、多少なりとも和らげてあげる。これは看護の仕事になります。その方法は、患者さんによっても、関わる看護師によっても、千差万別。一般に教科書には「幻聴や妄想に対しては、否定も肯定もしないこと」などと書いてありますが、もし実際に「テレビで死ねと言われている」と言われた場合、みなさんだったらどう答えますか?否定も肯定もしないということは、「そうですか、テレビで死ねと言われているんですね。私には聞こえないのに不思議だなぁ。」という受け答えが無難になってくるでしょうが、それだけでは5分と間がもちません。そうですよね?「テレビで死ねと言われています」「そうですか?私には聞こえませんけど。」「でも私には聞こえるんです。」「あなたには聞こえるんですね。私には聞こえないのに不思議だなぁ。」「不思議でもなんでもなくて、私には聞こえるんです。」・・・これをえんえんと繰り返すというのも、繰り返すことにこちらが耐え得るのならば「あり」だとは思うのですが、私にはちょっと出来そうにありません。そんな私がよく手段として選ぶのは、「問題一時棚上げ法」。ひととおり患者さんの不安や怖さの訴えを聞いたら、「ちょっと、違うことしてみませんか?」と誘ってみる。例えば絵を描いたり、手作業を一緒にしてみたり。そうすることで幻聴や妄想がなくなるわけではありませんが、幻聴や妄想から一時でも気がそれることができれば、その間だけでも不安や恐怖を感じずに過ごすことができます。そんな時間を少しづつ増やしていけたら。根本的な問題解決にはなりませんが、そう願いながら関わっていることが多いです。とにかく幻聴や妄想があっても、本人が日常生活で困っていないならそれでいい。困っていたら、日常生活が破綻せずに営めるようにお助けする。もしかしたら一般の方には、それが看護?と驚かれることかもしれませんね。

でもね、問題を一時棚上げにできるっていうのは健康な証拠なんです。答えのない問いを問い続け、解決できない問題を解決しようともがきながらも、お腹がすいてご飯が食べられる。これは「生活を営む上で、優先順位を間違えていない」っていうことですよね。これこそ人間のもつたくましい能力。ときに精神科の患者さんたちにかわってその能力を発揮することも、仕事のうちにしてしまっているナース初々です。

で、何が言いたかったんだっけな・・・またしても変なところに着地してしまったようです。
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