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京都生活手帖

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年末年始のことなど

2016-01-13 12:00:43 | 日記
明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

はりきってブログを再開したのもつかの間・・・またすっかり放ったらかしてしまいました。反省。でもそれには大きな理由があって・・・と新年早々言い訳から始まるのもなんなのですが、実は新しいことにチャレンジをしています。それは・・・

「まちの居場所」作り。

現在、4月オープンを目指して準備中で、HPも立ち上げています。このブログを読んで下さっている方々にも応援して頂きたく、そちらのHPをご案内したいと考えたのですが・・・やはりこのブログは私的に運用しているので、公的なものとは区別した方がよいように思いました。直接交流のある方、ずっとこのブログを応援してくださっていた方(たとえば、波留さん)、もしご関心を持って頂けるようでしたら、下記までご連絡下さいましたら、HPのご案内をいたします。よろしくお願いいたします。
KYOTOLIFENOTE(←すべて半角に。)@yahoo.co.jp

さてこの年末年始のこと、備忘録として。

1)こ初々さん、「もろびとこぞりて」と「あらののはてに」を弾く。
毎年教会のイブ礼拝で、ピアノ演奏を披露するこ初々さん。今年は表題の賛美歌にチャレンジ。みんなに歌ってもらいながら弾くということを初経験しました。いや~堂々と弾いていてびっくり。ところで今年のピアノの発表会は、4月上旬に決定しています。バレエ音楽に挑戦したいということで、ソロで「くるみ割り人形から 金平糖の精の踊り」、連弾で「白鳥の湖より 四羽の白鳥の踊り」・・・連弾!?もうあれほど「二度と連弾するか!」と固く誓ったというのに連弾!!?はぁ・・・こ初々さんにそそのかされて!?今年も頑張ることにしました。ご老体、大丈夫でしょーか・・

2)こ初々さん、サンタさんに顕微鏡をもらう
最近の夢は、「カガクシャ」。なので、クリスマスプレゼントは顕微鏡をリクエストされました。お友達もまざって、あれこれサンプルを採取してきては顕微鏡をのぞきこんでおります。おかーさんの「しらが」も探究されていましたが、「プレパラートにしていい?」と聞かれて断固拒否。だってそんなものが「ばっちり面白く見える場所」に固定され、半永久プレパラートとして保存されるなんて!考えただけでぞっとしちゃいませんか。というわけで、「そんなことはちっとも気にせん」おとーさんのしらがが半永久プレパラート化されました。
近々、細胞核を染色して見てみたいとはりきっています。

3)こ初々さん、おこづかい帳と日記帳をつけ始める
サンタさんからは顕微鏡、おかーさんからは「おこづかい帳」と「小学生の生活日記」(いずれも婦人之友社発行)をプレゼントしました。毎月のおこづかいは与えていないのですが、お年玉の管理を本人に任せることに。もちろんお年玉全額を好きに使っていいよというわけにはいかないので、一部は銀行に、一部は本人の手元で管理するということを学んでもらうことにしました。毎年お年玉から「手帳」を買っているこ初々さん、自分で管理することになったら途端にけちくさくなったのか、経済感覚が出てきたと喜ぶべきなのか・・・今年はちっこくて安ーい手帳を買っていました。つい最近も、映画「メリーポピンズ」に熱狂しているので「おこづかいで、サントラ買ったら?」と促してみたものの、「え~、お母さんが聞くんでしょ、お母さんが買って。」ですって。けち~!

日記帳は、おかーさんの「文章を書かせたい」魂胆見え見えのプレゼントで、「ほんまに書くかな~」と半信半疑だったのですが・・・これがまた不思議と、はまって書いているんですよねぇ。渡した時に、「何を書いてもいい。書かない日があってもいい。絵だけの日があってもいい。書きたいように書いて。」「自分だけの日記帳、というのもあるけれども、これは、おとうさんやおかあさんに、今日はこんなことがあったよ~って教えてくれるような日記にしてくれたら嬉しい。」ということを伝えたんですよね。そのうえで、「寝る前に、こ初々さんは日記を書く、おかあさんは手帳や家計簿をつける」と横に並んで作業することにしたのもよかったのか。かつ、「日記を読んだら、おかーさんが一言感想とかわいいシールをはる。」「1週間頑張ったら、おっきなシールを貼る」という、まだまだ子どもじみたご褒美が嬉しい、おぼこさんタイプだからなのか・・・「スペースが足りない!」とぼやきながら、せっせと紙をつぎはぎし、「今日のシールは何かな~?」なんて、毎日楽しく日記を書いています。


まだまだ可愛らしいんですが、今年のお誕生日には子ども部屋に「ベッド」が欲しいんだそうです。一人で寝るんだね、寝ちゃうんだね・・・寂しいなぁ。
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介入すること

2015-10-16 20:57:45 | 日記
介入すること。
そこにはいつも逡巡があります。
手を出すべきなのか。見守るべきなのか。
それでも私たちは判断を迫られ、何がしかの行為によって答えを出しています。

行為の中に、大事に思っていることが、勝手に現れてしまう。
そういうもんなんだと、思います。
熟慮のうえの決断だってもちろんあるのでしょうけれども、とっさに言葉が出てしまう、身体が反応してしまう。
そういうもんなんだと、思います。

子ども同士のことも、こういう臨床判断に似たものがあるなぁと最近思ったできごと。

男の子のお友達A君を含めた数人が、我が家に遊びに来てくれました。みんなで仲良く遊んでいるところに、息せき切ってやんちゃなB君がやってきました。何やらA君と話しているのですが、そのうちに「もう知らねー!」みたいな感じになってしまい、B君は家を飛び出していきました。何があったのかよく分からなかったので、私はびっくりしてB君の後を追いかけました。「どうしたん?何があったん?」声をかけてみると、B君は「おえっ」とえづきながら泣いていました。B君の錯そうする話を整理すると、「A君と遊ぶ約束したのに、A君は約束を破った。」、そういうことだったようです。そこで私は、「ほんなら、A君と話合ってみたらどうや?」と促してみました。するとB君はうなづいて、「Aを呼んできて。」と言いました。私は家に戻り、A君に「B君と話合いしよう。」と声をかけ、B君のもとに連れて行きました。

「おばちゃんがB君から聞いた話をA君に伝えてええか?B君の話によると、今日二人は遊ぶ約束をしていたと聞いたんやけど、そうやったん?」私がA君に話を切り出すと、B君は興奮して「嘘つき!」と言い始めるので、「ちょっと待って!今度はA君の言い分を聞く番!A君の言い分を聞こう。」と制止をしました。A君の話も錯綜しており、これまた理解に到達するのに時間がかかりましたが、A君の話によれば、「遊ぶ約束をしたあとに、先生に怒られるような大喧嘩を二人でしたので、約束は反故になったと思った。それにBは居残りだったから、遊べないと思った。」ということでした。なるほど。「今日遊ぶ約束をしたあとに喧嘩になったから、もう遊ぶ約束はなしになったとA君は思ったんやな。でもB君は、喧嘩しても遊ぶ約束はそのままやと思ったんやな。・・・嘘とかじゃなくて、二人の間で行き違いがあったんだ、誤解があっただけなんだとおばちゃんは思うんやけど、どうやろう?」そう問いかけると、二人は頷きました。

「ほんなら、どうする?仲直りしてもいいんちゃう?」
うん、まぁ・・・みたいな感じのA君。うんうん、と積極的なB君。その温度差がちょっと笑えましたが、そこはぐっとこらえて。
「ほんで、今日はこれからどうするの?一緒に遊ぶの?」と尋ねると、もちろんB君は遊ぶ!と前向き。A君は、「みんながいいって言うなら。」と冷静。・・・そりゃそうだ、一緒に遊んでいるみんなの意見も聞かなくちゃね。そうしてA君がみんなに聞きにいくと、「みんな、普通、って言ってる。」・・・「普通」て!このやや引き気味の反応にもちょっぴりウケてしまいましたが、ここもぐっとこらえて、「ほな、みんなで遊びや。」

こんなふうに介入するのが、よかったのかどうなのか、今でもクエスチョンです。やんちゃなB君のことが常日頃から気になっていましたし、表面上はどちらの意見も聞いて公平なようでも、なんとかB君が疎外されずにいてほしいという願いがあったのは確かです。なんだかんだいって、B君も仲間に入れてあげや、という解決策へ誘導していた節もあります。我が家へ来る前に大喧嘩していたということですから、A君にしてみたらその時の納得いかない思いもあるでしょうけれども、そこは汲んであげることができていません。逆に大喧嘩しておきながら、遊ぶ約束を楽しみにしていたB君のあまりの「けろっとしているところ」が子どもらしくて可愛いなぁと私なんかは思ってしまいますが、そんなものが(この年代の)子どもの世界で通用するとは思えません。今回の着地点に、A君は納得していなかったかもしれないなぁなんていうことも、やっぱり引っかかり続けているわけです。

でも。それでも。

動いちゃったなぁ。

しょうがないよ。だって、「そういうもん」だから。

それに今回こっきりの出来事でさえない。もしA君が納得いっていなかったのなら、それは今後何らかの形で表出されるでしょう。出来事はそうやって続いています。この場面だけを切り取ると、「正しかったのか、どうなのか」悶々としてしまいますけれども、よくも悪くも出来事は完結しているわけではない・・きっとまた色々あって、その諸々に、自分なりの答えを出していかざるを得ません。そう思うと、「続いている」とか、また(関わる)チャンスがあるって、希望だなぁ。
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たったふたりのワークショップ

2015-10-05 12:34:47 | 日記
「たったふたりのワークショップ(≒つまり家で暇だったから、母と子二人でやってみたよこんなこと)」第一弾は、「まわし読み新聞」。むつさとしさんが考案されたメディア遊びの「まわし読み新聞」の詳細は、こちらをどうぞ。簡単に説明すると、参加者それぞれが新聞を読み、みんなに紹介したい新聞記事を切り抜いてプレゼン。最後にその記事を大きな紙に貼りつけていき、オリジナル新聞名をつけた新しい新聞を作ります。

我が家では「朝日小学生新聞」を購読していたので、朝日小学生新聞を使ってしました。もっと気楽にやったらいいのにと思うくらい記事選びに時間がかかり、かつプレゼンもキンチョーしてカチコチでしたが、新聞作りになると本領発揮。新聞のあちこちにアルパカのイラストをちりばめ、「何匹アルパカがいるでしょーか!?」なんていうオリジナルクイズまで掲載しておりました。思ったよりも楽しかったようで、「楽しかった~またやりたい!」とやる気まんまん。その後もお友達数人を集めてやってみましたが、これもまたこちらの予想以上の集中力で、楽しく取り組んでいたのが印象的でした。中身の充実を考えると、もう少し記事を読みこめるようになる高学年でやると面白いと思います。



お次は「なりきりお面づくり」。
もちろんこれも私のオリジナルではなく、tupera turepaさんというユニットの造形ワークショップを参考にしています。tupera tuperaさんのHPはこちら。そしてワークショップに関する書籍「tupera tuperaのワクワクワークショップ」についてはこちらをどうぞ。

まずお面の台になる部分を、段ボールなどで事前に作っておきます。そして、「名前」「特徴」「性格」のくじを作ります。(例えば、名前:ごえもんさん、森クマ子さんetc...特徴:顔が長い、鼻が高いetc...性格:怒りっぽい、泣き上戸etc...)お面づくりをする時に、そえぞれのくじを引いて、その組み合わせを表すお面を作ります。(例えば、「怒りっぽくておしゃれな森くま子さん、など)

写真はこ初々さんが作った、「うたをうたうのが好きな、まつげの長い子」(名前を忘れた・・・すみません)です。またこれが凝っていてですね、毛糸で♪を作って歌っている感じを出しています。このお面をかぶって、即興劇みたいなことをしても面白いかもしれないですね。



最後は、できたてホヤホヤの「リレー紙芝居」。
ええ、ええ、もちろんこれだって私のオリジナルではなく、同僚のアイディアを拝借しております。母と子で、1枚ずつ紙芝居を交互に作っていくというもの。最初からいきなり大作を狙うのはしんどいのでやめよう、ということで、1枚につき3文章ぐらいずつ、6枚完結でやってみました。絵は全部自分が描く!と言ってきかなかったので、残念ながらハハは色塗り担当。

お話は、以下の通りです。(どこがこ初々さんで、どこが私だかわかりますか??)

①あるところに、アルパカのアーさんがいました。アーさんはある日たまごを一つ生みました。それから毎日たまごをあたためていました。そして、ついに・・・「ピキピキ・・・ピキピキ・・・ピキ・・・ピキピキピキィ~~」・・・生まれました!!そのアルパカの名前はルパちゃん。ルパちゃんは、アーさんにだいてもらって友達の家にいきました。

②友だちのカルーパさんの家では、ルパちゃんが生まれたおいわいのパーティが行われました。おめめぱっちり、つぶらなひとみのルパちゃんは、みんなの人気者。でもワニのワニーヤがルパちゃんに近づくと・・・

③「ウエ~ンウエ~ンウエ~ウエ~ン。」そして、アーさんはルパちゃんにいいました。「このワニさんはこわくないよ。」そしてリスのリーコちゃんがつづけていいました。「そう。このワニさんやさしいよ♡ほらなんにもしないでしょ。だからだいじょうぶ。」「そうだよ。」「やさしいからだいじょうぶ」などルパちゃんにいいますが・・・

④ルパちゃんはなきやみ、ワニーヤをきっとにらみつけました。そしてワニーヤの顔にパカパーンチ!!「ワニーヤ!しょうたいをあらわせ!」

⑤そう言われたワニーヤは自分のしょうたいをみせました。すると・・・さっきまでいたワニーヤはいなくなり、そのかわりにきつねが立っていたのです。まあ、なんとそのかっこがへんなこと。みんなは口をおさえました。「なんだ!!ばれちまったじゃないか」

⑥「このへんなかっこをわすれるなよ!」へんなかっこのきつねはそう言いすてて、部屋を出ていきました。ルパちゃんはにっとわらいました。ルパちゃんは、ルーパーマンだったのです。 おしまい

いや~我ながらっていうか、我々ながら?傑作ができました。④で私がちょっと飛躍してみたんですが、その時のこ初々さんの動揺っぷりったら可笑しかったです。「?誰がしゃべったの!?」「ルパちゃんだよ。」「ルパちゃんはしゃべんないよ!!」「しゃべれるんだよ。」という押し問答があり、諦めて出てきたのが「きつね」・・・「まあそのかっこがへんなこと」のくだりでは、爆笑してしまいました。すごいなぁ。

ちなみに⑥は私が書きましたが、最後の一文はこ初々さんがあとから付け加えたもの。どうやら「ルーパーマン」をシリーズ化して、次作の構想も練っておるようです。といっても、その構想もどこで捻じ曲げられるやらわかりませんけれどもね。それがリレー形式の面白いところですから。
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前人未踏の

2015-09-23 16:55:30 | 日記
つい最近、長いお付き合いの患者さんに文句を言われました。

「こんなに頑張っていても報われないのは、私のほうにも問題があるけれど、支援する側に技量が足りないからだ。」

ちーん。
こんなことを言われたらガックリするかムッとする支援者の方が多いと思いますが、私はそれを聞いて「ほんまやなぁ。ほんま、その通りやわ。申し訳ない。」と答えていました。でもそれに続けて口から飛び出してきていたのは、こんな言葉でした。

「そやけどな、私とあなたは長い付き合いやん。出会った頃と同じでは、絶対ない。そりゃあなたからみたら私は専門家で、それでお金をもらってて、それなのにこんな亀の歩みで申し訳ないとは思うよ。でもな、長い時間かけてお互い知り合って、私はあなたからとてもたくさんのことを学ばせてもらったし、それはあなたも同じだと思う。違う文化の二人がお互い知り合ってうまくやっていくっていうのは、まだ人類が誰も成し遂げていない、最先端のことなんやんか。そういう意味で、こんなこと言ったらあなたが嫌がることは分かってて言うけれど、あなたは先駆者。」

もちろん9割がた納得されず、ほかのスタッフに「先駆者なんて言われても困るねん!」と文句を言いに行ったと、ご本人から報告がありました。文句を言われたスタッフも、「そりゃそうだ」と納得されていたとのことです。そりゃそうだ。ほとんど「専門性」を放棄した無責任発言でさえあります。いや、聞きようによっては患者さんに責任転嫁しているにすぎない発言かもしれません。ただ1割くらいは思うところがあられたのか、単に「またコイツは適当なこと言って!」とスルーされているのかはわかりませんが、何事もなかったように「やりたいことがあるから手伝って欲しい」等頼ってくださっています。

私も変わったなぁ・・・と、自分で思います。上の発言の是非は分かりません。いいとも悪いとも、うーん、分からないとしか言いようがない。でも、今の私の嘘偽らざる正直な気持ちであることは確かです。

この方に限らず、精神科に通っておられる方がたとお付き合いするようになって、「病気」や「障害」の存在を否定するわけではありませんが、それよりは「異文化の方がただなぁ。」と思うようになりました。文化にいいも悪いも、上下もありません。あるのは、「違い」(それと同じくらいの「同じ」)だけです。おつきあいしていく中では、私が当たり前と思っていることが当たり前ではなかったり、もちろんその逆もあったり。専門的知識でもってみていることもあるのでしょうけれど(それも私の身に染みついた「当たり前」)、まだまだ医学や看護学だけで分かっていることなど限られていますし、実際のお付き合いの中で「なんでそうなん?」とか、「それ、どういうことなん?」という出来事に遭遇するわけです。そういうことについて分かったふりをしないで、ひとつひとつご本人たちと一緒に考えていくと、病気や障害というくくりがほどけて「異文化との出会い」が驚きとともにやってくる・・・そんな感じ。専門的知識を用いて治療を行うというモデルを否定するわけではありませんが、私の現実はそれから遠のき、どちらかというと異文化コミュニケーション、もっと言ってしまえば違う文化の人たちと一緒に新しい文化を作っていくという感覚に近くなっています。だから「最先端のことを、一緒にやってるんやんか。」みたいな発言に・・・なってしまうんでしょうね。

それは医療ではない、と言われたら、そうなんだろうと思います。高い医療費を使ってやることではない。そう言われたら、それに反論はできません。でも財源の話を別にしたら、それが医療かどうか区別することってそれほど重要なことでしょうか。結局は、「みんなの学校」と同じで、「みんなの社会」をどう作っていくのかということなのではないか?

精神科に通っておられる方がたを「治療」して、今の社会での生きづらさを和らげたり、社会に適応できるように支援していく、というのが今の医療です。それはそれとして存在意義があることも認めますが・・・「今の社会」が完ぺきにいいわけではありません。そもそも「今の社会」が疎外しているのが、精神科に通っておられる方がたなのです。誰をも疎外しない社会というのは、前人未踏の大事業。「今の社会」も変わっていきながら、一緒に新しい、よりよい社会を作っていく・・・そういうチャレンジとして「医療」も変わっていったっていいんじゃないかと私は思うのですが、どうでしょうか。



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みんなの学校

2015-09-21 23:47:50 | 日記
映画「みんなの学校」(現在京都シネマで上映中)を観てきました。

「みんなの学校」は、大阪にある「大空小学校」という公立の小学校を舞台にしたドキュメンタリー映画です。大空小学校では、木村泰子校長の「すべての子どもの学習権を保証する」という理念のもと「不登校ゼロ」を目指しています。なかでも大空小学校の取り組みで注目されているのは、大空小学校では特別支援教室を作らずに、特別支援教育の対象になる子どもたちもみんな同じ教室で学んでいるということ。全校児童数220人のうち(特別な)支援を必要とする子どもが30人を超えるそうですが、子どもたちや教職員だけではなく、保護者や地域の人々が一緒になって、誰もが通い続けることができる学校を作り上げてきました。映画の冒頭で、校長先生は子どもたちに問いかけます。「大空小学校は誰が作りますか?」子どもたちは「ひとりひとりです。」「自分です。」と答えます。さらに校長先生は子どもたちに尋ねます。「自分って誰ですか?自分だという人、手を挙げてください。」すると子どもたちは、いっせいに手を挙げました・・・そう、大空小学校は、みんなでつくる、みんなの学校なのです。

私はこの映画を観ている間じゅう、涙が止まりませんでした。「こういう教育は素晴らしい!」とかっていうんじゃないんですよ。そうではなくて、子どもたちの表情、ふるまい、一生懸命さ、かけがえのなさ・・・そういったものに何度も胸を打たれ、きゅんとなり、可笑しくて笑ったり、泣いたり。気持ちが動きすぎて、せわしなかったなぁと思うくらい。まぁそういう言葉にならない部分については、ぜひとも実際に観て体感して頂きたいなぁとおもいます。子どもたち、子どもたちに関わる大人たち、みんなの魅力が押し寄せてくる!?本当にいい映画です。

で、言葉になる部分について。つまり、少しイデオロギー的なところに関わってくる話です。

正直なところ、映画を観る前は「(特別な)支援を必要としている子どもも、そうではない子どもも同じ教室で学ぶ」ということの是非については「保留」でした。もちろん「そうであって欲しい」という願いを持ちながらも、すべてが一緒ということになったとしたら、今のような状況下で(特別な)支援を必要とする子どもたちに本当に必要な支援が行き届くのか・・・といったことが疑問だったのです。実は映画を観終わった今でも、その点に関しては「よく分からない」としか言えません。例えば発達障害の子どもたちにみられる知覚経験の違い(聴覚の過敏さなど)に対する配慮であったりとか、学習の進め方の違いであったりとか、そういう部分に関しては映画で全く触れられていなかったので、どうしているのかなぁと謎のままです。でも、それはそれで絶対に必要なことなのだけれども・・・今は「みんなが同じ教室で学ぶ」、それは本当に当たり前のことなんだ、と思う。そしてそれは、つい「(特別な)支援を必要とする子ども」にとってという意味で語られがちなのだけれども、むしろ共に学ぶことは、「(特別な)支援を現状必要としてない」子どもたち、人々にとって大きな意味のあることなのだということを、改めて考えさせられました。

別の学校で不登校になって転校してきた男の子ユヅキ君が、教室を飛び出していきます。校長先生が理由を尋ねると、プリントに「わからん」と書いて同級生に「わからんと書いたらあかん」と言われたとのこと。校長先生はクラスのみんなを集め、ユヅキ君が前の学校に通えずに勉強ができなかったこと、勉強していないからわからないしできないのだということ、自分ができるからといって他の人も同じだと思ってはいけないのではないかということを話したうえで、「わからんと書いたらあかん」と言った同級生コクド君にこのように言います。分かっているコクドがせなあかんのは、分からないユヅキを助けること。

運動会では毎年、6年生は全員でリレーを走ります。校長先生は、みんなで走ることに意義がある、だから勝ち負けなんて関係ない、などとは言いません。そのかわりに、どうしたら勝てるのか、考えろ、工夫しろ。これは世界一難しいリレーなんや・・・支援を必要としている子どもたちをどう支援するか考え工夫をするということでもありますが、もちろんそれだけではなくて、速い子どもをどういかすのかということでもあるわけです。支援を必要としている子どもたちを当たり前に含みながら、それでも「勝つ」ことに向けてそれぞれを活かし合うために全力で取り組め!そんなメッセージがひしと伝わってきました。

これらのエピソードが教えてくれたこと。

もしみんなが一緒にいなかったら。
お互いが何に困っているのかも分からない。だから一緒に生きていく術を学びあう機会が奪われるんだ。
このことこそが、現状(特別な)支援を必要としていない子どもたちにとっても、大きな損失なんだ・・・

ともに学ぶ必要があるのは、どちらの「側」にあるとかいうのではなく、私たち一人一人に等しくある。
思いやりとか、温情主義的な義務とかなんかじゃなく、私たち一人ひとりの「権利」なのではないか。
今ははっきりと、そう思います。

思うことがありすぎて書ききれないのですが、今日はこの辺にしておきます。
ですけど、本当に、校長先生が仰っていることって、特別なことなんかじゃないですよね。どれも、当たり前のことなんだけどなぁ。当たり前のことが、もちろん自分を含めて、出来てないだけ。当たり前を、当たり前に、できるようになりたいし、そういう社会を作っていきたい。心から、そう思いました。


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