波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

『暗黒大陸中国の真実』の著者ラルフ・タウンゼント(Ralph Townsend)について

2005-06-26 03:44:38 | 雑感

 遠藤浩一氏の5月26日付網誌で,ラルフ・タウンゼント著『暗黒大陸中国の真実』の一節が引用されている.また,宮崎正弘氏の情報誌でも,当該書が言及されていた.日本のアマゾンで,同書についての書評の中には,著者ラルフ・タウンゼントの日米開戦後の経歴について触れ,低い評価を与えたものがある.Ralph TownsendでGoogleしてみると,反日ないし左翼系の網站その他で,彼が日米開戦の翌年の1942年にForeign Agents Registration Act("Foreign Agents Act"と誤記されていることが多い)違反で逮捕され,有罪云々ということが記載されている.果たして彼の経歴はどの様なものだったのか,調べていくと,今日の米国人すら忘却してしまっている米国裁判史上の一恥部というべき事件に遭遇した.以下はその調べの途中経過である.
 
 1941年の日米開戦以前,モンロー主義等の立場から旧大陸での戦争に米国参戦反対の論陣を張っていた個人・団体の背後に,当時のルーズベルト政権は国外団体(特にドイツ) の影を感じていた.これらの主張を直接規制するとなると,言論の自由の原則に抵触する.よって,国外団体・個人の意向を受けて行うロビー活動を届出制として,ロービー活動の内容開示・報告義務を課す,という間接的な規制手法がとられ,1938年前掲法を制定した.よって,同法に抵触するかどうかの判断は,ロビー活動の内容ではなく,同法指定の事務手続に遵ってロビー活動が行われたかどうか,という手続の解釈次第となる.当然ながら,如何様にも判断できる書類不備というような重箱の隅を突付いたような名目で違反の大義名分をとることも可能だ.もしタウンゼントの親日ロビー活動が看過できない同法違反状態であったならば,同法の成立の1938年から日米開戦の1941年12月の間に逮捕されていて当然ではないか,と推量されるが,実際に彼が逮捕されたのは開戦翌年の3月27日だった.
 
 この様な状況の解釈についてヒントを与えてくれるのが,仮想サン・フランシスコ市立博物館に掲載されている同市在住日系人の強制収容所送りについての網頁である(http://www.sfmuseum.org/war/evactxt.html).当該頁における彼の逮捕は(Writer Guilty as Japanese Agent - March 27, 1942 : http://www.sfmuseum.org/hist8/tokio2.html),米西海岸で日系人の収容所送りが始まった頃で,真珠湾奇襲の仇討・防諜のため日系社会が被った一連の受難の一齣として彼の逮捕が今でも記憶されていることが分かる.タウンゼント対する訴追は前出法違反で終わったわけでなく,大統領の度重なる要求に折れて始まった,他の主な参戦反対主張者と一まとめにされた見せしめ的裁判("The Great Sedition Trial of 1944"と呼ばれている)が続き,結局,当該裁判は無効審理,米国裁判史上の汚点となった(タウンセント自身は公判途中で不起訴になった).そして,皮肉にも,戦後冷戦での東西対立が明白になり,米連邦政府中枢に棲息したソ連スパイ網が摘発されると,かつて参戦反対・孤立主義者を糾弾する側にいた容共・親ソ系の者が逆に糾弾される側になるという立場の逆転が起きたのだった.

註:戦前のある和訳書では,Townsendは"タウンセンド"と訳されている.

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:6/25/2005/ EST]