波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

支那要人との個人的面識と対支政策の意思決定

2005-06-30 14:18:11 | 雑感

 相澤淳氏の『海軍の選択:再考 真珠湾への道』(中公叢書2002年刊)を読んでいると,旧日本海軍の米内光政は蒋介石と個人的に面識があり,一時期かなり高く評価していた事を知った(92頁).この評価は,2.26事件が起きた昭和11(1936)年のもので,翌年の昭和12年は盧溝橋事件(7月7日)を発端とする支那事変が始まった年である.支那事変勃発後,海相の米内は当初不拡大方針の立場を守り外交による解決を主張していたが,約一ヶ月後の8月14日の閣議において,南京占領を提案するなど従来の立場から180度転換した強硬姿勢へと急変した(105頁).このような海相米内の態度の急変の背景として,相澤氏は,同日起きた上海に停泊中の消防艦「出雲」,同領事館及び陸戦隊本部への中華民国空軍による空襲を挙げ,当該空襲により,米内が以前より抱いていた優越感に基づく対支観・対蒋介石観が打ち砕かれ,その衝撃の反動が膺懲論に駆り立てたのではないかと推理している.
 過去における個人的面識を通じて形成された相手の認識像が更新されず,現在の実像と乖離してしまい,相手の予期せぬ行動でそのような現実離れした認識像を打ち砕かれ幻滅した,という米内光政の経験は,以前読んだ或る支那通陸軍将校の体験に通じるものがある.戸部良一氏の『日本陸軍と中国 「支那通」にみる夢と蹉跌』講談社選書メチエ173(1999年)の中で触れらている,支那通陸軍将校佐々木到一が昭和3(1928)年5月山東省の省都済南で体験した済南事件だ.この済南事件で佐々木は瀕死の重傷を被り,従来抱いていた蒋介石の革命軍に対する期待を喪失してしまう(同書150頁).このような支那に対する期待と幻滅の例は,探せばもっと出てくるに違いない.
 相手を無碍に拒絶・批判するのではなく,相手の立場を理解しようという努力姿勢をそれなりに持ち,また相手側に歩みよるだけの懐の深さを持って相手に紳士・淑女的な態度で臨んだが,予期しない相手側の行動に衝撃を受け,相手に対する認識を180度急転させてしまう.この「予期しない相手側の行動に衝撃を受け」た原因は,相手についての認識のずれであり,また,想像力の貧弱性とも解釈できるかもしれない.自分(自国)の価値観・信条を相手(国)が共有しているかどうか,常に確認する用心深さは言うまでも無く,たとえ相手が自分の持つそれらを共有していないことが判明したり,疑念を抱くようなことがあったとしても,それを冷静に直視し,それに伴う不安や衝撃に耐えて最善の行動を検討・選択する強靭な精神が必要ではないだろうか.相手が自分の考える枠内から逸脱した際,相手を武力その他の手段で其の枠内に押し留めることが不可能であれば,相手を籠から抜け出した元野鳥と見做して諦め,一時的に交わりを絶つ,という選択もありうる.一方,自分の枠を相手の枠に摺り合わせようとするのは,自立した自我の放棄であり,相手に対する隷属以外の何物でもない.相手と意見がかみ合わないという不安定さを甘受し,距離を置いて相手の変化を待つ,というような選択は,先の大戦後,他国に受け入れられようと八方美人的な平身低頭金満外交路線をとって来た日本には難しいに違いないが.

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:6/29/2005/ EST]

1 コメント

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Unknown (みんなのプロフィール)
2005-07-01 09:17:36
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