みんなしてなんじょにがするべ!

今なすべきは意見を持ち発言すること。どうも心配な雲行きのこの国、言うべきことを静かにしっかりと言い続けたい。。

言葉に本性がにじみ出るのか

2015年02月05日 | 憲法守るべし
安倍首相が又“軽率”な発言をした(と思う)。
「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせる」と2月1日表明したが、そのニュースを聞いた時ずいぶん感情が先だった発言だと感じ、世界はどう受け止めるか少々不安に思った。
エジプトでの首相演説が、もしかして拘束された日本人が殺害される危険を拡げるかもしれないということへの配慮をしたうえでの発言だったのかが問題視されているが、今回の発言もまた国内外でどのように受け止められるのかに十分な配慮のもとに行われたのか心配だった。

案の定、エジプトでの演説が直後に訪問したイスラエルで言い直したと同じく、今回も「『罪を償わせる』ということは、彼らが行った残虐非道な行為に対して、法によって裁かれるべきと考える」と間もなく言い換えて、軽率な発言だったことを事実上認めることになった。



国会論戦でも、指摘に対して「質問はまるでISILを批判してはならなぬような印象だ。・・テロリストに屈することになる」とテロには屈しない一本やりの姿勢だ。
産経新聞などは、首相を擁護する立場に立った発信を続けているが、アメリカのニューヨークタイムズは、「安倍首相は日本の平和主義から逸脱し復讐を誓う」という見出しの記事で、「首相の復讐の誓いは、軍事関係者さえも驚かせた」「安倍首相は戦後の平和主義を捨てて、世界でより積極的な役割を日本に担わせようとしている」と述べた。ワシントンポストは識者の声として「日本の国家主義者らは人質事件を軍事力強化の口実に使うかもしれない」と伝えた。(しんぶん「赤旗」)


“日本の同盟国”・アメリカの有力なメディアもこのように受け止めていることをよくよく考えるべきだ。ましてやテロリスト集団は全く単純に解釈して日本を見るのではないのか。
紛争地域で難民救援などにあたっているボランティアが「『日本人である』ことで身を守ることができたがこれからは『日本人である』ことによって危険にさらされることになりそう」というようなことを語っていた。(テレビ朝日「報道ステーション」)

「テロに屈しない」と叫ぶだけが外交ではないだろう。首相が前のめりになればなるほど「国民は危険にさらされる」皮肉な現実を謙虚に受け止めて、落ち着いた物言いで「国民を守る義務」を果たしてほしい。
とはいっても首相の本音が「自衛隊による邦人救出ができる国づくり」のようだから、どうしてもそれが滲み出てくるのだろうが。

ワイツゼッカー元独大統領と安倍首相

2015年02月03日 | 憲法守るべし
1月31日、統一ドイツ初代大統領のリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏が逝去した。
1月27日はナチスドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)犠牲者を追悼する国際記念日の式典が、ニューヨークの国連本部で開かれ、またポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡で解放70周年記念行事が始まったことが報じられているさなかの訃報であった。

1984年、旧西ドイツ大統領に就任し、ドイツの第2次世界大戦降伏から40年となる85年5月8日、「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」とドイツ国民に戦争責任を直視しナチス・ドイツの過去をありのままに見詰める勇気を持つよう語りかける演説を行ったことで有名だが、94年に大統領離任演説で「我々は外国で自分たちがどう見られているかばかりを考えるべきではない。もっと重要なのは、鏡に映る自分の姿に何を見出すかだ」とも述べたという。
民主主義の原則と寛容の精神を訴える姿勢は国民の敬愛を集めた元大統領だった。


ワイツゼッカー氏は、1938年から45年まで第2次大戦に従軍したが、戦後は旧西ドイツの弁護士事務所で研修中にニュルンベルク裁判でナチスの外務次官だった父の弁護に関わったという経歴を持つという。
どのような弁論を展開したかはわからないが、ナチス幹部を父に持つワイツゼッカー氏とA級戦犯を祖父に持つ安倍晋三氏を比べたとき、その正反対に向いた隔たりの大きさに驚く。
「鏡に映る自分の姿に何を見出すか」・・歴史は変えられないが、歴史から学ぶことはできると思うのか、歴史は変えられなければ、歴史から醜いところ、都合悪いところを隠せばよいと思うのか。「道徳」とゆがんだ「処世術」の違いだろうか。



道徳を「特別の教科」にすることについて そのⅥ-1

2015年02月02日 | 憲法守るべし
今行われている特設道徳の授業は、指導要領が定めた「徳目」について副読本や教師手作りの教材をもとに、「どうするのが正しいか考えよう」といったふうにすすむことが多いようだ。
偉人伝など物語では“絵空事”なので先生たちはできるだけ体験に結びつけて考えさせようと工夫をするのだろうが、子どもたちはそれを飛び越し先回りして先生(指導要領)が期待している“答え”を探し始める。
ましてや「教科にして評価も」しましょうということになれば、“よい答え”探し競争になりはしないか。それは今より一層の不道徳教育になるのではないか。



子どもたちの日々の生活の中にある課題や困難を、子どもを主体にした自治的な取り組みによって子ども自
身が自主的に解決を図るように導く生活指導によってこそ道徳性を育むことができる。

道徳性は一人では問題にならない。複数の人間の関係においてはじめて道徳性が問われる。子どもたちが直面している課題や困難には物語教材などにない現実の人間関係がある。子どもそれぞれの価値観の対立がある。自分の内に葛藤が生まれる。他者との対立、自己の内のたたかいを経るなかで共有するところを広げながら解決に向かっていくように指導する。この過程で一人ひとりの道徳性が磨がかれ高められていく。ここでこそ“絵空事”ではない道徳教育が成立する。


ところが、ここで育まれた道徳性がそのまま行動となって実現することを妨げる要素が社会にはいっぱいあるのだ。

keitan さん

2015年02月01日 | 憲法守るべし
「道徳を『特別の教科』にすることについて」へのご意見頂戴しました。大変ありがとうございます。

科学的認識についての考え方を述べられた後、道徳について「処世術にすぎない」と述べておられますが、一般的にそのようなとらえ方もあり、それはそれとして間違っていないと思います。

ただ、世間で行われている道徳の行為ではなく、いま安倍政権・文科省が行おうとしている「道徳を特別の教科にする」としている道徳教育について考えようとしているところなので、「処世術だ」で終わらせるわけにはいかないのです。
この点についてのご理解をいただければと思いながらご意見を拝見しました。