今日のパムッカレ
翌日11月29日 パムッカレ大学病院へ行く。
デニズリの中心部には多くの病院が集中しているので、
病院のはしごが容易である。ドクター通りもあるくらい。
デニズリ中心部に広大な敷地を構える国立病院の近くに
ところ狭しとパムッカレ大学病院はある。
歴史ある施設は老朽化し、建替えのため、年内移転するんだって。
郊外には立派な大学と併設の病院が建っていますよ。
診察受付で保険証の番号が反映されず、診察できないと言われた。
前日、EGE病院に行ったばっかりなのに。
(後日知りましたが、羊飼い新聞によると、システムの変更とかで
トルコ人妻の登録が一時停止になっちゃったんだって。だから、
再申請しないといけないんだとさ)
なーんか幸先よくないぞ。不安が一層増す。
スタッフやお偉いさんが出てきて、なんとか収拾、受付完了
大混雑の診察待合室。
やっと順番がやってきて、若い女医さんに質問される。
4,5人の医学生に囲まれ、
大学病院の洗礼を受ける。大学病院の宿命なんだからと
言っても、嫌なものよね。まあ、女子学生ばかりだったけど。
一人だけ男子学生がいて、彼はちょっと遠慮して隠れちゃったみたい。
産婦人科医になるためには、男子は苦労しそうだな、トルコ。
トルコでは女性は女性に診て貰いたいと願う人が多いので
女医多し。私は腕さえ良ければ、どっちでもいい派。
でも、オヤジが女医、女医とうるさい
今度は別室で経膣超音波検査を受ける。若い女医さんが「ホジャ(教授)を呼んでくるわ」
と言い、その後、教授登場。
(私が教授です!!と、顔に書いてあった。)
子宮は残す方向で全力を尽くすが筋腫が大きいので、出血が酷い場合は
子宮全摘出の覚悟を!とのこと
その後、血液検査、レントゲン検査を受ける。
手術日を決めに、病棟受付へ
今晩入院し、翌日手術と決定。
来春日本への里帰りのためには
自宅療養期間を含めると年内に手術を決行しなければならなかった。
手術日が決まってから1週間くらい欲しかったけれど、
年貢の納め時だと思い、自宅に戻り入院準備をした。
病院へ持っていったもの・・・
文庫本
なんとあまり意識せずに、選んだんですが。
うち、文庫本交換をしているので、旅行者が置いていってくれたもの。
【8月の蝉】子供を産めなくなった女性が
不倫相手の子供を誘拐し、何年にも渡って逃走生活を送る、
という内容。なーんか自分をも重ねて読んでしまいそうだわ
ケント、エフェスの写真。
オセロのようなゲームを
もって行こうと思ったけれど、
誰が相手にしてくれるのかと
諦めた。
あと、クッション(前回、国立病院入院時で寝たきり状態で背中が
痛かったので)
夜21時病院到着。
私は二人部屋(シャワー、トイレつき)に通された。
先客がいた。普通分娩で出産を終えた女性が
横たわり、ご主人が奥様の手を握っていた
トルコでは、普通分娩は日帰り。出産後、数時間休んで帰宅となる。
なので、入院ということは何やら異常があったみたい。
その異常とは、夜中に判明。
女性、自分の夫の名前を1時間に渡り呼び続けたのだ。
彼女の夫はそのたびに返事をしていた。
最初、新生児に呼びかけているのかと思い、
そうじゃない、彼女はわが子を抱こうともせず、
全く気にかけることもしなかった。そう、ちょっと出産後狂っちゃったみたい。
赤ちゃんも泣きやまず。アッボー
私はオヤジ(私の夫のこと)に、今晩はここで我慢するけれど、手術後は私だって
痛い思いをするんだから、こんなうるさいところじゃ、眠れないから
病室を変えるよう申し出てと頼んだ。
産婦人科病棟だから仕方がないんだけれど、
よりによって、翌日子宮を切除しなきゃいけないかもしれない患者と
おめでたい新生児がいる患者と同室って、どうよ??
これ、20代、30代だとしたら、地獄だよね。
余談ですが、私の基本的な考えとして
人間が生命をいじくり回すことに抵抗があるんだわ。
エホバの証人の教えで、人の血を食べてはいけない、これ何となく分かるな。
どこまでがいいのか線引きは難しい。実際私はトルコで輸血経験あるし。
でも、移植とかクローンとかは絶対反対。移植などは自分がそういう立場に
なっていないから軽く反対って言えるんでしょうけどね。
でも、愛するワンズが死んでもクローンとか欲しくないわ。
まあ、私が言いたいのは、無いものねだりはしない、ということ。
子供が出来ないのは悲しいけれど、それが自分の運命なら
受け止めようと決めたのだわ。大の子供好きの夫には申し訳ないけれど、
オヤジもラム子が居ればいいと言ってくれた
ところで、この病院、看護士さんもドクターもいい感じなんだけれど、
日本だったら、既往歴、現病、アレルギーなどの情報を最初の診察時に
告知すればお仕舞いだよね。ここでは私、4回も話したのよ!
最初は診察時、2回目病室で看護士、3回目ナースセンター、
4回目が手術前夜、手術承諾書に署名をするために出向いた手術室にて、
手術を担当するドクターに。
4回目で切れて、なんで大学病院なのに、効率悪いの?なんで患者が4回も
同じことを言わされるの?情報を共有しないの?って、執刀するドクターだと
知らず、詰め寄った。
でも、そのちょっと渋い声を出すドクターは、あら怒ってんの?と
一笑に付された。
で、私が食堂をやっていることを知ると
寿司の話題となった。あと、下から?それとも開腹?と聞かれた。
はあ?筋腫が大きいから腹切るんじゃないんですか?と私。
どのくらいの大きさの筋腫があるとか知らなかったみたい
実際、主執刀は教授だった。私の筋腫ちゃん、いい教材になるんじゃない?
だって、大半のトルコ人女性は20代前半で結婚して子供を産んでいるから
大きな筋腫なんて滅多にお目にかかれないのでは?
今頃、ホルマリン漬けかな
病室に戻り、右手に点滴用の針を埋め込まれた。
そして、1回目の浣腸。
その夜は基地外女と赤ちゃんがうるさくて、
朝まで眠れず、持参した文庫本が役に立った。
「あなたね、こっちはもう子供が出来ない体になるかもしれないのよ!
ぐたぐた喚いていると、赤ん坊、かっさらうぞ!」
と喉まで出掛かったけれど、狂った人に何言ってもしょうがないと思って諦めた。
日本の家族に手術を翌日行うことを電話する。
翌朝、2回目浣腸。
病室で手術着に着替える。
朝11時ごろ、
ストレッチャーで迎えにくる。
指輪をすべて抜けと言われるが、右手にしていた祖母の形見の指輪が抜けない。
石鹸、クリームで試しても、だれがやってもだめだった。諦めて切ることに
4階の病室から2階の手術室へと移動。
オヤジと義姉が見送る。
マックス緊張。緑の光景。ああ、よくテレビで出てくるシーンだわ。
隣の手術室で赤ちゃんを抱いた看護士さんが見えた。
オペ室担当看護士さんが出てきて、私を和ませようとする。
手術室の恒例行事かしらねえ・・・恐怖と緊張で涙を浮かべる私に
優しい言葉をかけてくる。
私がどこをどのくらい切るの?と聞くと、
どこをどのくらいがいい?あなたの好きなように切るわと
冗談を言った。
また、あの渋い声のドクターが寿司の話をし始めた。
オペスタッフにてきぱきと手術台に乗せられ、
右肩下に何やらヒンヤリするものを塗られた。
麻酔は酸素マスクのようなものを当てられて、
はい、吸ってー、なんて言われるものかと思ったら、
右手に刺された点滴用のチューブから流された。
目を閉じる前に私の顔を覗き込むドクターに向かって
「I'm scared.」(怖いよー)と告げ
あっという間に深い眠りについた。
手術は2時間くらいだったみたい。
手術室から出てきたときに、
執刀した教授から
手術は成功しました、子宮は温存です♪
と、オヤジが言われたそうな。
(私は、オヤジに子宮が残っているか、
聞くのが怖かった。で、翌日かな、やっと聞いた。)
午後2時くらいに病室に戻ってきたらしい。
麻酔から目が醒めるときに、
何やら、うわ言を言っていたらしい。
SU(水)とイエイエ。
看護士さんが、私が寝言でイエイエって言っていたけれど、
何でしょう?と夫に聞いてきたらしい。
私はSU!(水)と叫んだ覚えがある。
覚醒するときに、異常に喉の渇きを覚えたからだ。
あと、イエイエは、夫の名前を呼んだんでしょう。
そんな記憶があるもの。それとも、痛え!かな
病室に戻り、皆にパジャマに着替えさせられるときに
太ももにぶちっと、鎮痛剤なるものを打たれた。
痛かったような気もしたけれど、麻酔が切れていなかったので
それほどでもなかった。
夜中に目が覚め、部屋を移動するとのこと。
車椅子で運ばれた先は、私と同じように
筋腫切除で入院している40代後半の女性患者。
とっても明るくて、雰囲気もよかった。
付き添ってくれる義姉がいつも周囲に優しいので、
国立病院に入院したときも、
いつも私は居心地が良かった。
翌朝(入院3日目)、早速カテーテルが外され、歩行を促された。
カテーテルは知らないうちに、はめてもらったので、違和感は無かったし、
あの状態でトイレには行けなかったので、助かった。
思い出したかのように、日本の母に電話した。
無事手術成功を喜んでくれ、両親は関西旅行に姉夫婦と一緒に
出かけた
まだ麻酔から醒めきっていないのか、
頭はぼーっとしていて、歩行訓練はかなりきつかった。
歩行訓練は筋腫切除後の傷のところへ、卵巣、卵管、大腸などが
癒着しないように、体を動かさなきゃいけないんですって。
国立のときもそうだったけれど、担当医師の回診は朝晩2回。
いやー、忙しいのにお疲れです。
また、あの渋い声を出すドクターが私のところで
3回目の寿司の話題をした。私、食堂で寿司出していないんだけどなあ・・・
まあ、入院患者が日本人というのも珍しいんだろうな。
そして、昼、トルコ流、流動食が!!
写真撮り忘れたけれど、
塩気のないトマトスープ、ヨーグルト(トルコなので、甘くない)そして、
普通に美味しかったライスプディング
食欲無いし、しかも不味いのに、オヤジに無理やり食べさせられ、
歩行訓練後、ベッドの上で吐いた。
風邪を治したつもりだったのに、セキ、痰が出て、そのたびに傷口に響いた。
国立も大学病院も、一日数回掃除に訪れる。何度も除菌をしているようだった。
シーツ交換は国立は言わないとやってくれず、パムッカレ大病院は
毎日聞いてくれた。
国立のときは入院中点滴だったので、食事はしていないが、
付き添いの人にも食事が無料で提供される。
入院患者も付添い人も昼と夜は同じメニューみたい。
翌日昼夜の食事↓
ハンバーガーに見えるのは、ただのパンです
朝食が、な、なんと朝6時に運ばれてきたっ!!
国立に入院していたときは両腕点滴だったので、寝返りできず、
床ずれになりそうだった。今回は横になるのも傷口が開きそうで
怖かったけれど、ベッドにリクライニング機能がついていたので、
多少なりとも楽だった。ベッドは高さがあるので、乗降がきつく、
義姉やオヤジに支えられながらだった。
12月2日退院許可降りる。朝、お腹に貼ってあったテープを
剥され、傷口の様子が明らかに。横に15cmのキレイな手術痕があり、
縫ったという形跡が見られず、接着剤もしくは溶ける糸で縫った?
なので、それほど痛々しくは無い。いつかは消えそうな傷口だった。
医学の進歩って凄いな。その後、傷口には何もテープなど貼られなかった。
そして、夕方念願の自宅へ
2年前の入院と自宅療養と同じく、義姉に申し訳ないほど、お世話になっています。
もう頭が上がらない。国立病院のときは大部屋で、検査入院の患者が
多かったので、ベッドが空くと休めた。でも、今回は二人部屋だったので
義姉はイスでしか寝ていない。4日間、まともに寝ていないのだった。
お義姉さん、ごめんなさい。そして本当にありがとう!!
補足:入院、手術費用ゼロ,
薬(抗生物質、鎮痛剤、鉄分補給)は一部負担。
オヤジが10リラ(400円)くらい払ったみたい。
今回、消化器系の病気じゃないからと、食事は術後普通食だと思っていた。
全く、便通が傷に与える影響を考えていなく、日本からレトルトのおかゆとか
調達しておけばよかったと後悔
長文を読んでいただいて、ありがとうございました
ラム子はすこぶる元気ですから、ご心配なく。
鎮痛剤も退院後1週間後に止めたみたら、
我慢できる痛みで、今はちょっとだけチクチクするだけです。
術後、どのくらい痛いのか全く想像できなかったけれど、
意外に痛くないので、喉元過ぎれば、何とやらかしら
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翌日11月29日 パムッカレ大学病院へ行く。
デニズリの中心部には多くの病院が集中しているので、
病院のはしごが容易である。ドクター通りもあるくらい。
デニズリ中心部に広大な敷地を構える国立病院の近くに
ところ狭しとパムッカレ大学病院はある。
歴史ある施設は老朽化し、建替えのため、年内移転するんだって。
郊外には立派な大学と併設の病院が建っていますよ。
診察受付で保険証の番号が反映されず、診察できないと言われた。
前日、EGE病院に行ったばっかりなのに。
(後日知りましたが、羊飼い新聞によると、システムの変更とかで
トルコ人妻の登録が一時停止になっちゃったんだって。だから、
再申請しないといけないんだとさ)
なーんか幸先よくないぞ。不安が一層増す。
スタッフやお偉いさんが出てきて、なんとか収拾、受付完了
大混雑の診察待合室。
やっと順番がやってきて、若い女医さんに質問される。
4,5人の医学生に囲まれ、
大学病院の洗礼を受ける。大学病院の宿命なんだからと
言っても、嫌なものよね。まあ、女子学生ばかりだったけど。
一人だけ男子学生がいて、彼はちょっと遠慮して隠れちゃったみたい。
産婦人科医になるためには、男子は苦労しそうだな、トルコ。
トルコでは女性は女性に診て貰いたいと願う人が多いので
女医多し。私は腕さえ良ければ、どっちでもいい派。
でも、オヤジが女医、女医とうるさい
今度は別室で経膣超音波検査を受ける。若い女医さんが「ホジャ(教授)を呼んでくるわ」
と言い、その後、教授登場。
(私が教授です!!と、顔に書いてあった。)
子宮は残す方向で全力を尽くすが筋腫が大きいので、出血が酷い場合は
子宮全摘出の覚悟を!とのこと
その後、血液検査、レントゲン検査を受ける。
手術日を決めに、病棟受付へ
今晩入院し、翌日手術と決定。
来春日本への里帰りのためには
自宅療養期間を含めると年内に手術を決行しなければならなかった。
手術日が決まってから1週間くらい欲しかったけれど、
年貢の納め時だと思い、自宅に戻り入院準備をした。
病院へ持っていったもの・・・
文庫本
なんとあまり意識せずに、選んだんですが。
うち、文庫本交換をしているので、旅行者が置いていってくれたもの。
【8月の蝉】子供を産めなくなった女性が
不倫相手の子供を誘拐し、何年にも渡って逃走生活を送る、
という内容。なーんか自分をも重ねて読んでしまいそうだわ
ケント、エフェスの写真。
オセロのようなゲームを
もって行こうと思ったけれど、
誰が相手にしてくれるのかと
諦めた。
あと、クッション(前回、国立病院入院時で寝たきり状態で背中が
痛かったので)
夜21時病院到着。
私は二人部屋(シャワー、トイレつき)に通された。
先客がいた。普通分娩で出産を終えた女性が
横たわり、ご主人が奥様の手を握っていた
トルコでは、普通分娩は日帰り。出産後、数時間休んで帰宅となる。
なので、入院ということは何やら異常があったみたい。
その異常とは、夜中に判明。
女性、自分の夫の名前を1時間に渡り呼び続けたのだ。
彼女の夫はそのたびに返事をしていた。
最初、新生児に呼びかけているのかと思い、
そうじゃない、彼女はわが子を抱こうともせず、
全く気にかけることもしなかった。そう、ちょっと出産後狂っちゃったみたい。
赤ちゃんも泣きやまず。アッボー
私はオヤジ(私の夫のこと)に、今晩はここで我慢するけれど、手術後は私だって
痛い思いをするんだから、こんなうるさいところじゃ、眠れないから
病室を変えるよう申し出てと頼んだ。
産婦人科病棟だから仕方がないんだけれど、
よりによって、翌日子宮を切除しなきゃいけないかもしれない患者と
おめでたい新生児がいる患者と同室って、どうよ??
これ、20代、30代だとしたら、地獄だよね。
余談ですが、私の基本的な考えとして
人間が生命をいじくり回すことに抵抗があるんだわ。
エホバの証人の教えで、人の血を食べてはいけない、これ何となく分かるな。
どこまでがいいのか線引きは難しい。実際私はトルコで輸血経験あるし。
でも、移植とかクローンとかは絶対反対。移植などは自分がそういう立場に
なっていないから軽く反対って言えるんでしょうけどね。
でも、愛するワンズが死んでもクローンとか欲しくないわ。
まあ、私が言いたいのは、無いものねだりはしない、ということ。
子供が出来ないのは悲しいけれど、それが自分の運命なら
受け止めようと決めたのだわ。大の子供好きの夫には申し訳ないけれど、
オヤジもラム子が居ればいいと言ってくれた
ところで、この病院、看護士さんもドクターもいい感じなんだけれど、
日本だったら、既往歴、現病、アレルギーなどの情報を最初の診察時に
告知すればお仕舞いだよね。ここでは私、4回も話したのよ!
最初は診察時、2回目病室で看護士、3回目ナースセンター、
4回目が手術前夜、手術承諾書に署名をするために出向いた手術室にて、
手術を担当するドクターに。
4回目で切れて、なんで大学病院なのに、効率悪いの?なんで患者が4回も
同じことを言わされるの?情報を共有しないの?って、執刀するドクターだと
知らず、詰め寄った。
でも、そのちょっと渋い声を出すドクターは、あら怒ってんの?と
一笑に付された。
で、私が食堂をやっていることを知ると
寿司の話題となった。あと、下から?それとも開腹?と聞かれた。
はあ?筋腫が大きいから腹切るんじゃないんですか?と私。
どのくらいの大きさの筋腫があるとか知らなかったみたい
実際、主執刀は教授だった。私の筋腫ちゃん、いい教材になるんじゃない?
だって、大半のトルコ人女性は20代前半で結婚して子供を産んでいるから
大きな筋腫なんて滅多にお目にかかれないのでは?
今頃、ホルマリン漬けかな
病室に戻り、右手に点滴用の針を埋め込まれた。
そして、1回目の浣腸。
その夜は基地外女と赤ちゃんがうるさくて、
朝まで眠れず、持参した文庫本が役に立った。
「あなたね、こっちはもう子供が出来ない体になるかもしれないのよ!
ぐたぐた喚いていると、赤ん坊、かっさらうぞ!」
と喉まで出掛かったけれど、狂った人に何言ってもしょうがないと思って諦めた。
日本の家族に手術を翌日行うことを電話する。
翌朝、2回目浣腸。
病室で手術着に着替える。
朝11時ごろ、
ストレッチャーで迎えにくる。
指輪をすべて抜けと言われるが、右手にしていた祖母の形見の指輪が抜けない。
石鹸、クリームで試しても、だれがやってもだめだった。諦めて切ることに
4階の病室から2階の手術室へと移動。
オヤジと義姉が見送る。
マックス緊張。緑の光景。ああ、よくテレビで出てくるシーンだわ。
隣の手術室で赤ちゃんを抱いた看護士さんが見えた。
オペ室担当看護士さんが出てきて、私を和ませようとする。
手術室の恒例行事かしらねえ・・・恐怖と緊張で涙を浮かべる私に
優しい言葉をかけてくる。
私がどこをどのくらい切るの?と聞くと、
どこをどのくらいがいい?あなたの好きなように切るわと
冗談を言った。
また、あの渋い声のドクターが寿司の話をし始めた。
オペスタッフにてきぱきと手術台に乗せられ、
右肩下に何やらヒンヤリするものを塗られた。
麻酔は酸素マスクのようなものを当てられて、
はい、吸ってー、なんて言われるものかと思ったら、
右手に刺された点滴用のチューブから流された。
目を閉じる前に私の顔を覗き込むドクターに向かって
「I'm scared.」(怖いよー)と告げ
あっという間に深い眠りについた。
手術は2時間くらいだったみたい。
手術室から出てきたときに、
執刀した教授から
手術は成功しました、子宮は温存です♪
と、オヤジが言われたそうな。
(私は、オヤジに子宮が残っているか、
聞くのが怖かった。で、翌日かな、やっと聞いた。)
午後2時くらいに病室に戻ってきたらしい。
麻酔から目が醒めるときに、
何やら、うわ言を言っていたらしい。
SU(水)とイエイエ。
看護士さんが、私が寝言でイエイエって言っていたけれど、
何でしょう?と夫に聞いてきたらしい。
私はSU!(水)と叫んだ覚えがある。
覚醒するときに、異常に喉の渇きを覚えたからだ。
あと、イエイエは、夫の名前を呼んだんでしょう。
そんな記憶があるもの。それとも、痛え!かな
病室に戻り、皆にパジャマに着替えさせられるときに
太ももにぶちっと、鎮痛剤なるものを打たれた。
痛かったような気もしたけれど、麻酔が切れていなかったので
それほどでもなかった。
夜中に目が覚め、部屋を移動するとのこと。
車椅子で運ばれた先は、私と同じように
筋腫切除で入院している40代後半の女性患者。
とっても明るくて、雰囲気もよかった。
付き添ってくれる義姉がいつも周囲に優しいので、
国立病院に入院したときも、
いつも私は居心地が良かった。
翌朝(入院3日目)、早速カテーテルが外され、歩行を促された。
カテーテルは知らないうちに、はめてもらったので、違和感は無かったし、
あの状態でトイレには行けなかったので、助かった。
思い出したかのように、日本の母に電話した。
無事手術成功を喜んでくれ、両親は関西旅行に姉夫婦と一緒に
出かけた
まだ麻酔から醒めきっていないのか、
頭はぼーっとしていて、歩行訓練はかなりきつかった。
歩行訓練は筋腫切除後の傷のところへ、卵巣、卵管、大腸などが
癒着しないように、体を動かさなきゃいけないんですって。
国立のときもそうだったけれど、担当医師の回診は朝晩2回。
いやー、忙しいのにお疲れです。
また、あの渋い声を出すドクターが私のところで
3回目の寿司の話題をした。私、食堂で寿司出していないんだけどなあ・・・
まあ、入院患者が日本人というのも珍しいんだろうな。
そして、昼、トルコ流、流動食が!!
写真撮り忘れたけれど、
塩気のないトマトスープ、ヨーグルト(トルコなので、甘くない)そして、
普通に美味しかったライスプディング
食欲無いし、しかも不味いのに、オヤジに無理やり食べさせられ、
歩行訓練後、ベッドの上で吐いた。
風邪を治したつもりだったのに、セキ、痰が出て、そのたびに傷口に響いた。
国立も大学病院も、一日数回掃除に訪れる。何度も除菌をしているようだった。
シーツ交換は国立は言わないとやってくれず、パムッカレ大病院は
毎日聞いてくれた。
国立のときは入院中点滴だったので、食事はしていないが、
付き添いの人にも食事が無料で提供される。
入院患者も付添い人も昼と夜は同じメニューみたい。
翌日昼夜の食事↓
ハンバーガーに見えるのは、ただのパンです
朝食が、な、なんと朝6時に運ばれてきたっ!!
国立に入院していたときは両腕点滴だったので、寝返りできず、
床ずれになりそうだった。今回は横になるのも傷口が開きそうで
怖かったけれど、ベッドにリクライニング機能がついていたので、
多少なりとも楽だった。ベッドは高さがあるので、乗降がきつく、
義姉やオヤジに支えられながらだった。
12月2日退院許可降りる。朝、お腹に貼ってあったテープを
剥され、傷口の様子が明らかに。横に15cmのキレイな手術痕があり、
縫ったという形跡が見られず、接着剤もしくは溶ける糸で縫った?
なので、それほど痛々しくは無い。いつかは消えそうな傷口だった。
医学の進歩って凄いな。その後、傷口には何もテープなど貼られなかった。
そして、夕方念願の自宅へ
2年前の入院と自宅療養と同じく、義姉に申し訳ないほど、お世話になっています。
もう頭が上がらない。国立病院のときは大部屋で、検査入院の患者が
多かったので、ベッドが空くと休めた。でも、今回は二人部屋だったので
義姉はイスでしか寝ていない。4日間、まともに寝ていないのだった。
お義姉さん、ごめんなさい。そして本当にありがとう!!
補足:入院、手術費用ゼロ,
薬(抗生物質、鎮痛剤、鉄分補給)は一部負担。
オヤジが10リラ(400円)くらい払ったみたい。
今回、消化器系の病気じゃないからと、食事は術後普通食だと思っていた。
全く、便通が傷に与える影響を考えていなく、日本からレトルトのおかゆとか
調達しておけばよかったと後悔
長文を読んでいただいて、ありがとうございました
ラム子はすこぶる元気ですから、ご心配なく。
鎮痛剤も退院後1週間後に止めたみたら、
我慢できる痛みで、今はちょっとだけチクチクするだけです。
術後、どのくらい痛いのか全く想像できなかったけれど、
意外に痛くないので、喉元過ぎれば、何とやらかしら
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昨日記事見て、どうコメしたらいいのか考えてしまって・・今日見たら手術終わってるし・・
でも手術成功したんだね‼‼
いろいろ医療にもお国事情があって、違うんだなあ。
痛くないか~~??
なにか必要なものがあったら送るから遠慮なく言ってね‼‼
私、ラム子ちゃんからパワーいっぱい送って貰ったから私もいっぱいパワー送るぞ‼‼☆
温かいお言葉ありがとうございます。
そうなんです!手術は成功で、経過も順調。
ハラキリ痕もいつのまにか消えそうな
勢いですよー。
痛みも殆どないんです。でも、人間て、大声を出すのも
何かしらの動作にお腹に力を入れているんだなと、
初めて知りました。裂けるのだけは避けたいので
寝る、食う、ネットしかやっていないんで、
暇なんですよ。
ママさんの普段のブログでパワーをもらっていますから、大丈夫ですよ
ママさんも無理しないで、吐き出すときは
吐き出しましょう!
私もトルコの病院に入院し、手術を受けたような疑似体験させてもらいましたよ。
実は私も以前、筋腫の手術経験があります。
流産した後、なかなか妊娠しないので、
不妊治療を受けたのですが、その副作用だといわれました。
筋腫の具体的な大きさは思い出せませんが、
私の場合も、子宮温存で、
傷口も同じくらいかな?下腹に切腹の後があります。
ほとんど分からないくらい消えましたけどね。
後から痛むこともなかったし、
それが原因で調子悪くなることもありませんでした。
ラム子さんもきっとすぐに元通り、元気いっぱいなんでもできますよ。
ただ、今はまだ、がまん、がまん。
無理が、たたっては何にもなりませんものね。
ご存知かもしれませんが、今年の漢字に、
『絆』の文字が選ばれました。
震災後の日本、改めて、家族や友人や隣人の『絆』を認識した年でした。
病気したときもそうですよね。
ラム子さんが、トルコの地で紡いだ絆が、
ラム子さんを元気にしてくれていると思います。
来春、元気に帰ってきてくださいねー。
おー、ソレイユさんもですか!!
30代以上の女性は筋腫保持者が
多いとは聞きます。
術後、癒着がどうのとか、不安で
いっぱいでしたが、ソレイユさんの
話で安心しました。
『絆』ずしっと来る言葉ですよね。
この言葉を日本人は忘れかけていたような
気がします。私ははっとさせられました。
人間、一人じゃ生きていけない、
人との繋がり、『絆』を思い起こさせて
くれた年でした。
来春、元気に帰ります!
あっ、旅費が貯まってないっ
病気の詳しい状況、トルコ医療の様子、ラム子ちゃんの気持ちの変化、ご家族の愛情など、本当によく伝わってきました。
ゴメンね、国語の先生じゃありません。でも、ラム子ちゃんが素直に思った通りに言葉にして、読み手としてホント疑似体験しながら私も一緒に心が動きました。
とても貴重な記録だと思いました。
これからもラム子物語の一ファンとして応援させて頂くと共に、お体の全快を心からお祈りしています。
大変でしたね。
私も4年ほど前、とある婦人病で引っかかり手術しました。
手術は怖くは無かったですが、
当時はまだ言葉がちゃんとできていなかったので、
意思が通じないので怖い思いをしました。
あと、面倒を見てくれる人がまったくいなかったので、
それが結構大変でした。
お義姉さんには感謝ですね。
夏に一杯働いたので、
しっかり休んで日本行きに向けて
英気を養ってくださいませ。
ありがとう!
おかげさまで元気よ!
初めての経験だったし、
何か日記がわりに、あのときの心情を
残しておきたかったの。
へへへへへ、貴重な記録だなんて、
ただの自己満足な覚書みたいなもの。
で、たまたま友人がまた婦人科系で
手術をするかもという連絡をもらって
ちょっと経験者が語るみたいな
ほんの少しでも参考になればと
思っているわ。
結構いますよね、婦人科系。
確かに言葉の問題、大いにありました。
でも、うちの場合、お金のほうが
優先されたんで。日本じゃ、とんでもない
金額になっちゃうもの。
確かに、日本じゃ身の回りの世話なんて
気にしないけれど、トルコじゃねえ・・・
私も義姉がいなかったら、
他に頼める人いなかったです。
普段から他の兄弟の嫁たちと
仲良くしているわけじゃないので。
夏、確かに一生懸命働いたんです!
でも、なぜなんでしょうねえ・・・
お金が貯まっていないんです(泣)