米作り奮闘記 高齢舎(田中ファーム)

還暦を迎え、ラストチャレンジは米作りです。孤軍奮闘、手探りの米作りは、どうなるでしょうか。

水口ユキエ 中津野用水路創設者の物語

2014年05月17日 | 風景

姶良市は平野が広がり、別府川や住吉池からの用水にも恵まれているので、稲作中心に農業が栄えています。しかし、別府川水系の山田川と蒲生川が合流する山田、中川原、中津野(当時は帖佐郷)地域は高台の為水利が悪く、江戸中期までは水田が無かったそうです。

米作りができなかった頃、この辺りの農家はとても貧乏な暮らしだったので、嫁をめとるのも難しかったそうです。ところが、水口門(ミズグチカド)のユキエという15歳の少女によって、地域の農業や暮らしぶりは大きく変化をしました。

言い伝えによると、ユキエは深水の女生嶽に登り、自分の股の間から『股のぞき』をして地勢を観たのだそうです。そして、山田川上流の山田から中津野まで引水するという提案をしたのです。一人の少女の提案は大人たちの心を動かし、山田地区に設けた取水堰『山下井堰』を起点に、総延長4kmの『中津野用水路』が1752年(宝暦2年)に完成しました。潅漑面積は山田地区が32ha、中津野地区が34haという広さでした。

いつから工事が始まったのか不明ですが、着工当初は村人たち総出で水路造りをしていたものの、農繁期にはユキエが独りで掘り続けたという話が残っています。隧道は当時9カ所も有ったそうですが、測量技術が発達していなかったであろう時代の難工事の苦労がうかがえます。また、用水路を勢いよく流れて淀みなく中津野まで達していますが、高低差はどうやって確認したのでしょうか。水路が終点になる中津野では、独特の工夫も施されていました。圃場より水路がかなり低くなっているけど、圃場ごとにある取水堰に大型の仕切り板を差し込むと、水勢で一気に冠水出来るそうです。

こうして、地域の人々に多大な貢献をしたユキエでしたが、あろう事か水路が完成した後に村人たちによって殺されてしまいました。心無い村人たちは、大人が出来なかった大偉業を成し遂げてしまったユキエを、将来何をしでかすか末恐ろしい女だと恐れてしまったのです。

その後、ユキエの家族は農民でありながら「水口」という姓を特別に授けられ、代々、用水の管理という重責を任されました。中津野地区には、水口姓の民家が多くありますが、おそらく、ユキエの遠い縁者なのかもしれません。

同年12月に、水口邸にユキエの石祠が造られて、ユキエの霊牌が安置されました。

石祠は、中津野公民館横に移設され保存されています。その作業に携わった人によると、末裔の方が高齢になり個人で管理するのが困難になったのだそうです。

石祠は、1974年(昭和49年)5月に当時の姶良町の文化財に指定されました。また、 山田地区の『山下井堰』の脇には、1951年(昭和26年)4月15日に建立された『水路創設者ユキエ嬢』の記念碑もあります。

「中津野用水路」は、200年以上経った現在でも用水路として活用されています。約4kmの水路は、『ナフコホームセンター姶良店』が出来たときに一部分が南寄りに流れを変える改修が行われました。また、水路沿いの自治会の方々が、年に一回掃除をして守っているのだそうです。

水路をたどって歩くと、並行する山田川がはるか下を流れていました。手作業で岩盤をくり抜いた隧道(当時は9ヶ所あった)は、すぐ近くまで行って覗き見ることが出来ます。途中には、揚水の為に近年作られた水車も有りました。

ユキエの偉業は、幾つかの逸話を織り交ぜながら語り継がれています。中津野で20アールの田んぼを守っている80歳の女性は、子供の頃に母親から「昔話」としてユキエの話を聞いたそうです。実行しなかったけど水路をたどってみたいと思っていたそうなので、撮りためた水路の写真を見せると喜んでくれました。

現在、水路沿いにひろがる豊かな田園風景は、ユキエが残してくれた貴重な景色です。

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2 コメント

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姶良火山 (利之のリタイヤ)
2013-09-05 14:22:03
懐かしい姶良の地名でコメント投稿します、
我が群馬まで姶良火山灰が降って、地層の年代班別
になる黒い火山灰層があり 多分この層より深い所は
旧石器時代だったと思います。
昔、発掘作業ボランティアで聞き 雲母混じりの
黒い地層を見ました。
お邪魔しました
返信する
姶良市をWikiってたら→中津野用水路をポチっ→水口ゆきえの墓をググる→ブログ検索HIT!→コメント残します^ ^v (横浜在住平成15年三船小学校卒の野郎)
2016-01-12 05:04:27
私が水口ユキエを知ったのは、小学2か3年生の課外授業で墓(碑)はまだ移設される前でした。授業内容が確か校区巡りだった様な違ったような。まあ、そんなこんなで水口ゆきえの墓を初めて訪れた訳です。移設前は程良く生い茂る木々に囲われた中に墓があり、引率された先生の説明を木漏れ日に撃たれながら体育座りして話を聞いたのを覚えています。良いことしたのに頭が良くこの先何をするか分からんから大人達は彼女を恐れ殺害した。・・・・・はあ?と、漠然と子供ながらにぐらしい話だと思いましたよ。毎日宿題として義務化された日記はとことん不真面目だった私は常に1行2行。もしくは書かない!でもこの日の日記は違ったのです。熱く鉛筆を走らせ、「なぜ頭が良いと殺されるのか?ぼくは殺されたくないから、勉強なんてしません」的な論調で次のページに渡り熱く書き綴り、先生から返ってくる赤ペンのコメントの一部を今でも強烈に覚えています。「毎日このくらい書いて」
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