
★ 平泉寺白山神社の歴史をウィキペディアを使って、私なりにながめてみます。
平泉寺白山神社は、白山信仰の越前国側の拠点として、仏教僧の泰澄により717年に開山されたということです。そんな昔から、白山に登っていくルートのお祈りの場があったらしい。日本海側の地域はずっと先進地ではあったので、独自の文化を発展させる素地はあったはずでした。
1084年(応徳元年)に延暦寺の末寺、それから園城寺の末寺、また延暦寺側についたりと、ずっと引っ張りだこのモテモテだったそうです。京都から見ても大事な土地の越前の国の根拠地になってほしいところだったようです。
現在の感覚でいうと、かなりの山奥で、こんなところを抑えておくのがどれほどの意味があったのか、と考えてしまいそうですけど、でも、中世の時期に伊勢本街道があるとはいえ、山深い津市の美杉地区を根拠地とした北畠さんにも通じる、山岳都市ならではの存在意義があったのだと思われます。

今の感覚で、山奥の土地では領国経営が成り立たない、という見方はまちがいで、山奥の土地にこそ周辺部を支配していく力を持てた、ということがあったんでしょう。北畠氏、平泉寺、高野山、尼子氏の月山富田城、もっともっと類例はあるような気がします。
木曽義仲さんが北陸を南に走り抜けていった時も、義経さんが岩手の平泉にいた藤原秀衡さんを頼って北に向かった時も、避けては通れない大事なポイントでした。
平泉というのは、泰澄という方が白山にお参りに来た時、湧き出でる泉を見つけて、そこから平泉と名付けられ、現在は平泉寺(へいせんじ)というみたいですけど、由来・泉のある状況などから、今も意味のある名前ではありました。そして、この地域の立派なおうちの表札はどこもみんな「平泉さん」で、「ひらいずみ」なのか、「へいせん」なのかはわかりませんけど、ここにルーツのある人々が住む地域になっています。
コテコテの皇国史観の平泉澄(1895~1984)いう歴史の先生がおられましたけど、やはりこちらの出身だったそうで、白山神社の第4代宮司もされたりしたそうです。うちにも平泉先生の古い本があるけれど、後醍醐天皇さまとか、徹底的に正当化して書いておられます。私は、何だか矛盾を感じつつ最近慌てて読んだりしたんですけど、こちらの土地と関係がある方でしたね。
室町時代に入ると、越前守護の斯波氏の保護を受け勢いは盛んになったものの、1440年8月に失火によって全山が炎上します。けれども、10月には室町幕府から復興資金として北陸道七か国から棟別銭を徴収することを認められ、この時以降に石垣を多用するようになり、城塞化していったそうです。

火事をきっかけに、不安定な世の中で自分たちの領分を守るために武装化していく。東西1.2キロメートル、南北1キロメートルの範囲に、南谷3600坊、北谷2400坊、48社、36堂、6000坊の院坊を備え、僧兵8000人を抱える巨大な宗教都市ができていきます。それくらいの人々が生きて行けるだけの生活力を持っていたし、所有地や特権ももらっていたようです。北谷は普通のお坊さんで、南谷は妻帯する武装僧たちの生活スペースという住み分けもできていた。
戦国時代の終わりの信長さんの時代、越前はそのターゲットになります。姉川の戦いの後、当主の朝倉義景さんは従兄弟の朝倉景鏡さんに裏切られて自害、織田氏の支配するところになります。
国の管理は、元朝倉家臣の桂田長俊さんという人が行ったそうで、当然ながら彼は裏切り者です。ここでアンバランスな力関係が生まれ、信長さんは他方面の戦争で忙しく、越前を振り返る余裕のない時に、裏切り者である桂田さんなどは仲間割れ・内部闘争によりいなくなって、この空白地帯に入り込んできたのが加賀からの一向一揆だったそうです。(信長さんは、適当なヤツをトップに据えておいて、うまく行けばそれでいいし、うまく行かなかったら、すぐに取り替える、そんなつもりだったのかもしれません?)

そして、せっかく復興した平泉寺は、1574年、一向一揆軍が平泉寺に襲い掛かり、多くの僧兵は討ち死に・逃亡して平泉寺は全山を焼失し、すべては地中に消えてしまう。その後、顕海というお坊さんたちが再興に着手して、豊臣秀吉などの崇敬を受けて復興させた。江戸時代はその形のままに続き、明治になってお寺はすべて取り壊され、神社だけが残された、そういう土地だったそうです。

★ どうしても、明治政府は神仏分離をしてしまいました。今さら後戻りはできないですけど、私は神も仏もある世界に住んでみたい希望をもっています。
それは今の世では無理なのですけど、明治以降の百数十年は神と仏は分断されてしまってはいますが、その前の千年ほどの間は、いくら戦争があったとしても、僧が武装化していても、神と仏は同じ空間に存在していました。東大寺と手向山八幡、興福寺と春日大社はみんな仲良しの空間にありました。日本の各地で共存共栄のスタイルが育まれていたのです。
それが、明治という思想・道徳優先の国家に支配されることになって、国家は、過去の伝統をかなぐり捨てて、神仏を分断する国家になってしまいました。日本的ではない不自然な分離です。
そんな人工的な空間を誰が楽しいと思えるのか? それで神様は喜んでおられると思っているのか? 私にはそうは見えないのです。神様たちは何だか変てこなところに押し込められて、窮屈な思いをされているのではないか、いつか自然な流れになる時が来る、そう思いたいです。それはいつのことなのか。まあ、私はそういう世の中は見られないけれど、何百年後、もとの自然な形に戻っていたらいいな、と思います。