
奥さんのお友だちのナンバーワンの映画が「道 la strada」(1954)なんだそうです。というわけで、ハードディスクはいっぱいなのに、彼女はBSの映画を録画していました。見終わった後で、「暗い気分」とか言ってました。うちの奥さんは見たことがなかったんだろうか。たぶん、見たと思うんだけどな……。
妻も分かってるし、「暗い」と切り捨てる映画ではありませんでした。これでフェリーニさんの評価が決まったといえるくらいの、いろんな意味のこもるいい映画ではあったのです。フェリーニさんは三十代前半だなんて、もう信じられないくらい才能があったんだと、思いました。そんな若さで人生とは何かをスパツと切り出せるんだから、大したものでした(いや、若さは関係ないですね。)
私は、以前、突然書こうと思って書いたことがあったけれど、映画そのものは久しぶりに見たようです(十年ぶり? 二十年ぶり? もうわからないくらい久しぶりです!)。
懐かしい、というよりも、発見がいくつかありました。

映画の冒頭、妹たちがお姉ちゃんを呼びに来ました。その時「ローザが死んじゃったよ」というのでした。ローザって、誰なんだろうと思ってたら、なんとジェルソミーナさんのお姉ちゃんでした。
旅芸人のザンパノに連れて行かれて何年かして、お金持ちになって帰ってきたのかというと、どこで死んだのか、遺骨はあるのか、何もわからないまま、家の食い扶持(ぶち)減らしのため、ザンパノからの1万リラのお金で、ジェルソミーナはお姉ちゃんの代わりに買われてしまうのでした。
1万リラがどれくらいの感覚なのかわからないけど、映画の中で3リラでアイスクリームを買ってましたので、今のお金で300円だとしたら、日本円にすると100万円くらいになります。アイスクリームが200円の価値だとしたら、70万円くらい。とにかく人ひとりをそのまま買っていくお値段として高いのか低いのか……。
もちろん、安いとは思うけど、彼女の家としては、それだけの大金をくれる人はありがたいものではあったようです。なんという家庭なんだろう。
いや、日本だって1953年の大干ばつの時、東北では娘さんが売られていたということもあったみたいだから、それくらいみじめな社会は世界中にあったということなんでしょうか。

買われた存在ではあったけれど、奴隷としてではなくて、アシスタントの役割がジェルソミーナには与えられます。でも、そんなに甘いものではなくて、買った女なんだから、時々は夜の相手だってさせられるし、ザンパノが他の女とうまくやる時は、夜の間ずっと外に放り出されて、凍えていなくてはなりませんでした。ジェルソミーナは、ザンパノの付属物にさせられていた。
逃げ出すチャンスはあったし、実際に逃げたこともあった。でも、どこにも彼女の家はありませんでした。仕方なく、ザンパノとまた一緒に旅を続けることになります。どこにも住む家のないジェルソミーナは、自分と同じ境遇の男と奇妙な旅をしていました。
ある時、たまたまローマの興行主が設営するテントで、いろんな旅芸人が集合することができて、その中でザンパノの大道芸も披露されることになります。吸い寄せられるように旅芸人たちはテントに集まりました。
そこに、綱渡りの軽業師キジルシ(これが放送禁止用語だったとは、あとで調べて知りました。びっくりした。)からさんざんザンパノの芸にはケチがつけられ、怒ったザンパノは暴力事件を起こして一晩ブタ箱に入ります。
その夜、ひとりになったジェルソミーナに、キジルシは芸を教えたり、一緒に行かないかと誘ったり、新たな方向性を与えてくれる。心からジェルソミーナを迎え入れようとした。でも、ジェルソミーナはその誘いを断ります。
どうして? 優しい人だし、ザンパノみたいなチンケな芸ではなくて、しっかりとしたサーカスの芸をしていました。彼についていけばステップアップも可能だったはずです。それなのに、その道には進まず、雇い主のザンパノを選びます。
彼女にとって、乗り掛かった舟だから、その沈没までは乗り続けようと思ったのか。それともザンパノに愛を感じていたのか。
どうして人は、ステキな未来があるかもしれない道には進まず、今まで通りのデコボコ道みたいなのを選んでしまうのか。そういうものなのか。それは個人によって違うのか。愛があると(感じたら)、人は無条件にデコボコの、つまんなさそうな道に向かってしまうのか。
そうなのかもしれないな。

キジルシは言います。この石ころだって何かの役に立っている。もしこれが何かの役に立たないのなら、空の星だって、お月さまだって、総理大臣だって、何の役にも立たないと。
だから、こんなつまらない石ころだって、役に立っているのさと。
だから、ボクと一緒に旅をしようよ。いろんな芸を教えるし、キミとボクとで、楽しく過ごせるし、ボクはクルマだって持っているしさ。
と、熱くラブコールします。でも、ジェルソミーナは、だったら、私だって、暴力的なザンパノだって、役に立っているんでしょ! と、うまく言えないまま、ザンパノが出てくるのを警察の前で待つことにしました。仕方がないので、キジルシはジェルソミーナとお別れした。

修道女に私たちと一緒に、すべての関係を絶って、清らかな生活をしましょう、というお誘いも受けました。けれども、その時もジェルソミーナは提案を受け入れられなかった。ザンパノがあろうことか、修道院で盗みを働いていて、それが彼女たちに報告できないジェルソミーナは、とても修道女にはなれないと、別れの涙を流すのでした。なんと、罪深い私の人生、いくら祈りの生活を続けても、とても無駄だわ、とは言わないで、ただ涙だけを流すのでした。
(ジェルソミーナは自分のことばを持たないで育ってきた女の子だったんですね。そこがまたかわいそうだ! もっとずっと長く生きられたら、彼女自身のことばを言えたのではないかな。若い女の子の言えないこと・場面を何度も見せられます。でも、どういうわけか、彼女はザンパノだけは選んであげた!)
もう、何度もやり直すチャンスをお客は見せられ、何とかジェルソミーナ、自分の道を見つけて、楽しい人生を送って! とお客は祈っていました。そんなある時、パンク修理で停車していたキジルシに出会います。ふたたびチャンス到来とザンパノは喜びます。この前バカにされた借りを返しておかなくては! やられたらやり返せ、はザンバノの人生においては当たり前のことでした。
暴力的なザンパノは、何発かキジルシにパンチを食らわせます。そうしたら、打ちどころが悪かったのか、そのままキジルシは亡くなってしまい、ザンパノは事故に見せかけてそのまま逃走。ジェルソミーナはすべてを見ていたけれど、何もできないままザンパノについていくしかありませんでした。
嫌いではなかったキジルシが、たまたまなのか、心臓発作か、脳震盪か、とにかく何かで倒れた。死んだのかどうかも分からない。それを助けず、川の中に棄ててしまうザンパノと、見ているだけの自分。ものすごく罪の意識が沸き起こります。
修道女にもなれず、帰る家はない。やさしいことばを掛けてくれた男は、自分の主人であるザンパノに撲殺された。何もかもがうまくいかない。そうした精神的なショックが重なって、ジェルソミーナは、ザンパノと一緒にいることだけでイライラし、彼を拒否し、寝込んでしまいます。
あまりにその状態が悪いので、流石のザンパノも彼女を捨ててしまいます。数年が過ぎたある日、精神的に疲れ、憔悴しきったジェルソミーナが身元不明のまま亡くなったというのを知らされ、何にもできていないザンパノも、海岸で夜に泣くという映画でした。
ジェルソミーナは、彼女の生き方を変えられなかったし、ザンパノも見事に愚かで、つまらない無意味な旅芸人の人生を送っていました。

では、二人とも無意味な人生であったのか?
それはキジルシ(リチャード・ベイスハートというアメリカの俳優さん)が言ってたように、そのあたりの石ころと同じように、何かの役には立っている、という意味だけがじんわりお客に届くというものだったんですね。
久しぶりに知りました。私も石ころ、それは分かってたんだけど、どうしたらいいんだろう。
もちろん、誰かのために役に立つのかどうか、本人にはわからないけど、とりあえず何かはするだろうし、それは何かの役には立っているのでしょう。そして、誰かを愛し、それを支えにして、日々の生活に流されながら生きていくのであります。
