折りから、竈(かまど)のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火がさっと風を起して一尺あまり吹き出す。
「さあ、おあたり。さぞ御寒かろ」と云う。軒端(のきばた)を見ると青い煙りが、突き当って崩れながらに、微(かす)かな痕(あと)をまだ板庇(いたびさし)にからんでいる。
「ああ、好いい心持ちだ、御蔭(おかげ)で生き返った」
「いい具合に雨も晴れました。そら天狗巌(てんぐいわ)が見え出しました」
逡巡(しゅんじゅん)として曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた前山(ぜんざん)の一角は、未練もなく晴れ尽して、老嫗(ろうう)の指さす方にさんがん(漢字がないのでひらがなにしました)と、あら削りの柱のごとくそびえるのが天狗岩だそうだ。
二年前に書きかけて、放置していたものを見つけたので、無理やりに記事にしてみます。
漱石の「草枕」でした。好きな作品でした。好きなわりに、何にも憶えていない作品でもあります。今振り返ってみると、漱石先生の絵に関するコメントやらが気になります。
オッサンになって、やっと漱石先生の語る世界が少しだけ把握できるようになりました。中学・高校のころは、読み飛ばすのに必死で、中身とか、細かいことはすっ飛ばしていたようです。
このお話も、どこの山を上っているのか、比叡山なのか、熊本のお山なのか、気にもとめていませんでした。
余という主人公が、山を上っていました。途中で茶屋に入り、そこでおばあさんに出会いました。
余はまず天狗巌(てんぐいわ)を眺めて、次に婆さんを眺めて、三度目には半々に両方を見くらべた。画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂の媼(ばば)と、蘆雪(ろせつ)のかいた山姥(やまうば)のみである。蘆雪の図を見たとき、理想の婆さんは物すごいものだと感じた。紅葉(もみじ)のなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。
宝生(ほうしょう)の別会能(べつかいのう)を観るに及んで、なるほど老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。あの面は定めて名人の刻んだものだろう。惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もこうあらわせば、豊かに、穏やかに、あたたかに見える。金屏(きんびょう)にも、春風にも、あるは桜にもあしらって差し支(つかえ)ない道具である。
余は天狗岩よりは、腰をのして、手をかざして、遠く向うをゆびさしている、袖無し姿の婆さんを、春の山路(やまじ)の景物として恰好(かっこう)なものだと考えた。余が写生帖を取り上げて、今しばらくという途端(とたん)に、婆さんの姿勢は崩れた。[中略]
主人公は、絵のテーマを探しているようです。ここのおばあさんもすごい顔をしていたので、江戸時代の長澤芦雪のヤマンバだと勝手に想像しています。
すごいシワクチャのおばあさんだと思いつつも、その表情にひかれ、何とも優しいものを見つけることができた。でも、それは描く気がなくて、それよりもおばあさんを風景の中において、どんな絵が描けるのか、そういうことを想像している。
現実よりも、自分の二次元空間を優先させる人みたいで、こういう人だからこそ、漱石さんの小説では、現実の人間関係がうまく行かず、まわりをひっかきまわすことになるようです。とはいえ本人は唯我独尊で、まわりがどうあろうとも、自分の好きなことを優先させている。
漱石先生は、二十一世紀の若者像を先取りしておられた。そうした若者たちが、もどかしい思いをしながら生きていく様を、克明に書いた。だから、今も古典として残っている。残念ながら、若者にはハードルの高い作品になってしまっているけれど、絵本として読ませたら、意外と若者は乗るかもしれない。
そして、主人公がいいなと思った構図はすぐに現実からはなくなって、いいと思うのなら、それを自分自身の力で再現するしかなくなっている。さあ、主人公はどうするんでしょう。
余はまた写生帖(しゃせいちょう)をあける。この景色は画(え)にもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には衣装(いしょう)も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。
しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影(おもかげ)が忽然(こつぜん)と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。
ばあさんと源さんが、峠を越えていった花嫁さんたちの姿を話しています。語り草の花嫁道中だったようです。当然主人公に刺激を与え、すぐに現実からトリップして、イメージの世界が広がります。
この主人公は危ないというのか、今の若い人も、たいていは絵空事の中にいるような気がします。若い人にとって、現実は二の次の問題になりました。
お腹が痛かろうが、トイレに行きたかろうが、風が吹こうが、雨になろうが、たいていは無視してしまう生き方が定着しています。若い人にとって数少ない現実は、「お腹が空いた! 腹減った!」と「眠い! もう寝る!」くらいでしょうか。
主人公は、せっかく山路を行く花嫁道中はイメージできたのに、肝心の顔がイメージできない。……これは何だか象徴的です。
苦労してイメージできたら、衝撃的印象に残っているジョン・エバレット・ミレーの「オフィーリア」だった。私はあまりに刺激の多いあの絵は、ここに貼り付ける気持ちが置きませんでした。どちらかというと、毛嫌いしているといってもいいくらい苦手です。
かわりにシャーロットさんを貼り付けてみました。
これは駄目だと、せっかくの図面を早速取り崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立(どうぐだて)から奇麗(きれい)に立ちのいたが、オフェリヤの合掌(がっしょう)して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧(もうろう)と胸の底に残って、棕梠箒(しゅろぼうき)で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳く彗星(すいせい)の何となく妙な気になる。
「それじゃ、まあ御免」と源さんが挨拶する。
「帰りにまた御寄り。あいにくの降りで七曲(ななまが)りは難義(なんぎ)だろ」
「はい、少し骨が折れよ」と源さんは歩行(あるき)出す。源さんの馬も歩行(あるき)出す。じゃらんじゃらん。
主人公はどこへ行くのでしょう。いい絵は描けたのかな。
もう一度読み返さないといけないな。