甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

播州のひとびと、石仏

2023年05月16日 19時57分08秒 | 神様・仏様のおられるところへ
(播州育ちの柳田国男先生のふるさと、福崎町は姫路から少し山間部に入ったところにありましたっけ。もう9年前でしたね、ここに行ったの! 今年の夏は18キップでまた行けるでしょうか? 行けるといいけどなあ)

 姫路は、そんなに遠いところにあるわけではないけれど、なかなか行けないところでした。

 そこにも当然のように阪神ファンがいたり、お城を自慢したり、南北に長い商店街のアーケードを闊歩する人たちがとても楽しそうな町でした。街のまん中に立派なお城はあるし、博物館・美術館・文学館など、いろんなものを見学できそうなところです。西国三十三か所めぐりの霊場もあるし、すべてがそろっている町でした。

 海側にいけば、巨大な工場群もあるし、ひとつの世界がそこにありました。足りないものは何もなかった。

 そこからさらに行けば、同じような雰囲気の岡山の町、広島の町と続きますが、少しずつ雰囲気が変わって、山口県に入れば、そこはもう全然違う世界があります。

 岡山はほんの少しだけ関西の風が吹いてて、広島に入るともう違うんだろうな。

 だから、その違う空気は、山陽本線の明石を過ぎたところで空気が違うんでしょう。明石あたりから姫路・赤穂・相生という播州地方は、関西ではあるけれど、古代は完全に違う世界だったのでしょう。どんな集団がそこにいたのか、それは全く不明です。



 今日、NHK-BSの「こころ旅」を見ていたら、明石の方の稲美町というところから、加古川市の平荘町小畑というところの八ツ仏というところを目的地に走っていきました。

 この八ツ仏(やつぼとけ)さまは、石棺に彫られていました。阿弥陀さまやその他もろもろの仏さまで、鎌倉時代・南北朝・室町時代にこの地方でたくさん彫られた仏さまだったそうです。

 どうして、石棺に仏さまを彫ったのか、その背景がわかりませんでした。それで、加古川市あたりにどれくらい古墳があるのかと見てみたら、それはもう南北に流れる加古川の両岸の山のふもとに古墳群が連なっていました。

 古墳時代、三世紀、卑弥呼さんたちが活躍した時代に、この辺りにも支配する権力者がいて、亡くなるたびに古墳を築き、生活圏を流れる加古川は古墳だらけになっていきました。

 そういえば、群馬県も、埼玉県も、三重県の松阪あたり、伊賀地方など、何も語りはしないけれど、小高い山はいろいろあって、盗掘されている古墳もあるだろうけれど、お金にならないものなら、そのまま発見されて、大発見ということになってたりしましたね。

 三世紀から四世紀、五世紀、この島国はどんな人たちが何を考えて生きていたのか、どんな言葉をしゃべっていたのか、古墳は権力者と埴輪などの落書きでほんの少し人々の暮らしも見えたりするけれど、わからないですね。

 けれども、水量の豊かな川には人々は潤されていたでしょうね。そういう古代があった。それから千年ほど経過して、播磨地方は赤松家が何度か中央に出向いたり、歴史の表舞台に出た時がありました。やがて赤松家はなくなって、小さな領主たちがそれぞれに分かれて存在していた時に、信長さんの指示を受けてやってきた羽柴秀吉はそうした小勢力を全部吸収していった、あの土地でした。



 たくさんの古墳、盗掘され掘り出された石棺、これを中世の加古川に住む人々は信仰の対象としたそうです。

 ただそのふたを直立させたもの、直立させて石仏を彫りだしたもの、いろいろな形があったそうです。それは、浄土宗・浄土真宗の広がりによって、人々に仏様の形を与えるため、一番いいのは立派なお寺だけど、それだとあまりにシャチホコばってるし、もっとカジュアルな、日々お祈りできる形として、そこらにある古代の石棺に石仏を彫るというアイデアが生まれ、あちらこちらにできていったそうです。

 今の感覚で行くと、どうして古墳の石棺を外に出すのか、ましてやその石棺に仏様を彫るなんて、キリスト教の建物をイスラム風のモスクにするような、鮮やかなものではなくて、あまりにあり合わせ的な感じのするお祈りの道具です。

 でも、人々がそれを信じ、祈るのであれば、どんなものでも有り難いものに変化してしまうから、冷静にみるとそれは古墳から出土したもののはずなんだけど、地域の人にすれば、それは石仏さまなんですね。

 ところ変われば、祈りの形も変わるのだ、とつくづく思いました。





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