
以前、日帰り入浴の温泉、たぶん大台町のフォレストピアに行った帰りに、そこの地域の物産コーナーで紀伊長島のお菓子・カンカラコボシを見つけました。そして、そのパッケージにほれて、すぐに買って、すぐに自宅で食べました。よくわからないままに買って、紙の筒に入っているヨウカンを押し出して糸で切って食べるらしく、何だか妙な食べ方だと思いました。

パッケージの説明を読むと、佐藤春夫の小説「山妖海異(さんようかいい)」から名前をいただいたお菓子らしいのです。佐藤春夫さんは新宮生まれの作家だから、紀伊長島も通ったことがあるでしょうし、同じ熊野というくくりで、紀伊長島を題材にしてもおかしくはないのです。ただ、どうして新宮市・熊野市・尾鷲市ではなくて、紀伊長島町なのか? いろいろな経緯があるのだと思われます。でも、都市部ではなくて、山が海へと迫り、比較的大きな川が海へと注いでいるこの町は、漁師町だし、熊野詣での人たちが初めて熊野世界への第一歩となる町なので、それなりに題材が転がっていたのかもしれません。
そうした民話的な内容のお話なのです。少しずつ区切って、読んでみましょう。
★ 山妖海異 佐藤春夫
秋風や酒肆(しゅし)に詩うたふ漁者樵者 蕪村
熊野という地方は、古代では、もと一国であったという。西は有馬皇子の結ぶ松で知られた岩代(田辺市に近い切目川と南部川との中間あたりにある)から、東は伊勢と国境を接して、荷坂峠(にさかとうげ)から花板峠を経て大台原山(おおだいがはらさん)の稜線を吉野川の源のあたりまでつづいていた。
すなわち現に和歌山県の東牟婁(ひがしむろ)と西牟婁、三重県の南牟婁と北牟婁という風に、古(いにしえ)の熊野の国は今、新宮川によって両断されて二県にわたる東、西、南、北、牟婁の四郡の地なのだから、地域はそう狭いというのでもないが、国の大部分は深山幽谷(しんざんゆうこく)で海岸にも河川の流域にも平地らしいものはほとんど見られないから、民は心細げに山角と海隅とに居を営んで、魚介禽獣(ぎょかいきんじゅう)や山の樹や海の草より人間の少ない世界である。だから一国とするには足りない小国と見て、地つづきの同じ小国木の国と合併して一国とし、紀伊と名づけられ、熊野は終にその一隅になってしまった。

さあ、どうして蕪村さんが関係があるのか、これもイマイチ分かりませんが、まあ、熊野には漁師さんと樵(きこり)さんがたくさんいて、みんなお酒を飲んでお祭りをしたり、女の人を追いかけたり、そんなことをしているね、という意味で引っ張ってきたんでしょうか。作者は熊野地方の説明から入りました。
地図を開けば明らかなように、海は山に迫り、山は海を圧してこげ茶色の山地と藍色の海との外にはおおよそ七十里に及ぶ海岸線にも多くの河川の流域にも、平野のしるし緑色はごく細く断続して見られるばかりである。こういう地勢をほかで見つけようとすると裏日本では越後と越中との国境のあたりに地域は比較にならぬほど狭いがそんな場所があると見たのが、名に聞く親不知(おやしらず)であった。世界的には喜望峰(きぼうほう)のあたりが、どうやらそんな地勢らしい。

新潟の親不知と地形的には似ているだろうという指摘です。確かに、国道42号線の荷坂トンネルを抜けると、崖っぷちに休憩スペースが作られていて、今ではそこにマンボウの風見鶏みたいなのが立っていますが、確かに山また山、海はその山をがっしり捕まえていて、人が住めそうな平地はまるでなく、はるかかなたまで海の山しかないんだよなと思ってしまいます。それほどに異国へ来たという感じにさせられる風景なのです。そして長く陰鬱な山の連続で、息が苦しくなるような感じです。読んでいても、少し退屈な感じです。

折口信夫さんはいつぞや、熊野では伊勢寄りの土地が景色がよいようですと言っていたが、さもあろうと思えた。志摩半島の西側につづく熊野の西端(これは実は東端ではないかと思われます)北牟婁郡には海山町という町名があるのを見ても知れる通り、海と山との最も近く迫り合っている場所で、それが西へ行くほど激しくなって荷坂峠の麓にある熊野最西端の町、長嶋あたりでは海と山との一番遠いところでもせいぜい十五メートルあるなしだという。
こういう地域だけに伊勢の方から入るとすれば山また山の山道が険しいし、東の方からすべて荒海を渡らなければならないため、海山に遮られて交通は不便を極め、現に紀伊半島を一周して名古屋から大阪に出ようとする鉄路も、たしかこのあたりのトンネル工事に難渋して停滞している。
確かに、1959年にやっと紀伊半島の東側の紀伊長島・尾鷲・熊野・新宮のルートがやっと開通するわけで、このお話を佐藤春夫さんが書いた頃にはまだ全通していなかった。ということは、新宮などに入るときには、大阪から和歌山まわりで行くか、鳥羽などから船を利用するか、またはテクテク歩くか、そういう方法しかない地域だったのです。

こういう場所では海や山も天然のままの姿をよく保っているし、人間の生活や性情も古(いにしえ)の風を失わないでいるものである。ただ農耕の地は無いから、住民は漁者(りょうしゃ)でなければ樵者(しょうしゃ?)というわけで、彼らの語り伝える話題も海や山にだけ限られ、それも怪異の談が多いのは彼らも世の中から離れた日常生活の単調に堪えないからであろう。
海妖と山異との間に、彼らはわずかにその生活感情をいくらか託しているが、それとても主題は生の不安と死の恐怖とのいかにも原始的なもので、この地方の漁者樵者は、さながらに朴訥(ぼくとつ)な古代人のおもかげをとどめているのは彼らの民話によって見るべきである。

特殊な地域ではあるので、独特の民話や文化を残していて、それらの中からお話を拾い出したいというスタンスで小説が始まろうとしています。これくらい地域の特色を語らないと、物語の中に入っていけないような、自分たちを語るには、自分たちの地域の特殊性も分かってもらいたい、熊野人独特の思い入れみたいなのが感じられます。
都会の人には、何をこの人こだわっているの? という感じなのかもしれませんが、熊野人にはまずオレたちの地域を知ってもらいたい。少し話を読んでみようという気分に私はなってきました。
それでは続きはまたこんど!


★ 県立図書館で本を借りて、コピーを取って、それを打ち込んだのは1年前でした。ご苦労様なことです。でも、こんなふうにして発掘していかないと、どんどん地域の文学は古びてしまうし、どんどん開発しなきゃいけませんからね。
なるべく頑張ります。(2015.11.7 くもり、夜には雨)

パッケージの説明を読むと、佐藤春夫の小説「山妖海異(さんようかいい)」から名前をいただいたお菓子らしいのです。佐藤春夫さんは新宮生まれの作家だから、紀伊長島も通ったことがあるでしょうし、同じ熊野というくくりで、紀伊長島を題材にしてもおかしくはないのです。ただ、どうして新宮市・熊野市・尾鷲市ではなくて、紀伊長島町なのか? いろいろな経緯があるのだと思われます。でも、都市部ではなくて、山が海へと迫り、比較的大きな川が海へと注いでいるこの町は、漁師町だし、熊野詣での人たちが初めて熊野世界への第一歩となる町なので、それなりに題材が転がっていたのかもしれません。
そうした民話的な内容のお話なのです。少しずつ区切って、読んでみましょう。
★ 山妖海異 佐藤春夫
秋風や酒肆(しゅし)に詩うたふ漁者樵者 蕪村
熊野という地方は、古代では、もと一国であったという。西は有馬皇子の結ぶ松で知られた岩代(田辺市に近い切目川と南部川との中間あたりにある)から、東は伊勢と国境を接して、荷坂峠(にさかとうげ)から花板峠を経て大台原山(おおだいがはらさん)の稜線を吉野川の源のあたりまでつづいていた。
すなわち現に和歌山県の東牟婁(ひがしむろ)と西牟婁、三重県の南牟婁と北牟婁という風に、古(いにしえ)の熊野の国は今、新宮川によって両断されて二県にわたる東、西、南、北、牟婁の四郡の地なのだから、地域はそう狭いというのでもないが、国の大部分は深山幽谷(しんざんゆうこく)で海岸にも河川の流域にも平地らしいものはほとんど見られないから、民は心細げに山角と海隅とに居を営んで、魚介禽獣(ぎょかいきんじゅう)や山の樹や海の草より人間の少ない世界である。だから一国とするには足りない小国と見て、地つづきの同じ小国木の国と合併して一国とし、紀伊と名づけられ、熊野は終にその一隅になってしまった。

さあ、どうして蕪村さんが関係があるのか、これもイマイチ分かりませんが、まあ、熊野には漁師さんと樵(きこり)さんがたくさんいて、みんなお酒を飲んでお祭りをしたり、女の人を追いかけたり、そんなことをしているね、という意味で引っ張ってきたんでしょうか。作者は熊野地方の説明から入りました。
地図を開けば明らかなように、海は山に迫り、山は海を圧してこげ茶色の山地と藍色の海との外にはおおよそ七十里に及ぶ海岸線にも多くの河川の流域にも、平野のしるし緑色はごく細く断続して見られるばかりである。こういう地勢をほかで見つけようとすると裏日本では越後と越中との国境のあたりに地域は比較にならぬほど狭いがそんな場所があると見たのが、名に聞く親不知(おやしらず)であった。世界的には喜望峰(きぼうほう)のあたりが、どうやらそんな地勢らしい。

新潟の親不知と地形的には似ているだろうという指摘です。確かに、国道42号線の荷坂トンネルを抜けると、崖っぷちに休憩スペースが作られていて、今ではそこにマンボウの風見鶏みたいなのが立っていますが、確かに山また山、海はその山をがっしり捕まえていて、人が住めそうな平地はまるでなく、はるかかなたまで海の山しかないんだよなと思ってしまいます。それほどに異国へ来たという感じにさせられる風景なのです。そして長く陰鬱な山の連続で、息が苦しくなるような感じです。読んでいても、少し退屈な感じです。

折口信夫さんはいつぞや、熊野では伊勢寄りの土地が景色がよいようですと言っていたが、さもあろうと思えた。志摩半島の西側につづく熊野の西端(これは実は東端ではないかと思われます)北牟婁郡には海山町という町名があるのを見ても知れる通り、海と山との最も近く迫り合っている場所で、それが西へ行くほど激しくなって荷坂峠の麓にある熊野最西端の町、長嶋あたりでは海と山との一番遠いところでもせいぜい十五メートルあるなしだという。
こういう地域だけに伊勢の方から入るとすれば山また山の山道が険しいし、東の方からすべて荒海を渡らなければならないため、海山に遮られて交通は不便を極め、現に紀伊半島を一周して名古屋から大阪に出ようとする鉄路も、たしかこのあたりのトンネル工事に難渋して停滞している。
確かに、1959年にやっと紀伊半島の東側の紀伊長島・尾鷲・熊野・新宮のルートがやっと開通するわけで、このお話を佐藤春夫さんが書いた頃にはまだ全通していなかった。ということは、新宮などに入るときには、大阪から和歌山まわりで行くか、鳥羽などから船を利用するか、またはテクテク歩くか、そういう方法しかない地域だったのです。

こういう場所では海や山も天然のままの姿をよく保っているし、人間の生活や性情も古(いにしえ)の風を失わないでいるものである。ただ農耕の地は無いから、住民は漁者(りょうしゃ)でなければ樵者(しょうしゃ?)というわけで、彼らの語り伝える話題も海や山にだけ限られ、それも怪異の談が多いのは彼らも世の中から離れた日常生活の単調に堪えないからであろう。
海妖と山異との間に、彼らはわずかにその生活感情をいくらか託しているが、それとても主題は生の不安と死の恐怖とのいかにも原始的なもので、この地方の漁者樵者は、さながらに朴訥(ぼくとつ)な古代人のおもかげをとどめているのは彼らの民話によって見るべきである。

特殊な地域ではあるので、独特の民話や文化を残していて、それらの中からお話を拾い出したいというスタンスで小説が始まろうとしています。これくらい地域の特色を語らないと、物語の中に入っていけないような、自分たちを語るには、自分たちの地域の特殊性も分かってもらいたい、熊野人独特の思い入れみたいなのが感じられます。
都会の人には、何をこの人こだわっているの? という感じなのかもしれませんが、熊野人にはまずオレたちの地域を知ってもらいたい。少し話を読んでみようという気分に私はなってきました。
それでは続きはまたこんど!


★ 県立図書館で本を借りて、コピーを取って、それを打ち込んだのは1年前でした。ご苦労様なことです。でも、こんなふうにして発掘していかないと、どんどん地域の文学は古びてしまうし、どんどん開発しなきゃいけませんからね。
なるべく頑張ります。(2015.11.7 くもり、夜には雨)