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甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

ウサギさんの献身 Sacrifice

2022年11月26日 09時54分45秒 | 一詩一日 できれば毎日?

 谷川俊太郎さんが編んだ岩波文庫の「中勘助詩集」(1991)を読んでいます。こんなのを見つけました。中勘助さんは、1885年に岐阜の今尾藩士の子どもとして東京で生まれ、1965年に81歳で亡くなった小説家・詩人です。代表作は「銀の匙」で1912年から書き始め、1921年に刊行されています。漱石先生がバックアップされていて、推薦をいただいて朝日新聞に連載されたそうです。漱石先生が拾い上げた若き才能でした。

 兎のお話という、1948年頃(勘助さんは69歳くらい)に書かれた詩です。

   兎のお話

わたしの好きな子供たち
兎のお話ししたげよか
昔むかし天竺(てんじく、今のインド)に
お猿と狐がをりました
その仲よしの友達に
かはいい兎がをりました
いつでもいつしよに睦しく
とんだりはねたりしてました

 さあ、どうなるんでしょう。昔話風に始まりました。三匹が何か事件を起こしますか。それとも別の要素がからみますか。女の人? いえいえ、おじいさんがそこに加わります。イジワルおじいさんなんでしょうか?

ところへひとりのお爺さん
ひよつこり訪ねていふことに
こんちは こんちは 皆の衆
近頃御機嫌いかがです
みんなはいつでも仲よしで
広い野原や森のなか
とんだりはねたりしてゐます
そんならわたしも仲間入り
なかよくいつしよに遊びましよ
それにはおなかがすきました
そこらに御馳走ないでしよか

 みんな仲良く暮らしていたのに、人間はいつも余計なことを自然に対してしているようです。人間でありながら私は悲しくなります。

 みんなと仲良くしたいなら、みんなと食べ物を探せばいいのに、無垢な生き物たちから食べ物を奪おうというのでしょうか。ああ、何とずるいことなのか。何と平和を乱す生き物なんでしょう、人間というのは!



暫くお待ちよお爺さん
みんなでさがしてあげませう
そこでめいめい手をわけて
お猿はするする木にのぼり
おいしい果物とつてくる
狐は近所の川へいて
お魚一匹とつてくる
兎はなんにもとれないで
あつちへいつてはぴよんぴよん
こつちへいつてはぴよんぴよん
爺さんたうたう腹を立て
お猿と狐は悧口者(りこうもの)
おまいはひとりやくざ者
さつさと冥土へいくがいい

 みんな一生懸命に仲間のために何かをしようとした。ウサギは、何かアイデアはあったのかもしれないけれど、人間にどんな食べ物をあげたらいいのか、うまく考えがまとまらなかったのです。そういう懸命さをくむべきなのに、おじいさんはウサギに対して「やくざ者(役に立たないもの)」などと切り捨ててしまうなんて、だから人間なんかと一緒にいると、すぐに他人を評価したがるし、区別したがるし、グループ分けしたがるし、ろくなことはないのです。

 挙句の果てに「冥土に行け(死んでしまえ)」だなんて、とんでもない言葉を浴びせます。さあ、仲良しのみんなはどうするんでしょう。



やさしい兎のいふことに
おぢさん腹立ち御尤(ごもっとも)
わたしはほんとにやくざ者
猿さん助けて狐さん
たき木をあつめてくださいな
それそれおぢさん火をつけて
おいしい御馳走いたしましよ
いふまに兎はぴよんぴよんぴよん
焚火へ飛び込み死にました
お猿と狐が仰天し
尻餅ついてゐるうちに

 ああ、ウサギさんが死んでしまった。たいていの生き物は人間に殺されていく、そういう教訓話ですか? もう嫌だと、ウンザリしてしまいます。

 一応フォローはあるはずですが、それでも、私は後味が悪い気がしています。どうなるの?

爺さんすつくと立ちあがり
天帝釈(てんていしゃく)と現れて
ぜんざい善哉(ぜんざい)この兎
誉れを世世にのこさんと
月のおもてにさらさらと
兎の絵をぞかきたまふ
それから兎はぴよんぴよんぴよん
十五夜お月様みてはねる

 名誉なことだからと、天帝さま(お爺さんは天帝さまで、すべての生き物の命をにぎっておられる方でした。いや、そうだとしても、できれば、生き物たちを試してほしくなかったけれど、生き物たちはいつも試されているのかもしれません)が白い月にサラサラとウサギの絵を描いてくださったそうです。

 おかげさまでウサギの名誉は残りました。誰かがひもじい時に、自らの命を削って誰かを助けたウサギ、その行為は尊いものとされています。

 お話としてもオチはつきました。けれども、私は後味の悪さは感じています。そんなにまでして生き物は人間に尽くさなければならないのか?

 まさか、そんなことはないと思うけれど、誰かは誰かのために身を削ることはあるのだと思われます。今もウクライナで、ミャンマーで、カタールで、世界中で、誰かの犠牲によって誰かは生きながらえていることがありそうです。

 それを放置しておくべきなのか、簡単には私たちはそれらの事件を解決できないし、私たち人間はいつもそうした問題を抱えながら、全体として生きていくものだと思うのですけど、それはできれば犠牲は少なくして欲しいし、そのための努力はするべきなのです。そう思うんだけど、私にはアイデアがなくて、ぴょんぴょんぴょんとするだけなのかもしれないな……。



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