
日本の街道には車が通っていない。これが明治以前の日本交通史上の一特色である。
ヨーロッパの小説を読んでいると、都市ではもとより、チロルの山道を行く駅馬車の話などがよく出てくる。平安王朝時代には、貴族の乗物として牛車(ぎっしゃ)がある。江戸時代でも、将軍は、牛車の宣旨(せんじ)をうける例になっていた。将軍が牛車を乗りまわすということはない。もとより馬車に乗るということもない。
牛車や馬車が一般の乗物にならなかったばかりではない。それらが荷物の運搬に用いられることさえまれであった。京都や伏見・大津などでは牛車が荷物運送に使用され、大坂では、べか車、江戸では大八車や牛車が用いられるようにはなったが、街道では車は用いられないのが原則であった。京都と伏見の間に用いられたのなどは例外的なことであった。
★ ここまで、児玉幸多先生の本からの引用です。
どうして日本の街道でクルマは利用されなかったんだろう。急な坂道も多いし、クルマを押したり引いたりの道のりも大変だから、人が背負える範囲での流通であったということなのかなあ。
そうか、日本って、かなり狭い国ですから、人が歩くだけでそこそこ流通が可能であり、物の移動はすべて船にお任せしていたのかもしれないです。
というか、それくらい物の輸送は船だ! という強い固定観念があったのかもしれないな。
たくさんの大きな荷物は馬で積むにも限界はあるし、そもそも馬は短距離はいいけれど、長距離を移動するということがなかったんでしょうか。

江戸時代では、街道は馬や人足が、人を運び荷物を運ぶのが基本の体系になっていた。宿場や助壕(すけごう)が人馬を提供するという制度によって、近世の交通の根幹がつくりあげられていた。車が使用されれば、馬方や人足に大きな損害を与えるから、幕府としては、車での運送を許すわけにはいかない。江戸では大八車が使用されてから、馬持が大打撃をうけて、馬の数が三分の一に減少した例もある。
街道での車の使用は、弘化三年(1846)に、中山道の今須・垂井両宿で願い出たのに対して、嘉永二年(1849)十月になって、江戸市中および五街道での馬車の通行が許されている。その直後の慶応三年十二月には、江戸幕府も崩壊したから、江戸幕府時代には、街道での馬車の通行はほとんどなかったと考えてよいであろう。
★ そうですか、クルマを禁止していたのは幕府だったのか。参勤交代で大名たちが江戸への往復にたくさんのお金を使うのはOKだけど、クルマは使用禁止だったのか。すべて人力で移動しなくてはならないし、大きな荷物でも、人力で運ぶことにしていた。
それくらい人件費をかけさせていたということですね。クルマで単純に移動することは許されていなかったようです。
明治になると、人力車・荷車・馬車などが街道を往来するようになる。明治五年七月には宿駅制度も廃止され、新たにできた陸運会社が人馬の継立をするようになる。ここに問題が生じた。江戸時代には、街道の管理・修繕・掃除などは、沿道の諸村に割り当てられていて、通常の場合は村費、といっても、労力を無償で提供する形で維持されていた。また大きな修理には、幕府が費用を出した。数年に一度ぐらいではあったが、幕府が四分の三を負担し、民費は四分の一程度であった。中山道は文久元年(1861)に修繕がおこなわれている。
★ 児玉先生、問題ってなんですか? 次のところでお話ししてくれるわけかな……。

ところが明治になり、車馬織るがごとき状況になって、道路は破損し、旅行者は悪路に苦しみ、運輸の困難はいうばかりもない有様になった。これを何とかしなければならない。埼玉県では、明治五年九月、各区戸長を県庁に召集して、道路修繕のことを議題として、意見を徴したのである。新しい体制の苦しみは、こうした道路の上にもはっきりとあらわれていた。
★ 道路から日本の歴史を見てみたら、やはり明治のところで大きな変革点があったようです。そして、私がイメージする街道は、やはり江戸期の人びとの往来していたものでした。その江戸期の街道は、明治になり、流通の仕方が変わって、大きく荒れたらしい。それをどうするか? それが明治政府に科せられた1つの課題だったようです。
その延長線上に今の私たちの「道」が存在し、「道」は政府や自治体の権限で作られるものになりました。「道」は公のものであり、公の機関は税金によってそれらを管理・維持することになりました。
道をつくり、守るということは莫大な権益がからむことになったわけですね。
江戸期は、人だけなので、地域の力で守るものだった道でしたが、それが変わってしまった。政府や国家によって管理するものになったのでした。
ヨーロッパの小説を読んでいると、都市ではもとより、チロルの山道を行く駅馬車の話などがよく出てくる。平安王朝時代には、貴族の乗物として牛車(ぎっしゃ)がある。江戸時代でも、将軍は、牛車の宣旨(せんじ)をうける例になっていた。将軍が牛車を乗りまわすということはない。もとより馬車に乗るということもない。
牛車や馬車が一般の乗物にならなかったばかりではない。それらが荷物の運搬に用いられることさえまれであった。京都や伏見・大津などでは牛車が荷物運送に使用され、大坂では、べか車、江戸では大八車や牛車が用いられるようにはなったが、街道では車は用いられないのが原則であった。京都と伏見の間に用いられたのなどは例外的なことであった。
★ ここまで、児玉幸多先生の本からの引用です。
どうして日本の街道でクルマは利用されなかったんだろう。急な坂道も多いし、クルマを押したり引いたりの道のりも大変だから、人が背負える範囲での流通であったということなのかなあ。
そうか、日本って、かなり狭い国ですから、人が歩くだけでそこそこ流通が可能であり、物の移動はすべて船にお任せしていたのかもしれないです。
というか、それくらい物の輸送は船だ! という強い固定観念があったのかもしれないな。
たくさんの大きな荷物は馬で積むにも限界はあるし、そもそも馬は短距離はいいけれど、長距離を移動するということがなかったんでしょうか。

江戸時代では、街道は馬や人足が、人を運び荷物を運ぶのが基本の体系になっていた。宿場や助壕(すけごう)が人馬を提供するという制度によって、近世の交通の根幹がつくりあげられていた。車が使用されれば、馬方や人足に大きな損害を与えるから、幕府としては、車での運送を許すわけにはいかない。江戸では大八車が使用されてから、馬持が大打撃をうけて、馬の数が三分の一に減少した例もある。
街道での車の使用は、弘化三年(1846)に、中山道の今須・垂井両宿で願い出たのに対して、嘉永二年(1849)十月になって、江戸市中および五街道での馬車の通行が許されている。その直後の慶応三年十二月には、江戸幕府も崩壊したから、江戸幕府時代には、街道での馬車の通行はほとんどなかったと考えてよいであろう。
★ そうですか、クルマを禁止していたのは幕府だったのか。参勤交代で大名たちが江戸への往復にたくさんのお金を使うのはOKだけど、クルマは使用禁止だったのか。すべて人力で移動しなくてはならないし、大きな荷物でも、人力で運ぶことにしていた。
それくらい人件費をかけさせていたということですね。クルマで単純に移動することは許されていなかったようです。
明治になると、人力車・荷車・馬車などが街道を往来するようになる。明治五年七月には宿駅制度も廃止され、新たにできた陸運会社が人馬の継立をするようになる。ここに問題が生じた。江戸時代には、街道の管理・修繕・掃除などは、沿道の諸村に割り当てられていて、通常の場合は村費、といっても、労力を無償で提供する形で維持されていた。また大きな修理には、幕府が費用を出した。数年に一度ぐらいではあったが、幕府が四分の三を負担し、民費は四分の一程度であった。中山道は文久元年(1861)に修繕がおこなわれている。
★ 児玉先生、問題ってなんですか? 次のところでお話ししてくれるわけかな……。

ところが明治になり、車馬織るがごとき状況になって、道路は破損し、旅行者は悪路に苦しみ、運輸の困難はいうばかりもない有様になった。これを何とかしなければならない。埼玉県では、明治五年九月、各区戸長を県庁に召集して、道路修繕のことを議題として、意見を徴したのである。新しい体制の苦しみは、こうした道路の上にもはっきりとあらわれていた。
★ 道路から日本の歴史を見てみたら、やはり明治のところで大きな変革点があったようです。そして、私がイメージする街道は、やはり江戸期の人びとの往来していたものでした。その江戸期の街道は、明治になり、流通の仕方が変わって、大きく荒れたらしい。それをどうするか? それが明治政府に科せられた1つの課題だったようです。
その延長線上に今の私たちの「道」が存在し、「道」は政府や自治体の権限で作られるものになりました。「道」は公のものであり、公の機関は税金によってそれらを管理・維持することになりました。
道をつくり、守るということは莫大な権益がからむことになったわけですね。
江戸期は、人だけなので、地域の力で守るものだった道でしたが、それが変わってしまった。政府や国家によって管理するものになったのでした。