甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

山妖海異 その7 弥太郎さんの話

2014年12月24日 21時20分41秒 | 三重の文学コレクション
 山にもいろいろな話があるが大杉村の弥太郎というのが父子で猟師の名人として話を多く残している。大杉村は伊勢の国であるが、この父子(おやこ)の名猟師を、熊野人はもと熊野の山地から伊勢に行った人と言いたがっている。

 この弥太郎(というのは主役はいつも子の方である)がある時狐のばけたものに相違ないと思う旅人を一人打ち取ってみると、思いきや死がいは狐ではなく依然として人間であった。弥太郎は自分の眼力の及ばなかったのを恥じるばかりか、人殺しの悪名に困り切って父の弥太郎に打ち明けると、親はそんな場合は大神宮さまのお札をさしつけて見よ、必ず正体を現すものだと教えた。

 親の教えに従って大神宮のお札をさしつけてみると、それでもややしばらくは人間の形でいたのがおもむろに正体を現して九尾の狐であったというのはどの地方にもありそうな話だが、地域が伊勢に近いだけに熊野権現ではなく伊勢の大神宮の神威をいうところがおもしろい。

 弥太郎がまだ若くて父子そろって猟に出たところ、一日谷川を渡る猪を見つけて撃とうとする子に父は岸に上るまで待てといって、猪の流れを渡って上る岸のあたりを指し示して射程を用意させ、猪が対岸に上り身ぶるいして水をはじくところを撃てと命じたという。



 またある時、山深く迷い入って日のくれた弥太郎が森の奥の一つ家に一夜の宿りを借ろうとしのび寄ってうかがうと、三本の枝を組み立てた上にのせた火皿に灯心のか細い炎をたよりに糸車を繰ったまま、振り返って冷ややかに、

「弥太郎かい。よく打ったの。わしを撃とうとなら、金の弾丸(たま)を打って来やれ、ほかのものでは利かぬてや」
 とほざいたので弥太郎は口惜しさを父に訴えると父は一笑した。

「何の金の弾丸も何も入るものか火皿の上の炎を打って消しさえすればよい」

 と父に教えられて弥太郎は再び山中に入って大台ケ原のぬしといわれる古狐を退治して来て以来父にも劣らぬ猟師との名をとっていた。

 そのころ弥太郎の朋輩(ほうはい)に猪が撃てないため一人前の狩人で通用せず、みんなから笑い者にされるのを口惜しがって猟師よりはいっそ狐になって思う存分の悪業を楽しみ、ついでの事に猟師どもを愚弄(ぐろう)してくれようといっていた三太郎という奴がいたが、そのうち諸所方々(しょしょほうぼう)の里や在所を神出鬼没に荒し回る容易ならぬわる狐が横行してどの猟師にも手に負えないというので退治してくれと頼まれた弥太郎は、これはてっきり三太郎が狐になったものと知って命ばかりは助けておき、折りを見て生け捕って改心させようと父に相談すると、

「では先ずびっこにしておくがよい。悪事をしても思いのままには逃げられず人につかまっていつも存分の仕置きに合うように」

 というのでびっこにするにはくるぶしをねらって足頸(あしくび)から尖を無くしたがよかろうかと問うと、父は足首なしで達者に駆け回っていた狐を見たこともあるから足首では駄目だから膝の折れ目を打ち砕く工夫がよかろうというので弥太郎は父の授けた方法に従った。その後しばらく三太郎狐はどこにも出歩かず、弥太郎の名はますます上がった。


★ 表現に問題があるところが見つかりましたが、昔のお話はこういうものなんでしよう。それにしても、人間が化け物キツネになるなんて、不思議な話です。そういうことがお話としてありだったのでしょうか。何だか信じられません。佐藤さんの創作かな……。こうした変身譚って、意外とたくさんあるのかもしれませんが、少しビックリしました。
 


 ある時、江の浦の漁師が那智の勝浦へ湯治に行っていると、浴槽で膝の関節に鉄砲傷のある変な男を見かけて伊勢の山の者とだけで詳しく言わないのは、てっきり三太郎狐とけどったが、まさか片脚で山づたいをここまで来ることもできまいがと半信半疑、試みに弥太郎の噂を出してみると、怪しい男は顔色を変えながらも、

「天下におれのおそろしいのは弥太郎ひとり。あいつはおれを生かそうと殺そうとままじゃ。今度は悪くすると殺されよう」

 と、閉じ込めた湯の気を出すために一寸ばかり隙けてあった浴室の窓を、湯気のようになってすり抜けた山の方へ消えて行った。

 鉱泉ぐらいはあっても湯治場らしい湯治場もないから、北牟婁らしくもないこの話の舞台は那智の勝浦になっているばかりか、話のもとも東牟婁(ひがしむろ)のものではなかろうか。というのは、東牟婁にも名こそ違うが弥太郎に相当する猟師の名人がいて高い杉のてっぺんに休んでいた天狗の片肘を射(う)った。後に天狗が湯治場の客になっているところを人に見つけられ、三太郎狐と同じようなセリフを残すと、いきなり雲を突くような大男となって浴室の天井を頭で突き破り、こわれ残った壁はひとまたぎに行方知れずなって、あとは沛然たる山雨が到ったという話があるのだから。



 どちらにしても今日の紀南の堂々たる構えの温泉宿ではふさわしくもないが、山かげや川沿いにほんの掘立小屋が設けられていた頃の湯治場の出来事とみれば多少の感じがないでもあるまい。

 しかし総じて弥太郎話のシリーズは伝説や民話としての純朴さが無くて江戸末期の大衆作品らしいにおいが強く、海の民話のような原始的な深山の気の乏しいのがあきたらぬ。

 同じく山の話でも、空腹で山に入ると「たり」という狐狸の類に憑(つ)かれるとか、狐狸(こり)の類はすべて足の拇指の爪のさきから入るものだなどは、断片的だが何だか山中の生理のようなものを伝えていて面白いが同じように山中の心理を伝えて、面白いのは「さとり」の話であろう。



★ という形で、次は「さとり」の話になります。これは人の名前? 何なんでしょうね。


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