次の文章は、特撮監督デザインの成田亨さんの「メカと少年時代」に関する文章です。わからないことがいくつかあるので、調べながら味わいたいと思います。
とりあえず紫電改って、日本の戦闘機ですね。緑色? グレー? どっちだったんだろう。
小学生の頃、私は外で遊ぶか家で軍艦を描くか、模型飛行機を作るかの毎日でした。甲子園の近くの武庫川に住んでいましたが、武庫川を下ると川西の飛行機工場があって、河口に浮かんでいる一式大艦をよく友だちと見にゆきました。一式大艦が二式大艦に変わった頃は驚きました。
父は輸送船の船長で戦争に行きっぱなしでした。伯父の山田幸五郎という人は、東大、グラスゴオ大を出て海軍に入り日本の光学の草分けといわれた人で海軍少将でした。従兄の成田金彦はよく家へ「帰ってきたよ」といって来たものでしたが、特別攻撃隊護皇隊艦攻隊の隊長、として彗星艦攻に乗って85機を指揮して沖縄に散りました。
昭和19年(1944)、甲陽中学(今の甲陽学院)2年生の私も学徒動員で工場へ行きました。浜甲子園の松林の向こうの川西飛行場の滑走路からは紫電改が飛び立っていました。工場での私の仕事は高速度鋼の金属板を削ってゲージを造ることでした。このゲージは何のどこに使うのか誰も教えてくれません。私は勝手に紫電改のゲージだと自分できめて毎日削りました。轟音と共にほとんど垂直上昇と思える紫電改のたのもしい姿とは裏腹に米軍の空襲は増えるばかりでした。
空襲があった日、電車が不通になって歩いて夜帰ると家が250K爆弾で吹っ飛んでいました。急いで神戸の山手の友人の家を借りて住んだのですが間もなくの夜、B29の大空襲に会いました。私の家の庭に3発の焼夷弾が落ちたのですが、むしろをかけ足で踏んで消しました。庭に落ちたので消せたのですが、中学2年生の私の胸にはやればできる、といった自信のようなものが湧いていました。
その日の神戸の空襲はすごいもので一日明けると全くの焼け跡でした。工場を襲ってくるグラマンF6FかシコルスキF4Uもほとんど毎日になりました。防空壕へかけ込むとすぐに機銃弾が走っていくのです。そのうちになれて来て急降下して来るコルセアの角度を見て、危ない! といって壕に入ったり、大丈夫だといって見物したりする余裕もできました。
大変な栄養失調でいつ死ぬかわからないといった感じだったので母は青森へ帰ろうと言いました。帰った青森は焼け野原でした。送った荷物もすべて燃え、私のものといえば背中のリュックの教科書と肩から下げた絵の具箱だけでした。焼けた青森湾の連絡船を狙って連日コルセアが急降下爆撃をしていました。元来好きで描いていた飛行機と実戦までしてしまって、これが私のメカ感覚になったのかもしれません。
戦後は普通の美術画生として、毎日裸婦を造りつづけていたのですが、時々血の騒ぎのように海が見たくなるのです。それは今も変わりません。
ということです。とりあえず紫電改の画像を探さなくちゃ!
とりあえず紫電改って、日本の戦闘機ですね。緑色? グレー? どっちだったんだろう。
小学生の頃、私は外で遊ぶか家で軍艦を描くか、模型飛行機を作るかの毎日でした。甲子園の近くの武庫川に住んでいましたが、武庫川を下ると川西の飛行機工場があって、河口に浮かんでいる一式大艦をよく友だちと見にゆきました。一式大艦が二式大艦に変わった頃は驚きました。
父は輸送船の船長で戦争に行きっぱなしでした。伯父の山田幸五郎という人は、東大、グラスゴオ大を出て海軍に入り日本の光学の草分けといわれた人で海軍少将でした。従兄の成田金彦はよく家へ「帰ってきたよ」といって来たものでしたが、特別攻撃隊護皇隊艦攻隊の隊長、として彗星艦攻に乗って85機を指揮して沖縄に散りました。
昭和19年(1944)、甲陽中学(今の甲陽学院)2年生の私も学徒動員で工場へ行きました。浜甲子園の松林の向こうの川西飛行場の滑走路からは紫電改が飛び立っていました。工場での私の仕事は高速度鋼の金属板を削ってゲージを造ることでした。このゲージは何のどこに使うのか誰も教えてくれません。私は勝手に紫電改のゲージだと自分できめて毎日削りました。轟音と共にほとんど垂直上昇と思える紫電改のたのもしい姿とは裏腹に米軍の空襲は増えるばかりでした。
空襲があった日、電車が不通になって歩いて夜帰ると家が250K爆弾で吹っ飛んでいました。急いで神戸の山手の友人の家を借りて住んだのですが間もなくの夜、B29の大空襲に会いました。私の家の庭に3発の焼夷弾が落ちたのですが、むしろをかけ足で踏んで消しました。庭に落ちたので消せたのですが、中学2年生の私の胸にはやればできる、といった自信のようなものが湧いていました。
その日の神戸の空襲はすごいもので一日明けると全くの焼け跡でした。工場を襲ってくるグラマンF6FかシコルスキF4Uもほとんど毎日になりました。防空壕へかけ込むとすぐに機銃弾が走っていくのです。そのうちになれて来て急降下して来るコルセアの角度を見て、危ない! といって壕に入ったり、大丈夫だといって見物したりする余裕もできました。
大変な栄養失調でいつ死ぬかわからないといった感じだったので母は青森へ帰ろうと言いました。帰った青森は焼け野原でした。送った荷物もすべて燃え、私のものといえば背中のリュックの教科書と肩から下げた絵の具箱だけでした。焼けた青森湾の連絡船を狙って連日コルセアが急降下爆撃をしていました。元来好きで描いていた飛行機と実戦までしてしまって、これが私のメカ感覚になったのかもしれません。
戦後は普通の美術画生として、毎日裸婦を造りつづけていたのですが、時々血の騒ぎのように海が見たくなるのです。それは今も変わりません。
ということです。とりあえず紫電改の画像を探さなくちゃ!