石川節子さんという人がいました。啄木さんの奥さんです。その人の伝記を澤地久枝さんが書いておられて、時間をかけてやっと読んだのは去年でした。いつごろだったかな。それから、特に何も書けないまま、啄木とその奥さんという男と女を胸に刻みました。
というのか、啄木さんのイメージはそんなに変わりませんでした。啄木さんは、本当にどうしようもない小説家志望の人でした。どんな世界を描くというんだろう。本人が割と気ままに生きているわけだから、自分が一番才能があると思っているんだから、そんなに書きたい世界なんてなかっただろうなと思うばかりです。
つまらない小説よりも、コテコテの私小説を書いて、なんて自分はとんでもない男で、まわりのみんなに毒を吐きまくっていきているし、みんなに悪魔のように金をせびる小男だ、こんなひどい話があった、なんていう暴露的なことを書けば、少しは売れたかな。いや、そういう時代ではなかったから、それらのネタは短歌にするしかなかったかな。
結局、三行書きの短歌が新鮮だったなんて、なんと皮肉なことでしょう。短歌ではお金にならないですもんね。生活できなかっただろうな。どっちにしろ八方ふさがりでした。
澤地久枝さんの本の最後のところに、
『函館毎日新聞』は大正二年五月五日の夕刊に石川節子の死を報じた。
「薄命なる青年詩人石川啄木氏が東京に客死してより一年、図書館主催追悼会の記憶未だ新たなるに未亡人節子宿痾(しゅくあ)遂に癒えず、京子・房江の二愛児を遺して今日午前六時四十分、夫の後を逐(お)ふて帰らぬ旅に立ちたりと言ふ、悲惨の極と言ふべし、
なお葬式は明六日午前九時富岡町なる生家堀合忠操氏(樺太水産組合事務所)方より出棺、台町高龍寺において執行の由。今未亡人在院中の短歌を得たれば左に録してその悌(おもかげ)を偲(しの)ぶ因便(よすが)にせむ
お父さんも支え、二人の娘さんはお祖父さんが育てたことでしょう。ご子孫は今でもどこかにおられるかもしれない。
あんな、家にも帰らない、知人に不義理をしまくり、女性関係は怪しく、見栄っ張りで、いいところのない病弱な男、それなのに、若くして付き合ってから、その関係を守り続けたのは節子さんでした。
どうして愛想尽かしをしなかったのか。それは、永遠の謎です。夫婦にしかわからないこともあるでしょう。夫婦にしかわからない歓びもあったのか。
新聞に載っていた歌は三首です。
六号の婦人室にて今日一人
死にし人あり
南無あみだ仏
死にし人あり
南無あみだ仏
素直な祈りの歌です。節子さんも素直に運命を待ってたところがありましたね。それが悲しいな。
わが娘
今日も一日外科室に
遊ぶと言ふが悲しき一つ
お嬢さんは、ただ一人の肉親である節子さんのそばを離れたくなかった。それは節子さんも理解している。でも、節子さん自身はもう自分の体をどうすることもできないでいる。だから、お嬢さんがどんなことを問いかけたとしても、それはそうと受け入れるしかなかったんでした。
区役所の家根(やね)と春木と大鋸屑(おがくず)は
わが見る外の
すべてにてあり
病室から見える風景は、区役所、春の木、おがくず……どこかで家でも作ってたのか、それが見えた。それがすべてだった。それしか見えなかった。それをメモした。そして、節子さんは旦那さんから一年遅れて亡くなってしまう。
昔は、そういうことはあったのかもしれないけれど、とても今の感覚とは違います。あまりに早すぎます。でも、みんなそんなものとして自分の命を見る冷静さ・諦観などがあったでしょうね。
啄木が函館に上陸し、苜蓿社(うまごやししゃ)同人にむかえられた日からちょうど六年たっていた。流離、漂泊、病苦。時代よりもさきへすすんだ思想をいだいて悶死した夫のあとを追うように、節子は啄木の函館上陸と同じ五月五日に逝った。桜が咲きはじめていた。
どこまでも運命的な二人だったのだ、というのを感じます。啄木は、たまたま一緒になった女くらいにしか見てなかったら、とんでもないことです。
あの節子さんがいたから、ムチャクチャな啄木が存在することができた。節子さんがいなかったら、何もできないまま歴史の闇に消えてたんではないか、と今さらながら思いました。
というのを半年くらい前に書くべきところでしたが、ずっと放置しておりました。それで、この花粉でグシャグシャな私は、グシャグシャな気分で昔のメモを掘り起こしてきました。