弓道修行日記

このブログに、弓道修行する中で、学んだこと、考えたこと、試行したこと等を書き残し弓道修行の友とする。

弓道の歴史ー概要ー1.弓道の始まりから戦時中まで

2010-02-19 | Weblog
 弓矢の技は狩猟の為のものから発していたと思われますが、その食べる糧を得る貴重な道具として、日本人の先祖は弓矢に畏敬の念を抱き、神に捧げ神聖なものと考え礼拝の儀式にも使いました。

 日本での稲作導入後、この稲作は経済の大きな変化をもたらし、食糧を生産し蓄えると言うことになり、水田が必要になり、籾の保管庫も必要になります。そこには富の形成と必然的に貧富の差が生じ、立地の良いところ、広大な土地が必要になり、境界線の紛争、権力の拡大、村等の発生、小国の発生、・・・という動きの中、戦が各地に起こり、弓矢は武器として使われ、ここに弓は神様への儀式の弓と戦の為の武器としての弓の大きく二つの方向に分かれました。

 その礼拝の弓が小笠原流、戦の弓が日置弾正を源流とする日置流となって今日に至っています。その技を磨きそれを弓術と言いました。

江戸時代までは戦における弓術は武士の必須科目で侍の象徴を「弓取り」と言ったものです。「信玄ほどの弓取りが・・・・」と言うように。

日置弾正は大きな戦を勝利に導くほどに威力を発揮し、宮廷で抱えられるほどになりました。

しかし、弾正は弓術は殺傷力だけで良いものかとか、技の研究とか悩みそう言うものを後生に伝えたいとも考えました。

いろんな人に秘伝を伝え、その人が更に伝えて、各地で日置流の分派が起きました。

その中で、鉄砲が伝来し、それが普及するに連れて弓矢の武器としての価値が下がり、単に武士の修業の道になってきました。
 
江戸末期では、幕府での「弓術上覧の儀」が廃止され、続く慶応3年の大政奉還により伝統的な弓術文化は大きく衰退を余儀なくされた。明治4年には廃藩置県により藩校で行われていた武術教育も姿を消し、弓術に限らず武術全般で実用性が見いだされなくなり、武術衰退に拍車をかけました。

維新後は一般庶民でも弓が引けるようになり、弓術は庶民の遊びの道具になり、急速に遊戯化・娯楽化が進み、盛り場での賭弓場が都市部で大流行し、賭弓場の多くは風俗営業であり、明治政府より規制を加えられるほど盛況になり、弓射文化は衰退していきました。

この様に公的な弓道場が姿を消していく中、他方で私設弓道場を開くなど弓術古来からの伝統を正しく引き継ごうとする真摯な弓術家の活動により、日本弓道の命脈・伝統文化は保たれていました。

明治中期に入ると日清・日露戦争での勝利等を背景に、愛国心の高まりと共に国家主義的思想が台頭し、国策により武道が利用されはじめ、明治28年、京都在住の有識者により各種武術を統括する団体として大日本武徳会が設立され、京都の平安神宮境内に建設された武徳殿を本部としました。

弓術をはじめとする各武術は、技術を目的とした武術を改め大和心涵養を目的とした武道とし、大正8年武術専門学校を武道専門学校と改称、時を同じく弓術も弓道と改称された。

反面、遊興的に『中りさえすれば良い』とした衰退期の反動から『射型さえ良ければ中らなくても良い』とする風潮や、過度な精神偏重が広まるという側面もありました。
しかし、一般的には戦国時代の弓術への志向、的中至上主義の方向にありました。

こういう中で、大正から昭和初期にかけて弓術から射芸への道を切り開いた方がいるのです。
本多利実翁はお父さんから日置流尾州竹林派の弓術を学び、後年竹林派の斜面打起しを改めて正面打起しとする新機軸を出され、多くの優れた弟子を育て、その弟子の活躍によって正面打起しの射法が大流行しました。

後に利実翁の弟子達はこの射法をもって本多流を称したが、斜面打起しの日置流の一派が、健康的観点から流派の斜面打起しを正面打起しに切り替えたのです。これは画期的なことと考えます。
本多先生は弓術から弓道への変更、更には射芸(射の芸術)への方向性を打ち出したと始めての人ではないかと考えます。しかし、もう極言すれば小笠原流を弓道の本流にする動きと考えます。

だが、弓術界には従来の殻をかぶった、それが正しいとする流派が多く残っているのです。

武徳会は事業の1つとして各武道の型統一を目指し、弓道もまた射型統一を行う事になりました。

昭和8年5月に開催された全国範士・教士会からの要請を受け、同年9月、当時の武徳会会長は全国から招集された著名弓道家により「弓道形調査委員会」を開催し、同年11月10日より武徳殿で「統一射法」に向けて3日間にわたる議論が交わされました。

初日は小笠原流を基本にした巻藁射礼、的前射礼、立射礼の3つの射礼が決定された。射礼は小笠原ということで納まりました。
2日目は射法について審議されましたが、「打起し」の審議に入るとそれぞれ自己の流派射法から「正面打起し」と「斜面打起し」が主張し合い、互いに譲らず喧々諤々白熱した議論へと発展、その日は議論の決着を見ずに終了しました。
つまり、日置流各派(ほとんどの弓術がこれ)と本多流と小河原流連合軍の対決があったのですが、特に日置流は正面打起しにすると弓術指導という家業が成り立たなくなり、本多流派正面打起しが時代の方向だと譲れなかったのです。

議論はほとんど決裂の様相を呈していたが、最終日、九州の祝部範士から出された妥協案「正面打起し・斜面打起しの中間的方法」を採用する事で一同は賛成を表明、これで一応の決定を得ました。
(1)弓構……正面にて取懸け、手の内をととのえ物見を定める。
(2)打起……正面より徐々に弓を押し開きつつ左斜めに打上げる。
昭和9年11月、これを持って「弓道要則」とし統一射法として正式に制定、武徳会は全国に普及、徹底させようとしましたが、この「中間的妥協案」はどちら側から見ても違うことをやると言うことになり、弓道界から賛否続出、雑誌・新聞紙上で大論争が展開されました。

昭和12年日中戦争勃発、武道は政府・武道団体幹部によって「国力増強・国威発揚」を狙って次第に政府管理下に組み込まれ始め、そして利用されてゆく。昭和16年太平洋戦争勃発、政府の外郭団体とした新たな武道統括団体が新設され、既存の武徳会はこれに包含される形でこの武道団体に改組・帰一され、昭和17年既存の武徳会は改組され会長に東條英機内閣総理大臣、本部は京都の武徳殿から東京の厚生省内に移転、こうして政府5省が共管する政府の外郭団体として新たな大日本武徳会が発足する。武徳会弓道部会長は宇野要三郎範士が就任しました。

政府の外郭団体として再出発したことにより、武道は飛躍的に発展普及し、弓道も、満州国建国10周年を記念した「日満交歓武道大会」に選手団を新京へ派遣するなど積極的に活動を行い、昭和18年3月、新武徳会は称号を範士・達士・錬士とし、段位を等位制に改め、昭和19年3月、新武徳会弓道部会長宇野要三郎範士が委員長となり「弓道教範制定委員会」を設け、「弓道教範」を作成。懸案事項であった打起しの形式は「弓道要則」を認めつつ従来の正面・斜面もそれぞれ認め3様式となりました。

太平洋戦争の戦局が切迫するにつれ、政府は国民への武道の修練を強く奨励しましたが、戦争末期には国民は弓道から遠ざかっていきました。

終戦後は、戦前〜戦中の国策とも言うべき武道励行に対する反動から、国民の武道に対する感情は非常に厳しいものがありました。

続きは次稿「弓道の歴史ー概要ー2.戦後の弓道」で


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