おいでやす京都

京都を自転車で駆け巡る新京都紀行

京都の新撰組 相国寺

2006-02-28 19:13:09 | 京都の新撰組
臨済宗相国寺派本山、開山は夢窓疎石。足利義満が座禅修業の寺院として1382年に創建。相国は太政大臣の唐名で、足利義満が太政大臣になったのにちなむ寺号である。幕末の相国寺は御所の北隣という立地から幕府や朝廷と係わり合いが深い。

1859年 安政の大獄で尊融法親王が将軍慶喜擁立のかどで相国寺桂芳軒に永蟄居

1862年 薩摩藩が第3の藩邸として相国寺寺領地6946坪を借地し建設(現在は同志社大学)

JR京都駅から市バス17番で河原町今出川下車、徒歩約12分、薩摩藩墓所から西へ約2分です。

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京都の新撰組 薩摩藩士墓所

2006-02-28 06:40:26 | 京都の新撰組
相国寺塔頭・林光院墓地。足利義嗣の牌所であるが、島津家とも縁が深いことから、禁門の変と鳥羽伏見の戦いなどの薩摩藩戦死者72名が葬られている。

塔頭―本来は禅宗で祖師などの墓のほとりに建てられた塔、あるいは墓を護持するために建てられた小さな庵をさす言葉だったようです。現在では広辞苑には「山内にある小寺院、大寺に所属する別坊。寺中。子院。わきでら」と解説されています。

JR京都駅から市バス17番で河原町今出川下車、徒歩約10分

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京都の新撰組 二条城

2006-02-27 11:11:22 | 京都の新撰組
1603年、徳川家康が京都における居館として造営したもの。1863年将軍家茂が上洛して二条城に入り(この時のちの新撰組となる浪士隊が結成され、将軍警護に同道した)次いで、1867年10月、徳川慶喜が大政奉還を城中から発表し、武家政治の幕が閉じたのである。

地下鉄二条城前下車すぐ

拝観料:600円

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京都の新撰組 蛤御門

2006-02-24 15:39:26 | 京都の新撰組
禁門の変では、この門が最大の激戦地となり、現在の門にも当時の弾痕が数多く残っている。新在家御門ともいわれ、元は開かずの門であった。天明の大火の際初めて開けられたので「焼けて口あく蛤御門」といわれた。

猿が辻から塀沿いに西へ走ります。烏丸通りに面してあります。徒歩約10分

禁門の変―1864年7月、京都での尊王攘夷派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体軍との武力衝突を禁門の変といい、元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。この時飛び火した火の手は、洛中の3分の2を焼く「どんどん焼け」となり、市民に大きな損害を与えたといわれている。

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京都の新撰組 猿が辻の変

2006-02-24 05:42:31 | 京都の新撰組
1863年5月20日夜、尊王攘夷派公卿の急先鋒であった姉小路公知がここで刺客に襲われた。享年25歳。現場に遺棄された刀の銘などから、薩摩の田中新兵衛のものと判明町奉行の尋問の最中、田中新兵衛は自害。 田中と同宿していた同藩の仁礼源之丞と藤田太郎の二人も逮捕されたが、脱走して行方不明となった。かくして、姉小路暗殺の真犯人は未だ不明のままである。

ここは以前ミステリー散策で訪れた際に述べましたが、御所の東北角は鬼門除けに隅を欠き(L字型)築地屋根の下に御幣を担ぐ猿の彫り物があることから猿が辻といわれています。この猿は鬼門封じの為、日吉山王神社から使わされたわけですが、夜に出歩き悪さをすることから金網に閉じ込められたと云われています。

鷹司邸跡から御苑内を北へ徒歩約10分。

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