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タウト、の越え方

では何でタウトは天皇や神道を日本の特質として絶賛したのか。
引用の引用で恐縮ですが、

・・・ハーン、タウト、マルローは、例外なく日本語は読めませんでした。
それゆえロゴス、つまり言葉や論理だけで神道を理解しようという態度とは、そもそも無縁だったのです。
彼らにできるのは、ただ一つのこと、言葉以外のもの-形のあるものや生命のあるものを虚心に見つめ、
そこから日本人の信仰を感じとることでした。
(中略)
そして、そこには西洋とはおよそ異なるもの、明らかに西洋にはないものを発見し、
それを神道と呼びました。
(比較文化論の遠田勝による文章を藤森論文から孫引き)

もう一つ引用。

・・・重要なのは、その結果タウトの日本文化論は、
特定の時代的風潮(大正期の第二次欧化期が終わり第二の国粋的な時代への転換期であった)と
日本文化にかんするある種のステロタイプ(この点にかんしては後にくわしく述べたい)
を多分に引きこんでしまったことであろう。
また、そうした「純粋な」日本に固有の文化をとりだし評価するためにタウトがよりどころにしたのは、
きわめて西欧的な、それもきわめてドイツ的な文化概念(これについてはすでに述べた)であった。
だが私がここで特に強調したいのは、タウトがきわめて典型的な日本文化のイメージを生み出した結果、
現在の数多い日本文化論の大半は、タウト的文化論のヴァリエイションに思える、ということである。
西川長夫著「国境の越え方―国民国家論序説」より引用)

虚心に見つめる態度、は実はドイツ的文化概念に由来しているということなんだね。
因みに西川さんの著書では前段で

・文明=フランス起源=「普遍(西洋中心、西洋の中心としてのフランス)」→帝国主義的性格
・文化=ドイツ起源=「アンチ普遍(アンチフランス)=地域主義」→国粋(ナショナリズム)に向かう性格

といったような議論がされていて(まとめが違ってたらごめんなさい)、
また、坂口安吾の「日本文化私観」(タウトへの反論として書かれた)も論じられていて興味深し。
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