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終わった・・・


毎年恒例の法人決算~確定申告も無事終了。
細かい勘違いもあるも青色申告会M氏の指導で無事完成。

隣の税務署に出して都税事務所に行って税金払って申告書出しておしまい。

昼飯抜きながらやはりぼさぼさ頭の処理が優先、
ということで町田の床屋に出かけてサッパリ。

しかし毎年の話題が短期借入金を放棄するか否かっていうのもなぁ。
利益だしたいっす(爆)
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疲れた・・・


土曜日、プラナリアがコーディネートした某職能団体のシンポジウムがあった。

東日本大震災から一年を経て、当時支援活動に参加した建築家たちに
改めてそこでの体験や感じたことを報告をしてもらい、
地元の災害対策に繋げていこう、という主旨で、
地元2名、内陸被災地の建築家1名の他、地元行政OBの都市計画家、行政の災害対策担当、
と頑張ってコーディネートし、それぞれの発表とディスカッションを組み合わせた内容。

イヤほんとパネリストの選定から行政の後援依頼、会場の確保、チラシの作成まで
ほとんど全部一人でやったんだから頑張ったと思う。うん。

で、パネリストの方々の発表も素晴らしく、なかなか興味深い内容で展開できた、
という自負はあるのですが、、、

いかんせん集客悪すぎ。

これじゃあ内輪の勉強会と殆ど変らないよねぇ・・・。

頑張って準備しただけに疲労感全開。
仕事も滞っているしさー。

あと行政から人呼んでるからってああだのこうだの注文付けるのはやめて欲しい。
自分たちが何をできるか考えるためのシンポなんだから。
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茶室いろはのい(?)~茶室の、「その後」


茶室を考える際に大事なのは、
「名席」と言われるような茶室と言うのは大体江戸初期までの(コンセプトによる)ものだ
と言う事なんですね~。

名席っていうのは、例えばこういった本で紹介されている茶室。
基本見開きで一席なんで情報量としては不満が残りますが、ガイドブックとしては好適。

すぐわかる茶室の見かたすぐわかる茶室の見かた
前 久夫

東京美術 2011-10
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このころの茶室は利休直系の茶匠によるものにせよ、武家茶道のものにせよ、
各々の美意識、あるべき茶の理想像を具現すべく造ったから、多様性がある。
あと、侘茶の流れなんで4畳半よりも小さい小間の茶室が殆ど、ということになる。

ところが、現在要請される茶室っていうのは大勢でお稽古したりするので8畳とかの広間も大事だし、
たぶん小間も4畳半が基本で、それより小さいものはちょっと特殊かもしれない。
なんで「名席」に類するものとはちょっと違う感じなのですねー。
で、前回大胆にも「侘茶の歴史」を概観してみた訳ですが、
こういった「変容」があった江戸時代の茶の湯の展開を扱った本があります。

茶会記にある道具の取り合わせからある程度その茶人の思想を探ることは可能だと思うのですが、
なんせお茶の知識がない人間には全く無理な方法論ではあります。
なのでそのようなアプローチで、しかも平易に書かれている本書は非常に有難く、しかも面白いです!

茶の湯の文化史―近世の茶人たち (歴史文化ライブラリー)茶の湯の文化史―近世の茶人たち (歴史文化ライブラリー)
谷端 昭夫

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本書は安土桃山~江戸期を対象としていますが、前史についてもコンパクトに整理されているし、
明治以降の状況には直接触れられてないけど、そこでの展開も見据えて書かれていて、
茶室という建築空間を要請する茶道がどのような変化の中にあったかを鮮やかに描き出しています。

ただ、茶の湯の大衆化に関して言えば、明治以降にもう一段展開がある訳です。
で、明治以降、近代の茶室というあまり類書のないと思われる分野を扱っているのがこちら。

近代の茶室と数寄屋―茶の湯空間の伝承と展開近代の茶室と数寄屋―茶の湯空間の伝承と展開
桐浴 邦夫

淡交社 2004-05
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ところで本書には「近代数寄者たちが関与した茶室には今ある茶室と過去の名席を繋ぐ鍵がある」と書かれているけど、
多分それは伏流水みたいなもので、その鍵はメジャーなものとしては意識されていないと思う。
(そもそも「今ある茶室」が何を指しているのかもよく分からないし)
近代数寄者の茶室についてはもっともっと知りたいところですですよねー。

モダニズムの建築家と茶室の関係に関する論考は残念ながら今ひとつかなぁ。
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茶室いろはのい(?)~侘茶の歴史編


イマドキの建築家が茶室を設計する機会があるとしたら、
公共施設の茶室か、お茶のお師匠さんの自宅兼稽古場と言ったところでしょうか?
(昔はそれなりの企業の本社とかには結構あったみたいですどね)
で、こういったところで求められる茶室と
「名席」と言われている茶室の関係とはこれいかに。

そこでまず茶の湯の歴史をざっとおさらいしてみましょうかねー。

一通りの歴史に関しては結構色々なところに出ていて、
Webでも表千家のHPの「資料編」にある「利休の茶の湯とその流れ」>「利休の道統・表千家の歴史」
なんかは適度に詳しくてなかなか読みやすい。
文献としては、あんまり簡単なのもあれなんで例えば

茶道ハンドブック茶道ハンドブック
田中 仙翁

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の「茶道の歴史」の項などは長すぎず、短すぎずで門外漢がお勉強するにはちょうど良い感じ。

で、すごく大雑把にいえば、まず、

室町末期から起こった侘茶の流れは千利休において完成し、
その後の流れもほぼすべて利休を源としているといっても過言ではない。

*一人の天才に徹底的に依存している、ということなんですね。

でもでも、今日巷で教えられている「お教室」のお茶って利休時代の侘茶と同じなんでしょうか?

さて、強引に茶の湯の歴史について書いちゃいますかね(笑)

侘茶というものは主に堺の町衆を中心に、禅宗との接触の中から生まれて来た訳ですが、
特に利休は戦国大名と大接近することでそれを絶対的なモノとしちゃったのでした。
その後日本の政治権力を掌握した戦国大名(信長→秀吉)は侘茶の大きなパトロンとなり、
また、利休の高弟にも古田織部や織田有楽といった戦国大名が名を連ねますが、
利休自身は蜜月状態だった秀吉から自死を賜るという悲劇的な最後を遂げてしまいます。

その後侘茶関係者はどういう運命を辿ったか、というと、まず利休の子孫たちですけど、
利休の死後とーぜん厳しい状況になっちゃいますが、三代目(宗旦)は敢えて大名に仕えず、
ちょー貧乏しながら侘茶に徹底して拘ることで、ある種の還元に成功し、
その子供の世代からは再び大名へ仕官していくことで、利休の茶を守ります。
一方、他の弟子筋ですが、侘びから新しい展開も見せつつ、
こちらも織部の弟子である小堀遠州が徳川家の茶道師範になるなど、
政治権力が豊臣→徳川と移行した江戸期において
武家をパトロンに各々安定して行ったのでした(パチパチ)。

でも、現在はそれから既に400年経っている訳で、茶の湯の置かれている状況は全く違っちゃってます。

まず、江戸中期(18世紀ごろ)にそれまで武家や僧侶、公家の文化であった茶の湯が一般町人の間にも浸透していきます。
そして、それに対応して新しい稽古法、そして「裏」とか「表」といった家元制度が確立していくことになります。
つまり我々が茶の湯と言った時にイメージするモロモロは、実はこの時代に出来上がってきたものなのですねー。

その後明治維新が起こり、茶の湯はその重要なパトロンであった大名を失ってキビシイ状況になっちゃいますが、
昭和戦前までは近代数寄者とも呼ばれる大実業家たちが一定程度、替わりにパトロンの役割を果たしてくれます。
と同時に、それだけに安住しないで、茶の湯の方から一般庶民の方に近づいて行く動きも起こってきます。
例えば裏千家は婦女子教育への茶道の導入を各界に働きかけ、一定の成果を獲得して行くし、
近代数寄者たちも自分たちだけでお茶を楽しむだけでなく、色々な機会を通じて茶の湯の振興を図ります。

まあ、茶道の大衆化とも言えますが、近代国民国家における文化という文脈に茶の湯を再定義したっていうことでしょうか。

で、この婦女子層への支持層の拡大、という路線はその後も継承され、
戦後高度経済成長期にも女子の教養として更に日本社会の各層に浸透し、
その結果、一説によると表千家15万人、裏千家30万人とも言われる巨大な茶道人口を獲得して平成の現代に至る訳です。
(因みに日本のカトリック教徒は約45万人、共産党員が約30万人。)

さてさて茶の湯はまあこんな流れで今日に至っているようなのでした(汗)。
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三田から広尾・学校探訪

建築家協会の企画した学校の見学会に参加してきました。
見学時の写真はNGなので、道路から撮った写真のみ掲出します~。

三田から広尾・学校探訪
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