多賀氏と野本氏の記事
千葉一族か。名字地は下総国神崎庄多賀郷(成田市高岡?)。おそらく神崎千葉氏の一族であろうと思われる。
鎌倉時代末期には、多賀郷地頭職であった野本氏の代官となっていたようである。
建武4(1337)年、野本朝行(能登四郎)は足利尊氏に味方し、後醍醐天皇方の「千葉下総守(千葉介貞胤)一族等」が神崎庄多賀郷に攻め入ったとき、「千葉余三清胤、朝行代官等」が足利方として連日合戦して功績を挙げた。ここに見える「千葉余三清胤」もおそらく神崎千葉氏の一族であろうと思われるが、系譜などが伝わらないため、不明である。
また、多賀郷代官である「多賀七郎行胤、小栗左衛門次郎重高、多賀七郎三郎」らは尊氏党である「千葉大隈守(千田胤貞のこと)」の留守を守るため、千田庄多古の大嶋城に入っていたようである(『熊谷家文書』「野本朝行子息鶴寿丸軍忠状」)。
能登氏ならば、近江国にいた!!しかも、関係がある!!
六角家臣団の九里の周辺
高祐奉行人
賢広奉行人
野寺忠広能寺忠弘奉行人
忠行奉行人
隠岐忠広越前
九里秀方秀宅子秀重孫経重曾孫経久玄孫中原経任流又左衛門
次郎左衛門美作?仕六角久頼文安頃
治任仕伊庭享徳頃
次郎左衛門享徳頃
賢秀====1496?次郎?美作応仁頃
高雄賢秀子三郎左衛門伊賀?刑部?寛正頃
信隆====1511員秀子?刑部
玉松信隆子三十郎?
三郎左衛門長禄頃
貞信三郎文明頃
員秀賢秀子?四郎次郎備前仕六角高頼「江州郡代」明応文亀頃
信賢員秀子?信隆?備前永正頃
浄椿信賢子?刑部伊賀
宗忍====1525伊賀入道宗恩大永頃
隆員
賢久五郎太夫仕牧野忠成
頼純賢久子牧野忠成子?惣右衛門
政直岡田清左衛門八郎右衛門
種信宮内左衛門明応頃
左馬延徳頃
采女====1552
与右衛門采女子
吉忠次郎左衛門仕朝倉永正頃
十郎左衛門仕朝倉
十助前野宗直子佐々成政養子
甚左衛門
久松新左衛門享徳頃
布施三河
公雄淡路
公保藤九郎忠兵衛
貞友新右衛門
新蔵人
源次郎
栗田元経文亀永正頃
実勝左京永正頃
定政左京大永頃
民部長禄頃
片山隆清小三郎文明頃
四至内頼助文明頃
TOPにいる人たちに注目して見る。
高祐奉行人
賢広奉行人
野寺忠広能寺忠弘奉行人
忠行奉行人
隠岐忠広越前
この野寺は、能登右馬允の「能馬」とも読めるそうで、能登右馬允忠行という文書があり、しかも六角佐々木氏家中で中心的な位置にいた者となっていたそうなのである。(戦国大名佐々木六角氏の基本研究 村井祐樹 著 思文閣出版)
ここにつながってくるのではないだろうか?
10ページ以上、関係がありそうなので後述したいと思う。
この「六角家家臣団」のページはもう見ることができないかもしれないが、この方は何故ここが九里氏に近いとわかったのであろか?
不思議であるし、素晴らしい感性の持ち主と思う。
あと野本氏って昔住んでいた場所にいっぱいいましたね。それも気になっております。
野が付く場所もやたら気になります。地形的には平何でしょうね。旧石器からの民族じゃないかな?