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永田時信の周辺 再考 (3) 東殿と呼ばれていた

2022-10-17 | 永田氏

前回の「つまり下総局の夫は「原氏」であったのだ。」は怪しいかもしれない。

が、佐々木氏の永田氏の系図の中に永田長綱(原殿)とある。「原殿」

 

そして「下総房」の妻が「下総局」であった、という可能性もある事に気が付いた!

永田時信次男下総房と書かれている本があった(小浜市史)

 

永田時信の妻は小槻氏という。

更に時信は【東殿】と呼ばれていた。

そう呼ばれていたからには東国に居たことがある可能性もある。藻原の近くにも「永田」と云う地名があった。

 

永田時信・妻 小槻氏

時信次男 下総房・妻 下総局 

本郷頼忠・妻 藤原守綱(本郷・重代公文)娘  妻の「本郷」を頼忠が名乗る。

   私のなかでは、この公文職の本郷氏は大江・中原氏であろうと思っている。  

   大江広元の妻は多田氏(山縣氏と多田氏は近い 山縣系図に原頼忠が存在する。)

頼忠娘・夫 三浦家村(道阿)

頼忠娘 山田局・夫 願生房

頼忠娘(真阿) 夫 若狭一宮・二宮 禰宜景継(善真)導師は多田妙観阿闍梨

 

真阿と景継の娘・夫 和田平井実家

 

ここで、平井氏とつながる。

 

神官牟久氏多田氏・和久利氏・木崎氏などの有力国人層と血縁を結び、本郷氏・和田氏などとも婚姻関係をもつなど、つながりは広範囲に及び、また国分寺大別当・多田薬師堂との関係もあった。加えて、一二代景継の妻は太良庄開発にかかわる長田下野守師季の曾孫進士刑部允頼忠の母で(一二宮社務代々系図)、当社神官が若狭国中枢部の在地勢力と融合を図りながら、勢力を拡大していったことが推定される。
   

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-04-04-04.htm


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