下野守
・1110 紀盛宗の娘
‖―――佐々木定道 従5位下 佐々木宮神主 太郎太夫
宇多源氏源行定 佐々木宮神主 従5位下
1190頃 紀盛親の娘
‖―――新屋源太行景
宇多源氏源行實 従5位下 井上三郎太夫
これが正しいとなると私が持っている系図は違っていることになる。
良く調べた結果、下に系図を貼ったが、 行実ではなく、 行方が正しいか。
しかし、行定と行実は「母が紀氏」は共通だが、母はそれぞれ違う女性であるという事を示唆しているのかもしれない。
佐々木哲氏のブログ「佐々木哲学校」によると
http://blog.sasakitoru.com/200505/article_13.html
行真の娘婿道澄の兄源七郎道正は、木村定道(権守)の子息木村道政(新大夫)である。木村定道は、東大寺領近江国愛智郡鯰江庄下司紀貞道と同一人物と考えられる。鯰江庄下司は貞道の次男貞政が継承して、さらに景政・家政と受け継がれた(春日大社文書:文永五年正月日付鯰江庄下司相論由来)。そうであれば道正は紀氏である。
また道正の妹婿家次は仮名が愛智三郎であり、愛智家行(権守)の子息平井家次(権守)に当たる。近江国愛智郡には郡司愛智秦氏があり、仁平三年(一一五三)三月五日に秦為次が近江掾(近江国司の三等官)に補任された(『本朝世紀』)。「次」の字が兄弟間の通字と考えられることから、家次は秦為次の兄弟の可能性がある。
彼らは権守あるいは大夫を称しているように、従五位下に叙爵されていた。経済力で院に接近して、自らが開発した荘園を寄進し、位階を獲得していたのである。
☆行真=行実である。
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確かに昨日の表を作る際に紀氏には鯰江荘に関する文書が多く残されていたことを知った!
さらに佐々木哲氏のメルマガよりその部分を紹介させていただこう。↓
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東大寺領近江国愛智郡鯰江庄下司紀貞道は、沙沙貴神社所蔵佐々木系図に見られる木村道政(道正)の父木村定道と同一人物と考えられる。これで名字木村の由緒が分かる。紀氏の血族集団を紀氏の群(村)という意味で、木村と称したのだろう。本姓紀氏を名字として、佐々木氏と同様の源朝臣を氏姓にしたのである。また、この本姓の紀氏は、中央貴族の紀氏とは直接血縁関係があるのではなく、孝元天皇皇子大彦命の子孫佐々貴山公が、同じく孝元天皇の子孫である紀氏を名乗ったと考えられる。
鯰江庄下司は貞道から次男貞政(道政弟)に継承され、さらに景政・家政と受け継がれた。兄道政の系統は源氏を名乗ったが、貞政の系統はまだ紀氏を名乗っている。そして貞政の孫家政のとき、叔父建部入道西蓮と鯰江庄の権益をめぐり相論が起きた。叔父西蓮は建部氏を名乗っており、紀氏と建部氏が姻戚関係にあったとわかる。
建部(健部)は、ヤマトタケルノミコトの功績を後世に伝えるために置かれた名代部である。名代部は在地首長の子弟からなり、一定の期間に都に出仕して大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシワデ)にあたった。
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以前、木村成俊に関し調べていたはず。
それが、ここでまた中原氏と紀氏の関係上必要になってくるのかもしれない。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%88%90%E4%BF%8A
もう一度考え直してみたい。
木村氏と九里氏もとても近い!が、系図のどこかが違っている。
佐々木氏の系図と近江国御家人井口中原系図の中の九里周辺が「成俊」をキーワードに整合してみると合わない。
しかし、伊香三郎と木村三郎成俊は伊香にいた…とあったような気がするのだ。それをまず見つけなければ。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/11_20/kimura.html
https://tabi-mag.jp/kimura/
「木村氏の血筋は出雲神話から始まる「神氏」(じんし)一族ともいわれているし、木の国・紀伊の古代大姓「紀」氏に因んだ木村氏もあるようだ。
木村さんのルーツとして重要なのは、近江国蒲生郡木村(滋賀県東近江市木村町)発祥の木村氏だろう。
『源平盛衰記』に記される湊川で平通盛を討ち取る木村成綱は、紀朝臣(きのあそん)成高の後裔。
また、同じ紀氏の流れを汲む近江源氏佐々木氏流の木村一族はつとに有名で、佐々木氏のルーツ・佐々木成頼(ささきなりより=源成頼)から6世の佐々木成俊が、近江国伊香(いか)郡木村(現・長浜市)に因んで木村と称したという。」
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/21ca1eda53cea162452dcbbb5e39f86a
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紀氏とすれば、富来氏(豊前国 国東半島)も紀氏という。
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紀氏と熊野memo
1200 長済 安楽寺 法印・別当
・1219-10-13 熊野那智大社 善長房
・善長房 譲 善宝房状 譲与
・那智山内「尊勝院」房地並諸国壇越等事
・尊勝院:那智山の潮崎氏が代表する
・先師:尊念 瀧本執行法橋を継ぐ
・父:菅原朝臣(五条家)
・母:不詳
・生没:不詳
子┌宝済(善宝房)那智執行(先師:尊念とは親類)
└俊済(円道坊)弟 長済から房地十間壇越等を譲られる
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追記 ココは解決
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木村紀太蔵人…だったのかもしれない。
http://zan35441.on.coocan.jp/sub11-21.html
紀氏のルーツさんより
近江八幡市
①木村氏(安倍氏・佐々木氏流)「佐々木神宮職」を相続したもの
・蒲生郡木村より起こる
・佐々木行定は母姓を冒して木村権守紀道政という
・佐々木宮神主 家紋:四目結または釘貫
・木村源三成網は佐々木庄に住し姻戚上の関係より
佐々木とも云う、源姓を称した
・木村重成葉豊臣秀頼を助け活躍した青年将校、24才で戦死
宇多天皇―敦實親王―雅信―扶義―成瀬―義経
│
┌───────────────────────┘
│ 紀盛宗下野守の娘(紀朝臣成高の後裔)
│ ‖ ※1 ┌成経
│ ‖―木村行定─┌定遠→成俊→資経→成経─├俊綱→宗綱
│ ‖ 従5位下 │ │
└──佐々木経方近江守 └定道太郎太夫 従5位下 └木村源三成綱
近江国惣追捕使 佐々木宮神主 (佐々木姓)
・・・・・・・・・・・
①「日牟禮八幡宮」旧:県社・別表神社
・祭神:応神天皇・神功皇后・比賣神(宗像女神)
・創建:伝131年
・成務天皇が高穴穂の宮に即位の時
武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を
祀ったのが草創とされている。
・鎮座地:近江八幡宮内町257
②「大嶋神社奥津嶋神社」旧:県社・式内社
・祭神:大国主神・奥津島比売命(宗像女神)
・創建:伝成務天皇の時代
・治世に武内宿禰により勧請されたとされる
・鎮座地:近江八幡市北津田町529
③「長命寺」天台宗系単立
・山号:姨綺耶山
・本尊:千手観音・十一面観音・聖観音
・創建:伝 619年
・開基:伝 聖徳太子
・第12代景行天皇の時代に武内宿禰がこの地で柳の下に
「寿命長遠諸願成獣」と彫り長寿を祈願した。
このため宿禰は300才の長命を保ったと伝えられる。
・住所:近江八幡市長命寺町157
④「沙沙貴神社」=「佐々木神社」式内社
・祭神:宇多天皇・敦實親王・大昆古神
・創建:927年以前
・鎮座地:近江八幡市安土町常楽寺1
⑤「広済寺」天台宗→浄土真宗本願寺派
・山号:不詳
・本尊:阿弥陀如来
・開基:592-628 天台宗武佐寺
・改宗:1235
・1354 後光巌天皇は「広済寺」に落ち延びた
・住所:近江八幡宮市武佐町597
⑥「大光寺」天台真盛宗
・住所:近江八幡市土田町1058
蒲生郡
①「馬見岡綿向神社」旧:県社
・祭神:天穂日命・天夷鳥命・武三熊大人命
・創建:545年に祠を建てたのが始まり
・移転:796年に現在地へ
・境内末社:①「稲置三麿神社」
・祭神:蒲生稲置三麿
・859年 紀武人雄子とういう人、
大宮社地に遷し玉椿神社と共に末社と
②「玉影神社」
・祭神:小舎人紀重方・紀實方・紀實信
・代々の宮司の御霊、氏子内の英霊
・当神社に功績のあった人の御霊
・鎮座地:蒲生郡日野町村井705
②「十二社」
・祭神:国常立命・伊弉諾尊・天照大神
彦火火出見尊(神武天皇の祖父)
鵜茅葺不合命(神武天皇の父)
・鎮座地:蒲生郡日野大谷1
③「天満宮神社」
・祭神:紀貫之命・菅原道真公
・鎮座地:蒲生郡日野町河原504