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寒河尼~ 宇都宮氏 小山氏 中原氏そして源義朝とのつながりも!

2019-10-18 | 小山氏

宇都宮氏で小山氏で且つ中原氏…という人物は、と考えると「寒河尼」ではないかと思う。


http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-27.html


宗円(1043-1112)
元々近江国石山寺の座主であった。
前九年の役の時源頼義・源義家に与し、宇都宮に下り宇都宮の二荒山神社で賊徒平定を祈った。
その功により初めて宇都宮社務となり、既存の神主らの上位についた。下野国守護職・下野国一宮別当職・宇都宮座主。

宗円は毛野氏・中原氏と藤原摂関家との間での落胤との説あり。
宇都宮城を築城したとも言われている。

宇都宮宗綱(1083-1159)
父:藤原宗円?藤原兼仲説、藤原顕綱説 母:益子権守紀正隆女
子供:朝綱、八田知家?、寒河尼(小山政光妻)別名:八田宗綱、中原宗綱
宇都宮氏2代当主。血縁関係が不明な部分多い。
宇都宮二荒山神社社務と日光山別当兼務。

宇都宮朝綱(1122-1204)
父:宗綱 母:常陸大掾平棟幹女
子供:成綱
京都で平清盛に仕えた。源頼朝挙兵により、これに従った。
伊賀国壬生郷地頭。3代当主
頼朝の御家人となり、宇都宮検校と称し、日光二荒山神社の別当も兼帯した。
1189年奥州藤原氏討伐参加。その後公田横領の罪により土佐に流罪。


寒河尼(1138-1228)
源頼朝の乳母。
小山政光妻:子供:小山朝政・結城朝光(鎌倉幕府の重要人物)

この寒河尼は「後室で三男・朝光の母である。」と説明書きにあった。
という事は、政光に嫁ぐ以前にどなたかと結婚し、その後で政光と結婚したという意味なのか、
政光に妻がおり、亡くなった後に入ったという意味なのか。

コトバンクによると「身分のある人の未亡人のこと。」とあるので、
やはり寒河尼は未亡人であって、その後に政光に嫁いできた女性と思う。

「義雲禅師研究」鏡島元隆著 他に以下のような記述を見ることができた。
伊自良氏、稲津重由の父波多野忠綱の母は、宇都宮宗綱の女

つまりは、波多野義通の妻=宇都宮宗綱の娘なのである。

この忠綱は忠経ともいわれているそうで、波多野義通の息となる。
その義通の妹の一人は、義朝の側室であったと言われている。

源朝長をもうけた女性の養父が中原久経という説もあるが、 しかし、波多野義通の妹の方が年代が合っているように思える。
平家が滅亡する直前の元暦2年(1185年)2月には頼朝の代官として中原久経と近藤国平が上洛し、混乱に乗じて非法狼藉を働く畿内近国の武士の平定にあたったほか、鎮西にも下向し同様の任務に就いた。

このようなスピードが大切な任務、しかも長距離の移動を要する任務に85歳周辺の者を補任することはないのではないだろうか。(同じくらいのお年の方がいらしたら、ごめんなさい!)重源もいるにはいるが。。。
せいぜい健康な40歳代くらいまでと思うが、上記の養父説では85歳周辺の久経という事になってしまう。

因みに国平は詳細は分からないが、大友能直(1172年生まれ)の従兄弟という事なので、そこから前に20年位までとして、
つまり1152年~1162年位に生まれた国平ではないだろうか。
つまり1185年には20歳代~30歳代ではなかろうか。

源義朝1123年生まれ。寒河尼1138年生まれ。中原親能が1143年生まれ。源朝長1143年生まれ。源頼朝1147年生まれ。


鍵はココにある様なのだ。

忠綱は義通の息。
忠綱の母=義通の妻=宇都宮宗綱の娘
但し、宇都宮宗綱の娘が何人いたのか、系図では宗綱の妹に寒河尼となっている物もある。





義朝の息に八田知家(1142年)となっている系図もある。



源頼朝12歳の時に、母の由良御前が没した(1159年)。その後、義朝もすぐに没した(1160年)。
その後の頼朝を支えた女性であった可能性が大である寒河尼。京にいたというので、近い存在であったと思う。
寒河尼22歳。

突然、母や父を失った子どもたちが近くにいたのだから、誰かがサポートをしていたと思う。
それが寒河尼やその姉妹であった可能性があると思う。

寒河尼は1168年に結城朝光が生まれているので、それ以前に東国へやって来た事は確かである。中原親能に勧められて…と書いている本もあった。中原親能の母親は波多野経家の娘であり、義通と経家は兄弟である。

1160年3月に頼朝は伊豆へ配流。
12歳の頼朝が一人で伊豆へ行くとなると、ついて行ってお世話をすることになったとしても、自然な流れのようにも思える。

そのあたりに鍵があるのだと思う。

さらに、1168年に典膳大夫となっていた中原久経の母は、波多野義通の妹という。
久経の母は、吉光女(1142年あたり生)の母でもある。そして吉光女は親鸞の母ではないかといわれている女性である。

何方になるのだろうか。妹か義妹。
義理の妹も含めると、以下の兄弟の妻も入るのではないだろうか。



さて、八田局も宇都宮氏に関係している。

web情報によると
「母八田局を小野成任の女とする。
はじめ近衛院に仕え兵衛局と称し、後八田局と改称したとする。」とある。

近衛院、確か寒河尼は近衛天皇に仕えていた女房であった。

「中条家長の叔母は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家を生んだ女性で、頼朝の乳母の一人としても知られる近衛局であった。
家長は父成尋が僧であったことから八田知家の猶子となった。」
中条家長1156年生まれ。

八田局が知家の母とし、近衛局であったとすれば、寒河尼の母親もまたこの八田局だったのではないかと思われる。
寒河尼もまた近衛院に出入りをしていたのである。
八田局が娘を連れて仕事に(近衛院)行ったためではないだろうか。

宇都宮知家と源頼朝はともに伊豆で八田局のもとで育ち、寒河尼が姉のような母のような役割を担っていたのではないだろうか。



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2 コメント

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Unknown (りひと)
2019-10-19 09:37:04
寒河尼興味深いですね。

そう尼になるのって家系的にも古代から結構限定されている気がするんですよね。相当な古代からの知識の蓄積もあったように思うんですよね。源氏や南朝絡みでも般若心経を納経するってやっぱりそれなりおベースがないとしないわけですからね。敷居が高いですから。

それから義朝の息が八田ってのもかなり気になりましたよ。頼朝との関係と男性同士のお互いのライバル視みたいなものも。頼朝は相当ビクビクしたような所を感じますからね、自信がなかったようにも。なので色々お寺等でも援助してますし、ピンポイントで大事な所を修復なり供養しているならそこに確実にブレーンがいたはずです。で当時は同じ同性は難しい時代でしょう。
そうすると近くにいた年齢的にも上の女性が妥当でしょうね。私の中では八田系の女系がかなり重要な気質があると思って探求していますので義朝の息子ならば母も気になる所です。

あとかなりぶっ飛んで神でも同じような構図は結構ありまして、実母が育てられない事でその妹とかが育てたり結婚したりなどもあり。若宮は両方に護られてはいますが、当然妬みつらみは天下一品でその母違いの兄弟のあたられるとか消えているとかはあると思います。

で由良御前も多分知っていただろうし、近い存在でもあったはずで知識は多かったとは思いますが熱田絡みでも相当の正しい古代からの理解がないとトリックにもハマるようにも思うんですよね。

最近、尾ってのがブームで中尾って名字とか高尾とかも結局尾張(奈良元祖の高尾張)系の関係に引っ張られてるようにも思うんですよね。

でラグビーの試合10/20の命日の方も尾がつきますよね〜。あら?べったら祭りですし、落語家でも同じ誕生日ってこの前誰か言ってたなあ?父が笑点大好きだったんですよ。

で収集つかなくなってきたのでこの辺で終わります。
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Unknown (木方)
2021-05-29 21:11:26
ランキングできましたけど凄い記事ですね。
稲毛さんにも繋がる、無患子をお守りにする信仰が伝わっている民族探したくなってきましたよ。
ブラタモは木更津でしたね、稲毛さんの地域の近くの多摩川と木更津は旧石器より前は砂利を主体と考えたら川の水での繋がりみたいですよ。自然由来の物とは別に弟橘姫やお富さん、綱島や日本橋ともなんかわくわくしますね。
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