あしたはきっといい日

楽しかったこと、気になったことをつれづれに書いていきます。

yotsubako

2011-11-26 23:53:58 | 出会う
今いちばん輝いている女性の一人、アートディレクターの森本千絵さんの会社、goen°がコンセプトワークやロゴデザインに関わられたという商業施設「yotsubako」に、昨日行ってみた。



横浜市営地下鉄、センター北駅を降りてすぐの場所にその建物はあった。それほど大きくない箱だが、中はとても明るかった。それは単に新しいからだけではなく、外の明るさを十分に取り込んでいるからだった。そして、働いている人たちもなんとなく明る印象を受けた。



入ってすぐ、上りと下りのエスカレーターが並んでいることが気になった。普通はお客さんの利便性を考えてXの字のようになっているのだが、ここではそうではない。だが、次のフロアに着いてそれが何を意味しているのかに気付いた。







エスカレーターを降りたお客さんは、通路か店舗内を歩かないとその次のエスカレーターに乗れない。だがそれは、お客さんに各フロアの売り場を回ってもらうことを意図しているのだろう。そしてそれは、お客さんの利便性を低めるのではなく、お客さんに楽しんでもらいたいという優しさなのかな…とも思った。

少し遅くなったが、お昼をいただくことにした。で、選んだのが「土鍋ごはん 米三」というお店で、ご飯がメインという感じだった。それは、おかずやみそ汁がご飯を引き立てているということだと思い、ご飯をすこしおかわりした。



食後に付けてもらったホットコーヒーが来た時、思わず「アイスじゃないですよ」と言いそうになり、その言葉を飲み込んだ。



トイレの表示にも、何となく優しさを感じた。



帰り際、せっかくなのでおみやげにお菓子を買った。



こんな素敵な箱が近くにあったらいいなと思う。でも、ここだけのhakoだから魅力的なのかも…

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恋する気持ち

2011-11-26 23:10:08 | ドラマにハマる
今夜の『妖怪人間ベム』は、ベラの恋を中心とした話だった。

この前、「恋」について真剣に悩んだのはいつ頃だっただろう…なんて思いながら見ていた。僕の場合、勝負に挑んでも出っとボールを食らうのがわかっているからあまり打席に立つことはないし、立ったとしても2アウトで打席に立つ調子のいいピッチャーのように、打ち頃のストライクが来ても明後日の空振りをするタイプである。要は、弱虫なのだ。

ベラのセリフは気持ちよかった。ベロの「ベラは男っぽい」というセリフがそれを引き立てた。だが、そのセリフはベラの女心も引き立てていたようだった。

「交際している異性はいない」という男女が共に50%前後いて、その半数近くが「特に異性との交際を望んでいない」そうだ。僕の場合、交際を望んでいない訳ではないが、望んだからといって交際に至るわけではない。いや、そんなことを言っている僕は結局、「特に異性との交際を望んでいない」1人なのかもしれない。

今回のお話は、そんな時代に対するメッセージが込められていたのかも…
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さよなら、名将

2011-11-26 22:53:09 | 別れる
元近鉄バファローズ監督の西本幸雄さんが亡くなられた。91歳で逝かれたのは「大往生」と言えるのかもしれないが、悲しい。今朝の新聞を読んで初めて知ったのだが、あれこれ思い出して涙がとめどなく溢れた。

阪急時代の西本さんについては記憶にないが、近鉄時代は微かに覚えている。あの頃、長年「お荷物球団」と呼ばれた広島カープが古葉監督の下「赤ヘル軍団」として日本一に輝いたりして、僕も赤いヘルメットを買ってもらった。だが、広島カープが好きだったわけではなく、弱いものが這い上がって頂点にたどり着くその姿に憧れたのだと思う。だから、79年、80年の日本シリーズでは広島カープではなく近鉄バファローズを応援していた。

記憶を「微かに」と書いたのは、選手で覚えているのがマニエルくらいだからだ。その後近鉄球団が消滅するまでずっとファンでい続けた間に、V2選手の名を覚えていった。

西本監督の下で戦った日本シリーズの相手はいずれも広島カープだった。79年は「江夏の21球」という言葉と共に今も語り継がれる名勝負だが、その年に続き第7戦まで持ち込んだ80年の最終戦で、日本一にあと一歩及ばなかったその日、風呂場に籠って泣いた記憶は、少しずつ薄れてはいるものの、しっかり覚えている。

その頃、僕は父を亡くしてまだ間もなかった。今思うと、静かに選手を見つめる西本さんの姿に父親を重ねていたのかもしれない。西本さんは父よりも年上だったが、きっとそんな気持ちがあったのだろう。そして、判官贔屓なところも含め、僕の性格はその頃に形成されたのだろうと思う。

西本さんは日本一に手が届くところまで行きながらついに辿り着けなかったために「悲運の闘将」と呼ばれるが、今朝のスポーツ新聞によればご本人は「私は悲運ではない。いい選手に出会えて、8度日本シリーズに出場できた。大変な幸せ者だった」と仰られていたそうだ。確かに一度くらいは日本一になれたのかもしれないが、それが叶わなかったことに強く人間を感じた。結果だけで語れば「悲運」なのだろうが、人生はプロセスが大事だということだろう。

今年、日本ハムがクライマックスシリーズを早々に敗退した頃、こんなことを書く日が遠くないのかもしれないと思った。愛弟子の一人である梨田昌孝さんが、近鉄ではないにせよ日本一の監督として胴上げされる姿を見せてあげられたらと。梨田さんが今季で監督を辞め、また阪神タイガースの監督にという話も立ち消えた時、そのことだけでなく、西本さんのことを思い、悲しかった。

これからも西本さんは「悲運の闘将」と語り継がれるのだろうが、僕はこれからその言葉は使わない。亡くなられた後でもう遅いかもしれないが、「日本一の名監督」と呼ばせてもらう。

改めまして、長い間お疲れさまでした。どうぞ安らかにお眠り下さい。

そして、僕の思い出が更に遠くに行ってしまう…
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