戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

24年6月11日 その2 リハビリから帰って。

2012-06-11 17:17:42 | Weblog

 今日のリハビリは午後3時からだった。「何だか先生、私もう駄目なような気がするんだけれど・・・骨折って骨がくっつけば元通りになるんじゃないの?私骨がついても何時までも筋肉がつかず駄目なんだけれど」そういったら先生は「大腿骨は身体の中で一番太く体を支えている骨だからそんなに簡単にはいかないですよ。人工骨が入ってボルトで締め付けているし、長い間には磨り減るし」「減ったらどうするの?」「余程肥っている人なら稀に取り替える事もあるけれどそれほど心配しなくても大丈夫ですよ。特にあなたのように肉のついていない人もいつかは戻ります」「どの位?」「半年かな?」「もう半年経つわ」「人によってだから1年掛かる人もいます」やれやれ私は何年かかるやら・・・元々贅肉は全くついていない。脚に肉のつく可能性はゼロに近いと悟った。

24年6月11日 水の有り難さ。

2012-06-11 13:31:33 | Weblog


 現代は戦争を知らない子供達、と云われているが太平洋戦争、いわゆる第二次世界大戦はマッカーサーの厚木基地に降り立った時終りを告げたが、私達世代の者はその苦しみを如実に体験した。小学校5年生の私は水の出ない事で有名なこの土地に疎開して、両手にバケツ一杯の水を貰いに遠くまで行った事を思い出している。ちょろちょろとしみ出す山の水を甕で受けて生活用水に使った。それを思うと水に不自由しない現在は有りがたいのひと言に尽きる。今も山からの水は出ないが、断水する事のない水道がある。宇都宮は水の良い事で有名だというが、水は有りすぎても困る。雷の多い位は我慢しましょう。

 お薬とやっと縁が切れる。

2012-06-09 17:00:07 | Weblog
24年6月10日
 今日は雨もよいで薄ら寒い朝だった。9時に佐藤病院で超音波の検査がある。薬も切れたので貰わないと明日の分は無い。早く行ったが沢山の人が待っている。時間がかかると思ったが結構早い時間に呼ばれた。超音波の検査中に先生が「あれっ?無い」という。「何がないんですか」と聞いたら血栓が無いとの事。「これで終わりだ」とおっしゃるのでこの次は?と聞いたら「これで終りだよ。血栓はなくなったからもう来なくて良いんだ。薬も飲まなくて良い」との事。「血液検査をして血栓が出来ていたら又
来るんですか」と聞いたら「分んない人だね。もうこれで来なくて良いんだ」こんなに嬉しい事はなかった。一生血栓と縁が切れないのかと思っていた。雨が降っているのに心は晴れ晴れとしていた。

 毎日お会いする方は皆師。

2012-06-02 14:31:04 | Weblog
24年5月29日

リハビリも6ヶ月目に入ったけれど脚は不自由で木で括りつけたような感じがする。一生このままのような気がしてならない。特に脚に力が無く立ち上がる時にふらつく。下半身に力が無い為立ち上がると今でも倒れそうになる。杖が無くても歩けるし、何でも出来るが方向を変える時が一番危ない。それに子供が走ってきてぶつかりそうになった事が何度かあり、それで又病院に逆戻りしては敵わないので子供を含む通行人には油断は出来ない。特に歩道を突っ走る自転車は恐るべき凶器になる。私が健全であった時、このような思いやりを持ったであろうか。若いうちは老人のことを考えられないと言う問題と同じで、病気にならないと病人の気持ちは分らない。私は商人。いつも買う人の身になって売る事にしている。リハビリを受けているけれどカウンセラーもみんな優しい。そういう方達に教えを受ける事大の毎日を送っている。

24年6月1日 懐かしい銀杏並木。
 先日は久方ぶりに独協医科大学付属病院に行って参りました。大して遠くはないところですが普段は自宅と会社の2キロくらいしか運転をしない私にとっては遠方に当ります。お天気も良かった。遠出をする時の雨は嫌な物です。特にこの度の骨折で入院した以外では入院は独協だけですから暗い日は思い出すのも嫌になります。今回は去年の1月以来1年ぶりの検査で、あちこち思い当たるふしがあり心配です。でも悪いところより良いところのほうが少ないような年配ですからかまわない事にしています。帰りには東武デパートに寄り、楽しいお買い物。来週からは松が峰幼稚園に通った頃からの若かりし思い出話をしてみたいと思います。